秋口峻砂

 そのマンションは警備員が常駐することからも、セキュリティの堅さを疑うべくもない。だがそのセキュリティは外部からの侵入に対して有効でも、内部での行動を阻害するものではない。

 それはある意味で、そのセキュリティの突破しようと企む者にとっては当然の理屈だった。

 その男は酷くやつれていた。三ヶ月前にこのマンションの夜間警備員として雇われた男だ。深く抉るように頬がこけ白目は黄色掛り、ここ数日は風呂に入っていないような饐えた異臭を放ち、それでも眼だけは爛々と輝いていた。

 警備員の制服は脱ぎ捨てた。何故ならばもう必要がないからだ。代わりに纏ったのは、あの日に着ていた黒いシャツと褪せた黒いジーンズ。

 その姿は、さながら鴉のようだった。

 ふらりふらりと覚束ない足取りで、鴉はマンションの1階をエレベーターホールに向かい歩く。

 この十年間、ずっとこの機会を狙っていた。あの日、自分に決定的な運命を突きつけた、あの男に会う機会を。

 何故、彼女は壊されたのだろう。

 何故、あいつはのうのうと生きているのだろう。

 何故、俺は赦されないのだろう。

 何度も何度も自分に問い掛け、その度に泣き喚き運命と自分の無力を呪った。

 エレベーターホールに辿り着き、上を示すボタンを押す。すると最上階の三十六階を示していた小さな灯火が、ゆっくりとカウントダウンをしながら下降し始める。

 それは鴉に妙な安堵感を齎した。これはこの地獄のような十年間の終わりを示すカウントダウン。

 眼に焼きついて離れないそれは、まるで無力な鴉を呪うかのように虚ろな彼女の泣き顔だった。

 彼女を失い、まず泣くことが出来なくなった。それを遣り過ごすと、今度は身体の中に灼熱の塊が蠢いているような錯覚を起こし、全く眠れなくなった。

 眼を閉じれば彼女に会える。だが眼の裏の彼女は、常に「あなたには会いたくない」と侮蔑の表情で吐き捨てる。悲しみとは、決して果てることのない地獄だと知った。

 だが、喜びなど欲しくない。

 歓びなど感じない。

 悦びなど意味がない。

 それでも死を選ばなかったのは、あいつが生きているからだった。

 エレベーターが到着しドアが開くと、何故かそこには一人の女が酔い潰れて眠っていた。

 顔を覗き込むと、その女がこのマンションの住人だと思いつく。

 確か十五階の端の部屋に住む女で、いつも深夜から明け方近くに酔っ払いつつ帰宅する。見た目、年齢は二十代後半で、その露骨な露出と派手な格好から、何処かのキャバレーででも働いているのだろう。

 そういえば、この女が深夜に帰宅していくところを確認したことを思い出す。

 エレベーターに入ると、その女のケツを軽く蹴った。

 正直迷惑以外何者でもない。

 酔い潰れて反応しないことを確認し、鴉は最上階を示すボタンを押した。

「……あれぇ、あんた誰よぅ」

 動き出したエレベーターの振動に起こされたのか、酔い潰れていた女が薄らと目を開けて、鴉を見詰めていた。

「……うう、気持ち悪ぅい……」

 鴉は只管その女を無視し続けていた。話相手になるつもりもない。

 無視し続けているとその女は、身体を起こしエレベーターの端でげえげえと吐き始めた。相当呑んでいたらしく、吐瀉物の異臭が鼻を衝く。

「ねえ、あんた……背中、擦ってよぅ……」

 鬱陶しげに女を見ると、女は苦しいのか胸元を肌蹴させ涙目で鴉を見詰めていた。

 救いようのない馬鹿女だ、と思う。清楚だった彼女とは大違いだ。こういう面倒な女には捕まりたくない、と妙に納得してしまう。

 だからやはり、鴉は女を無視した。

 女は彼女だけで十分だった。

「……なによぅ、無視すんなよぅ。女の子が助けを求めている……うぷぅ、んだから、助けなさいよぅ……」

 じろりと睨み付けると、その鴉の眼を女は吐き気の苦しみで涙目ながらも、睨み返してきた。

 強気な女は嫌いじゃない。彼女もどちらかと言えば強気だった。

「……あれれぇ、あんた、ここの警備員さんじゃない」

 どうやら面倒なことに気付いたらしい。

 鴉はそれでも無視し続ける。すると女は小さく舌打ちをし、その場に膝を抱えて座り込み、懐から煙草を取り出し咥え火を点けた。

 こういうやさぐれた女には、どうして安煙草が似合うのだろうか。

「……いいわよ、管理会社に報告したらぁ」

 妙な勘違いをしたらしいその女を、鴉は迷惑げに見詰めた。

 なるほど、キャバレーで働き深夜に帰宅する生活や派手な外見で、それなりに損をしてきたのだろう。そう考えると、この女もそこそこ大変な人生を歩んでいるように思えた。ただ自宅ならばともかく、エレベーターで吐いているようでは自業自得か。

 座り込んで煙草を吹かし続ける女。

 それを無視し続けている鴉。

 奇妙な無言が支配したエレベーターは、最上階に真っ直ぐに向かう。


 小さくベルが鳴り、エレベーターは最上階に辿り着いた。ドアが開くと、鴉はゆっくりとした歩みでフロアに踏み入る。

 女は不審げに鴉を見ていたが、何を思ったのかドアが閉まる前にこちら側に出てきてしまった。

「……あんた、ここに住んでるのぉ」

 このマンションは、鴉のような低所得者にはどんなに頑張っても手が届かない。

 小さく舌打ちをし、床に唾を吐き捨てた。考えれば考えるほどに、反吐が出るほど腹立たしい。

「……そうじゃないみたいね」

 不機嫌そうな鴉の眼を見ていた女は、肩を竦めて小さく笑った。やはり女を無視し、鴉はゆっくりと歩き出す。

 このフロアの南角の部屋が、目的の部屋だ。

 最上階に住む人間らしく、かなりの所得が確かにあるらしい。

 その所得の為に、様々な人間が犠牲になってきた。壊された彼女も、その一人だ。そして彼女を壊されたあの時から、全てが狂った鴉もまた――

「……ねえ、このフロアにあんたの知り合い、本当にいるのかよぅ」

 女はふらふらと鴉の後をついてくる。ついてこられても邪魔なだけだ。

 いっそここで殺しておくか、と妙に落ち着いた思考の中で、鴉は女を振り返った。女は周囲を見回しながら、指先を唇に当てていた。

「……ぅん、何よ、どうしたのぉ」

 不意に重なった面影に躊躇いながら、例えようのない想いに苛まれた。

 鴉はまた前を向き、ゆっくりと歩き出す。

 正しさなんてどうでもいい。それが人間の都合でごろごろと変わる様を、今までに何度見てきただろうか。そして鴉は、自分にとっての正しさもまた、都合に過ぎないと理解していた。

 だから納得しろなんで屁理屈を抜かす奴は、唾を吐きつけて動かなくなるまで蹴り飛ばしてやった。

 大切な人を壊されて、動揺もなく受け止められる奴は、きっと碌な死に方をしないだろうと思った。

 都合で正しさが変わるのならば、同じ理屈で悪党でも正しさを持つだろう。ならば悪党を自分の都合で殺すこともまた、正しさだと言い切れてしまう。

 何とも不都合で好都合な理屈だ。

『でもね、都合じゃない正しさだって、きっとあるわ』

 ふと思い出した言葉は、壊された彼女の言葉だった。ではどうして君は壊れたのだ、と問いたくなる。

 あいつに壊されたのに、それすらも納得しているとでも言うのだろうか。それを自分に納得しろと言うのだろうか。

「……しっかし、このフロアに住んでいる連中って、絶対真っ当な仕事じゃないよねぇ」

 後ろを付いてきていた女が、突然そう呟いた。妙に的を得たその言葉に、鴉は思わず振り返り、そして苦笑する。

「おっ、あんた笑ったら結構可愛い顔してるじゃないの」

 余計なお世話だと心の中で毒づき、鴉はまた前を向いた。

 目的の南角の部屋に玄関に辿り着き、鴉はジーンズの背中側の腰に手を突っ込むと、そこからガバメントを抜いた。

 それを見た女が「ちょ、ちょっと」と声を上げて後ずさる。ガバメントは乾いた発砲音を放ち、弾丸は玄関のロックを簡単に吹き飛ばす。

「あ、あんた、何するつもりなのよ……」

 女を顔を見ると明らかに怯えていた。そんな仕事をしているのだから、裏にも多少は詳しいのかとも思ったが、結構真っ当なキャバレーで働いているらしい。

 玄関のノブを回すと、あっさりと玄関は開いた。こういうセキュリティが万全すぎるマンションに住むと、基本的にロック関係は甘くなる。だがロックはオートロックであり、そしてロックの破壊は当然警備会社に伝わっているはずだ。

 だが長居などしない。もう中に住む人間は気付いているはずだ。ならば、事は安易に済む。

 玄関を開け中に入ると、むっと咽返るような異臭がした。それが血の臭いだと気付き、鴉は無意識にガバメントを構える。

「な、なぁに、この変な臭い……」

 女が顔を顰めて鼻を抓み、奥を覗く。だがリビングに続いていると考えられる廊下の奥は、真っ暗闇に染まっていた。

 鴉は心に湧き上がった表現しえぬ動揺を押し殺した。あいつが彼女を壊したあの日も、彼女が監禁されていた部屋にはこの臭いが充満していた。

 それは鴉の脳裏に刻み込まれたトラウマを、強く深く抉る。瞬間、強い吐き気から咥内に胃液が上がり、鴉はそれを床に吐き捨てた。

「だ、大丈夫ぅ、あんた……」

 女が不安げに鴉の顔を見詰め、また暗闇に目を凝らした。

 動揺していたものの、鴉も暗闇を見詰めた。どちらにしても、あいつは相変わらずらしい。変に金と権力を持つと、どこかが歪んでいくのだろうか。

 気付いているのだろうか、金というモノは、儲ける為に更に金を要求する。注ぎ込んだ金を守る為に、更に金を求めてくる。

 それは権力も同じだ。そのサイクルは、結果人間の人格すら変貌させていく。

 あいつを弁護するつもりはサラサラない。あいつの事情を理解はしているが、納得はしていない。

 その辺は自分でもややこしい考え方をしていると思う。

 ガバメントを構え、暗闇に足を踏み入れた。廊下の奥から更に濃密な異臭が流れてくる。血の臭いだとしたら、リビングには相当な量が撒き散らさせている。 

 まあ、それも当然だとは思う。あいつの趣味はそういうものだったし、あいつの主義はそれを求めていた。ただあいつが普通に生きていけるはずもないのも確かだ。

「ね、ねえ、あんた……ここの住人って、ヤバい奴なの……」

 女は鴉の後ろに隠れながら、それでもそのスリルに表情は期待していた。どうもこの女は自分の置かれた立場を理解していないようだ。

 言ってしまえば、ここは魔窟だ。もう既にあいつの領域に入っている。

 あいつは魔窟の主、そして鴉は狩人だ。

「ね、ねえ、何だかここ、寒くない」

 この七月も半ばに差し掛かった時期だから、マンションの特性を考えれば無論エアコンなどは完備されているし稼動しているだろう。

 だがそれにしても寒すぎる。

 女の口元からは、白い息が漏れていた。

「冷房効きすぎでしょう。ここ……」

 背中に女の温かさを感じ、鴉は少しだけ躊躇う。どうしてこの女はここまで付き合うのか。真実を言えばきっと、この女は逃げ出すだろう。

 だが、何故だろう。

 こいつに真実を話す気にはならない。こいつは酒臭いが、あいつが好みそうな女だ。こいつを餌にすれば、比較的安易にあいつを殺せるかもしれない。

 躊躇うことはできない。迷いとは人の持つ悪癖だ。迷う暇があれば決断を下し、行動を起こすべきなのだ。鴉は心の中で、「こいつは餌だ」と割り切った。

 暗闇の中を進み、リビングのドアに辿り着く。

 女は相変わらず期待した表情をしながら、鴉の背中に隠れていた。隠れたからと言って、何かが変わる訳ではない。

「うぅ……す、凄い……」

 ドアを開けた瞬間、今までの数倍もの異臭が鼻を衝き、女が苦しげに呻いた。

 思わず顔を顰め、鼻に手を当ててしまう。血の臭いだけではなく排泄物や腐敗物、その上、薬品類の臭いまで混じっていた。嗅ぐたけで意識が飛びそうなほどに強く濃い瘴気とも呼べそうな異臭。

「……う、げえぇぇっ」

 耐えられなくなったのか、女が横で吐き出した。

 無理もないと思う。鴉ですら意識が朦朧としそうな異臭だ。

「ね、ねえ、帰ろうよ……ここ、うぷぅ、な、なんだか変だよぅ」

 相当具合が悪いのか、腕を絡めて涙目で女が縋る。その女を部屋の奥に突き飛ばし、鴉は無駄に広いリビングに踏み込んだ。

 目が闇に慣れていく。リビングには奥に、マンションには不釣合いな大きな暖炉がある。そして何かを祭り立てているような祭壇、毛足の長いカーペット、本革製のソファーが四脚、今の時代には珍しくテレビなどの電化製品がない。

 その一つ一つが血に塗れていた。そしてその暖炉の前に、幾重にも幾重にも折り重なって女の死骸が転がっていた。

 女達の虚ろな眼が、鴉と女を哂っている。

「あ、あああ、あああああああ、ああぁああぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁぁっ」

 目が慣れたらしく、女がその死骸の山を見て悲鳴を上げた。そして足腰が立たなくなったらしく、その場に座り込んだ。

「好奇心、猫を殺す」というヤツか。興味本位で顔を突っ込むからそういう目に遭う。

 鴉はゆっくりと視線を巡らせる。

 握りこんだガバメントには、じっとりと汗が張り付いていた。

 ここが瘴気に満ちているのは当然だろう。これだけの死骸が転がっているのだ。

 その全てがあいつの仕業なのだから、それを知れば無神論者の人間でもこの瘴気は感じるだろう。

「あ、ああ、ぃや……」

 瞬間、女が嗚咽を上げた。女を見れば、女は恐怖から腰を抜かし、その上失禁していた。本人は恐怖で我を忘れているようだ。

 鴉はまた、周囲に眼を向けた。どういう形であれ、これはあいつがここにいた形跡だ。必ず、何処かに隠れているはずだ。

 リビングからはキッチンと、更に二部屋につながっているようだ。

 まずは奥の寝室からだろう。

 鴉は放心状態に陥っている女の頬を、数度強く引っ叩いた。こんなところで腰を抜かされても困る。餌には餌らしく、あいつの前で美味しそうに転がってくれなくては。

「あ、あんた……」

 女の虚ろな目が鴉に向けられた。

 その瞬間、鴉の脳裏に彼女の虚ろな眼が浮かぶ。


『あなたは無力よ』

『自分を驕らないで』

『私はあなたの――じゃない』

『……愛しているわ』

『だから私はこうなったのよ』

『血の力は何よりも――わ』

『信じてくれなくてもいい』

『……そのジッポ、貰ってもいいかな?』

『あなたには――ない』

『力が――ではないわ。でも、力を持たぬ者は――も守れないの』

『お前は、私が殺すの……』

『……ごめんね』

『……バイバイ、愛してたわ、―――』


 信じ難いほどに重なるその二つは、鴉の動きを止めた。

「……面白い奴だな、お前は」

 動きを止めた一瞬、その瞬間に鴉の背腹部に何かが突き立てられた。

 鴉は刺された短剣を確認し次の瞬間、声の主である背後の男に、振り向き様ガバメントを撃ち込んだ。弾丸は男の左胸に命中し、男は後方に吹き飛ぶ。

 立ち上がり、倒れた男にガバメントを向けながら、鴉はゆっくりと近づいた。

「ふぅむ、どういう身体なのかは知らんが、痛みを感じんのか」

 倒れた男がゆっくり立ち上がりそう呟いた。口元に異様に長い犬歯が見える。

 鴉の眼に映る男は、十年前と何も変わらない。青年だった鴉は確実に歳を取り、壮年になっているというのに、こいつは全く歳を取っていないように、鴉の眼に映る。

「……その女を餌にしようと考えたのか。下種な人間らしい思考だ」

 女の目は見開かれていた。目の前の光景を疑うように。

 背中を刺されても平然としている男と、左胸に銃弾を受けても生きている男がいるのだから当然か。

「……巴のことならば、逆恨みも良いところだぞ」

 男が発した彼女の名前。鴉は咥内に上がってきた血を、床に吐き捨てた。

「大体、私は眷属を殖やしたに過ぎん。あの女を殺したのはお前だろう」

 鴉は無言でガバメントを構えた。鴉とて馬鹿ではない。この男に銃弾など無意味だと知っている。それでもガバメントを選んだのは、これが巴を殺した罪深き武器だからだ。

「ふぅむ、しかし解せんな。私を狙うにしては準備が杜撰すぎる」

 そう呟く男に、鴉は更に二発銃弾を撃ちこむ。その銃弾は間違いなく、胸と腹部に命中した。

 だが男は平然とそれを受け止め、そして哂っていた。鴉はそれを見詰め溜息を吐き、もう一度血を床に吐き捨てた。

「お前のその穢い血反吐で、我が領域を穢すな」

 怒気強く、男の眼が鋭くなる。それを見た鴉は、また床に穢れた血を吐き捨てた。

 すると信じられないことに、突然男が鴉の前から消えた。

 鴉が周囲に眼を凝らすより速く、男の持つ短剣が鴉の右胸を貫く。だが鴉は平然とその短剣を握る手を掴み動きを封じ、男の額にガバメントの銃口を押し当て、引き金を引いた。

 乾いた発砲音の後、男の額に穴が空く。

 そして男は後頭部から脳漿を撒き散らし、後ずさりふらふらと舟を漕ぐ。

「……解せんな、私に銃弾は効かぬと知りつつも、それでもガバメントを使うか」

 振らつきながらも、男の額の穴はゆっくりと塞がっていく。対する鴉は突然襲った眩暈に、思わず倒れそうになった。

 足を踏ん張り眩暈に耐える。どうやら血が流しすぎたらしい。

「……これでお前のガバメントに装填されている弾丸は一発だけだ。……一体、何が目的なのだ」

 鴉は身体を泳がせながら、ガバメントをまた男に向けた。そしてニタリと小さく哂った後に、引き金を引いた。

 乾いた発砲音の後に、銃弾は男の左胸の心臓を貫通した。薬莢が床に落ちるまでの数瞬、無言の時間が過ぎ、男が口から血を吐き膝を付く。

「……何を、した」

 苦しげな男の問いに、鴉は床に転がっている薬莢を拾い、男に放り投げる。

 目の前に転がった薬莢を拾った男の眼が、驚愕に見開かれた。

「ヴァチカンの紋……銀の銃弾、か……」

 鴉はだるそうにゆっくりと歩き、膝を付いた男の身体を蹴り飛ばす。

 男が倒れ込むとその頭を踏みつけ、そしてもう一度唾を吐き捨てる。

「これで、満足、か……」

 男の言葉に鴉は、首を横に振った。

 男はそれをじっと見詰め、小さく哂うと「馬鹿めが」と呟き、目を閉じ永遠の眠りについた。


 次の瞬間、鴉は糸の切れた人形のようによろめき、その場に転がる。呆然とそれを見た女が、我に返り倒れた鴉の元に走った。

「あ、あんた……」

 鴉の頭を膝の上に抱え、女が表情を曇らせながら言葉を掛けた。胸の深い傷からは、鴉の鮮血が溢れ返っていた。

「あ、い、今すぐに救急車を、よ、呼ぶから……」

 震えながらも携帯電話を取り出す女を手を握り締め、鴉はゆっくりと首を横に振る。

「ど、どうしてなのよ。巴って女のところに逝くから、そんな……」

 鴉はまた、ゆっくりと首を横に振った。そして懐から血に塗れた薬袋を取り出し、女に手渡した。

 その薬袋には、モルヒネなどの強いドラッグが処方されていた。処方箋の発行をした病院は、国立癌研究センター。

「……もしかしてあんた、末期なの」

 抗癌剤が処方されていないと言うことは、もう手遅れであるということ。そして女の拙い知識の中に、末期癌の患者を痛みから救う、「痛みの神経を切る手術」があることを思い出す。

 鴉は女の腕の中で、ゆっくりと息を吐く。その表情はとても穏やかで、そしてどこか満足げだった。

「巴って子のところに逝かないのなら、あんたは一体何処に逝くのさ……」

 鴉は優しげな女の目を見詰めながら、ただ小さく口元を動かし、そしてそのまま眼を閉じた。

 その鴉を女はただ只管優しく抱き締め、ゆっくりとその髪を撫ぜた。

「……あんた、馬鹿だね」

 それが名も知らぬ男の最期だった。


 結局、女には何も分からなかった。あの魔窟の主が何者だったのかも。そして魔窟の主に壊された、巴という女が何だったのか、鴉がどうして巴を殺したのかも。

 何一つ、分からなかった。

 ただ一つだけ、分かっていることがある。これは誰にも語るべきではない奇怪な事実。語り継がれるにはあまりにも穢く、そしてあまりにも悲しい物語。

 魔窟から抜け出し、マンションの外を見ると朝日が世界を照らしていた。

 女は一度だけ振り返り、魔窟の暗闇に眼を凝らし、そしてもう一度朝日を見詰める。そして懐から安煙草を取り出すとそれを咥え火を点け紫煙を吐き、扉を閉めゆっくりとエレベーターに向かい歩き出した。

「空に、か……」

 彼の逝き先を小さく呟きながら。

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秋口峻砂 @dante666

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