第7話齧歯類の劇場

 次の日、母親は一日中ベッドの上で過ごした。

「今日は調子悪いけど、明日は動くから」

 三日の間、そう言い続けた。しかし、三日とも動けなかった。

 四日目にはすでに諦めていた。

 もう母親は移動しなくなった。身体を起こしてはいるものの、ずっとベッドの上にいる。犬どもも一緒だった。寒いので食事のときぐらいしか、ほとんど動かない。

 料理を作ること以外にも、食事を運ぶこと、片付けることが俺の日課に加わった。水やおしぼりも、持っていってやらなければならない。


 母親は身体を動かさないので、手の動きまでいっそう不自由になっていった。

 食事の皿が重い、重いと言うので、軽いプラスチック製の食器を買ってくる。

 柄の太くなっている、握りやすいスプーンとフォークも用意した。

 箸より重いものなど持ったことがないどころじゃない。箸など持てなかった。

 ベッドの上で食事を取るので、複数の食器を置いておくトレイも必要だった。

 行きつけのスーパーで売っていたが、その値段に驚く。

 ただの板んぱが、八百円もした。

 仕事をしていた頃、機内食で使う似たような品物を、日に何千枚もぞんざいに扱っていたが、買うとなるとこんなに高いものだとは知らなかった。

 トレイは大変役に立ったが、母親が汚すので、食事の度によく洗わなければならなかった。大きい洗い物が増えた。


 数日経って、俺は強い不安に襲われた。

 母親はだるそうな様子ではあったが、食欲はあった。ちゃんと食べていた。食べたからには出さなければならない。俺は彼女の排泄について、一切関わっていなかった。

 最初のうち、トイレだけは根性を出して自力で行っているのだろうと考えていたが、どうもトイレを使った形跡が無い。

 移動できなくなってから何日も我慢しているのだろうか。

 もしそうなら、もう病院へ連れていかなければならなかった。

 クイーンドラゴンも教えてくれない。

 俺は仕方なく、恐る恐る訊いてみた。


 母親はきちんと用を足していた。

 ベッドの上で。

ふんだんにあるペット用のトイレシーツを股間にあてがって済ませているという。

 アイデア賞ものの無様さだった。

 だが、おかげで下の世話をしなくて済む。

 病院に連れていかなくてもよかったし、肩の荷が下りたような気分になった。

 それからは週に二回、燃えるゴミの日に、母親の糞便とペットシーツの詰まった袋を捨てるだけでよかった。


 排泄の問題はそれで済んだが、入浴はそうもいかない。

「ずっと支えといてやるから風呂に入ろう」

 ある夜、そう提案してみた。内心風呂に入りたかったらしく、母親も乗り気になった。

 パンツを脱がせ、虐待された捕虜のように痩せ細った身体を抱き上げる。

 途端に、「痛い、痛い!」と騒ぎ始めた。

 母親の足は、その痩せた体重でさえ、いっときですら支えることができなくなっていた。

 入浴は諦め、身体を拭くに留めた。

 その日以降、身体を拭くのも、たまにやってくる父親に任せることにした。


 母親が弱っていく中で、唐突に、犬が一匹死んだ。

 二匹いるオスのうちの若いほうで、ウチの群れのボス気取りだった奴だ。

 前の晩に餌を食べなかったと思ったら、朝には母親の枕元で硬くなっていたという。

 ここ数日、犬のトイレに血が混じっていた。

 なんだろうとは思っていたのだが、こいつだったらしい。

 死骸があるからには、処分しなければならない。

 十数年前に飼っていた犬が死んだときには、死骸を火葬にし、ペットの供養をしてくれる寺に納めた。

 今はそんな余裕など無い。

 裏庭に穴を掘って埋めることにした。

 俺はすぐに穴を掘り終えた。

 母親の部屋へ行き、布に包まれた犬の死骸を持ち上げると、母親が言った。

「風呂に入れてあげるの?」

 犬バカだ。俺は素っ気なく答えた。

「埋めるんだよ」

「もう埋めちゃうの!」

 母親は驚いたような声を上げた。

「ほうっといたってしょうがないだろ」

 それ以上言うこともなく、犬を裏庭へ持っていった。

 余裕をもって穴を作ったつもりだったが、死後硬直で伸びきった犬のの身体は、幅ギリギリだった。深さも浅い。

 それでも、なんとか納まった。

 土をかけていると、犬の死骸がげっぷをした。

 もしやと思って身体を触ってみたが、やはりカチコチだ。腹に溜まったガスが出てきただけだった。

 土をかけ終わり、粗末な墓ができた。

 この一匹の死によって、日々の手間がわずかに減った。

 他の犬もこうして、苦しむ間もなく死んでくれると助かるのだが。

 そんな思いも虚しく、残った犬どもは弱るどころか、逆に生き生きし始めた。

 さしずめ、うるさいボスがいなくなって、清々しているといったところだろう。

 残った五匹は、いつまで生きるのかしらないが、とにかく元気だ。

 父親と母親、特に母親が犬好きで、ここまで増やしてしまった。

 俺は溺愛するほど好きじゃなかったが、今やすべての世話は俺がしなければならなかった。


 冷え込みが厳しくなってくると、ネズミの行動が一気に活発化した。

 ある朝起きると、俺の居室以外、家中の床がネズミの糞だらけだった。

 足の踏み場もない。

 起き抜けで掃除機をかけることになった。


 この半年、早寝早起きを続けていたせいで、ネズミの活動時間に起きていることがなく、無頓着になっていた。

 ネズミを捕るとりもちシートも長いこと仕掛けていない。

 油断している間に、大繁殖してしまったのだろうか。

 次の朝も家の中は荒され、ネズミの糞だらけになっていた。

 これはもう、とにかく対処しなければならない。

 俺はとりもちシートを買うために、先月車をぶつけられたホームセンターへ車を走らせた。

 とりもちシート二十枚入りの大箱を買って駐車場へ戻ると、離れた場所の白い車の前で、警官と若い男が話していた。

 その白い車は、右のヘッドライトが割れていた。

 また車が当てられる事故があったようだ。

 今回、当てた車は逃げ去っていた。

 

 そりゃ、クイーンドラゴンの加護も無ければそうなるだろう。


 あまり来たくない店だ。店が悪いわけじゃなく、来る客が悪い。だが、昔はこんなじゃなかった。

 周囲に気を使ってないから、止まっている車にぶつけるような運転になる。この街では、やけっぱちな人間が増えたのかもしれない。


 家に帰るとすぐ、とりもちシートを仕掛けた。

 自分の勘と、クイーンドラゴンの指図に従って、とりあえず六枚ほど置いた。

 その晩のうちに、十匹ものネズミが引っかかった。

 次の晩も四匹、続いて三匹、四匹。

 二十枚入りの大箱は、一週間ももたなかった。

 三十匹以上のネズミを捕らえ、全部燃えるゴミの日に出した。


 それだけ捕っても、ネズミはいなくならなかった。

 床が糞だらけになることは無くなったものの、頭のいい、性悪が生き残っている。 

 予想をはるかに上回る数に棲みつかれていた。

 それとも、次から次へと新参が入ってくるのか。

 ともかく、持久戦をするしかない。俺は二十枚入りの大箱を買い足した。


 効率は悪くなっていった。もうネズミはなかなか引っかからない。

 あるとき、食器棚がわずかに開いていた。

 きっちりと閉めようとしたところ、中からネズミが飛び出してきた。

 一匹のみならず、二匹、三匹、四匹。

 ネズミが次々と弾丸のような速さで続いた。

 まだこんなにいる。

 こいつらを捕らえるのは容易でない。

 移動経路を確認していたが、みな水平な面を通らなかった。

 これでは、とりもちシートに引っかからない。

 別のときには、物陰に隠れず、開けた床の上を堂々と走っていく奴も見かけた。

 それが一番安全だと勘づかれている。

 人の通れるような場所は、犬もいつ通るかわからない。

 とりもちシートが仕掛けられないのだった。


 ネズミ一匹捕るのにもドラマがある。

 あるとき一枚のシートに、小さな子ネズミがかかった。

 余白がずいぶんあるので、そのまま放っておくと、普段は引っかからないような大物もかかった。

 ここまで大きく育ってしまうとまず罠にはかからず、寿命で死んでくれるのを待つしかないような大物だった。

 子ネズミのほうへ突っ込んでいこうとして、とりもちに捕らわれていた。

 親ネズミかもしれない。

 そこへさらに、中型のネズミが現れて、様子を探っていた。

 俺が姿を見せると逃げるが、奥へ引っ込むとまた戻ってくる。

 中型ネズミは、俺がそのシートを片付けてしまうまで何度も現れ、大型ネズミに鳴き声をかけていた。

 親子か伴侶か。

 

 愛が見えたが、要は害獣だ。

 

 後になってクイーンドラゴンに指摘されたのだが、中型のネズミの移動経路へも、シートを仕掛けておけばよかった。

 母親に食事を運び、犬どもの糞便を処理し、ネズミと知恵比べしているうちに冬が訪れた。

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