マスクホッパー

吹雪まふゆ

妹 〜6年前〜

『サバクトビバッタ』という昆虫がいる。


 他にも『サバクワタリバッタ』だとか『サバクバッタ』だとか、『エジプトツチイナゴ』だとか呼ばれている、名前から分かる通りバッタの仲間だ。体長はオスなら40~50mm程度、メスなら50~60mm程度。時々大量発生してみれば周辺の農作物に多大な被害を与える害虫の一種としても知られる。その被害は時に蝗害と呼ばれる一部のバッタ類特有の災害にまで昇華する事もあり、中国では災害を通り越して『蝗災』という天災としても恐れられている。ただし、中国では『サバクトビバッタ』ではなく凶暴化した『トノサマバッタ』が原因だが。中国には蝗害についての記録が非常に多く、それ専門の資料も同じように多い。中には戦争を1つ止めたという話もあるくらいだ。


 ──これらは全て、そらの頭の中にある知識だった。個体の名前から具体的な数値まで、しっかりと事細かに覚えている。だが、別に空は昆虫が好きなわけではなかった。むしろ生物の中では嫌いな部類に入る。特にバッタなんて最悪だ。どうしてあんなにも跳ねるのか。草むらに踏み込んだ瞬間、そこら中のバッタというバッタが一斉に跳び上がるシーンは、もはや恐怖映像でしかない。恐らく、下手なホラー映画を見せられるより激しい悲鳴を上げるだろう。だから、空にとってこんな知識を有しているのは不本意でしかなかった。誰が覚えていたくてこんなことを覚えていなくちゃならないのだ。では、何故そんなに詳しいのか、と問われれば、答えはたった1つしかない。


「知ってるかい、空。ゴキブリは頭を潰されても、しばらくは生き続けるんだよ」


 目の前で、椅子に腰かけてそう語るのは兄だった。空の、4つ歳上の兄だ。空の記憶によれば、兄がこういう話をする時は、大抵右の人差し指をピンと立てて、身体をモグラ叩きのモグラのように椅子から大きく前に乗り出している。今だってそうだ。窓から射し込む夕日が、そんな兄の姿を鮮やかな橙に照らしていた。


「へー」


 そう冷めた返事をするのは空。空は兄の足元で絨毯の上に体育座りをして、そこから頭上で言葉を紡ぐ兄を見上げていた。これ以上ないほどの冷めた目で見上げていた。その双眸が語るのは、『興味がない』のただ一言。


 そんな空の心情や様子など意にも介さず、兄は話を続ける。


「ゴキブリっていうのは胸にも脳があってだね、だから頭を潰されただけじゃ死なないんだ。しかも、その時の生命力も半端じゃなくてだね、頭を潰されたゴキブリだっていずれ死ぬことにはなるけど、じゃあその死因は何だと思う?」


「さあ」


「……餓死だよ、餓死。頭がないから、餌が食べられない。だから餓死するんだ。驚いたでしょ? 頭が潰されて弱って死ぬんじゃなくて、頭がなくてそのせいで餌が食べられなくて弱って死ぬんだ。そう、頭がないことなんて二の次なんだよ。だから、もしも頭がない状態でも、ゴキブリは餌さえ食べられれば、その状態で普通に生き続けられるってことになるんだ。凄いと思わないか?」


「うん、そうだね」


 いつまで続くのだろう、と。空は思う。ただ、そう思う反面、こうなったら最後、兄がもう止まらないということは分かっていた。


 兄は大の昆虫好きである。趣味で読む本は昆虫図鑑か昆虫に関する本ばかり、たまにはエッチなサイトでも見ているのだろうと思い、前にこっそり部屋にあるパソコンの履歴を辿ったことがあるが、出てくるのはやはり昆虫のことばかりだった。年頃の男の子がこんな感じで良いのだろうかと逆に心配になってしまうが、それを実際に口に出すと『空はませすぎなんだよ』と逆にからかわれそうなので、心の内に留めておくだけにしておく。


 兄はこうやって一度スイッチが入ってしまうと、ご飯時か寝るその時まで、学校に行くとかお客さんが来るとかそういう大切な用事がない限りは、延々と昆虫についてのうんちくを語り続ける。


 だから、日常生活を営む上で、兄の前で昆虫に関係する話題を出すことはタブーだった。……のだが、今日のは完全に空のミスだった。いつもは、偶然軒下に大きな蜘蛛の巣を見つけてしまったとか、偶然足元に長大な蟻の行列を見つけてしまったとか、そういう自然の成り行きで兄のスイッチはオンになるのだが、今日に関して言えば、わざわざ空自身が無用に兄のそのスイッチをオンにしてしまった。


 それは、つい数分前のこと。明日から始まるテスト週間を前に、日曜日だというのに、兄は大好きな特撮番組を見るのも我慢して録画するだけに留め、友達からの遊びの誘いも断り、朝から自分の部屋に勉強のために籠っていた。そこへ、空は差し入れとして、夕方になって、夕食前の小腹満たしに簡単なお菓子を兄に運んできたのだが、


『お兄ちゃん、テスト勉強お疲れ様。ホットケーキ作ったから一緒に食べよ?』


『おお、ありがとう、空。うん、僕も今休憩しようと思ってたとこだったから、丁度良かったよ』


 そこまでは何の問題もなかった。空は兄の机の上に自分と兄の分のホットケーキとドリンクを置き、兄は空の分の椅子を用意しようと立ち上がる。本来ならば、ここから2人は適当な会話をしながら少しお茶をするだけで終わるはずだった。空は部屋から出ていき、兄は再びテスト勉強に精を入れるはずだった。次のやり取りと、あの一言さえなければ。


 空はトレーの上からホットケーキとドリンクを机の上の教科書やらノートやら筆記用具やらのない、空いているスペースに移動させながら、散らかった兄の部屋を見る。ベッドは派手にシーツが捲られていて、毛布はまるで誰かが眠っているかのようにこんもりと盛り上がっている。枕なんてベッドから無残にも落とさて、遥か遠くへ飛ばされていた。


 本棚からは様々な種類の昆虫図鑑が落ちている。辛うじて本棚に留まっているものも斜めだったり上下逆さまだったりして詰められていて、随分と煩雑にしまわれていた。床も昆虫のフィギュアやらその他ガラクタでグチャグチャで、恐らくあの倒れてるカラーボックスの中身が全てばら蒔かれたのだろう。


 素直に汚いと思った。お世辞でも綺麗にしているとは言えない。兄は前からこんなにも整理整頓のできない性格だっただろうか? 空は別に母親のような小言をこぼすつもりはなかったが、思わずこう言ってしまう。


『ねえ、勉強する前に掃除すれば……? よくこんな環境で集中して勉強できるね』


 兄はそれに対して、『やっぱりそう思う? ごめんごめん、しばらく片付けてなかったせいで知らない間にこんなに散らかっちゃって……』兄は空の分の椅子を取り出すのに何か手間取っているのか、押し入れの中に上半身を突っ込んだままお尻で会話している。


 しばらく片付けていないと今言ったが、これはどう見たってしばらくでどうこうなるような惨状ではない。いくら片付けのできない人間でも、自分が日常的に使うものくらいは把握して別の場所に置いておくものだ。そう考えると、倒れたカラーボックスの下敷きになっている携帯電話は一体どうしたのだろうか? 折り畳みがおかしな方向に曲がりそうな勢いなのだが。


 それに、空はつい最近もこの兄の部屋を訪れていた。先週だったか。その時はまだこんな風にはなっていなかった。


『一体、何をどうしたらこうなるの……? 朝からお兄ちゃんの部屋から何か凄い物音聞こえてたけど……まさか、また変な動物でも連れ込んでるんじゃないよね?』


 その線はあった。前科があったからだ。


 前に、兄が家の中に犬を連れ込んだことがあった。大型の、名前は忘れたが、とにかく凶暴な犬だった。ある日、空が家に帰ると兄が何か巨大な生物と戯れてて、いや、あれは戯れるというか完全に殺り合っているようにしか見えなかった。だって、あの時の犬の表情……目を血走らせて、鋭い牙の列を剥き出しにして、口元を震わせていて、完璧に獲物を狩る狩人然としていた。唸り声も凄まじかった。地獄の底から響いてくるような、地鳴りのようなそれだった。そして、アレを相手にして『まったくポチはやんちゃだなー』なんて笑う兄を見た時は、この人はもうダメなのかもしれないと空は切実に思った。


 結局、兄があの怪物を一体どこから連れてきて、あの後どうなったかは知らない。空が愛想を尽かせて家の中でテレビを見ているうちに煙のようにどこかへ消えてしまっていた。


 まさかあんな危険なものを近所に放ったのでは、と若干心配になった空だったが、兄がそこまでの常識知らずなわけがなく、近所でも特に騒ぎにもならなかったため、今頃きっと誰か屈強な戦士が面倒を見ているに違いない。


 空は身構えた。あの時は庭だったからいいものの、今度は家の中だ。そして今、この部屋にいるかもしれない。どこから襲ってくる? と勝手に戦闘態勢に入っていた空だったが、この予想は見事に外れることになる。


『違う違う。ほら、そこにラジコン飛行機があるだろう? 今みたいな小休憩の時に、気晴らしに部屋の中で遊んでたんだよ』


 ようやく押し入れの中から顔を出した兄は、どうやら目的の椅子は押し入れの中にはなかったようで『どこ行ったかなぁ……』と首を捻りながら、仕方ないとガラクタに塗れた床に座るためのスペースを作っていた。


 そう言いながら兄の指差す先には、確かに一台のラジコン飛行機が転がっていた。機体の船首に鮫の顔がペイントされた小型のラジコン飛行機で、これで遊んでいたということは部屋の中でこれを飛ばしていたわけであって、部屋の中で飛ばすとどうなるかというと……嫌な予感がして部屋を見回せば、あちこちの壁や床、天井に前来た時にはなかった切り傷や焼け焦げたような穴があった。


 空は可哀想なものを見るような視線を兄へと投げる。


『ねえ、お兄ちゃんは馬鹿なの?』


『いやいやいや、本当だったらもう少し華麗に飛ばす予定だったんだって! でもさ、もうすっかり腕が鈍っちゃっててさ……てへっ☆』


『……』


『すいませんでした』


 妹に向かって土下座する兄ってどうなのだろうか。それよりも、よくあのラジコン飛行機が動いたな、と思った。確か、あれは空も兄もまだ小さい頃に遊んでいたもので、随分と昔のものだ。あの頃の白さはどこへやら、黄色く変色した見た目からも年季が感じられる。


『まあ、お兄ちゃんの部屋なんだからお兄ちゃんが勝手にやれば良いとは思うけど。とりあえず、妹を招いても恥ずかしくないくらいにはしておいてよね』


『はい』


 今考えても、やっぱり自分は馬鹿だったと空は思う。できることなら、この瞬間にタイムスリップして、この時の自分を殴りたい。どうして、自分はこの後に余計な一言を付け足してしまったのだろうか?


『こんな部屋じゃゴキブリが湧くよ。私、そんな部屋に入るのは絶対嫌だから。そうなったら、もう絶対にお兄ちゃんにホットケーキなんて運んでこないから…………あ』


 気がついた時にはもう遅かった。


 その時、空は兄の目がこれでもかと輝くのを見た。『はい、ごめんなさい』と兄が頭を下げたのも束の間、『空、ゴキブリといえばちょっと面白い話があってさ』


 そして今に至る。


 一体、テスト勉強とやらはどこへ行ったのだろうか? 可哀想に、机の上に開かれたノートは、簡単な数式を少しだけ広い紙面の片隅に書き殴られたまま、すっかり放置されてしまっていて、チラリと横目で時計を見てみれば、空の頭の中にあった小休憩なんてすっかり終わってしまっている。


 兄の話が終わる気配は……。


「そうだ空、ついでだからシロアリについても聞かせてあげるよ。知ってるかい、シロアリは名前に『アリ』ってつくけど、実は蟻じゃなくてゴキブリの仲間なんだ。まさかと思うかもしれないけど、生態的には確かに蟻よりもゴキブリに近い部分が多いんだよ」


 この通り、ない。


 そう。これこそが空の頭の中に巣食う忌まわしき知識の元凶だった。


 勉強と同じだ。いくら苦手な教科であろうが、嫌いな教科であろうが、回をこなせば自ずと能力は身についていくもの。小学校1年生の時に苦手だった引き算も、中学校1年生にでもなればできて当然になり、算数が嫌いな人だって結局は数学の問題が解けるようになる。だから、これだけ長い間繰り返し繰り返し語られれば、いくら嫌いな昆虫の話だってしっかり覚えてしまうのだ。このゴキブリの話はこれで聞いたのは5回目くらいだ。こうやってシロアリの話に飛んだのはそのうち3回くらい。ただ、それでもまだ軽い方で、あの『サバクトビバッタ』の話となると20回以上は聞いている。兄は昆虫の中で最もバッタを愛していて、兄の話でバッタの登場率はダントツに高い。多分、今頃録画されてDVDの中で兄に観られる時を待っているであろう、あの子ども向け特撮番組の影響だとは思うが……。


 どんどん時間が過ぎてゆく。窓を見れば、兄を照らしていた夕日もいつの間にか町並みの彼方へと沈み、夕焼け空は星空へと変わりつつあった。せっかく作ったホットケーキも冷めてしまっているだろう。


 本当にうんざりする。別に兄のことは嫌いじゃない、というより、親が親だけに兄は空にとっては家族と呼べる唯一の存在であって、、むしろ好き、大好き、好意だけで兄への気持ちを表すにはもったいないくらい好きだが、こうして自分勝手に自分の趣味の世界に妹を巻き込むのだけは本当にやめてほしい。まあ、それも空が悪いといえば悪いのだが。昔から空は、兄をガッカリさせないようにとあたかも兄の話を聞くのが大好きなような素振りを見せてきた。恐らく、兄は空が虫嫌いなことすら知らないだろう。


 兄に悪気はない。それだけに、空は兄にこれからは昆虫の話をしないでくれなんて、尚更言い難かった。だったら、一生我慢して耳を傾け続ける? ……多分、無理だ。絶対にいつか我慢の限界が来て、爆発してしまうだろう。その時、もしも兄を傷つけてしまったら……空にとっては、それが一番怖かった。


「でも、害虫として忌み嫌われているシロアリだけど、彼らは自然界にはなくてはならない存在なんだよ。自然界では彼らが枯木や落ち葉を食べてくれることで、それらを他の一般の動植物が再利用可能な資源に変えてくれてるんだから。彼らが生態系を維持する上で大きな役割を担っていると言っても過言ではないね」


 まだまだ話の長くなりそうな兄を見詰めながら、空は思う。多分、自分がこの兄の話から解放される日が来るのなら、それは自分がこの家から出ていくその時だろう、と。そしてそれは、恐らく限りなく近い未来だろう、と。


 空はこの家に長居するつもりはなかった。と一緒に住み続けるなんて、真っ平ごめんだった。そうなるくらいなら、自ら舌を噛み切って自殺でもして死んだ方がマシだ。まあ、あくまで最終手段だが。それまでは駆け落ちするなり海外へ飛ぶなり色々試してみるつもりだ。


 自殺。その言葉に、空は寄生した虫の脳を操って自殺させる寄生虫の話を思い出した。確か、ハリガネムシとかいうカマキリに寄生する寄生虫だったか……と、そこまで思考を巡らせて、思わず空は頭を抱えてしまう。


 嫌いなはずなのに。兄の話なんて、覚えておく必要も価値もないはずなのに……そのはずなのに、こうして僅かな日常的な言葉で自然と頭の中にある知識を思い浮かべてしまうくらい、どうやら自分は重症らしい。


 このまま何年も何年もこうして兄の話を聞き続けてしまったら、自分の脳みそが虫漬けになってしまうのでは……。そう思うとゾッとする。可能性は十分ある。


 一刻も早く家を出なければ。中学を卒業したらそのまま高校に行かず嫁入りしても良いな、なんてことを割と本気で考え始める空だった。その時はデキ婚にしてやろう。ちなみに、これはそもそも今まで生きていて1度の恋愛経験すらない、彼氏いない歴12年の考える小学校6年生、来年から女子中学生になる少女の可哀想な妄想だということを忘れてはならない。


 つまり、結果的にそんな夢は叶わなかった、ということだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る