第8話金脈の慈悲

 初霜の降りたその日の夜、父親が「肺がんで入院する」と言いに来た。

 肺に溜まった毒性の強い水を抜くための手術を受けるという。

 父親はさして困ったふうでもなく言った。

「病院代はなんとかするが、おめぇらの食い扶持がねえや」


 事実、その通り。


 いつも突然にゼロと言い出す男だった。

 貯金があったためしは無く、仕事ができなくなれば即、生活費もゼロになるのだった。

 親子して金の稼ぎ方をしらず、貧困の連鎖の上に、病苦まで背負いこんでいた。

 振り返ってみると、物心ついたころから、ずっと切羽詰まった生活をしてきたような気がする。

 子供のころは、この父親にゼロを言い渡されると怯え、泣き叫んだ。今は違う。俺は落ち着いた気分だった。

 我が家は平常運行だ。

 悪く行っても今の生活が無くなるだけでしかない。

 あまり惜しくもなかった。


 一応、現状維持の方向で考えてみる。

 失業給付金にはまだ、最後の十二月分が残っていた。

 食べるだけなら、それだけでいける。

 その後は介護の訓練校に通って、受講給付金を貰うつもりだった。

 それ以上先のことは考える気がしなかった。

 どのみち、いつも何かが起こって、計画など無意味になる。

 

 ただ、餓死にはまだ遠い。


 そう考えていたところへ、追い打ちを食らった。

 家賃とガス代が半年分ほど滞っているという。

 びっくりした。

 こんなぼろ家とはいえ、まさか無賃で住んでいたとは思わなかった。

 軽く見積もっても、いますぐ三十万は必要な状況だった。

 もちろんそんな金は無い。

 入るあても無い。

 いまさら泡食って働くのもバカらしい。

 俺は別に、今の生活を維持したいとは思っていなかった。

 時が来たら、陽炎のように消えていくのもいい。

 どんな最後を迎えるのかはわからなかったが、動揺などなかった。

 何事もなかったかのように、俺は日々の日課をこなす。


 数日経って父親が入院したころ、ベッドの上から母親が言った。

「今度の日曜、あんちゃんとこ行ってきな。行けば向こうはわかってるから」

 向こうはわかっていても、俺はわからない。俺は訊いた。

「何しに?」

「行ってくるだけでいいよ!」

「だから、何しにだよ」

 母親は渋々といった様子で話し出した。

「……あんちゃんにお金を用意してもらったんだよ、親父には黙ってな」

 ああ、そうか。

 親戚に金を借りるっていう手があったか。

 俺は萎むように消えていくのを、半ば望んでさえいたところだったので、そんなこと考えもしなかった。

『あんちゃん』とは、祖父と一緒に住んでいる叔父、母親の弟のことだった。

 俺は幼い頃からずっと、あんちゃんと呼んでいた。

 農家だから土地を持っている。

 外へ働きに出ているあんちゃんと、老いさらばえた祖父だけでは畑を維持できず、次々と土地を売っているようだった。

 派手な生活はしていなかったが、底力がある。

 祖父が長生きしている今、遺産の生前分与的な意味合いもあるだろう。


 俺は答えた。

「わかった。何時頃行けばいい?」

「午前中に行ってきな。あまり待たせると、あんちゃん出かけちゃうかもしれないから。九時を過ぎれば、あの女もいないだろう」

『あの女』とは叔父の嫁のことだった。

 やはり十年近く会ってないが、俺には好意的だったので、俺は嫌いじゃない。

 ただ、祖父に対する態度がよくなかった。そのせいで母親は嫌っている。

 叔母は教習所の受付をしていたので、日曜でも仕事があった。

 金を借りる場にいたら、さすがにいい顔をしないだろう。叔母はこのことを知らないに違いない。


 日曜の午前十時、祖父の家へ車を走らせた。

 幼い頃、借金取りの相手をさせられたことは度々あったが、自分が金を借りに行くのは初めてだった。

 祖父の家へ着くと、叔父は庭木の手入れをしていた。

 俺は車を回して停め、外へ出るといつもの習慣でドアに鍵をかける。

 それを見て叔父が声をかけてきた。

「バカだな、鍵なんかかけることねぇだろ、家の中で」

 久しぶりに叔父の姿を見て、俺は率直な印象を口にした。

「ずいぶん老け込んだね、あんちゃん」

 叔父は笑いながら言った。

「おめぇのほうが老け込んでるじゃねえかよ!」


 それから「待ってな」と言い残し、家の中へ入っていく。

 出てきたときには、銀行の封筒を手にしていた。

 その封筒を「ほれ」と俺に手渡してくる。

 厚みでわかった。百万だ。


 俺もこんなふうに、百万をぽんと渡せるような男になりたかった。

 血が繋がっているというのに、何という違いだろう。

 俺は四十二歳で自ら仕事を辞めて無職。

 母親は障害年金も貰えない身の上で身体障害者になってしまったし、父親も無年金でがんになり、収入が無くなってしまった。

 俺はこんなときにどういう態度を取ったものかわからなかったが、とりあえず「ありがとう」と礼を述べるに留めた。


 叔父は「こっち」と先に立って歩き出し、俺を畑へ誘った。

 畑でナタを振るい、持ってきた袋にブロッコリーやキャベツを詰め込む。

 俺は「あっ、もういいから!」と、叔父を止める。叔父はさらに長さ一メートルもある大根を引き抜いて言った。

「こんなもんか」

 ウチの小さな冷蔵庫には、今貰ったキャベツの一個でも入ればいいほうだった。

 冬だから外へ出しておいても日持ちはするだろうが、ちょっと油断すればネズミの餌だ。

 一メートルの大根に関しては、まったく収まる場所がない。ネズミに齧られることになるだろう。


 すべてを車に積み込むと、何を話していいかわからなくなった。

 この叔父に何度も金の礼を言うことはできない。

 かえって「他人行儀だ」と嫌われることになる。

「おふくろは歩くこともできなくなっちゃったよ」

 そう簡潔に近況を報告して、俺はその場を後にした。


 帰ってきて金を手渡すと、途端に母親はシャッキリしだした。

「ガス代の分」「家賃の分」と、金を取り分ける。

 俺はちょっと寂しいような気分になった。

 終わりがほんの少し遠退き、希望のない鈍痛が続く。


 その晩に、貰ってきた大根の一部を味噌汁にしたが、大部分はネズミの餌になり、器用に皮だけが残された。

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