未来

 自慢じゃないが、俺はけっこう本気で近眼だ。

 眼鏡を失い、視界が一気にふわっとぼやけた。

「わ、ちょ、やめてユイさん」

「ごめんね。眼鏡、貸してね」

 耳元でそう聴こえる。

「あと、制服の上着もお願いっ」

 そんなこと言いながら、袖口を引っ張り、俺を脱がそうとしてくる。

「いやいやいやちょっと待って」

 上着とは言え、女の子に服を脱がされるシチュエーションって言うのはちょっと気恥ずかしい。俺はそそくさと自分で上着を脱いで、ユイさんに渡した。

 どこかから隙間風が入ってきているらしく、少し寒い。

「よし、これでいける」

「いけるって――どうするの? 俺の眼鏡と服で」

「魔法を使うの」

 ユイさんはそう言った。

「魔法? ……大丈夫?」

「うん。レイジくんの力借りたら、出来そうな気がするんだ。……私が知っている中で、最強の魔法」

「え、それって……」

 前に、公園で話した時に、すごく恥ずかしそうにしていた、アレのこと?

「恥ずかしいけど、でも、みんなを助けるためだし」

 ぼやけた視界の向こうで、衣擦れの音。

 ユイさんは俺の上着をはおって、眼鏡をかけたみたいだ。……平気だろうか、俺の眼鏡はけっこう度がきついぞ?

「それに、眼鏡取っちゃったから、はっきりは見えてないよね?」

「え、うん」

 ぶかぶかのブレザーを着た女の子がいると、何とか認識できる程度だ。

「なら、あんまり恥ずかしくないかもね。――やってみる」

 ユイさんはそう言って、もう一度、俺に近づいた。

「ありがとう」

 耳元でそう囁かれて。

 ついでに、頬に一瞬、柔らかなものが触れたような気がした。

 でもそれは……髪の毛か何かだったのかも知れない。

 頬の感触を反芻するよりも早く、ユイさんは俺から身を翻していた。

 そして、男を取り押さえるのに悪戦苦闘している、中ノ島たちのほうへ、つかつかと歩きだす。

「ユイさん!」

 あぶないよ!

 そう言おうと思ったけど、俺は言葉を飲み込んだ。

 逆光の中のユイさんの雰囲気が、何と言うか明らかに、変化している。

 というか。一瞬目を放した隙に、誰かと入れ替わったんじゃないかと言うくらいに、殆ど別人のように感じられたのだ。

 ピントの外れた視界の中のユイさんは、自信に満ちていて、生意気そうに腰に手を当てていた。心なしか、身長まで少し高くなっているように思える。

 何が……起きているんだ?

 戸惑う俺を意にも介さず。

 かつん、と靴底で音を立てて立ち止まったユイさんは、聞いたことのないような張りのある声で、こう言い放った。


「そこの誘拐犯っ! お仕置きです!!」


 倉庫内がしんと静まった。

 ユイさんはいったい何を言い出したんだ? ……という至極当然の疑問は、なぜかその時、まったくわいてこなかった。おそらく、他の皆も同じだったと思う。


 その時、ユイさんは間違いなく、

 ――『先生』だった。


 高校の数学教師みたいな、タメ口でからかってもいいような先生ではなく、たとえば小学校低学年の頃、宿題を忘れたら世界が終わるレベルでビビって落ち込んでいた、あの時の厳しいクラス担任みたいに、絶対的な影響力を持っている、そういう特別な存在としての『先生』だ。

 この人には絶対に逆らえない。

 問答無用でそう思わせる、壮絶なオーラが、ユイさんから放たれていた。

 俺も、そしてさっきまで取っ組み合いをしていた筈の中之島たちも、毒気を抜かれたように動きを止めたのが、気配でわかる。

 そして、ユイさんに呼ばれた男は、

「ここにいらっしゃい」

 ユイさんに命令されるがままに、ふらりと立ち上がり、とぼとぼ歩いて行った。

「あなた、こんなに周りに迷惑かけて。どういうことかわかってるんですか!?」

 男を前に、ユイさんはびしっ!と言い切った。

「すみません……」

 男の声。すっかりしょげている様子だ。

「謝ってすむことじゃありませんよ」

「うう……」

 何というか、こう、いたたまれないシチュエーションだな……。

「そこから出てお行きなさい」

「えー……」

「先生に口答えするつもりですかっ!」

 ぱしん、と鋭い音がした。

 どうやら平手打ちをしたらしい。

「早くしなさいな! もっとひどーいお仕置きをされたいんですか?」

「す、すみません」

 男は、泣きそうな声でユイさんに謝っている。

「かえります」

「還りなさい」

 ユイさんが、そう言ったと同時に。

 どさっ、と音がした。

 男が、その場に倒れたのだ。

 同時に、ひゅうっと冷たい風が吹き込み、上着を着ていない俺は寒さに身震いがした。だが、嫌な震えではない。むしろ、爽快で、身体から悪いものが吹き飛ばされていくような、そういう清々しさ。

 淀んでいた空気が、一瞬で換気されたような。


 ああ……そうか。終わったんだ。

 魔法が使えない俺にも、確信できた。多分、他の皆にも。

 ユイさんの魔法が、『遊動体』を封じたんだ。


     ☆


 ぼんやりした逆光の視界の中で、ユイさんがふにゃっとへたり込んだように見えたので、俺は走り出そうとして、何かにつまずいて派手にコケた。

 こんな障害物の多い床を、裸眼で走ろうとしたら、当たり前だわな……。

「先輩、だいじょーぶですか! さっきのカッコよかったですよ!!」

 前方から声がする。

 あはは……中ノ島に先を越される俺……。

 大体、ユイさんがさっきの魔法でどんな勇姿を見せていたのかも、裸眼+逆光でわけわかんなかったし。

 これって、すげー貧乏くじ引いたんじゃないか?

 ……はぁ。

 ため息をついたところで、横から手を差し伸べられた。

「ありがとうございました」

 この声は、豊田さんだ。

「あ、どうも。……眼鏡、貸しちゃってて、見えないんですよ」

「ああ、なるほど。それはお疲れ様です。床にはガラス片なども落ちていますから、気をつけてお立ちくださいね」

 立ち上がるのに肩を貸してもらったりする。

 うう、かっこ悪いなぁ。

「今の……何だったんですか」

 歩きながら、尋ねる。

「ユイさんは、最強の魔法だなんて言ってましたけど」

「最強ですか。なるほど、確かにそうですね。あれは……わかりやすい言葉で言えば、そうですねぇ……」

 首をひねり、少し間をおいて。豊田さんは予想外の単語を口にした。

「コスプレ、ですかね」

「コスプレぇ?」

 なんだそりゃ。

 同人イベントか?

「ああ、いえいえ! あなた方の世代が使う、オタク用語としてのコスプレではなく、もっと古くからある意味でのコスチュームプレイですよ!」

 俺の顔を見て、豊田さんは慌てたように言い足した。

「架空の人物に扮装して、その役になり切ることで、自分自身の元々ある能力以上の力を一時的に発揮する魔法です。そのためには、なり切るための衣装や小道具、場合によっては舞台装置といった、能力を引き出すための触媒が必要になります。今の新城は、高梨さんの眼鏡とブレザーを媒介として『威圧的な教師』を演じ、敵の『遊動体』を無条件に従わせたわけですね」

「……へぇ」

「医師や看護師の服を着れば、ある程度の治療行為を行なうことが出来ますし、専門職の制服を着て、その職業の特殊な技能や権威を借りる事ができたりもします。ま、違法行為すれすれですから、あまり大っぴらには言えませんね、ははは」

 ……それって結局、ナースのコスプレとか制服プレイとか、そういった類のアレなんじゃないのか……?

 脳裏に否応なく、ナース服やら婦警さん姿のユイさんが思い浮かぶ。

 慌ててぶんぶん振り払う。

 ユイさんは、そういうことを思われるのが嫌で、この魔法を使いたくなかったんだろうから。

「まぁ、なり切るためには結構な思い切りが必要になりますからね。新城は恥じらいがちなタイプで、あまり得意な魔法ではなかった筈です。それなのに、眼鏡とブレザーだけの触媒で、ここまで見事に『教師』を演じられたのは、驚きです。きっと、貴方のおかげで、潜在的な力をコントロールできたのでしょう。……ありがとうございます」

 深々と頭を下げられる。

「いや、それほどでも」

 そんな話をしているうちに、ユイさんのそばに来ていた。豊田さんは不意に思いだしたように、一歩後退し。

「では、私はこれで。……私のほうは、これから後始末をせねばなりませんので」

 そういって、さりげなくユイさんの視界から外れる位置に移動する。

「後始末ですか?」

「ええ。鍵を返して、一連の始末書を書いて、備品を返却して。この男も一端支所に連れていかなければなりませんしねえ。他にも、色々と」

「……お疲れさまです」

「ははは。私、魔法は使えませんが、こういう事務処理は大の得意で。それに――」

 とても下手なウインクをして見せてくれる。

「このあとは、大人は居ない方が良いかと思います」

 豊田さんは、懐中電灯を俺に手渡してくれた。「後で返してくださいね、備品ですから!」と念を押すのも忘れない。

 続いて、ひっくり返っている男の方に近づく。よくは見えないが、ばきっ!という嫌な音と悲鳴のような声が聞こえたところをみると、どうやら思いっきりブン殴って正気づかせたらしい。

 人間に危害は加えられないと言ってた割に、結構手荒い……。

 そして豊田さんは、まだ状況がわからないまま呆然としている男の手を強引に引いて。

 風のように、倉庫から出て行ってしまった。


     ★


 これは、あとから朽木に聞いた話なのだけど。

 豊田さんは、魔法を使うユイさんを見ながら、傍らの朽木に話しかけていたらしい。

「魔法の話、あなたがたも聞いてらっしゃいますよね?」

 そう訊かれて、「情報漏洩とかで何か罰則あるんですか?」と問い返した朽木に、豊田さんは笑って、こう言った。

「私たちの協会が、このままでは先細り続けるという危機感は、ずっとあったのです。いつまでも秘密の機関であっていいのか。魔法という力を、小さな街ひとつに閉じ込めておいて、そこに未来はあるのかと」

「……」

「新城と高梨さんのかわした契約は、あるいはそんな閉塞感を打ちやぶる力になるのかも知れない。今はまだ、ささやかな期待でしかありませんけれどね。私は少しだけ、夢を見ているのですよ。――魔法という力が、特別ではなくなる未来を」


 魔法という力が、特別ではなくなる未来を。


     ★


「ユイさん、大丈夫?」

 そう言いながらも、俺はまた何かにつまずいてずっこけそうになっていた。

「アンタが大丈夫? って感じじゃないの」

 横から中ノ島が茶々を入れる。

「仕方ないだろ、見えないんだよ!」

「あ、そか。ごめんねー。眼鏡返さないと」

 ユイさんは、眼鏡を外し、俺に渡してくれた。耳に眼鏡の弦が触れると、少しだけ暖かい。……ユイさんの体温だ。

 ともあれ、ようやく視界がクリアになった。

「……ふー」

「レイジくん、ありがとう。私、魔法使えた」

「ああ。ユイさん、かっこよかったよ」

「え! やだ、見えてたの?」

「見えてないけど、よく聞こえた」

「ひゃー」

 頬に手を当てて、じたばたする。

 相変わらず、可愛い。

「タカナシ、先輩に見とれてる」

「み、見とれてねーよ!」

「見とれてあげなきゃ失礼だろ。見とれとけよ」

 背中をばんばん叩かれる。痛い。

「痛てぇなもう。……でも、ありがとうな、中ノ島」

「え?」

「怖かったのに、戦ってくれた」

「そんなの、改めて言う事じゃないだろー」

 ばんばんばん。

 まずい。照れ隠しでさらに強力な連打が来た……。

「友達なんだから当然。だよね、朽木」

「……」

 相変わらず存在感の薄い朽木も、このくさい台詞に無言のまま頷いている。

「ま、とにかく、一段落だ」

 俺は、ユイさんから返してもらったブレザーを羽織った。

 ユイさんの暖かさを、ほのかに感じる。

「さあ、帰ろう」

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