第9話電子遊戯の慰め

 四日後、父親が退院し、「がんじゃなかった」と告げてきた。

 抜き取った体液を、詳しい検査にかけて判明したのだろうか。

 もしくは最初から、「がんの可能性がある」程度のことを、家族にショックを与えようと「がんになった」と断言していたのかもしれない。この父親ならありうる話だった。

「よかったね。おめでとう」

 口ではそう言ったものの、俺は内心冷ややかだった。

 どうでもよかった。

 父親は二日ほどぶらついた後、仕事に戻った。


 十一月も終わりに近づくと、俺も次の手を打たねばならなかった。

 人生はいつ終わるともわからないが、続くものとして考えなければならないのが面倒くさい。


 ハロワへ行き、初めて相談窓口を利用する。

 訓練校に通うつもりだった。

『介護職員初任者研修』の講座を受ける。

 もう一通りの資料を吟味していた。

 来年一月に開講する講義の中で、通い易いものは千葉と船橋だった。

 千葉のほうが近いので、俺はそちらに決めていた。

 今日は何も用意していない。職員から段取りを確認するだけのつもりだった。

 人当たりのいい女性職員が担当になり、介護の仕事がどんなものかわかっているか、ビデオセミナーを見たことがあるか、続けられそうかなど、こちらの意志を確認してきた。俺はすべてにイエスと答える。

「では、こちらの資料の裏側が応募用紙になっています。必要事項を書き込んで、写真を貼付して次回に持ってきてください」

 相談はそれで終わった。

 俺は帰り道でスピード写真を撮った。


 帰宅して一服する間もなく、電話が鳴った。

 出てみるとハロワからで、さっきの女性職員だった。

 彼女が言う分には、俺の申し込もうとした講座は失業給付金受給者がメインなのだという。

 俺のように給付金が終わってから申し込む者は、選考でかなり不利になるらしい。 

 だから、千葉のものよりは船橋のほうへ申し込んでみてはどうだろう、という提案だった。

 船橋のほうは、対象が失業者すべてだった。

 確かに、千葉の講義と船橋の講義は、別の資料に載っていた。

 そんな違いがあったのか。

 俺が考えていると、受話器を当てているのとは反対側の耳に、クイーンドラゴンの声が入ってきた。

「船橋もいいところよ」

 確かにそうなんだろう。

 クイーンドラゴンが言うなら間違いない。

 俺はわずかに遠くなる船橋のほうへ行くことにした。

 その場合、応募書類は相談窓口で受け取らなければならないという。明日もハロワ通いだ。


 翌日ハロワへ行くと、担当が年配の男に変わった。

 あらためて受講の意志を確認されたあと、今回は俺のお目当て、受講給付金についても説明された。

 金を貰うだけあって、こいつは細かい話だった。

 申請に必要な書類も多かった。申請用紙に書き込むのはもちろんとして、他に住民票、所得証明書、世帯人全員分の預金通帳まで持参しなければならないという。

「世帯全員の世帯総収入が年収三百万以下、月収二十五万以下でなければならないんですよ。年金も収入になります。お母さん、年金貰ってませんか?」

「いいえ」

「そうですか、よく確認してみてください。収入がまったく無いのなら、それでも額面ゼロの所得証明書が必要です」

 職員はそう言うと、応募書類一式をファイルに詰め込んで手渡してくれた。

「書類が折れちゃうと機械を通りませんから、気をつけてください」


 ハロワを出ると、今聞いたことを忘れないように、反芻しながら帰宅した。

 必要な書類のほとんどは市役所で手に入るが、もう金曜の夕方だった。月曜まで待つしかない。

 父親と母親から預金通帳を借りる。

 父親の口座には一万、母親の口座には三万しか入ってなかった。

 俺の預金は五万程度。

 情けないくらいバッチリだ。

 簡単に受給資格を満たせるだろう。

 受講給付金の申請書には、通学費用を記入する欄もあった。

 つまり定期代を書き込む欄だ。

 ネットで調べればわかりそうなものだったが、どのみち家から駅まで何分かかるかも計っておかなければない。明日、駅まで歩いて行こう。まだ受講できると決まったわけではなかったが、断られる理由も思いつかなかった。


 次の日はあまりにも寒かったので、一日家の中で過ごした。

 日曜も寒かったが、なんとか重い腰を上げる。

 玄関の前で時間を確認すると、俺は歩き出した。

 家の周辺は歩道がなくて危ないので、あまり歩きたいものじゃなかったが、日曜の午前中だと車の数もさほど多くなかった。

 それでも車の音に耳を澄ませながら歩く。

 世間では、音楽を聞きながら外を出歩くのが日常になっているようだが、俺には恐ろしくてそんな真似できない。実際に事故は多かった。

 左隣に住んでいた男も交通事故で死んだ。

 ひき逃げだった。

 俺より十歳くらい若かったが、病人だった。

 人工透析が必要で、働いていなかった。初老の母親と二人暮らしで、生活費をどうしていたのかはしらない。

 病院へ行くためか、たまに歩いているのを見かけたが、目にする度に顔がむくみ、肌の色が茶褐色に近づいていくようだった。

 その男が死んでしばらくしてから、隣の家は自動車を買った。

 恐らく賠償金が支払われたのだろう。

 死んだ男は長い間働けなかった。

 しかし一死をもって、俺では稼げないような大金を家族にもたらしたのだった。

 

 たまに現実がゲームのように思える。

 

 外を徒歩で歩くときには、いつもこのことを思い出してしまう。

 やがて歩道のない危険なゾーンを過ぎ、整備された歩道を歩けるようになった。

 左手に小学校がある。

 この小学校ができたときに、歩道も整備されたのだった。

 小学校のフェンスの向こう、校庭で業者っぽい作業着を着た男が働いていた。

 男はペットボトルで大きなタワーを作ろうと作業していた。

 それを眺めつつ歩を進めていると、クイーンドラゴンが鋭い口調で言ってきた。

「あのおじさんに手を振って!」

 俺は指示に従って、作業している男へ手を振った。

 男はこちらを一瞥することもなく、仕事を続けた。

 安堵したようなクイーンドラゴンの声が聞こえた。

「それでいいのよ」

 どういう理由があるのかしらないが、よくあることだった。俺は気にしなかった。


 幅の広い快適な歩道をしばらく歩き続けると駅に着いた。

 携帯を取り出して時間を確かめる。

 かかった時間はぴったり二十分だった。

 ここから船橋までの定期代を駅員に聞いてメモすると、もうすることは無かった。 

 隣の大型スーパーで来年のカレンダーを購い、帰路についた。

 仕事をしていたときも、ずっと平らな面しか移動していなかったので、外を出歩くとちょっとした勾配が足にダメージを与える。その夜、脛の筋肉痛に悩まされた。


 月曜になると市役所へ向かった。

 医者の費用を負担してくれる自立支援の手続きに来ることはあったが、書類を取ろうとすることは稀だった。

 勝手がわからずおたおたしていると、今は専属の案内係がいて、親切に教えてくれた。指示に従って、まずは住民票を取る。出てきた書類に目を通して、俺は眉をひそめることになった。


 同世帯人は父親、母親、そして俺。

 そこへさらに、弟の名前が連ねてあった。

 今、弟がどこでどうしているのか、俺は知らない。

 数ヶ月に一度、ふらりと戻ってきては、またすぐ去っていく。

 まさか住所変更をしていないとは思わなかった。嫌な予感がする。

 とりあえず、俺は全員分の所得証明書を求めた。

 途中で呼び出された。

 母親は収入が無いので、無収入の所得証明書を取りたいのなら、二階で別の手続きが必要だと説明される。俺はそれでいいと答えた。


 それから少しの間をおき、所得証明書が発行された。

 いの一番に弟の分を確かめる。

 そこに記載された額面によると、弟の年収はほぼ三百万だった。

 月収も二十五万になる。

 俺や父親の年収を足すまでもない。

 弟の一人分だけで、受講給付金の申請資格を失っている。

 弟の貯金通帳を手に入れるのに、苦心する必要もなかった。

 月十万の受講給付金も、別途支給される通学費も、俺は受けることができない。


 もうこれ以上書類は必要なかったが、俺はついでに無収入の証明書を取る経験もしておこうと思い、二階へ向かった。

 申請書類を記入し、要らない紙切れに三百円払った。

 今日取った書類はみな、敗北の記念品にしかならない。


 家に帰り、コタツで温まりながら今後を考えてみる。

 受講給付金は受けられない。

 だが、講義を受ける資格はまだ持っていた。

 通うとなると、まず交通費が自腹だ。

 定期代は三ヶ月で三万くらいになる。

 授業で使うテキスト代は、もともと自費負担だった。二万五千円。

 コストはきっちりこれだけ、なんてこともないだろう。

 受講給付金を受けられないなら、アルバイトをしながら通うなんて人もいるかもしれない。

 講義は九時から五時まで。通学には往復二時間以上かかる。

 母親や犬どもの世話をしなければならないことを考えると、働きながら通うのは無理だった。寝る時間がなくなる。

 睡眠時間が取れなければ、狂気の世界へ逆戻りになる可能性もあった。

 それに何より、受講期間は一月半ばから四月の始めまで。

 金も貰えない、むしろマイナスになるのに、寒中を震えながら通うのは馬鹿らしかった。訓練校には通わない。そう決めた。


 翌日にハロワへ行った。

「ちょっと事情が変わりまして。申請を取りやめます」

 そう言いながら、俺は何も書き込んでいない書類を返した。

 いろいろ指示してもらったことを無駄にしてしまって悪いなと思っていたのだが、金が無いんだから仕方ない。

「そうですか」と、担当職員はどこか満足気に頷いた。

 これだけで、今日の相談は終わりだった。

 もう必要ないのだが、それでも受給者票にスタンプを押してもらえた。

 これも立派な求職活動の実績になるらしい。

 こうなるともう、次の認定日しかハロワに用はない。失業給付金はそれで最後だった。

 訓練校の下見に行ったり、面接を受けたりして忙しく過ごすつもりだったのが、急にカラッポになってしまった。

 帰りにゲームも売っている本屋へ寄り、一本四百八十円で売っていた、十年前の中古ゲームを三本買った。

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