第18話 ドラゴンフライ

 うたた寝のはずが、物凄い倦怠感。壮大な夢を見ていたような気はするが、思い出せない。ベランダから射す西日のせいで、室内に熱気がこもる。窓を開けているはずなのに、暑さで気だるい。

 寝返りを打つと、どこからか食べ物の匂いがする。体を起こし、匂いのもとを探すと、机上に紙袋があった。袋に印刷されたロゴからして中華料理か? 

 起き上がって袋を覗きこむと、ふやけた白い紙箱が入っている。触ると、まだ温かい。開けると、揚げ饅頭が一個だけ入っていた。

 母が置いて行ったのだろう。一個しか残っていないのが何よりの証拠だ。母が僕に少量しかよこさないときは、決まって高価な食べ物を頂いたときだ。母はそういうときに限って僕を子ども扱いし、『まだ早い。大人になってから』と躾ける。

 こうした経緯から、この『揚げ饅頭』が旨いことは察しがつくが、食べてみると、やっぱり旨い。気分が上がる。お茶が欲しくなって、自室を出ようとしたところで、頭を抱えるほどの激痛に襲われた。痛くて七転八倒する。その最中、さっき見た夢が少しずつ思い出されていく。断片的な記憶がフィルムのように繋がって、ある物語を形成していく。その物語を理解し終えたころには頭痛も治まり、僕は自分が何者であるかを思い出した。

 戻ってきたのだ。部屋を見渡すと、部屋中に段ボールが散らばっている。携帯を探し、日付を確認すると、今日は引越しの前日だった。

 時空の再選択に成功したのだ。これで久美子さんに会える。嬉しくて、拳を突き上げ歌う。久美子さんが泣きながら褒めてくれた、あの歌を。その勢いで階段をかけおり、リビングに行く。台所では、母が発泡酒片手に『てんぷら』を揚げていた。僕はグラスに麦茶を注ぎ、「かんぱーい、引越しバンザーイ」と言いながら、母に向かってグラスを掲げた。

 夕飯の最中も僕のテンションは上がりっぱなしで、食欲も増進し、ご飯を三杯おかわりした。僕の食べっぷりと言動を、両親は訝しがっていたけれど。僕はどこ吹く風で、「明日は早めに家を出る」と告げ、「手土産は用意した?」と母に尋ねた。母はいよいよ心配になったようで、「どうしたの?そんなに前向きだったけ?」と聞く。

「心配することなんてない。ノープロブレム!ノーサンキュー」

 時空の再選択に成功した僕は、これまで経験したことのない高揚感に包まれていた。感極まって、スタンディングオベーションさながらに立ち上がり、「ブラボーブラボー」と叫んだ。僕のテンションの高さに、両親は唖然としていた。


 予定より二時間早く家を出たせいで、母屋を訪ねても英子さんは留守だった。

とりあえず。今できることをして、時間を潰そう。あの日、英子さんに言われた通り、八番の区画に車を停め、荷卸を開始した。あの日と同じように階段下に荷物を運ぶ。そういや、あのとき。征二君と一悶着あったっけ。同じことを繰り返さないためにも、挨拶がてら征二君の部屋を訪ねようか迷っていると、母屋から車のエンジン音が聞こえた。

 荷卸しを中断し、母屋を訪ねると。英子さんは玄関の施錠を解き、室内に入ろうとしていた。僕は英子さんの背中に向かって「おはようございます」と声をかけるが、英子さんは振り返っても返事をしない。キョトンとしている。

「大垣です。鍵を貰いに来ました。これは両親からです」

 英子さんは「ありがとう」と言いながら土産を受け受け取るが、どこかぎこちない。

「大垣君だよね?内見のときと雰囲気が違うから、誰か分からなかったわ。ダイエットでもした?」

「そういうわけではないんですけど。なんというか、この寮のおかげです」

 

 その後、英子さんから駐輪場のマナーを教わり、世間話も少々した。それでも早めに実家を出たおかげで、雨が降る前に荷卸しと搬入も終わった。その勢いで軽トラを返却しに向かう。手続きを済まし、レンタカー店を出ると、さっそく雨が降り出す。一年前の記憶を踏まえ、傘は用意してある。僕は得意げに傘を広げ、颯爽と横断歩道を渡る。

 寮につくと。征二君が駐輪場から自転車を取り出そうとしていた。一年前のこの日、ここで口論になったのだ。懐かしさも手伝って、僕は自分から声をかけた。

 征二君はチラッと僕を見ると、すぐ伏目をする。そして「あぁ、よろしく」とだけ言って、僕を避けるように、そそくさと出て行ってしまう。一年前とあまりに違う。幸先の良いスタートだ。この調子でいけば、また親密になれるだろう。いつかまた駅前で、一緒にライブもできるだろう。そのためにもダイエットだ。叔父の古着屋のズボンをラクに穿けるようになりたい。筋トレを兼ねて、三階の自分の部屋まで駆け上がる。そこで、我に返ってゾッとした。僕に未来は無かったんだ。 

 無意味だと分かっていても、自室に戻って、荷解きに取りかかった。暇を潰すために始めたこの作業も、もうすぐ消えるだけあって、何か特別なことに感じる。死んだら、こんな作業ですら経験できない。もしかしたら人間の行住坐臥ぎょうじゅうざがそのものが、神聖な行為なのかもしれない。

 一年前の引越しと違い、今回は収納場所ごとに段ボールに詰めてきた。その甲斐あって荷解きはサクサク進み、夕飯が始まる前に全ての作業が終わってしまった。

 食堂へ出向くと。陽菜さんと英子さんは配膳をし、征二君はテレビを見ながら枝豆を食べていた。僕が「こんばんは」と言いながら皆に近づくと、征二君はチラッと僕を見て、「おう」と言い右手を上げる。

 英子さんは僕に気づくと「とりあえず、その辺に座って」と言いながら肉巻きを皿に盛りつける。陽菜さんとは、このときが初見だった。僕が自ら挨拶すると、案の定、「何学部?」と聞いてくる。寮のすぐそばにK大学がある以上、K大生と思われて当然だ。もちろん間違われたことに腹は立たないが、本当のことが言い難い。それを察してか、英子さんが答えてくれる。

「大垣君は城西大学の物理学科だよ」

 陽菜さんは目を見開き「城西大の人って、初めて見た。しかも物理学科って!」と物珍しそうにする。が、一転。顔をしかめ、「でも、なんで?城西大はここから遠いでしょ?」と不思議そうにする。

「父の勧めで…」

 とかなんとか言って、当たり障りのない返答をしていると、引き戸が開いた。

「ただいま」

 そう言って、久美子さんが入ってくる。生霊に憑かれていないので、血色も良く激痩せもしていない。健やかな彼女に会えて、僕は心底ほっとした。

「おい、見惚れるな」

 その声にハッとして、征二君の方を見ると。

 征二君は枝豆をかじりながら、「見た目に騙されるな。この女を好きになったら終わりだぞ。後悔するぞ」と断言し、枝豆の皮を久美子さんに投げつける。

 そのとおりだ。彼女を好きになり、彼女を助けるために、僕は龍に取り込まれ、もうじき終わる。

「でも、征二君。僕は後悔なんてしてないですよ」

 心の中でそう言った。

 その傍らで、久美子さんは枝豆の皮を投げ返し、征二君に悪態をつく。その光景が懐かしくて、罵り合う二人の姿に平穏を感じた。

 僕が感傷に浸っている間も、枝豆の皮を投げあうラリーは続き、さすがに英子さんの怒りを買った。征二君は投げつけるのは止めたが、久美子さんが手を洗っている隙に、白いレジ袋の中へポイポイと皮を捨てる。そのレジ袋は久美子さんがさっきまで手にしていたもので、恐らく、その袋には彼女が買い物した商品が入っているはずだ。

「しつこい!」

 英子さんが征二君の頭を叩く。「いい加減にしっ!」と目を吊り上げ、レジ袋から枝豆の皮を取り出す。ところが、突如として相好を崩し「これ、かわいい!」と言って、袋から何かを取り出す。

 それは姫星美人だった。僕は思わず、「これ、どうしたんですか?」と、手洗いから戻った久美子さんに詰め寄った。

「どうしたって言われても…買ったんだけど」

「なんで、これを選んだんですか?」

「花屋のおじさんに薦められたから。この植物、姫星美人っていうんだって。おじさんが、『お姫様みたいに美人なお姉さんにピッタリ』って言うから、つい買っちゃった」

「それは、僕が言ったんですよ!」

 心の中で叫んだ。

 目の前に居る久美子さんが、遠くに感じる。僕は時空の再選択に成功し、こうして彼女と再会したけれど。醒めない悪夢を見ているようで気が遠くなる。僕が黙り込んでしまったからか、英子さんが「どうしたの?」と気遣ってくれる。僕が「なんでもないです」と言いかけたところで、久美子さんがとどめを刺す。

「ところで。あなた、誰?」


 夕食後、自室に戻ってもすることがない。暇つぶしにテレビを点けると、日本シリーズが放映されていた。心躍るが、すぐに醒める。一年前にも見た試合なので、試合内容を知っている。暫く観戦するが、やっぱりつまらない。

 結果を見知っているから今日一日はスムーズに事が進んでいった。だが、盛り上がりにかける。一年前の引越し初日は大学中退を考えるほど気落ちしたのに。今思えば、あれはドラマティックな一日だったのだ。

 本当のところ、幸も不幸も差異は無いのだ。不幸でさえも僕の人生を豊かにしてくれていたのだから。起こった出来事、全ては完璧だったのだ。やり残したことなど、何一つ無い気がした。だから今すぐ屋上に行って、龍に取り込まれてもいいけれど。どうせなら気持ちよく死にたい。精神の衛生状態を高めるには好きなことをするのが一番だから、そのために。僕はもう一日、生きることにした。


「おまたせしました」

 帽子を被ったお洒落な店員がサンドイッチとミックスジュースを運んでくる。僕は店員の目を直視して「ありがとう」と言った。店員は「ごゆっくり」と軽く会釈して立ち去る。

 なんてことない。僕が普通にしていれば、むこうも普通にしてくれる。僕がオドオドするから向こうも奇異な目で見るのだ。こんな些細なことさえも、死に直面しなければ気づけなかった。

 僕は最後の晩餐にルビアンのサンドイッチを選んだ。一番食べたいのは久美子さん手製のサンドイッチだけど。言っても始まらないから、彼女のことを想い返しながら噛りつく。

 具沢山のため、レタスとソースが滴る。それでも気にせず食べ進める。開店と同時に入店したので、客は僕しかいない。口周りの汚れも気にせず食べ続けたせいで、最後の晩餐はあっと言う間に終わってしまった。美味しかったけれど味気ない。時空の再選択に成功したけれど、僕は死んだも同然だった。昨夜の野球中継も、このサンドイッチからも意味が消失している。

 ストローでミックスジュースを啜りながら、初めてルビアンへ来た日のことを思い出す。ケーキを買うだけのことが、僕にとっては大冒険で、必要以上に精神をすり減らしていた。

 でも、今なら分かる。僕は自分という小さな世界の中心で、物語を紡いでいたのだ。精一杯、生きていたのだ。

 飲み干したミックスジュースをテーブルに置く。伝票を手に取るが、席を立てない。涙が頬を伝う。自分が幸せだったことを思い知って、涙が止まらない。生きている間に、こんな気持ちになれたら僕は無敵だっただろう。どこでも誰とでも、楽しく生きていけただろう。しいて言うなら、これが僕の後悔だ。でも、言っても始まらないから、涙をぬぐって席を立った。

 その後。ルビアンを出た足でカラオケボックスに向かい、三時間熱唱した。休むことなく歌ったから、二十曲は歌っただろう。それでも喉は潰れていない。

時空の再選択をせず、あのまま路上ライブを続けていれば、いつかは歌手になれただろうか。そんな人生もあっただろうか。もうすぐ終わるにも拘わらず、そんな夢想をした。そんな自分が気持ち悪いが、今はもう憎めない。滑稽な自分にさえ心弾む。

 喉の調子は絶好調で、まだまだ歌えるがカラオケボックスを出た。時刻を確認すると、丁度いい頃合。自転車で近鉄奈良線を並走し、西へ向かう。

 征二君と路上ライブをした駅の近くに女子大と女子高があって、その近辺は美容室が乱立している。僕は携帯のGPSを頼りに、目当ての店に辿り着いた。

 僕がこの店を知ったのは昨夜だ。佐藤さんに髪を切ってもらおうと、心斎橋にある、あの美容室へ電話した。その際、電話口で告げられたのは『佐藤さんの独立と、この店の名前』だった。

 店先に自転車を停めようとしていると、店のドアが開いて、佐藤さんが出てくる。当然、彼は僕と初対面なので「いらっしゃいませ、こんにちは」としか言ってくれない。

 店内に入ると、受付には生霊の結衣さんがいた。僕は驚きから「うわぁ」と言って、のけぞった。

「どうかしましたか」

 佐藤さんが尋ねる。結衣さんも不思議そうにする。無論、この結衣さんは生霊ではなく生身の人間だが、彼女に殺されかけた身としては驚いてしまう。けれど、そんなことは説明できないので適当なことを言ってごまかした。

「まさか女性がいると思わなかったんです。ホームページを見たときは、店長さんしか映っていなかったので」

「あぁ、そうですね。あのホームページを作ったときは、まだ居なかったんです。彼女は先週からウチのスタッフになったので」

「はじめまして、よろしくお願いします」

 結衣さんは頭を下げる。それから僕の荷物を手早く預かると、「こちらへどうぞ」と言いながら僕を鏡の前まで連れて行く。僕が椅子に座るや、結衣さんは背後からケープを着せてくれ、ケープがずれないように首の後ろをマジックテープで止める。生霊ではないと分かっていても、背後に立たれ、首のあたりに触れられると、やっぱり怖い。

 結衣さんが立ち去ったのと入れ違いに佐藤さんがやってきて、鏡越しに僕を見る。

「あのう、ウチの店はどうやって知ったんですか?どなたかの紹介ですか?」

 前日から用意していた回答を、僕は一言一句詰まらず言った。

「以前、ここを通りかかったときに見つけました。最近、東大阪に引っ越してきたので美容室を探していたんです。開店して間もない店の方が入りやすいじゃないですか?バイト探しと同じで」

「そうですね。こちらとしても開店したばかりなので、御新規様に来てもらえるのは有難いです」

 そう言うと、佐藤さんは名刺をくれる。そして自分の名前を指差しながら、「ハーフなのに『佐藤吉男』って、おかしいでしょ?」と前フリし、自分の生い立ちを語り出す。と同時に。結衣さんが、そそくさとその場を離れる。

 佐藤さんは話を中断し、結衣さんの方を指差しながら、僕に耳打ちする。

「新規の御客様が来るたびに、この話をするから聞き飽きたんでしょうね」

 

 最後の晩餐にルビアンのサンドイッチを食べ、趣味のカラオケにも行き、佐藤さんに髪を切ってもらった。おかげで身も心もサッパリ、気持ちよく死ねそうだ。

 それにしても、龍に取り込まれるというのはどういうことだろう。また屋上から飛び降りるのか。それとも頭から飲み込まれるのか。理想を言えば眠ったまま死にたい。帰ってから交渉しよう。

 自転車を漕ぎながら安楽死の算段をしていると。自転車のかごふちにトンボがとまる。その瞬間、声がする。

「悪いが、眠りながら死ぬのは無理だ」

 この声色は龍だ。頭の中からハッキリ聞こえる。それでも反射的に空を見上げてしまう。僕は後ろ、左右も確認する。龍はどこにもいない。前に向き直ったところで、ふと思う。まさか、龍はこのトンボの姿を借りて会話をしているのか?僕がトンボをじっと見つめると、また声がする。

「それは、ただの虫だ。前にも言ったが、感情はエネルギーだ。私は今、エネルギーの送受信をしている。要はテレパシーだ。そもそも龍神が虫の姿を借りるわけないだろう」

「でも、トンボは英語でドラゴンフライですよ」

「これだから人間は!私のどこが、これに似ている?」

「貴方は自分の外見に誇りを持っているんですね」

「当たり前だ。だから、お前の髪型には失望している」

 僕はもうじき死ぬとあって、恥と外聞を捨て、(僕には似合わないであろう)流行の髪形をオーダーした。出費もいとわず、トリートメントをし、初めてパーマをかけた。

 僕は人目を忍んで、モゴモゴと口ごもるように語りかける。

「僕だって、最後くらいオシャレしたいですよ」

「似合っておらん、滑稽だ。その身を纏うとは…我ながら恥ずかしい」 

 この髪型でいるのも数時間のことだから、誰にも冷笑されないと踏んでいた。それが、よりによって神様に罵られるとは。

「じゃあ、僕に成り代わるのを止めますか?」

「髪のことはもういい。髪はじきに伸びる。それより、覚悟できたのだな?」

「もちろんです。でなかったら、こんな髪型にはしません」

 そう言うと、トンボが飛び立つ。トンボが消えた方角に黒い雲が見える。よく見ると、それは虫の大群で。それが、こちらにむかって飛んでくる。そして。僕の前方を走っていたワゴン車を襲う。運転手がクラクションを激しく鳴らす。通行人も悲鳴をあげる。ワゴン車は車体が見えなくなるほど黒い虫に覆われる。クラクションが鳴り止むと、そこから虫が数匹飛び立つ。それに続くように虫が次から次へと飛び立つ。襲撃時より明らかに虫の数が増えている、いつまで経っても車体が見えない。あまりの気持ち悪さに、ワゴン車を追い抜こうとしたところで、黒い虫が一斉に飛び立った。そこにワゴン車の姿は無かった。

 ワゴン車から飛び立った虫達は通行人や電柱を襲う。信号が停止する。車がぶつかる音がする。悲鳴が聞こえる。けれど、そんな喧騒もたちまち静まりかえる。羽虫は蜜を吸うように人やモノから音を奪う。音を奪われたモノたちは、皆、羽虫に変わってしまった。

 たった数分で、僕の周囲にあるものは全て黒い羽虫に変わった。不思議なことに。これだけ虫が飛んでいても羽音が全くしない。道路も虫で覆われているのに、その上を僕が自転車で疾走しても、虫を踏み潰した感触がまるで無い。自転車のタイヤは虫のせいで真っ黒だ。そしていよいよ、虫は僕に迫る。ハンドルを握る僕の手の甲に虫が止まっているが感覚がない。虫は今や僕の肘まで覆っている。僕の両腕は真っ黒だ。それでも何も感じない。そのうち前方が真っ暗になる。どうやら僕の目が虫に覆われているようだ。けれど感覚が無いから気持ち悪くない。

 音を奪った羽虫は光と風と匂いも奪う。そのせいで、僕は身体感覚さえ失った。僕の意識だけがある。

 怖いと思っても声にならない。悲しくても涙が出ない。寂しさから過去の経験を次々に反芻はんすうするが、何もかもが虚像だったように感じる。思い出が虚像でしかないのなら、僕が生きた痕跡はどこにある?自分が本当に生きていたのかさえ怪しい。僕は何だ?なんのために生かされていたのか?何も分からないまま、終わっていく。世界が閉じていく。

 漆黒に身を浮かせたところで、どこからか音がする。誰かの話し声だ。これは幻覚?それとも地獄?

「…きくんおおがきくんおおがきくん…」

 おおがき?そうだ…それは…僕の名だ!

「僕はここに居ます、ここに居ます」

 暗がりに僕の声が響く。聴覚も声帯も戻っている、僕は手をイメージし、耳に手を伸ばしてみる。耳がある。手であちこち触ってみる。僕の体が確かにある。目のあたりに触れてみると、黒い虫は付着していなかった。それでも何も見えないわけだから、僕は暗闇にいるようだ。

 すると。何かが僕の頬に触れる。驚きから後ずさりすると。それを阻むように、誰かの手が僕の腕を掴む。僕は恐怖から「やめろ!」と怒鳴った。

「大垣君、私だよ、落ち着いて」

 聞き覚えのある声、でも思い出せない。

「色々ごめんね、ありがとう」

 この言葉、以前にも聞いたことがある。なぜだか分からないが、ピンク色の入院着を着た女の子が思い出される。かすかな記憶の中で、女の子は泣いている。どうして泣いているのだろう?、そう思った途端、自然に言葉が出る。

「僕は大丈夫ですから…あれ?久美子さん?」

 僕が彼女の名を呼ぶや、ぱっと灯りが点く。ピンク色の入院着にスリッパを履いた久美子さんが目の前にいる。

「おかえり、ずっと待ってたよ」

「そうです!僕は久美子さんを助けたくて龍に取り込まれたんです。どうして、ここに居るんですか?僕は失敗したんですか?」

「とりあえず落ち着いて。ここがどこか分かる?」

 僕は頭上を見上げる。大小無数の間接照明が僕らを照らしている。照明は僕らの足元にもあって、床はポリカーボネイトで施工されたように透けていた。透ける地面の下にも、おびただしい数の照明がある。僕は透明の床越しに見下ろすが、照明の数が多すぎて自分が高いところに居るのか低い所にいるのかも判然しない。

 周囲を見渡すと、僕ら以外に誰も居ない。僕らがいるのは天井の高い密閉した空間のようで、音楽室やコンサートホールにいるときの、あの感覚に似ていた。

「ここはどこですか?」

「知ってるはずだよ。子供のときは自覚してたでしょ?大垣君が考えた通り、世界は繋がってるの。人間は独立した生き物のように見えるけど、精神の底の底では繋がってるの」

「それってまさか…照明のように見えるアレは人間ですか?」

「そうだよ。大きい光が古い魂で、小さいのは新しい魂」

 久美子さんが示す大きな魂は、工事現場で見かけるバルーンライトのように一際ひときわ明るい。

「古い魂の方が生命力に満ちているんですね。どうして久美子さんは、そんなことを知っているんですか?」

「私だけじゃないよ、みんな知ってることだよ。みんな、忘れたフリをしてるだけ。大垣君だって、子供の頃は覚えてたじゃない」

「そんな大事なことをどうして忘れてしまうんですか?みんながそれを覚えてたら、僕らはもっと幸せで、世界はこんなじゃなかった…」

「でも、みんながそれを覚えてたら、魂はあんな風に輝けないよ」

「どうしてですか?」

「どこから説明しよう…えぇっと…魂は生き続けることで輝くの。自転車のライトも、ペダルを漕がないと点灯しないよね?」

「残酷ですね。それって、どれだけ辛くてもペダルを漕ぎ続けないといけないって、ことでしょう?」

「大垣君は、もう疲れちゃったの?」

「そういうときもあります。でも、本当は死にたくないんです、より良く生きたいんです。でも、そう思えば思うほど生きることが辛くなるんです」

「その通りだよ。だって生きるってそういうことだもん。自転車だって頑張って漕ぐほど、疲れて止まってしまうよね?止まったらライトは消える」

「まさか、暗闇っていうのは…」

「そうだよ、暗闇は光を失った魂たちで出来てるの。闇のおかげで光も見える。全ての魂が輝いてしまったら、何も見えない真っ白の世界だよ。全てが一つになった完全な無の世界」

「そうなったら、僕という存在は消滅するし、久美子さんに出会うこともなかった」

「そういうこと。私達には光も闇も善も悪も、全てが必要なの。私達は善悪を超えた存在だから」

「僕らは善悪を超えた存在なのに、その善悪に振り回されるのはなぜですか?」

「その説明は、あの人にしてもらおう。あっ、人じゃなかった。神様だったね」

 その瞬間、足元から風が吹き上げる。久美子さんは入院着のすそを両手で押さえる。それでもめくれ上がり、久美子さんの膝頭が見える。彼女の生足に見惚れていると、透明の床が地震のように小刻みに揺れる。立っているのもままならない程ガタガタ揺れると、透明の床をすり抜け、大宇陀川の龍神が立ち昇る。

 僕はもう、何が何だが分からない。

「龍に取り込まれた気分はどうだ?」

「羽虫が現れて、音が吸われるところまでは面白かったです。でも、そこから先は気が狂いそうでした」

「そうだろう。だが、私には素晴らしい体験だった。お前に癒着したことで、私はお前の記憶を追体験した。お前は覚醒したのだな」

「覚醒って、なんのことですか?」

「お前は気づいたのだろう?幸も不幸も無いことを。不幸でさえも、人生を豊かにすることを。お前は固定観念を一つ破った、それが覚醒だ」

「覚醒したら、どうなるんですか?」

「視野が広くなる。覚醒すればするほど、神の視点に近くなる。そして善悪を超越する。私は決め付けていた、人間は善悪を超越できないと。けれどお前に癒着し、お前の記憶を追体験したことで、それが誤りだと分かった。思い込みを克服した今、私は最後の固定観念を破った。お前のおかげだ。お前が私を導いてくれた」

 龍は空中に8の字を書くように飛び回る。

「嬉しそうですね」

「当たり前だ、こんなに嬉しいことはない。私は本当の意味で、神になるのだ」

「ということは。どこかの川で、また龍神としてやっていくんですか?」

 龍は笑う。

「言っただろ?私は龍神から神になったのだ。私はもうじき、無に還る」

 僕の困惑を察してか、久美子さんが間に入る。彼女は例のバルーンライトのような大きな魂を指差して言う。

「古い魂は満ち満ちて爆発するの。爆発してエネルギーそのものになって、この空間を支えるわけ。あの魂は千年かけて何度も覚醒したんだよ。そして。ある男の子に出会ったことで、ようやく善悪を超えることができたの」

 僕は龍を見た。涙でかすんで見える。湧き上がる情動が喜びか悲しみかも区別できない。

「お前の問いに答えよう。人間が善悪に翻弄されるのは何故か?それは、エネルギーを生み出すためだ。覚醒し善悪を乗り越えようとする行為には、計り知れないエネルギーが宿る。そのエネルギーによって、新たな魂が生まれる。宇宙はそうやってできている。そのために。魂は全てを忘れ、生まれてくるのだ」

「宇宙を存続させるのが僕らの宿命なら、神様だって、もう少し僕らに寄り添ってくれてもいいじゃないですか?僕が覚醒したのは貴方に出会ったからです。僕らには貴方のような神が必要なんです。貴方だって、そのために神堕ちしたんでしょう?今更、僕らを見捨てるんですか?」

「お前は私と再会する以前から、善悪を超えようとしていた。この世の摂理を知ろうとしていた。だから、宇宙物理学を選んだ。そうだろう?」

「でも、それもどうせ貴方の影響でしょう?僕は胎児のときから貴方の影響を受けているはずです」

「その通りだ。だが、裏を返せば。私だってお前の影響を受けている」

「どういう意味ですか?」

「神と人間に境界など無い。なぜなら、人間も神と同じように善悪を超えられるからだ。それに気づくことが、私の最後の固定観念だった。私はその壁を乗り越えた、お前のおかげで」

「貴方はそれでいいかもしれないけど。この先、僕らはどうしたらいいんですか?僕らには誰かの導きが必要なんです。生きる意味も分からず生きていくのは、僕らにとって苦痛なんです」

「お前はその痛みを知っているから、宇宙物理学を専攻したのだろう?この世の摂理を知りたくて。それを皆に教えたくて」

「…そうです」

「その志は間違っていない。けれど、決め付けてはいけない。人間は善悪を超えられる、それを理解しろ。でないと、私と同じ轍を踏むことになる」

「…人間は善悪を超えられますか?貴方の助けがなくても?」

「それに気づくことが最後の壁だった以上、それが真理だ。ここまで言ってしまったら、問題を解く前に答えを教えるようなものだ。少し喋りすぎた」

「どうせ、何もかも忘れるんでしょう?今、聞いたことも、貴方の存在も…貴方は行ってしまうから」

「忘れるはずがない、魂は忘れたフリをするだけだ。その証拠が財布の中にあるだろう?」

 僕は二つ折財布を取り出し、広げる。カードポケットにある金色のカード。これは佐藤さんがくれたものだ。佐藤さんは「大垣君とは初めて会った気がしない」と、新規の顧客である僕を『特別会員』にしてくれたのだ。この会員カードを貰ったとき。僕は佐藤さんとの絆を確かに感じた、それを噛み締めながら会員カードを財布に収めた。でも今は。何もかもが馬鹿馬鹿しくて、僕は会員カードを床に叩きつけた。

「こんなものが何だって言うんですか!このカードも久美子さんも貴方も、みんな僕の世界から消えるでしょ!もう二度と会えないんでしょう?僕はまた孤独になる。孤独な旅が始まるだけだ…」

 久美子さんは会員カードを拾い上げ、カードに視線を落としたまま、言う。

「魂は忘れたフリをするだけだから。二度と会えないなんて絶対にないよ。大垣君は私のことを覚えててくれたでしょ、十五年間も」

 十五年間?

 その問いを口にする間もなく、何かが爆発する。目を刺すような光にさらされ、何も見えない。爆風が治まり恐る恐る目をあけると、光は和らぎ視界も晴れる。そこで気付いた。投げ捨てた会員カードが僕の手中に戻っている。驚きから顔を上げると、そこに久美子さんの姿はなかった。

 巨大な赤龍が僕を見下ろす。あまりに大きくて、隣に居る大宇陀川の龍神が白蛇に見えてしまう。僕は恐怖から尻餅をついた。畏怖というものを初めて知った。地震や台風の脅威なんて比べ物にならない。そんな僕を気遣うように赤龍が謝るが、その声色は久美子さんのもので、僕は悪い想像しかできない。

「久美子さんはどこへ行ったんですか?」

 赤龍は口ごもる。

「まさか、彼女を取り込んだんですか?」

 大宇陀川の白龍が代弁する。

「取り込んでなどいない。目の前に居るのが久美子だ」

「…どういうことですか?」

「十五年前。お前が見たのが、この赤龍だ」

 代弁を続けようとする白龍を制止して、赤龍が語り出す。

「私は紛れもなく久美子だよ。でも、久美子であり『全て』なの」

「全て?」

「さっきも話したけど。覚醒を繰り返し、善悪を超越した魂は、爆発して、この空間そのものになるの。この空間のことを大垣君の世界では『ブラフマン』って呼んでるはずだよ。私はブラフマンの化身なの」

「ブラフマンは知ってます。でも、それが久美子さんだと言われても理解に苦しみます。百歩譲って、久美子さんがブラフマンだとしても、十五年前、僕の前に現れたのはなぜですか?」

「その会員カードと同じことだよ。メッセージを残すために、私は大垣君の前に現れたの。それが意図した通り伝わって、今、こうして再会することができたんだよ」

「あなたの意図って何ですか?」

「私は魂を導く者、ブラフマン。大宇陀川の白龍を導くために大垣君と御母様のちからをかりたの」

「全ては仕組まれたんですね。母は大変な目に遭いました。母だけじゃないです。父も祖父母も叔父さんも…僕だって!五歳の子供にとって、母の存在は大きいんです。それを失いかけたんです。その恐怖が分かりますか、僕がどれだけ寂しかったか!」

 白龍が赤龍を庇うようにして立ちはだかり、僕をとがめる。

「久美子を責めるのは筋違いだ。この一連の物語はお前の魂が望んだことだ。ブラフマンは願望を具現化する力を、お前や私に供給したまでだ」

「それが本当なら、僕はなんのために、こんなことを望んだんですか」

「それはお前の前世にまで遡る」

 白龍の話に拠ると。

 前世の僕は画家になりたがっていた。それを父に反対され、家業である神社を継いだ。その後は神職の傍ら絵を描き続け、『開運絵馬』を自作し売り出したらしい。

「趣味と実益を兼ねるって、なかなか出来ることじゃないですね。前世の僕は要領が良かったんですね」

「要領が良いというような、小手先だけのことではない。前世のお前は無自覚にも魂の声を聞いていた。その声に従い、絵を描くことをやめなかった。おかげで生活も潤った。だが、それは表面的なことだ。魂の目的はその先にある」

「魂に目的があるんですか?」

「魂というのは、この世の摂理を表現したがるものだ。それが魂の性質だ。前世のお前は開運絵馬と称し、富士や鷹といった縁起ものをよく描いた。とりわけ龍を好んで描いた、天に昇る龍を。前世のお前は神職を引退したあとも、昇龍を描き続けた。描き続けることで見えたのだろう。昇龍とはブラフマンへ還る龍のことだと。前世のお前は自分の目で確かめたかったのだろう、龍神が昇天する姿を」

「それを現世の僕が見届ける、そういうことですか?」

「その通りだ」

「誰かが願った夢の続きに、僕の人生があるのなら、僕の人生も『ただの夢』ってことになりますよ」

「今日のお前は冴えている。人の一生は『ただの夢』、お前たちが言う現実とは『迫真の夢』であり、このブラフマンこそが『夢幻の現実』なのだ」

「僕はこれから、ずっとずっと夢を見続けるんですね。それなら、ここで願わして下さい。僕の願いは記憶の保持です。貴方のことも久美子さんのことも、この二十年間の記憶を、全て持ったまま元の世界へ帰して下さい」

「全てというのは…」

「そうです。寮生の久美子さん・ブラフマンの久美子さん、どちらの記憶もです。僕は両方の久美子さんを忘れたくないんです」

 魂の忘失によってのみ、輪廻転生は可能なわけだから、僕の要求は論外だ。即却下で妥当なはずだが、白龍はノーと言わない。久美子さんを見上げ、意見を仰ぐ。

久美子さんは巻いていたトグロを解き、僕の方に顔を寄せる。

「誰かの願いが、魂をブラフマンへと導くのです。貴方の願いを聞き入れましょう」

 その瞬間、僕は頭から水を被った。全身ずぶ濡れになる程の大量の水が、頭上から絶え間なく降って来る。頭を押さえつけるような水圧に屈し、僕は両膝をついた。床は一面、水浸しだ。助けを求めようと、顔を上げると。久美子さんが泣いている。大粒の涙がボトボト落ちる。おかげで水量が一気に増える。風呂に浸かっているかと思う程の、水かさだ。

 身の危険を感じ、立ち上がるが、久美子さんの涙は止まらない。水量は増し、僕のあごの下まで水が迫る。助けを乞おうと、彼女の名を呼ぶが、僕の真意は届かない。彼女から感謝の言葉が返ってくる。

「大垣君、私を好きになってくれてありがとう」

 久美子さんは感極まったようで、さらに泣きじゃくる。そのせいで、僕は完全に溺れた。

 溺れる最中、走馬灯を見た。久美子さんとの思い出。久美子さんの悲しみ・嫉妬・不安・罪悪。それが染み渡る。僕は涙を流す。それが久美子さんの涙と一体となる。自分の感情か、彼女の感情かも区別できない。僕らは離れることで一つになれた。


「…じじゅんじじゅんじじゅんじ!」

 目覚めると、傍らに母がいた。僕は実家に居るようで、母の背後にマリー・ローランサンの絵画が見える。母はあの画家が大好きで、五年前の結婚記念日に買ったのだ。あの絵は玄関に飾ってあったから、僕は玄関先で引っくり返っているようだ。

 母は「大丈夫?」としきりに言う。母が言うように僕は大丈夫ではない。金縛りにあったように体が重いし、言葉も出ない。

「今、救急車呼ぶから!」

 この場を離れようとする母を、僕は慌てて呼び止める。と言っても、まともに話せないから「あー」とか「うー」とか唸って母の注意をこちらに向けた。頭を左右に動かし、『ノー』と意思表示して、首を縦にゆっくり動かし、大丈夫だとアピールした。母に介抱してもらいながら、上半身を起こし、ゆっくりと立ち上がる。リビングに連れて行ってもらい、ソファーの背もたれに身をゆだね、天井を眺める。

 僕は戻ってきたのだ。頭の調子はブラフマンに居たときと変わらないが、体がおかしい。時空の変化に影響を受けているようで、頭と体が一度切り離されていたような感覚だ。自分の体でないような、『きぐるみ』を着せられているような感覚。

 母が持ってきた水を飲み干す。水が食道を通り、胃へ流れていく。グラスの水を飲み干した頃には全身の感覚も元に戻り、脳と体が繋がったのが分かった。

「もう、大丈夫だから」

「病院で検査してもらったら?」

「いや、ちょっと怖い夢を見て。金縛りにあっただけだから」

「それにしても、どうして玄関で寝てるの?」

 返答に困り、項垂れると。テーブルに置いてある新聞紙に目が止まる。日付は一年前の九月二十五日。確か…三度目のチェンジにあい、家庭教師をクビになりかけた、あの頃だ。

「実はバイトをクビになってさ。不貞腐れて、玄関で寝転がったら、そのまま寝てしまって」

「で、悪夢にうなされたって?もう、勘弁してよ。脳梗塞かと思ったんだから」

「それより、どこに行ってたの?この時間帯は、いつもは家に居てるだろ?」

「それがね…婆ちゃんが認知症になったの」

 母の話に拠ると。

 昨晩。祖父母は夫婦喧嘩をし、祖母が家出をした。娘宅に泊まりに行ったのだろうと決め付けて、祖父は伴侶を探さなかった。翌日の午後になっても音沙汰が無いものだから、祖父は娘に電話をし、そこで初めて、伴侶が行方不明だと気付いたそうだ。慌てて警察に届けを出したところ、祖母は隣町で保護されていた。深夜に一人で歩き回る祖母に、お巡りさんが声を掛けてくれたそうだ。

 その夫婦喧嘩の原因というのが、祖母の家事労働の怠慢らしく、台所の衛生状態は過去最悪で。あげく、「勿体無い」と言ってはゴミ捨て場をあさり、ゴミを持ち帰ることもあったそうだ。

「今、考えたら。家事が出来なかったのも認知症のせいなんだろうね。爺ちゃんの話じゃ、お風呂も面倒さがって、あまり入ってないみたい。それで、相談なんだけど…」

 母は週に三回は実家に戻って、祖父の負担を軽くしたいと言う。そのため、この家の家事労働を僕に請け負って欲しいそうで、「バイト代も出す」と言う。

「僕にとってはオイシイ話だと思う。新しいバイトを探すのも面倒だし。でも、母さんは介護のためにフルタイムからパートに切り替えるんだろ?僕のこずかいを増やす余裕なんてあるの?」

「何、言ってんの!順治が国立に受かったおかげで、ラクさせて貰ってるもん。アンタはそんな心配しなくていいの。たっぷり勉強して、ノーベル賞でも取ってよ」

 

 ノーベル賞を口にするなんて、親馬鹿もいいところだ。でも、それを目指すのも悪くない。僕が願った夢の続きに、誰かの人生が始まるから。


そうでしょう?久美子さん。                    


                              完 

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姫星美人 的場結于 @9brick

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