化ける魔族Ⅲ

 あれからもう三年ほど経った。


 ゼーレは何度も危ない旅に出ていった。知らないうちに――、例えば私が寝ている時に行ってしまった時もあったし、私が止めたのにもかかわらず行ってしまった時もあった。


「困らせる人は私だけじゃないんだからもう行かないでよ」


 私はお腹をさすりながら頬を膨らませた。


 まだ、ゼーレは魔族の生き残りを探している。魔力を極限まで削って帰ってきた時もあったし、二人でリアヴァレトに戻った旅もあったのにちっとも考えてない。


 来年産まれる私たちの子どもの為にも――、旅に出る事はやめて欲しいのに。


「あぁ、すまない。すぐ戻ってくるから」


 ゼーレはフッと笑って、扉を閉めた。




『私には魔法を他人に使うなと言うのに――君は他人に使うのね』




 私は目を伏せながら呟いた。


 さっきのバゲットには少し魔法がかけてある。睡眠魔法や催眠魔法などのいかがわしいものでもなんでもなく。


 ただ、幸せになる魔法。それをかけてお客に渡している。


 それは些細なもの。人間には気付けない魔法だ。


 だがゼーレは、向かってくる『敵』の為に使った不幸の魔法だ。それが分かってしまう。悲しいけどそれが避けられない壁なのだ。


 それが一番悲しい。


 その魔法を使っているゼーレに対してではなく、その魔法を使わざるを得ない現実に。


 満月の日にはいつも帰って来る。その晩は二人で寝ずに過ごした。別に寝ていても魔力は回復するから寝ても大丈夫なのだが、ゼーレが起きているから起きている。そんな理由で。


 ゼーレは一晩中、月明かりの当たる椅子に腰掛ける。


 ゼーレは「寝てもいいのに」と仏頂面で言っていた。私は寝なかった。寝られなかったのだ。ゼーレがこうして起きているのは、いつ来るかもしれない敵の為であると信じて疑わなかったから。


 だから、ゼーレの端正で蒼白い顔を見ながら、私は旅の話をせがんだ。幼い子どもが物語をねだるように、ゼーレに物語をせがんだ。


 ゼーレも私の心の奥を分かっていたのか、寝かそうとはしなかったので、満月の夜は二人でお話をするのが日課となっていた。


「もうっ! ゼーレのお話、待っているからねっ!」


 だから、――無事に帰ってきてよ。


 メーアは閉まった扉に向かって叫んだ。


 ゼーレに聞こえただろうか? 全く、また振り切って行ってしまうのだから。困ったものだ、と私はロドルに笑いかける。


 ロドルは「きっと聞こえているさ」と小さく呟いた。




 ◇◆◇◆◇




 それから一週間経った。


 今夜が満月の夜。つまり今日帰ってくるはず。私は明日の仕込みをしに仕事場に向かい、生地をこね始める。


 ロドルはうろちょろ部屋の掃除をしてくれている。


「ロドル、薬の調合とかしててー。足りなくなりそうだよ」


 メーアはパン屋を表向きにして、たまに魔法薬を売っている。パンにかける魔法とは別に、信用した常連には薬を売っているのだ。


 ゼーレに見つかって怒られたことはあるのだが、何度もしているうちに諦めてもらった。前々からゼーレは私に『魔法は練習してもいいけど、魔法をかけるのは禁止』という矛盾した口だったので、それ以上強くは言ってこなかったのだ。


「御主人、どのくらい必要なんだよ」


 ロドルが手を止めて聞いてくる。


「うーん、二十個必要だから……、そことそこにある壷に少し入っているよね? それ全部使っていいよ」


 私は使い魔に指示をする。ロドルはせっせと壺の中の白い粉を混ぜ呪文を唱える。ロドルは薬を作るのが上手いから任せたままでも大丈夫だろう。メーアは目の前の生地の方に視線を移した。


「メーア、帰ってきた」


 ゼーレはその夕暮れにいつも通り帰ってきた。


 いつもの仏頂面で、蒼白い顔で。


 変わっていたことといえば――。


「ゼーレ、魔力がほとんどないけど……、またなの」


 私の声にゼーレは眉をひそめた。


「メーア、落ち着いて聞いて欲しい」


 ゼーレは落ち着き払った低い声でこう言い放った。


「ここが突き止められた可能性が高い。俺達の正体も見破られたかもしれない。それがどういうことか分かるか」


 淡々といつもの調子なのに、今のゼーレの声は少しうわずっているようにも感じた。


「ここが……突き止められた……、私達の正体が……見破られた……?」


 おうむ返しに言葉を繰り返した。


「メーア……、魔法は使えるよな。ここから逃げるしかないことも分かっているな」


 ゼーレはなにかを確かめるように顔を近づけた。息がかかりそうになり緊張感が増す。


「ゼーレ、本当に?」


「俺は嘘も冗談も言わない」


 端正で無表情なその顔は、真っ直ぐ私の目を覗き込んでいる。


 この人は嘘を言うような人ではない。


 不器用だけど、優しくて、肌は冷たいのに心は温かい人だ。


 数年、同じ時を過ごした仲。将来を約束した婚約者。


 その言葉が本当のことくらい分かっている。


 なのに――。


「どこに行こうというの? 私は……」


 首を振って掴まれた手を解く。


 ゼーレはその様子をただ見ていた。


「メーア、大丈夫だ。俺がいる」


 ゼーレの声は優しい。優しく、優しく、優しい。


「故郷――。俺達の先祖の故郷リアヴァレトへ行こう」


 見上げるとゼーレの慈愛に満ちた表情がそこにあった。赤紫の髪が風に吹かれて白い牙がギラリと光っていた。





 A.M.873.8.6

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