第10話訪れない終局

 十二月の半ばに、失業給付金の残りを無事に受け取った。

 俺の預金残高は十万きっかりになった。

 今年も残り少ない。

 俺が無職になってから八ヶ月になろうとしていた。

 その間に料理の腕が上達し、母親が動けなくなり、犬が一匹死に、ネズミを五十匹は捕まえた。

 今日も今日とて、ネズミの糞を足裏に感じながら台所に立ち、安くて美味いものをと料理する。


 実のところ、働くあてがまったく無いわけじゃなかった。

 例によって時給払いの肉体労働の口なら、二つはあった。

 別々の知人二人から、それぞれの職場を斡旋してやろうとの誘いがあったのだ。

 一方は病院の給食配膳、一方はまた機内食の処理工場だった。

 だが、どちらにしろ、前の職場よりは格段に待遇がよかった。

 

 俺はただ、働きたくなかっただけだ。


 タバコ銭ならしばらくある。

 待遇がよくなるといっても、所詮は時給払いの肉体労働だった。

 親に楽をさせるというレベルには稼げない。

 母親には安全で清潔な施設が必要だったし、父親のほうは「今度は胃がんになった」などと言っている。どうともならない。


 俺は家事をし、犬どもの世話をし、テレビゲームで遊ぶ。

 すでに、年末年始をこうして過ごす腹づもりだった。

 悪天候のほか、特殊な理由がなければ、飛行機の運行に休みはない。

 世間が休みの盆や年末年始は、逆に繁忙期だ。

 機内食の処理工場に務めていたこの十年、年末年始に休んだことはなかった。

 年末年始の休暇日数は、就いている仕事の質を現している、などと聞いたことがあった。

 憧れだった。

 この機会に、年またぎの長期休暇というものを味わうのだ。偽物だったが。

 母親に食事を運び、犬どもに餌をやると、一日の家事は終わった。


 俺はコタツに入り、ゲーム機のスイッチを押す。

 テレビはいまだにブラウン管で、地デジは映らない。ゲーム専用のモニターになっていた。

 ゲームは数世代遅れの代物だったが、娯楽の少ない俺には十分面白い。

 あまりに熱中しすぎて、睡眠時間が不規則になってきたぐらいだった。

 このごろ、夜中を過ぎても起きている。

 無職とはいえ、母親の食事を面倒見なければならなかったので、好きに寝ているわけにはいかない。俺はゲームやりたさに寝る時間を削った。


 今夜はゲームのシナリオも佳境だった。

 夢中でコントローラーを操作していると、突然背後からクイーンドラゴンの声が届いた。

「私はあなたの妹です」

 いつもとは違い、頭蓋に突き刺さってくるような声だった。

 俺は思わず後ろを振り返る。

 もちろん、何もいなかった。

 クイーンドラゴンの言葉の意味を考え、頭をひねる。

 よくわからなかった。

 俺がゲームに夢中なものだから、嫉妬して注意を引こうとしただけかもしれない。ゲームをしていると、しょっちゅう彼女のことを忘れた。そんなところだろう、と俺は結論づけた。

 再び、ブラウン管のゲーム画面に向き直る。

 ゲームに疲れて布団に入ったのは、午前三時過ぎだった。

 疲れてはいたが、睡眠導入剤の効きが悪く、なかなか寝つけない。何度も照明をつけ、タバコを吸った。


 翌朝は七時に目が覚めた。少なくとも四時過ぎまでは起きていたので、三時間ほどしか寝ていない。それにも関わらず、気分は爽快だった。世界が開けているような感覚だ。

 タバコを一服すると、直感が閃いた。

 昨日、クイーンドラゴンの言っていた言葉の意味がわかるかもしれない。

 ウチには水子がいた。

 詳しくはしらないが、母親は死産を一人経験しているのだった。俺の次だったらしい。


 俺は母親の部屋へ行き、尋ねてみた。

「ウチの水子って、男だった、女だった?」

「えー……?」

 ベッドの上で身動ぎし、ミイラのように痩せた顔を向けてくる。

 いまや母親は始終、眠たげだった。

 動けなくなってから、どんどん耳も遠くなっている。

 白痴のような反応に苛立ち、俺は大声を出した。壁の薄いこのアパートでは隣にも聞こえたことだろう。

「ウチの水子! 男、女、どっちだった?」

 ようやく耳に届いたらしく、母親は疲れきった口調で答えた。

「女だったよ……」

 俺は四十二歳にして初めて妹がいたことを知った。生まれていない妹だったが。

 クイーンドラゴンはこのことを教えたかったのだろう。

 彼女が妹だとは思えない。


 謎が解けると気分がよくなった。俺は続けて母親に聞く。

「昼飯、何食いたい?」

 犬の餌の胸肉が切れている。

 今日は買い物に行かなければならなかった。

 買い物する場合は昼前に行き、昼食も買ってくるのが常だった。

「鉄火巻き」と、母は言った。

 母親から金を受け取り、スーパーへ向かう。

 駐車していてぶつけられないように、隅っこのほうに車を停める。

 秋の事故以来、広い駐車場がある場所では、できる限りそうしていた。


 シートベルトを外したとき、車の前を自転車に乗った男が走り過ぎた。俺はその男を目で追う。知っている男だった。中学時代の同級生だ。

 こざっぱりと整った身なりからはわからないが、その男は精神遅滞だった。

 中学時代、かろうじて普通学級に通っていたものの、日々の立ち振舞は幼稚園児のようだったことを覚えている。

 子供の頃から、休みになるとあてもなく自転車でぶらつくのが楽しみであるらしかった。

 今では俺よりまともな格好をしている。

 喋らなければ障害があることを勘づかれないだろう。

 表情は明るかった。仕事を持っている人間の顔だ。

 障害年金も貰っているだろうか、と俺は考えた。たぶん貰っているだろう。

 そうすると、無年金の俺より稼いでいることになる。

 車を運転できる以外は、俺が優っている点など無い。

 その事実を認めると、俺はかえって気持ちが楽になった。

 比較をすれば、どうせ誰かが一番底になる。


 俺は車を出て店の中に入った。

 カートの上に緑の買い物かごを載せて店内を回る。

 このところ、来る度に商品の値段が上がっていった。

 本当に景気がよくなっているのだろうか。

 どのみち稼げない俺にとっては、デフレのほうがよっぽどありがたかった。

 売り場の陰から、四歳くらいの男の子が飛び出してきて、俺のカートにしがみついた。俺はニコリとするでもなく、その子供が動くまで待った。

 母親が出てきて「すいません」と、子供を抱き上げた。珍しくないが、俺より若い母親だ。顔つきがどこか俺に似ているような気がする。妹がいたら、こんな感じだろうか。


 その姿を見ていて思う。


 妹が生きていたとして、どんな生活を送っていただろう。

 俺を含め、家族全員が。

 俺はやはり統合失調症になるのだろうか。

 母親はやはりリューマチで身体が動かなくなるのだろうか。


 たまに現実がわからなくなる。

 本来、もっとよいものだったはずなのに、何らかの悪意ある手によって、悪いほう悪いほうへと改竄されているような気がするのだった。

 本当のあるべき現実は、薄壁一枚隔てた向こう側にあるのではないかとさえ思う。みな健康に歳を取り、仕事も妻もあって、育児に追われている。そんな家族はいくらでも存在するというのに、なぜウチは違うのか。

 そこから束の間だけ理想の世界を夢想し、俺は現実に戻った。半額シールの付いた冬瓜をかごに入れる。


 その夜は冬瓜の味噌汁にした。

 食事と入浴を済ませると、ゲームを始める。

 ゲームのタイトルロゴも出ないうちに、居室の外からガサゴソとネズミの動き回る音が聞こえ始めた。

 台所の照明を消してから、まだ五分と経ってない。

 年末が近づいてから、ネズミの行動が大胆に、かつ活発化していた。

 冷え込んできて、より多くのカロリーを必要としているのかもしれない。


 今夜は外も騒がしかった。もう世間では仕事納めになっていた。

 毎年のことだが、この時期になると騒音の大きい車が増えるのだった。これではゲームに入り込めない。

 車の騒音だけじゃなかった。どうもざわざわとした低いざわめきが聞こえるような気がする。

 こうも聴覚が敏感になるのは、よい兆候ではなかった。

 最近寝不足が続いているせいだろう。


 俺はゲームを諦めた。自己判断で薬の量を増やして飲んだ。医者にも、悪い兆しが出たら一時的に増量するよう勧められていた。次の医者へは早めに行かなければならないだろう。

 薬を飲むと、すぐ布団に入ってしまう。薬の次には睡眠が大事だった。

 俺は回復し、十分に自己管理ができている。

 これで大丈夫だ。俺はなんとか眠ることができた。


 翌朝、目を覚ますと、玄関の上に正月飾りが取りつけてあった。

 誰が取りつけたかは知らないが、それの意味するところはわかった。

 人生は来年にも続く。


 もしかしたら、俺は不死身なのかもしれない。


 死ぬこともなく、悪夢のなかを漂う一柱の神。


 人はみな、自分の世界では死なない。


 何度死にかけることがあろうとも。


 たぶん、そうだ。

 みな、呪われた神なのだろう。

 それこそが真実のように思われた。

                      

   〈了〉

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クイーンドラゴン 進常椀富 @wamp

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