兄 〜6年前〜
バッタの群れは集団密度の変化により、『相変異』という名の個体の姿と行動の変質を引き起こすことがある。羽が長くなり、より多くの距離を飛びやすくなる。色は鮮やかな緑から世界の呪いを一身に受けたような黒に、そして何より、性格がより凶暴になる。
中国における『トノサマバッタ』による蝗害は、まさにこの『相変異』が主な原因だった。『相変異』により凶暴化した『トノサマバッタ』が、まるで砂嵐のようになって農産物を食い荒らし、人々を飢えの苦しみに突き落としていったのである。
優真は体育館のギャラリーから全校朝会で集まった真っ黒い学生服の群れを見下ろして、そんなことを思い出した。密集した学生服の黒が『相変異』の黒化に重なったのだ。
今にも飛び上がってきそうだ、と優真は思った。羽音を二重にも三重にも重ねて大きく響かせながら、窓を突き破って街へと繰り出す。まだ雪溶けの頃の八戸市を混乱に陥れるのだ、と。
もちろんそんなことは有り得ない。優真は常日頃から妹に『虫と人間は似たようなものだ』と語り聞かせてはいるが、同時に虫と人間は大きく違う。だって、バッタは校長のつまらない長話を黙って聞いていたりはしないだろう? 逆に、人間はバッタのように優れてはいない。
ただ、思う。人間もこれだけ密集して日常生活を送っていれば、バッタが同じような状態である時に『相変異』という現象を引き起こすように、人間も個体のどこか1点で曇りや歪みを生み出してしまうのではないか、と。この比較的身近で狭苦しいと形容できるほど小さな学校社会ですら何百人という単位で生活しなければならないのだ。では、一般社会となればどうなる? 企業に入社すればこの倍以上の人の波に飲み込まれることになる。それでいて上京なんてしたものなら、一歩外に出れば自分自身が塵芥に見えてしまうほど個人なんてものはちっぽけで、無尽蔵に湧いて出るその他諸々の一角でしかないということが分かる。
そんな中だ。そんな中にいれば、自分を周囲よりも頭一つ抜きん出た存在に昇華させたいと思うのは、至極自然なことではないだろうか。
優真にも覚えがあった。今から3、4年くらい前か。つい最近のことだ。自分には秘められた
足元で眠そうに整列している学生達も、彼らを取り囲むように整列する教師陣も身に覚えがあるかもしれない。そう、俗に言う中二病と呼ばれる時代だ。
優真は中二病こそ人間でいう『相変異』の一つの例だと思っている。他者との差異を作ることで、自分自身にブランドを持たせようとする行為。同時に、『自分』というブランド作りの初期段階だ、と。
小さい頃は誰だってそうだろう、と優真は考える。まだ大人達の半分くらいしか身長のない時に、自分の好きな洋服を好きなだけ買って、綺麗に化粧を施して、アクセサリーで身を飾っていたという者がどれだけいようか。今ではある程度までは思い通りになる世界も、あの頃は全て憧れだったはずだ。
だから夢想した。憧れを少しでも実現に近付けるために、プラスチックのビーズを宝石に見立てたり、道端に落ちていた木の棒を無敵の剣だと思い込んだり、親の壊れた携帯で実際に通話しているフリをしてみたりして。今のように物で個性を出すなんてことが難しかったから、今のように『超能力なんて存在しない』『UFOなんて存在しない』『ビーズが宝石なんてありえない』なんていう夢のない人間達のエゴに踊らされていなかったから。
懐かしさに優真は目を細めた。優真の視線の先では、校長がステージ上で痰の絡んだ嗄れ声を発しながら手前のスタンドマイクに唾を飛ばしていたが、そんな光景は優真の視界にあって、同時に視界になかった。
優真の視線は遥か過去へと向いていた。自分が昆虫好きになったのも、そういえばこの中二病が原因だったな、なんてことを思い出しながら。そんな時代もあったな、と。
優真はもうとっくの昔に卒業していた。今ではもう、現実を知ってしまっている。成長するということは大人になるということで、大人になるということは知りたくもない現実が脳みそに根っこを伸ばして巣食うということ。
今朝、テレビでUFOの専門家なる人物がUFOについて何やら語っていたが、あんな風に不確かな夢を追える大人は凄いと思う。決して馬鹿にしているわけではない。むしろ逆、羨ましかった。
昆虫博士になりたかった、誰1人の命も取りこぼさない、人々の苦しみを全身で受け止めてあげられるヒーローになりたかった。でも、それらを全て妥協して、優真は今ここに立っている。
七夕の短冊に願いを込めたことがあったが……ああ、そういえば、あの短冊は雨でインクが流されて次の日にはただの紙切れになっていたっけ。
あれは暗に『諦めろ』と神様が言っていたのかもしれない、と優真は今更ながらそう思った。
『ひーろーになって、そらをいっしょうまもる!』
なれなかったよ。夢を追い続けられる力がなかった、夢を追い続けられる自信がなかった、夢を追い続ける権利がなかった。
そもそもの自分の夢に価値なんてなかった。
『そんなくだらない夢、今すぐ捨てなさい。そんな価値のない、途方もない夢なんて必要ありません。あなたは真っ直ぐに現実だけを見つめていれば良いのです』
自分にそんなことを言ったのはどこの誰だったか。
とはいえ、自分では中二病は卒業したつもりだったが、妹に言わせればまだまだ優真は現役らしい。おかしいな、と優真は首を捻った。
確かに日曜日の特撮番組の玩具をコレクションしたり、時には変身スーツなんてものを自分で作って公園で近所の子ども達と一緒にヒーローごっこをしたりなんてしているが、それだけだ。
そしてそれは断じて中二病などではない。近所の子ども達にとっては中二病の一貫かもしれないが、優真にとっては男のロマン以外の何ものでもなかった。妹は女だから、そこのところを理解できていないらしい。
今度特撮番組についてもじっくり教えてやらねばと優真は心に決める。
朝会の校長の長話も佳境という具合だった。さっきからとあるフレーズが延々とリピートされているのが聞こえる。それほど大事なことなのか、それとも年齢のせいでさっき言ったことを刹那に忘れてしまっているのか、それともこれも年齢のせいでただただクドくなっているだけなのか。
話のテーマは、最近の生徒達の校内外での問題行動の多発に際して、来週からの春休み中の生活の仕方についてもっと考えよう、というようなものだった。
「えー……夜遊びはいけません。休み中は我々教師が市内をパトロールしています。夜9時以降に遊び歩いているところを発見した場合は、即座に強制帰宅、後日指導を受けて頂きます。我が校だけではありません。他校の先生方もパトロールしていますし、警察の方々にもパトロールを強化して頂きます。同じように夜中に遊び歩いているところを発見した場合は容赦なく補導して頂きます。夜遊びだけではありませんよ? 不順異性交遊やパチンコ店などの学生に相応しくない娯楽施設への立ち入りも固く禁じます。万引きを初めとした犯罪はもっての外です」
優真は指を折って数える。この30分で8回も同じことを言っている。しかも変な間を置いたり、急に話題を切り替えたりと話の方向性がよく分からない。ただでさえ面白味なんて皆無の中身もすっからかんの話くせに、要領の得ないとなるとテレビの砂嵐を30分聞いていた方がマシに思えてくる。
やっぱりサボりに徹して良かった、と優真はつくづく思った。こんなのをあの密集地帯で長時間立たされたまま聞かされたなら、今頃床に思いっきり頭を打ち付けてぶっ倒れている自身がある。
──なんて、言っている傍から、優真の見ている前で一人の女子生徒が糸の切れた人形のように床に落ちた。
ドゴン、という重いものが落ちる激しい音が聞こえ、場がざわめいた。校長の話も一度止まり、すぐさま脇から保健医を含めた数人の教師が女子生徒の元へ殺到する。ここからはあまりはっきりとは見えなかったが、女子生徒が真っ青な顔をして気を失っているようだ、というのは確認できた。
担架に乗せられて保健室へと運ばれていく女子生徒。しばらくザワザワと波のように揺れていた体育館だったが、校長がマイク越しに咳払いをするとピタリと静まり返る。
そして、校長は信じられないことにこう続けた。
「──はい。少しアクシデントがありましたが、話を続けようと思います」
咳払いの後に飛んできたそんな声に、優真は思わず大声で『まだ続けるのかよ!?』とツッコミたくなった。
微かにだが、足元の生徒達からも『まだかよ……』『さすがに長いわ』『死ね』『この脱毛狸親父』などという声が上がっていた。
本当に、今のが良い切り上げ時だったと思う。だって、第1にもう朝会なんてものは終わっているはずの時間だった。30分このくだらない話を聞いていると言ったが、本来朝会は20分。その内の10〜15分が校長が話に取れる時間だった。それが軽く2、3倍にもなっていて、腕時計を確認してみればもう1時限目の授業に突入していた。
さらに本日9度目の同じフレーズが繰り返される。サボりで聞いている身からしても神経を鑢で削られているような気分になるのに、整列させられてこれを聞かされていると思うと、どれだけの苦痛を伴うのか……想像するだけで身の毛もよだつ。
どうして話の引き出しも大してない癖にこんな無謀な挑戦をしよう思ったのだろうか。素直に終わっていれば良かったのだ。きっと阿呆なのだろう。某有名大学を卒業したとか前の朝会の時に自慢げに言っていたが、聞くところによると、そんな有名大学を出たからといって使い物になるかならないかはまた別問題らしいではないか。ならば、きっとこの校長は使い物にならないパターンに違いない。
そもそも、このリピート祭りが教師の生徒達に健全な生活を送ってほしいという純粋な熱意であったとしても、優真は全くの無駄だと思った。自分はそんなことはないが、今くらいの年頃はあからさまに大人に反発したくなる時期でもある。力を込めて言えば言うほど、今回の場合だとむしろ非行に走ってしまうのではないだろうか。
それに、と優真は続ける。今の時期の非行、それと世の中で連日のように報道される犯罪、これらも全て人間の『相変異』の1つなのだから、言葉で止めようとするのは見当違いではないだろうか、と。
どれだけ言葉で制しようとも、罪を犯す人間はどこまでも罪を犯すし、普通の生活を送る人間はどこまでも普通の生活を送るのだ。運命とまでは言わないが、常人と罪人は自分達の年頃になる時には既に決定されていると優真は考えている。
あらゆる犯罪も、あらゆる才能も、全ては中二病の延長線上に存在している、と。
人間というのは無駄に思考と技術に恵まれてしまった。バッタのように生き残るためだけに『相変異』を起こせれば何の問題もなかったのだろうが、人間は包丁を握れば調理と殺人の2つの使い道を思いついてしまう哀れな生き物。『相変異』の方向を統一できないから、平気で同族を殺めるし、命を奪うまでには至らずともくだらない理由で同族を傷つけてしまう。
七夕の短冊を見ると、お約束のように1枚は『世界平和』とデカデカと書かれている短冊を見かけるが、具体的に『世界平和』には何が必要か。武力? 政治? 革命? ……そんなもの全ていらない、と優真は切り捨てる。必要なのはただ一つ、人間の『相変異』の統一。それだけだ、と。
人間の最終的な願望は、一部例外を除けば『生き残りたい』に収束すると優真は考えている。だったら、それだけのために回る人間の社会を作ればいい。人の上にも下にも人を作らず、人の道を1本化させ、同族をただ運命の限り生かすだけのバッタのような世界を。
それが優真の辿り着いた答えだった。
そのために自分は今まで生きてきた。全ては
『おい、そこで何してるんだ』という声が優真の背中にかけられたのは、ようやく教頭が校長に耳打ちで『そろそろ終わりにしてください』なんて事態の重さを報告した頃だった。
振り返れば、そこには生徒指導の教師が真っ赤な顔をして立っていて、
「お前、どこのクラスだ?」
優真は笑って誤魔化す。そして静かに後退して、教師の不意を突いて一目散に逃げ出した。
不味かった。非常に不味かった。この生徒指導は生徒が問題を起こせばすぐに生徒指導室に連れていき、山ほど反省文を書かせるとして生徒達に嫌われていた。話を聞けば、放課後延々と残された生徒もいるというのだから恐ろしい。
残念ながら、優真には放課後居残っている時間なんてない。この生徒指導の教師も面倒だが、優真には敵に回すともっと面倒な女達がいた。そいつらとの約束が今日の放課後にあり、だから学校に残ってなんていられない。
約束をすっぽかせば、優真の命なんて道端の雑草ほどに簡単に散らされるのは目に見えていた。
『待て!』と言われても、犬じゃないんだから素直に従うはずもない。優真はギャラリーに置いてある机やら卓球台やらを乗り越えてあっという間に追ってくる教師に距離を作り、最後にこんなことを言い放って体育館を後にした。
「知ってますか、先生。実は虫って太らないんですよ? 理由は簡単で、虫には全身を覆う外骨格っていうものがあるんですけど、外骨格は広がることがないので一度虫としての形が決まってしまうとそれ以上にはならないらしいです。これはもしもの話ですが、強制的に外骨格の内側の柔らかい部分だけを太らせたとしても、ただ体内を圧迫するだけで、結果的に死んでしまうようですよ。先生も1度虫になってみてはいかがですか?」
追いかけてきたその生徒指導の教師というのがとんでもない肥満体型だったため、思わず口を滑らしてしまった。体育館を飛び出す間際、教師が真っ赤だった顔をさらに茹でたての蟹や蛸みたいに真っ赤に燃やしているのを見て、それでも一応気にしてたんだ、と優真は吹いてしまった。
マスクホッパー 吹雪まふゆ @neon
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