妹 〜現在〜

 無数のダイヤモンドが散りばめられたみたいだった。流れ落ちる水が日光を反射してキラキラと眩しく輝いていた。


 苔やら土埃やら鳥の糞やらが綺麗に洗い落とされていく。気が付けば、そこにあったのは鏡のようにはっきりと風景を映す新品同様の一基の黒い墓石。さっきまでの酷く寂れた様子とは大違いだった。


 空はそこに先の赤く灯った線香を1本手向ける。線香の独特の香りが鼻腔をくすぐる。空は昔からこの匂いが好きだった。


 墓石に向けて手を合わせると、降り注ぐ蝉時雨も遠退いていくような気がした。


 目を瞑る。目の前には『彼』がいた。姿形はすっかり変わってしまったが、『彼』は確かにそこにいる。語りかける。元気だった? と。実際に口には出さない。想いを巡らせる。でも、どれだけ空が言葉を紡ごうが、『彼』は相槌一つ打ってくれない。何を尋ねても、声一つ上げてくれない。そこには大きな沈黙があった。


 あの頃は逆の立場だったね、と。空は続ける。『彼』が語って、空が聞き手に回る。うんざりするくらい聞かされた昆虫の話も、今ではむしろ恋しく思える。そうでなくても話上手だった『彼』。今では物言わぬ石塊。


 時折思い出すんだよ、と。2人で歩いた景色は、今でも空に色濃く『彼』との思い出を蘇らせる。つい最近も、商店街に貼ってあった七夕祭りのチラシで、『彼』とのとある場面が脳裏によぎった。ああ、丁度6年前の記憶だ、と思うと共に、『お兄ちゃん。お兄ちゃんがいなくなってもう6年の月日が流れたんだね……』と、いつの間にか頬を一筋の涙が伝っていた。



 ──数時間前。




 グツグツという食材を鍋で煮込むような音が聞こえた気がした。両耳から頭蓋骨を包むように蜘蛛の巣を張られているような……そんな違和感が空を苛む。煩わしさに、空は唇の裏を噛み締める。いや、思わず力が入ってしまい、噛み切ってしまう。刹那、唇を僅かな痛みが走った。間もなくして口内に鉄錆臭い血の味が広がり、接着剤のように粘ついた温い唾液と混ざり合った。気持ちが悪い。まさに自業自得ではあったが、この不快感に空はさらに苛々を募らせた。


 空は苛々していた。ここまで本格的にムシャクシャするのは久しぶりというくらい、苛々していた。きっと、今日が7月15日だからかもしれない、と空は考える。このうだるような暑さのせいもあるだろうが、きっと今日が7月15日だからこんなにも苛々するのだ、と。


 ああ、まだ思い当たることがあった。さっきからこちらに虚ろな視線を向けてくる窓だ。空の傍らには一枚の窓があった。窓がさっきからずっとこちらに視線を向けたままそれを外さない。しかも、その視線というのが喜怒哀楽のどれも感じない、メッセージ性なんて皆無の中身のないそれだった。ただ見ているだけ、という空が一番嫌いなタイプだった。


 視線の先にあるのが自分なのかどうかは知らない。でも、誰かの視界に自分の姿があるということが空には物凄く腹立たしかった。


 何見てるんだよ? と空は心の中で問いかける。随分と喧嘩腰の口調だった。だけど、窓は気怠げに上体を机上に寝そべらせているだけで、まるでやる気がない。平和主義者なのだろうか。いや、きっと馬鹿にしているのだ。『この暑い中、何勝手に熱くなってるんだよ』なんて上手そうで上手くないことを言いながら。割ってやろうか。


 空は丁度手元にあった筆箱を投げつようと手を伸ばした──が、寸手のところで思い留まった。窓に罪はないと思い直したからだ。だって、そんな視線を向けていたのは、窓ガラスに映った空自身だったのだから。


 窓の中にもう一人自分がいる。全く同じ容姿、姿勢。ただ、窓の中の空は身体の中に人を飼っていた。お腹の辺りでユニフォーム姿の少年達が転がるボールに遊ばれている。校庭を走り回るサッカー部だった。


 クシャっと空は頭を掻いた。すると、窓の中の空も同じようにくすんだ銀髪の頭を掻いた。こちらが手で顔を扇げばやはり同じように向こうも手で顔を扇ぐし、こちらが欠伸をすれば向こうも欠伸をする。真似するなよ。そんなこと言ったって仕方ないでしょ、と言い返された気がした。何だと!? とはならない。その前に、今自分がやっていることが不毛な行為であったと気付いたからだ。


 何やってるんだろう、と空は思う。空はこれ以上思考を惑わされないように、静かに窓から顔を背けた。逃げてやんの、という声には敢えて反応しないでおく。煽られてそれでまた口返せば、相手の思うつぼだと分かっていたからだ。それで今までどれだけ酷い目に遭ってきたことか、空は身を以て知っている。


 しばらく無視していると、声は舌打ちだけ残して消える。明後日の方向へと向けていた顔を少しだけ窓へと戻してみれば、そこには相変わらずもう一人の自分がいたが、もう声も聞こえなかったし、何よりこちらへの興味が失せているような気がした。


 これで苛々の種が1つ減ったわけだが、こうなると逆に寂しい気がした。今まで邪魔だとか嫌だとか思っていたものが、突然なくなるとむしろ恋しくなってしまう、あの衝動だ。空はその衝動をよく知っている。毎日のようにそんな衝動に駆られていれば、嫌でも知ることになる。


 ついに寂しさに耐えかねた空は『ねえ』と窓に話しかけてみる。しかし、窓は返事をしない。ぼんやりと教室の、空の向こう側を見つめたまま、さっきの仕返しと言わんばかりにシカトをこいていた。


 今度は空が舌打ちをする番だった。興味を持たれたら持たれたで苛々する。でも、その興味を持たれなくなったら持たれなくなったで苛々する。1つ苛々去ってまた苛々。我ながら面倒臭い女だと思う。これだから18年も彼氏が出来ないんだ。自分が男でもこんな女選ばない、と言ったところで空は涙目になった。自分で言っておいてあれだが、何だか凄く悲しくなった。自分で言って自分で傷ついていれば世話がない。こんな風に、おまけに情緒不安定とくればそれは恋愛なんて上手く行くはずなんてないのだ。


 そんな空にまるで追い打ちをかけるかのように、周囲から憎きリア充達の楽しそうな声が聞こえる。明日彼氏と海にいくとか、これから彼氏と一緒に浴衣を見に行くとか、今度彼氏と東京に旅行に行くとか、全ての一言が空の心にグサグサと突き刺さり、さらに刺さるだけでは留まらず抉りとっていく。……全員散れ。


 これだから7月15日は嫌なんだ、と空は深くため息をついた。


 今日が空の通う高校の1学期の終業式で、さらにそのため今日は午前授業で、さらにさらに明日から楽しい夏休みだ、と言われたところで、空は嬉しくもなんともない。今日が7月15日だからだ。今日が7月15日でなければ、空だってもう少し楽しい終業式を迎えられたはずだった。今のようにリア充への対抗心は燃やしながらも、それでもこんな憂鬱な気分にはならなかったはずだ。夏の暑さだって『下着姿で終業式出るかー』くらいの気力で乗り越えられたはずだ。


 それを全て台なしにしたのが7月15日。


 1年の中からこの日だけなくなってしまえば良いのに、と本気で思う。同時に、空は自分はいつまで教室ここにいるのだろう、と思った。


 終業式を終え、とっくに帰りのホームルームは終わっていた。生徒達に弄られまくっていた担任もいつの間にかいなくなり、さっきまではお祭り騒ぎだった教室も、人がいなくなっていく度に静まり返っていく。


 今日はもうどうしようが自由。真っ直ぐ家に帰ろうが、どこかへ遊びに行こうが、自由だった。ただ、ほとんどの生徒は真昼間から学校という呪縛から解放される午前授業の興奮に市内を調子に乗って遊び回るだろう、と空は考えていた。もちろん、空だって今日が7月15日でなければ友人達と一緒にそうするつもりだった。でも、断った。昨日から明日終業式が終わったら遊ぼうと誘われていたが、乗り気になれなかった。言わずもがな、明日が7月15日だと分かっていたからだ。きっと、今頃友人達は夏休み前の景気づけにカラオケにでも行って馬鹿騒ぎしているのだろう。空の心をズタボロにしたリア充達ももういない。彼女達も出ていく時にプリやら何やらということを言っていたから、多分どこかへ遊びに行ったのだろう。


 ついに教室には空とその他ボッチ勢だけが残るだけとなった。


 そろそろ帰るか、と空も重たい腰を上げる。流石に、何だか分厚い本を読む読書家やら黙々と漫画を描くオタクやら夏休みの宿題に早速取りかかるガリ勉くんやら、ボッチ勢に混じって教室にいるのは勇気が要った。そしてそんな勇気は空にはなかった。それに、今日は7月15日……こんなことをしている暇はないはずだった。


 空は机の横にかけていたスクールバッグを背負う。勉強道具も何も入っていない、すっからかんのスクールバッグだ。今日は午前授業で、しかも終業式のため、当然授業はない。まあ、普段から勉強道具なんて滅多に入れてこないのだが。


 空はそのまま教室から出る。ボッチ勢にバイバイの挨拶は交わさない。ボッチ勢も自分の作業に没頭していて、こちらには一切の興味も示さなかった。


 廊下は灼熱地獄だった。教室も大概だが、こちらはもっと酷い。どうしてこの学校は冷房設備がこんなにも弱いのだろうか、と空は毎年のように思う。確か、クーラーがあるのは職員室と音楽室だけだった気がする。無駄にあらゆる教室に暖房だけは置いている癖に……。これが本州最北端クオリティーだよね、と空はそう自分に言い聞かせて諦めておくことにする。どうせこの学校で迎える夏も今年で最後なのだから。


 ただ、そうは言い聞かせてもこの暑さは明らかに許容範囲を超えていた。全身汗だくで、下着の透けたブラウスがべったりと身体に張り付いている。ブラとパンツの中も洪水状態で、ふと空は自身の秘部ががふやけているのを想像し、『塩アワビいっちょ上がり』なんて下ネタを思いつく。でも、不便なことに披露できる相手が近くにおらず、思いついた渾身の下ネタは未消化のまま空の頭の中をグルグルと回り続けることとなった。


 校舎から出ると強烈な陽射しが肌を焼いた。確かに教室でも太陽の光は浴びていたが、直射日光はその比にならないくらいジリジリと空の制服から露出した腕やら太股やら顔やらを焼いていく。『焼く』という表現が次に屋内に入るまでにまだ比喩である自信を持てなかった。冗談でなく、そろそろ焦げるのでは? と空は思った。お肉の焼ける良い匂いがしてきてもおかしくはなかった。


 足元のアスファルトからは熱気が上がってきていて、こちらも際限なく空の体力を奪っていく。熱々の鉄板の上を転がされているような気分だった。空はヨロヨロと覚束ない足取りで校門を通過した。


 校舎を出て3分弱。この僅かな時間で、ただでさえ大量の汗に沈んだ空の身体は、さらに全身から吹き出した汗に塗れていた。いくら空が昔から代謝が良いとはいえ、この量は異常ではないだろうかと思う。いや、そもそも青森県でこの気温が異常ではないかと思った。何年か前まではこんなに暑くなかったはずだ。こうなったのもここ最近だろう。


 これが異常気象か、と空はその言葉が海の向こうのものであると思っていた頃をふと懐かしんだ。小学生くらいの時か。あの頃は『異常気象=南極の氷が溶ける』みたいな認識でしかなったが、こう成長してみるとなかなかの現実味と危機感を覚えるものだ。そういえば、今朝のニュースではこの異常気象のせいで今日から数日は各地でゲリラ豪雨が多発するとかやっていた。今年は随分と全国で大雨被害が多い。小さい頃の空に言わせれば、『神様ションベン漏らしすぎだろ』だ。

 

 学校からしばらく行くと、市内の中心街に辿り着く。空の住む八戸市内でも、車にせよ人にせよ、一際交通量の多い地域だ。本来なら、今みたいな平日の昼間はおじいちゃんおばあちゃんや昼休み中のスーツ姿のサラリーマン、近くのデパートの店員さんが歩行者のほとんどを占めているが、やはり今日は終業式効果があってか、制服姿の学生が多く見られた。


 空が歩道を歩いていると、近くのデパートからさっきのクラスメイトのリア充達が出てくるのを見かける。この中心街でも多く若者の客足を集めるオレンジを基調としたデパートだ。リア充達がそれぞれ腕に青い袋を提げているところを見ると、きっとそのデパートの4階にある某アニメ・漫画の専門店にでも行ってきたのだろう。となると、教室を出ていく時に話していたプリは6階のゲームコーナーにでも行って撮ったに違いない。空の知る限りでは、あそこのプリクラの機種や台数は市内でも随一だ。空もよくあそこで友人達とプリを撮っている。


 空はリア充達とすれ違うも、気付かないフリをしてやり過ごす。クラスメイトだが、彼女達とはあまり面識はないし、何より向こうがこちらに気付いている様子はなかった。そして彼女達と入れ違う形で空は彼女達が出てきたデパートへと入った。


 デパート内は外以上に学生で溢れ返っていた。やはりここにも午前授業効果が出ていた。クーラーが効いているはずなのに全く涼しくない。人口密度が高すぎて見ているだけでも暑苦しい。特に映画の予告を流し続けるモニター下の、エレベーターホール前の野球部員と思われる坊主の集団から放たれる熱気は凄まじいものがあった。あそこだけ周囲より温度が2、3℃高いように思える。


 そんな混雑具合は空がいつも愛用している1階のカフェも同じだった。このデパートの1階には小さなカフェがあり、空は普段から学校帰りにそこで暇を潰すのだが、今日はいつにも増して人が入っていた。丁度お昼時ということもあるからだろう。ほとんどの席が埋め尽くされているのが分かる。店員さんがあっちこっちと忙しなく動いていた。


 そんな中にさらに自分が入っていくのは何だか物凄く躊躇われた。店員さんの手をこれ以上煩わせたくないというのと、この小さな店内にこれだけ人がパンパンに詰まっていれば、むしろ気持ちとして入りたくなくなる。


 せっかくここまで来ておいてあれだが、空は静かに回れ右をして引き返すことにする。となると、どこか他に時間を潰せる場所を探さなければならないのだが、この比較的マイナーなカフェですらこの有様なのだから、近くの大手のファストフード店は地獄絵図だろう、と空は考える。そこで、このデパートの6階にはゲームコーナーの他に飲食店も軒を連ねていたはずだ、と空は思い出すが、やめた。向こうもきっとお昼時でてんてこ舞いになっているに違いないと判断したからだ。それに、ゲームコーナーの学生の溢れ具合は容易に想像できたし、プリ機の前ではしゃぐリア充達と顔を合わせたくはなかった。


 その時、空の横を手を繋いだ若い学生カップルが通り過ぎる。カップルは2人で笑い合いながら、『これからはたくんの部屋に行ってもいい?』『う、空穂うつぼちゃんが、ぼ、僕の部屋に……!? も、もちろんだよ! でも、だいぶ散らかってるよ……?』『大丈夫。私が綺麗に片付けてアゲルから。私、掃除得意なんだ』なんて会話を交わしていた。


 空はデパートから出ていく2人の背中を見送りながら、チッと1つ舌打ちを鳴らした。これだから7月15日は嫌なんだ、と。どいつもこいつも盛やがって。そして空はふとデパートの天井を見上げる。白い、何の変哲もない天井だ。さらにその上を空は想像した。


 2階、3階の衣服を売るフロア……4階のアニメ・漫画のフロア……ああ、そういえば5階には映画館なんてものもあったな、と。そこに、これからチョコレートにさらに水飴をかけたみたいな甘ったるいラブコメ映画を観ようとキャラメルポップコーンを買うリア充共が群れていると思うと、胸焼けを通り越して吐き気がした。


 やっぱり上へ行くのはやめておこうと思う。だが、そうは言ってもバスの時間まではまだまだある。店内の時計を確認すると、まだ30分近く時間があった。しかし、潰せない時間でもないと空は考え、偶然空いていた手前のベンチに座った。


 ぼんやりと座っていると、目の前を分厚い化粧を施した歩きスマホの女子高生が通った。女子高生は完全に手元に意識を集中させ、あとは感覚だけで歩いているらしく、危なっかしい足取りで歩行者や看板にぶつかりそうになりながらフラフラとどこかへ消えていった。そこで、空は自分が今日ほとんどスマホに触れていないことに気が付いた。そうだ、スリープモードを解除した時に画面に表示される7月15日が嫌で電源を切ってスクールバッグの底の方へ封印していたのだった。


 空はスクールバッグから自身のスマホを取り出す。空色のケースに入った、バッタのストラップのぶら下がったそれだ。電源ボタンを長押しして電源を入れると、それまで溜まっていた通知が鬼のように流れ込んできた。ほとんどが入れているアプリからの通知で、漫画のアプリからは『新しい話が公開されました』や絵描きのアプリからは『新しいVer.が公開されました』など、内容は様々だった。そんな中、とあるSNSからの通知が空の目を引いた。緑色のアイコンにアルファベットの文字が浮かんだスマートフォンユーザーならほとんどの人が入れている、極めてポピュラーなSNSアプリだった。


『これからご飯行かない? 今日は学校早いんでしょ?』スタンプと共に送られてきていた、吹き出しに入ったそんな文面。差出人は母親だった。ついさっき送られてきたものらしかった。


 その瞬間、空の表情がはっきりとした嫌悪に歪んだ。今日何度目かの舌打ちを鳴らすが、今回のは一際大きく、力が込められているように思えた。


 メッセージを開封するも、空はそのまま無視する。向こうに既読無視は伝わったはずだが、気にならない。悪いという気持ちにはならなかった。

 

 白々しい、と空は吐き捨てる。今更良い母親ぶりやがって……。何が『ご飯に行かない?』だ。どうせ適当な高級レストランにでも連れていけば娘の機嫌なんて簡単に取れるとでも思っているのだろう。きっと、母親アイツは空の食べ物の好みなんて一番好きなものですら言えないに違いない。昔から仕事仕事仕事で滅多に一緒に食卓を囲むこともなかったのだ、当然だろう。


 空はまるで八つ当たりのように一目散に再びスマホの電源を落とした。それをスクールバッグに投げ入れると、そうこうしているうちにそろそろバスの時間だった。授業だと無限にも思えるくらい長い30分だが、スマホを弄っていると本当に一瞬で終わってしまう。


 ベンチから立ち上がり、停留所へと急いだ。辿り着くともうバスは来ていて、ここにも学生が溢れていたが、空の乗るバスは比較的空いていた。


 それはそうだろう、と空は思った。空が乗り込むバスは午前授業で自由になった学生達が乗るような、そんな行き先のバスではないのだから。それでも空以外に学生は全くいないわけではなく、『幡くんの家って遠いの?』なんて若干聞き覚えのある声が聞こえたと思って少しだけ後方を振り返ってみれば、空の座ったすぐ後ろの座席に、さっきデパートですれ違った手繋ぎカップルがいた。


 げっ、と思わず言ってしまう。カップルは人目も気にせずバスの中でイチャつきまくっていて、彼女の方は彼氏の腕に蛇みたいに巻きついて胴体を妖艶にくねらせていて、彼氏はまんざらでもない顔でニヤニヤと冴えない笑みを浮かべていた。


 空はゆっくりと顔を前に戻し、窓の外を見つめた。蟻の行列みたいに色とりどりの車がバスのすぐ横を通り過ぎていく。


 ここから後ろの2人の惚気をBGMにしなければならないと思うと、嫌気が差した。もしかしたら次のバス停辺りで降りてくれるかも、という僅かな希望に縋ってもみるが、『幡くんの家って遠いの?』『うん、結構ね。ここからだいぶバス停過ぎるよ』という神も仏もない彼氏の一言で無慈悲にそんな希望は打ち砕かれる。


 次のバスにしようか、と空は考える。このバスはやめて、次のバスに乗り込もう、と。今日はまだ時間があるし、あと1、2時間暇を潰せばすぐに次のバスが来る。確かにこんなリア充だらけのアウェイで時間を潰すのはそれはそれで修羅の道だが、興味もない他人の惚気を至近距離で延々と聞かされるのとどっちが良いと問われれば、辛くも前者に手を伸ばしてしまう自分がいる。


 よし、ここは一旦退いて降りよう、と空が座席から立ち上がったところで、プシューという何やら空気の抜けるような音が聞こえた。それがバスの扉が閉まる音だと気付いた時、バスは空を乗せたままゆっくりと動き出した。


 バスの揺れで空の身体は投げ捨てられるように座席に引き戻され、嘘でしょ……? という空の最後の現実逃避という悪足掻きにトドメを刺すように、背後から『幡くん、私……処女なんだ』という糞どうでもいいカミングアウトが聞こえてきた。


 これだから7月15日は嫌なんだ。

 

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