アンタレスの爪先
髙橋螢参郎
第1話
「はい、そこまで」
副部長の合図で手を止めたのと同時に、僕は肺そのものを絞り出すように大きく息を吐いた。
クロッキーの十分間はいつだって、揺らめく陽炎のように儚く終わっていく。入学後の実力テストですら決して足掻こうとしなかった僕の左手が、今だけは震えを抑え切れない。ふっと気を抜くとまだ足りないと鉛筆の先が暴れ出しそうになる。
もう少し。あと少し。あの線を描き加えたら。あの影を太くしたら。
……いや、むしろ多いのか?
この延々と続く足し算と引き算の答えはそう易々と出るもんじゃない。一生をかけてもまだ足りないと、あの葛飾北斎ですら言っていたくらいだ。ましてや僕なんか。
いい加減諦め、僕は自分の絵に改めて向き合った。
紙に映るどこか歪んだ女子高生が「
……それだけなら、まだいいんだけど。
「んー、疲れたー! どれ、たっくん。見してみそ」
そう一言断るが早いか、僕とキャンバスの間に割って入ってきた人がいた。
明らかに女子の平均身長から並外れた背丈で誰かは一発で判る。それに黒髪のボブカットがここまで綺麗に似合っている人を、テレビをあまり見ない僕はこっこ先輩しか知らなかった。いつもまるで氷海を往く砕氷船の如く机や椅子をかき分けては、わざわざ僕の絵を真っ先に覗きにくるのだ。
はかり棒の代わりに愛用の2B鉛筆を僕の絵にかざして、こっこ先輩は「んー」とその大きな目を片方閉じてみせた。
僕は固唾を飲んだ。
「おっ、いいんじゃない? 最近調子いいじゃん」
「……どうも」
素敵な先輩に対するあまりにそっけない僕の返事に、男女問わず周りの視線が痛いほど突き刺さる。でも誰にも解らないだろうけれど、絵に関してだけ言えば、何をこの人に言われても僕は素直に喜べなかった。
横目で覗き見た彼女の作品は、今日も神様に愛されていたから。
こっこ先輩に出会ってしまってから――ここ旭高の美術部に入ってから、早二ヶ月強が経とうとしていた。
僕は今日もまた箒の柄にもたれかかりながら、独り窓の遠く向こう側、山の端に沈んでいくバーミリオンの夕日を眺めていた。花の金曜、と大人は言う。その夕方だというのに、気分はどうしても浮かばない。他に誰もいない部室で、僕はよくこうして独り黄昏ていた。
部室の掃除は入って間もない一年生の仕事だった。女子は安全の問題もあって二人一組だけど、ただでさえ少ない今年の一年の、しかも男は基本的に一人で任される。
床を掃き、先輩達が拭き損ねたがびがびの粘土を最後までこそげ落とし、乾かしてあった筆を種類毎に分けて、しまう。絶対数が少ないと当然ローテーションの間隔は狭くなる訳で、今では週に一度、多くて二度はこうして掃除をしてから帰る。
ここ旭高の美術部は昨今流行りのゆるゆる路線とは無縁の割と真面目な部活だ。毎年誰かが、県の高校美術展で何かしらの賞を取る。だからとりあえず入部だとかちょっと漫画が上手くなりたかったなんていう人達は早々に辞めていった。
「途中で投げ出した」だとか何とか言う人も部にはいるけど、僕はそれでもいいと思っている。無理なものを無理なまま続けてたって伸びる訳がないからだ。お互いの為にならない。
……いい事を素直にいいと言えるのが、体育会系にない文化系最大の強みの筈だろうに。
なんて内心では思いながら、自分で使ってもいない筆の穂先を一本ずつ馬鹿丁寧に整えていく。一年の前期は基礎を磨くという事らしく、油絵がやりたかろうが彫塑志望だろうが、ひたすらにデッサンやクロッキーをさせられる。キャンバスに油彩で描けるのは一年の終わり頃だと、たった一年上なだけの先輩が得意げに話していた。
正直かなり期待して入ったのに、ひどい肩透かしを食らった気分だ。
絵なんて歳じゃなくて実力だろ、全部。コンクールの常連校と言っても、個人で見ればどこだって玉石混交。先輩だって全員が全員僕より上手いわけじゃない。僕も一応、中学時代に県レベルの賞だって貰った事がある。
確かに漫研みたいなゆるい雰囲気では、かえって志の低さに嫌気が差していただろう。そう考えると贅沢な悩みかも知れない。
でも。
「……いい加減やってられっかよ、こんなん!」
僕はさっきまで手を拭いていたタオルを、床へ力の限り叩き付けていた。
最近、掃除当番の締め括りはずっとこんな感じだ。同級生の手前では何とかおとなしくしているけれど、そろそろ内側からはち切れそうだった。
俺は絵を描きに来たんだ、そうだろう!
まだ作ってない色がある。まだ試してない塗り方がある。
それに、と脳裏にあの人の屈託のない笑顔が過ぎる。
そう、こっこ先輩だ。他ならぬ彼女に僕は、人生で初めて心の底から敗北させられた。彼女のデッサンには一分たりとも、狂いらしい狂いが見当たらなかった。いつ見ても、だ。いくら何でもと思うのだけど、事実何度疑いの視線と共に鉛筆をかざしてみたところで、その度に見つかるのは自身の未熟さだけだった。
告白すると、誰よりも、下手をすれば先生よりもこっこ先輩に絵を評価される時、特にひどい劣等感が僕を苛んだ。世の中は不平等だと強く実感する。夢も希望も何もかもを、全部捨てて、去っていった人たちのように諦めてしまいたくなる。
……人前じゃ口が裂けても言えないけど、僕だってもうそれなりには描ける自負はある。小さい頃からずっと絵を描いてきた。家や学校で褒められるのが嬉しくて、自由帳を何冊も潰した。それがちょっといい紙に替わっただけで、今も続いている。
だからこそ余計に認めざるを得なかった。こっこ先輩は完璧だ。
(*ただし、絵に限っては)
……はあ。
その但し書きに一瞬でがらがらと音を立てて崩れ去る、理想の先輩像。残念ながら本人の人となりについては、変人としか言いようがない。
モデル並みの長身で、顔立ちも整っていて、基本的に優しいのに。
人に妙なあだ名付けて、部の備品の紙粘土で勝手にマンガのキャラ作り出して(しかもやたら上手いのが余計にタチ悪い)、何のためらいもなく変な顔をしてみせて、おまけに置いてあった食パンの耳どころか使う白いところまで食べようとする。ああ、差し引きマイナス1。
……でも、僕はまだあの人に敵わない。だから一分一秒たりとも、同じところに立ち止まってなんかいられない。それなのに!
「……そ、それなのに?」
「!?」
決してあってはならないその問いかけに、僕は恐る恐る出入り口の方向へと振り向いた。
扉の前で独り固まっていたのは他ならぬ、とうに帰った筈のこっこ先輩だった。
誰よりも早く来て、誰よりも早く帰るあなたが、何故今。
「あ、あははー……忘れ物、しちゃったんだけど……」
「どの辺から聞いてました?」
「えっ。あっ、ううん? 聞いてないよ? 全然」
「本当ですか」
そう言ってじっと彼女の目を見つめてやる。
「う、うん。でも物に当たっちゃダメだよ! タオルがかわいそう!」
「……全部、ですね」
「……うん」
……こっこ先輩は嘘を吐くのが壊滅的に下手だという事を、僕はこの時初めて知った。いっそ気付かなければ良かったと、後で思い知る事になるのだが。
六月でも、夜の七時を過ぎれば流石に肌寒い日もある。
あんなに重くてうっとうしかった冬服も、向かい風の中自転車を押している今だけはまだ恋しい。
「はひふぇんふぁねー。いふぃねんふぇいも」
いつもならもちろん独りだけど、今日は珍しく隣にこっこ先輩がいた。
「せめて食ってから話して下さいよ」
道中おごったセブン=イレブンのピザまんは、先程から見事にこっこ先輩の口を封じてくれていた。背に似合わぬ小さな口に無理矢理残り半分を押し込んで、「あつ、あつっ!」と涙目になっている。
「た、大変だね。一年生も」
「そうっすね。もっと色々したいんですけど」
「油絵とか?」
僕は黙って頷いた。こればかりは家で気軽に、という訳にもいかない。
「うち、マンションなんで。匂いも籠りますし」
「うんうん。私はあの匂い好きなんだけど、慣れてない人にはちょっと、かな。キャンバスとかも、本当場所取るもんねー」
「だから部活通ってんのに、って感じですよね。本当」
こっこ先輩でも、一応先輩だ。あまり本音は言うまいと心の中で決めていたのだが、それ以上にここのところストレスを溜め込み過ぎていたらしい。うん、うんと一つ一つ丁寧に頷いてくれるこっこ先輩に向けて、僕は日頃の鬱憤をかなり吐き出してしまっていた。
終いには心配そうな顔をして、こっこ先輩はまるでキリンのように身を屈めて僕の顔を覗き込んだ。本来ならバレー部に居て然るべき程の長身だ。無理もない、と僕は背の順でいつも前の方だった自分に言い聞かせる。
「……たっくんさ、部活辞めたりとか……しないよね?」
「それはないです。……僕、ここの美術部入る為に旭高受けたんですよ」
「おお! やっぱ凄いんだねー、うちの部」
「そっすね。近いのもありましたけど」
その中でも、デッサンについてはあなたが一番凄いと思うんですけどね。
それでもまるで他人事みたく今更驚いてみせる先輩に、僕はさっきまでの憤りも忘れてつい笑ってしまった。
「一応美術での推薦入学なんで、部活辞めたら後輩に悪いですし」
「何で?」
「え?」
意外な返しだった。こっこ先輩は推薦組ではなかったのだろうか。
それにしても、少し考えたら解る事だろうに。
「いや……まあ、あんまり変な事すると推薦の枠が消えちゃうんで。僕の通ってた中学から」
「あ、ああ! そういう事ね! そりゃ良くないね、うん」
「という事は、先輩は一般受験だったんですね」
「……えっ。あっ、うん。そうだよ?」
僕はごく当たり前の事を言ったつもりだったのだけど、こっこ先輩は何故か少し挙動不審になっていた。推薦入学でないなら一般受験に決まっているだろうに、変な先輩。知ってたけど。
「思ってたより勉強、できたんですね」
「あれ、どういう意味かしらー?」
「そのままの意味ですけど」
旭高は県下でもそれなりのレベルをした高校だ……
……が、僕はさっき言った通り推薦受験だったからテストらしいテストも受けていないし、内申点も正直怪しかった。ほぼ一芸入学と言っても差し支えないレベルだ。少なくともここへ真正面から入れるくらいの学力がこっこ先輩には備わっていたというのは、本人の日頃の行いを見ていてもやっぱり意外というか。
「む。そこまでハッキリ言われちゃうと傷付くかも」
「いや、正直感心してますよ」
絵ばっか描いてきて、やっとの思いでここにいる僕からすれば、本当。
先輩の才能にまた俯き加減になる僕の前に、二股に分かれた道が現れる。
「じゃあ、先輩。色々聞いて貰ってすみません。確かここ、左でしたよね? 僕は右なんで」
「うん。よく覚えてるじゃん」
他愛のない話をしていると、いつも長かった筈の道程はあっという間に過ぎていった。ここを左に曲がって1㎞程先にこっこ先輩の家があるという。流石に行った事はなかったが。
「またね、たっくん。……部活、来てよね。掃除の件はこのこっこ先輩に任せときなさい。部長にもちょっと言っておくから」
こっこ先輩の珍しく見せる先輩らしさについ絆されそうになるが、僕は首を横に振っておいた。いくら部長と懇意にしているといっても、この部の体質を簡単にどうこうできるとは思えない。それで要らない手間をかけさせるのも心苦しかった。
「いや、いいですよ。どうせ長くても、二年になれば終わる事なんで。じゃあまた、明日」
軽く手を挙げて別れの挨拶を済ませると、今更ながら僕はある事に気が付いた
こっこ先輩と出会ってしまってから一ヶ月強。部活動中はしょっちゅう絡まれていたが、実はそれ以外でこうして話をしたのは初めてだった。
「たすくだから、たっくんだ、あはは」
……なんて初日に皆の前で言われて以来、部内では下手をすればバカップルとさえ認知されているが、実態はこんなところだ。お前らは部活に何をしに来ているのだと問い質したくもなるが、まあ普通の高校生はそういう事にばかり興味がいくものなのだろう。それは理解できる。
第一、何でこっこ先輩がこっこ先輩なのかも実はよく知らないままだ。でも彼女自身含め皆そう呼ぶからという、ただ、それだけの事で。
……というか、本名、本当に何だったっけか。
まあ、とにかく僕にとってこっこ先輩との関係は、もっとシンプルなものだ。目標。いずれ越えるべき障壁。そこには二人が男女である必要性など微塵たりとも、ない。
この人みたいに上手くなりたい。ただそれだけだった。
「……あの!」
去り行く先輩の背中へ、僕は念の為もう一度だけ声をかけた。
「何―?」
「今日言った事は全部忘れてください。僕も一応、美術部で上手くやっていきたいとは思ってるんで」
「まあまあ。そこは上手くやりますってー!」
調子良く手を振るこっこ先輩に一抹の不安を覚えながらも、僕は先輩をひとまず信用する事にした。
僕の流儀に則れば、他の誰よりも絵の上手いこの人にこそ逆らえないからだ。
「あ、河合君! ちょうど良かった。ちょっと話があるのだけど」
「はい?」
週明けの月曜日。昼休み、僕は渡り廊下で女子から擦れ違いざまに呼び止められた。誰かと思えば、部長だ。
あまり話した事がなかったけれど、この人も絵は上手い方だ。
僕はどちらかというと作品で彼女の事を覚えていた。美術室の窓から切り取ったものであろう、油絵の習作。山吹色に照らされた木々のきめ細やかな色遣いとそこに浮き上がった美しい稜線が、いつも掃除中に実物を眺めている僕からは殊更強く印象に残っていた。
……別に目を付けられるような事はしてないよな。話って、何だろうか。
おずおずと言葉を待っていると、部長は開口一番到底信じられない事を僕に告げた。
「えっと……しばらく、放課後の掃除しなくていいよ?」
「えっ」
何か壊したのか? 筆の扱いが悪かったか?
僕は思い浮かぶ限りのあらゆる可能性を模索したが、特に思い当たるフシはない。正直、当惑した。
「……な、何かマズかったですか。掃除の仕方とか」
「えっ」
そして何故だろうか。提案した側である部長までもが困惑しているように見えたのだが。
「……うーん。まあ男の子少ないのに独りで、しかも週何回もとなると負担かけ過ぎたかな。とは思って、た、んだけど……?」
「はあ……お気遣いありがとう、ございます」
「えーっと、まあ、うん。それと、今日から油絵やっても……いいよ?」
「ええっ?」
「あっ、次教室移動だから! じゃあ、ごめんね? そういう事で。また!」
部長は手を振ると、足早に北校舎方向へと去っていった。
……掃除に続き、また随分と唐突な話だ。同じく絵描きだった祖父から譲り受けた絵筆一式があるのに持って来てないや、残念……だとか、そんな呑気な事を言ってる場合でもない。
一体どういう風の吹き回しか。一日にして突如訪れた疾風怒濤の急転直下に、僕はますます混乱せざるを得なかった。
「……こっこ先輩、一体何をどう部長に言ったんだ?」
確かに結果としては最上なのだが、いまいちしっくり来なかった。
今日からはい描いていいですよ、なんて言われても、急にキャンバスを前に絵筆を握れる訳もない。
まずは題材と構図を考えて、納得の行くまで鉛筆を持つ手を動かし続けるだけだ。今回は緑色の瓶と林檎、静物画。モノクロの画面を作りながら、厚塗りの色に今から思いを馳せる。
油絵の面白いところは何と言ってもままならないところにある。その時の光の加減とか、筆や絵の具の調子だとか、数多の偶然により産み出されるマチエールは時に本物をも越えてしまうと僕は思っている。今もこうして写真とは別に絵画が生き残っているのが、何よりの証拠だろう。
そんな油絵が描けるのはまあ、素直に嬉しい……が。
僕は作業の合間合間に、こっそりとこっこ先輩の様子を窺っていた。本当は真っ先に礼を言うべきなのだろうけれど、まあ、ここでは色々ある。後にしよう。
今日も今日とて先輩は他の一年生に混ざってクロッキーを続けていた。やはり女子生徒の中にいると頭一つ抜けている分(どっちも本当に)目立つ。鉛筆をかざしたり、時折鼻の下にも挟んでみせながら、さらさらと線を紡いでいく。折角の美人が目減りしているのにそろそろ気付いて欲しい。
カルトンの向こう側はこちらから見えないが、きっとまたいつも通り会心の出来なのだろう。でも、先輩は決して威張ったりしない、気さくな、というか正直どこか変な彼女は他の一年生からも好かれているけれど、同時に新入部員達の夢とか希望とか今まで狭い学区で育ててきた自尊心を知らず知らず打ち砕いているような気がしてならない。僕のように。
そう言えば、とまた一つこっこ先輩について思い出す。
彼女が最後まで完成させた作品を、僕はまだ見ていない気がしたのだ。
厳密には、彼女の絵にはいつも色が付いていなかった。もちろん素描はそれ自身が一つのジャンルとしても確立されているけれど、うちの部活では基礎を終えた後、絵画なら水彩画か油絵へ最終的には進む事になる。
……まあ単純な理由で、多ジャンルにわたって出しておいた方が賞に引っ掛かる確率も上がると。そういったしょうもない理由だが。
そんな中でこっこ先輩は新入部員への自己紹介の時も、先輩達は自分の完成させた絵を一枚見せる決まりになっていたのに、
「いいよー、恥ずかしいし」
と独りお茶を濁して終わっていた。この部でそれがまかり通るのも凄いと思ったが、あのデッサン力ならどう転んでもそれなりのものは出せた筈なのに、という気持ちの方が僕の中では強かった。
もしかしてこっこ先輩は僕の知らない一年間、色の付いた絵を本当に一切描いてこなかったのだろうか。
……いずれにせよ、折角描ける人がちゃんと描かないなんて。
他の一年生と一緒になって笑っているこっこ先輩に、僕は不覚にも少しだけ苛立ってしまった。
その日の部活が終わった後、僕は早速先輩に「一緒に帰りませんか」と誘った。
昨日の今日で、部長との間に一体何があったというのだろうか。結局、構図を考えている間もそれが気になってしょうがなかった。
当のこっこ先輩はにやにやと、
「あれ、たっくんから誘ってくれるなんて珍しいね。これは、まさか、ついに告白……!?」
……なんて一人腰をくねらせていたけど、そこはスルーしておいた。
大体思春期の男女のたくさん集まる前で、その手のジョークはやっぱキツい。部長副部長のように全部解ってる上でひやかしてくるだけならまだしも、本気で付き合ってるものと勘違いしだす一年の女子とか、身を引いてくれないかと迫ってくる男の先輩とかが現実にいるのだから。
そういった面倒くさいあれこれを避ける為に、僕はわざわざ例のセブン=イレブンの店内で独り待っていた。そこまでするとかえって怪しまれて本末転倒な気もしたけど、まあここまで来て今更言ってもしょうがない。
サンデーだかマガジンだか少年エースだか漫画雑誌を手持ち無沙汰に読んでいると、遅れてやって来たこっこ先輩に背中をつつかれた。
「お待たせー」
うす、と軽く会釈してから、雑誌を元あった場所へと戻す。
「マンガ読んでたの?」
「そうっすけど」
「いいよね、マンガ。皆絵が上手くて」
僕はその一言に少し考えてしまった。
「いや、人によるんじゃないですかね」
「そうかな? ……どの絵も活き活きしてて、とってもいいと思うよ」
僕は反射的にパチンコ雑誌のコーナーを見た。絵が上手くないどころかめちゃくちゃ下手なくせに、それでものうのうと絵描きの世界の隅っこにかじり付いているような奴を、僕はあまり認めたくなかった。それこそそんな事に割ける紙幅がちょっとでもあるなら、こっこ先輩が代わりに描いた方がずっと有意義だ。
いつもの謙遜なのだろう。そう自分に言い聞かせ、話題を少し逸らす。
「先輩は漫画好きなんですか?」
「うん、好きだよー。休みの日はマンガ喫茶にもよく行くし」
えへへ、とかわいらしく笑ってみせるこっこ先輩とは裏腹に、僕は彼女に対して更なる引け目を感じてしまった。
無理な相談とは解っていても、何かもっと凄い事を言って欲しかった。せめてラクガキ程度でも絵を描くとか、美術館に足を運ぶだとか。僕はそんな先輩に追い付く為、こうして帰った後も休みの日も、練習を欠かした事は一日たりともないというのに。
ウサギとカメのように、才能を努力が越える日なんて永久に来ないのだろう。大体あれも生涯たった一度勝ったという大まぐれをわざわざお話に起こしただけであって、根本的な解決には何にもなっていない。
結局ウサギは足が速い。カメはのろま。それだけだ。
「どしたの? たっくん」
「……いえ、何でもないっす。行きましょうか」
「あ、うん」
僕は自分から呼んだ先輩を半ば振り切るようにして、出入り口へと急いだ。
「先輩。昨日あの後、部長に何て言ったんですか?」
「え」
からからと自転車を押している最中、前を行くこっこ先輩が不意に立ち止った。
「うおっ! 急に止まらないでくださいよ!」
「あっ、ああー、ごめんね?」
「……いや、その。すみません」
……何より先にまずはお礼を言うのが筋なのだろうけど、どうしても腑に落ちなかった。
僕以外の一年生には一切知らされていなかったみたいだし、第一、部長とは言え個人の独断専行がまかり通るほど柔軟な部だとはやはり思えない。いくら先輩と部長の仲が良いと言っても、それはそれでちょっと公私混同、というか。
一方こっこ先輩は僕の質問には答えず、自慢げにんふふ、と鼻を鳴らすのみだった。
「驚いた?」
「そりゃあ、まあ。随分急だなあ、とは。でもそんな簡単に話通るもんなんですか? ほら、部長はともかくとして江上先生とか……」
江上先生は我らが美術部の顧問だ。熱心な部活の熱心な先生らしく、自分を置いて勝手に話を進められるのを嫌う。元々旭高美術部における、体育会系な部分は全部彼女の影響らしい。ならば尚更、と思ったのだが。
「あー……エガちゃんかー……」
……先輩の顔色から見る見る血の気が失せていくのが夜目にも判った。
でも、それだけではいまいち説明がつかない。順当に考えればいくら先輩が提案したところで、部長がストップをかけるなり少なくとも江上先生にお伺いを立てたりは最低するだろう。
ぶっちゃけると、部内でこっこ先輩の暴走を止められるのは部長しかいない。最後の砦である部長までもが一緒になってその場のノリで物事を決め出したのならば、それは美術部の崩壊を意味する。
「で、でもっ、これから早く帰れるのは嬉しくない?」
「嬉しいっすけど……」
何も考えず、先輩の好意を素直に享受するべきだったのだろうけど。
「真っ先に、自分が何かやらかしたのかと思いましたね」
「え、何で?」
「いや、いきなり責任ある仕事を外されたりしたら、やっぱり疑うものでしょう。どこか鍵かけ忘れてたりだとか」
「昨日一緒に帰った時はそんな事なかったよ? 私も見たし」
「じゃあ、道具の扱い方ですかね」
「……や、だから絶対そうじゃないって。たっくん、ちょっと考え過ぎー」
嫌々とは言え、こっちも与えられた仕事は一応真面目にやっているつもりだ。流石にそれで文句を言われてしまっては沽券に係わるし、実際のところ思い当たるフシもない。むしろ何度か、別の先輩から褒められてこそいるというのに。
「どうしても気になりますよね。普通」
「う、いや……まあ、そう言われるとちょっと、確かにそうかも……」
僕は溜息を一つ吐いた。
「……で。本当のところ、どうだったんです?」
改めて問い質してやると、こっこ先輩は目に見えてたじろいでいた。
こっこ先輩も先輩なりに僕の事を心配してくれたのだと思うけど、ノリの良さが裏目に出て結果暴走する事もあるのは周りからも聞かされていた。そこも含めて憎めないのが魅力なのだとも一部の先輩から語られたが。
「だ、だってこのままだとたっくん辞めちゃうかと思って……」
「……それで、あいつには任せておけないよね、みたいな風に?」
「ちょっ! そんなん言ってないよ! ただ……」
「ただ?」
「……」
少し意地悪な聞き方をしている自覚はあった。でも誰かがこういう役回りを担わなければ、いずれ大きな問題に発展しかねない。それじゃこっこ先輩があまりに不憫過ぎて……
「……あーーーーーーーーーーーーっ!」
「へ?」
「もーいい、もー知らないっ! たっくんのバアアアアアアアカ!」
先輩が、壊れた。
無言の圧力に堪えかねて叫び出したかと思うと、自転車にばっと跨って、捨て台詞と共にペダルを踏み抜きかねない程の全速力でこの場から走り去っていった。
……幸い辺りには誰も居なかったが、あんな大声で叫ばれると痴話喧嘩か何かと付近住民に思いっきり間違われそうだ。家からまだ遠くて良かった。
決して悪い人じゃないんだけどなあ、と、もう一つ溜息が漏れる。
ともあれ、明日部長には「やっぱいいです」とだけ言っておこう。それから改めてこっこ先輩に「お気遣いありがとうございました」と謝りに行こう。
……それで、済む筈だったのに。
「……えっと。それ、何の話かな?」
「へ?」
翌日。僕は部長のクラスまで足を運んでもう一度件の話をしに行った。
しかし当の部長は僕の首を傾げるだけで、一向に思い出してくれなかった。
「いや、あの。昨日お話頂いた掃除の件なんですけど……」
「んー……したかな? そんなの」
と、こんな感じで会話はいつまで経っても平行線を辿っていた。僕は他ならぬ部長の口からはっきりと聞いたし、その事に一切疑いはない……
……けれど、そこまでハッキリ言われるとむしろ僕の方が自分の記憶を疑い出してしまう。それほどに部長のきょとんとした表情には説得力があった。
いや、そんな筈はない。昨日今日の事を平気で忘れるなんて、こっこ先輩じゃないんだから。
「……あー、僕の勘違いでしたかね?」
いずれにせよ、ここでこれ以上食い下がるのも得策ではない。哀しきかな先輩と後輩の間柄。まあ大方江上先生までは流石に話が通らなかったから、変に期待を持たせれしまった手前何とかしらばっくれようとしているのだろうと、そう判断して僕はその場を辞した。
まあ、現実はこんなもんだ。むしろ問題が一つ片付いてせいせいしたくらいだ。
……真の問題は、次なんだけど。
昨日の別れ際のこっこ先輩を思い出して、僕は心底げんなりした。
あそこまでへそを曲げられると正直面倒臭そうだ。でも向こうとしては好意でしてくれた訳だし、やはり結果や過程がどうであれまずは一言お礼を言っておくべきだったのだ。
僕は教室へ戻る途中トイレへ寄って、こっこ先輩へ『お昼空いてますか』と短いメールを送った。
『大丈夫よん』
とすぐに返信は来たが、果たして。
「えーっとお、それ、何の話かなー?」
「いや、いくらなんでもおかしいです。あなたがそれ言っちゃうのは」
ぺろ、と舌を出してごまかそうとするので、そこは流石にツッコませて貰った。
……菓子折りならぬ購買の菓子パンを手土産に、屋上でこっこ先輩と落ち合ったのだが。
陽の当たる所に座るなり、とりあえず一言詫びを入れたら
「え。そんな、いいよー、全然。昨日は私の方こそ、ごめんね?」
なんて柄にもなくしおらしくしてみせたので、ちょっと騙されそうになったのを僕は否定しない。しかし掃除当番の件に触れた瞬間、こっこ先輩は恐ろしい程の白々しさで話題を逸らそうとしてきたではないか。
……何度でも言おう。流石にそれは無茶だ。
「いや、だから掃除当番と油絵について部長と話をしてきたんですが、何か最初からなかった事になっててですね……」
「えー? 私も初耳だなあー。それ」
「じゃあ何で、さっき昨日の事を謝ったりしたんですかねぇ……?」
遂には口笛を吹き出した。先輩。それもあまりに古典的です。
部長と口裏を合わせて、このまましらを切り通そうとでもいうのか。いや、あまりにも無理がある。どうせこの人の発案なのだろうけど、肝心のこっこ先輩がこれじゃ本末転倒だ。対する部長の演技が堂に入り過ぎていた事もやはり気になったが、この温度差の正体は一体何だろうか。
そもそも、今回に限った事じゃない。一番初めに掃除免除の話が出た時も部長はどこかぎこちなかった。
まるで、言わされていたみたいに……。
当のこっこ先輩はそんな僕の疑念もどこ吹く風と、長い脚を窮屈そうに抱えてメロンパンを頬張っていた。あと少しであぐらをかきそうなところをギリギリで耐えているのが却ってもどかしい。別に僕しかいないんだから、気にする事ないのに。
「食べる?」
「……いや、いいす」
食べかけをちぎろうとするこっこ先輩を制してから、僕はふと空を見上げた。梅雨明けの近い事を予感させる、雲一つない快晴だ。照りつける日差しの下、コバルトブルーの深さに吸い込まれそうになる。
……全く何やってんだかな、と、僕はまた溜息を吐いてしまった。
「……何かもう。こっこ先輩って、宇宙人なんじゃないですか?」
これは特に大した意味もない、ただのぼやきのつもりだった。宇宙まで続いている蒼穹を目の当たりにして、諦めとともにそうかもな、と呟いただけだ。
でも反則なくらい絵が上手くて、美人で。でもどこかズレてて。そんな先輩を形容するには、我ながら相応しい言葉だと思う。
実際、才能のある人間はよく宇宙人に例えられる。もう根本的に自分とはどこか違うのだろうという、自嘲めいた諦めを込めて。
でもあろう事か、こっこ先輩はこんな時に限って僕の冗談に笑う事もせず、
「えっ。あっ、ううん? ちが、違うよ?」
と、挙動不審の極みを見せていた。
「え、あの……何か俺、変な事言いましたか」
「べ、別に? ただわた、私が宇宙人だなんてまたそんなこっ、こっこ、えと、いや、滑稽な事を言うのだねたっくんは」
宇宙人だなんて、実際口にしてみた僕ですらいくら何でもとは思う。
しかし……何よりも、こっこ先輩は嘘を吐くのが壊滅的に下手なのだ。皮肉にも、彼女の口から語られるどんな真実よりも嘘の方にこそ信憑性があった。
馬鹿げてる、とまだ心のどこかで思いながらも、先輩の反応が面白かったのでこの話を続けてみる事にした。
「……まあ、普通の人だとは最初から思ってませんでしたけど」
「や。だ、だから、違いますってばー!」
僕だってそんなアホな、というのが正直な感想だ。ただ、先輩が部長の記憶を都合良くいじったとしたら全て辻褄が合う――なんて。そんなSFめいた妄想をほんの少ししてしまっただけで。
しかし、実を言えばもう一つだけ思い当たるフシはあったのだ。
「……なら、こっこ先輩。最後に一つだけ聞いてもいいすか」
「えっ。な、何かしら。私宇宙人じゃないけど」
「本名、何ていうんです」
「……たっくん。それ、聞いちゃう?」
先輩の一言に躊躇いを覚えたが、それでも僕は続けた。
「考えてなかった。ってところですか」
それもその筈だ。部の人間に訊いて回っても、誰一人として答えられなかったのだから。入ったばかりの新入部員ならまだしも、同じ学年である二年生ならいくらなんでも知っているだろう。
そして問い質してみても、誰も追及しようとしなかったのだ。
『いいじゃん。こっこ先輩は、こっこ先輩で』
いつも会話はそこまでで終わる。自分でこっこ先輩、或いはこっこと名乗っていたのも単なるイタいキャラ付けなどではなく、こうしてちゃんとした理由があった訳だ。
こっこ先輩は最後までちょっと悩んだ様子で頭を掻いていたが、その内にすっとその場に立ち上がり、ひとつ大きく伸びをした。
「んー……まーしょうがないか。授業も受けずに部活だけ出てたりとか、ちょーっと無理あったし」
「え、受けてなかったんですか?」
「うん。暗示も同時にかけられる人数に限界があるし。だからたっくんを始めとする一部の人はちょっと効果が薄かったのかも、なんだけど」
「暗示……じゃあもしかして、部長の意見がころっと変わったのも」
「……記憶を、少々」
僕は唖然とした。
「少々って……」
「あっ、でもそんなに変えてないから! 他はもう、全然!」
ここまで来るといっそ開き直ったのか、一通り喋り終えた後でふう、と一拍置いて、先輩はもう慌てた様子も一切見せずに、改めてこちらへと向き直った。
「というわけで、宇宙人です」
びしっと右手の掌を胸の前へ突き出してみせたのは、宇宙式の挨拶か何かだろうか。とりあえずは普段と同じままのこっこ先輩の調子に、僕は少しの間止めていた息をぶはっと一気に吐き出した。
『機密を暴かれたからには生かしておけぬ、死ねー!』
……なんて展開だって、ハードなSFなら普通にあり得ただろう。
「んふふ。ね、驚いた?」
「は、はあ……」
何も変わった様子を見せない彼女にそうとしか答えようもなかったのだが、こっこ先輩はこちらの無味乾燥なリアクションを目の当たりにして「えー……」と、露骨に不服そうな声を上げた。
「……私としては、清水の舞台から飛び降りたくらいの大告白だったんですけど?」
「まあ、あの。驚き過ぎて何も言えないって事で、ひとつ」
「うん。ならばよし!」
とは言ったものの、いざ宇宙人と対面したというのに感動は意外と薄かった。いや、実感が足りていないのか。だって宇宙人だっていうからには
「あのさー、たっくん。その8本の足のある古き良き宇宙人のイメージだけど、いずれにせよ生き物には違いない訳でしょ。で、宇宙で生き物の棲める環境自体、結構限られてると思わない? ましてや知能を持つところまで進化しようと思うと、大体同じパターンに絞られるよ。結局」
「えっ」
思考を、読まれていた。
……それもそうか。人の記憶を改竄できるのなら、これくらい造作もないだろう。こっこ先輩はいつもの調子で自慢げにⅤサインなんかしてみせるけど、僕の方は今ので一転、完全に戦慄してしまった。
まだ思考を読める状態だったのだろうか。それとも表情に出ていたか。
こっこ先輩は「本当は、あんまりよくないんだけどね」と、一転気まずそうに笑った。
「……えっと。じゃあ。ま、そういう事で」
そして手を振るなりそのまま立ち去ろうとする先輩の腕を、僕は反射的に掴んだ。
「ちょっ! 痛いよ、たっくん」
「そういう事って、どういう事ですか」
その答えを聞くまで、僕は強く握った手を離せそうになかった。掌は嫌な汗で湿り、こっこ先輩の白い肌は僕の手の形に赤くなっていた。
「……バレたら、関わったみんなの記憶を消して帰らなきゃいけないって決まりなの」
「誰とのですか」
「誰と、とかそういう小さい話じゃなくて……星間条約の結ばれてない星に行くのは、まだ基本的には禁じられてるから。文化の摩擦とか、倫理の成熟に伴わない、技術の飛躍的発展とか……」
「俺、黙ってますから」
彼女がいつになく真面目な顔をして言った事は、あまりSFに慣れ親しんでこなかった僕にだってどれもなんとなくは解る。確かに大問題なんだろうけど……
……それでも、僕のせいでこっこ先輩がここから居なくなるのだけは、どうしても考えたくない。
「……たっくん。ありがとね。でも、私は君が考えてるほど凄い先輩でも何でもないよ。絵とかもう、全っ然上手くないから。それに美術部のみんなにだって、一方的に暗示をかけてた訳だし……」
……ああもう。やっぱ読まれてたか。一番イタい、肚の底の底まで。
僕はしばらく何も話せなかったけど、それでも手に籠めた力だけは緩めなかった。この手を離したら最後、永久に会えなくなるのは目に見えている。
「……ほら。昼休み、終わっちゃうよ」
「……」
考えている事が全部筒抜けなのだと改めて意識すると、思考の焦点が定まらず頭の中が段々ぼんやりしてきた。そうでなくとも、昨日の今日でいきなりこんな大事に巻き込まれたら、混乱しない方がおかしい。
でも、もう知られてるなら、それでいい。混乱も何も、最初から最後まで徹頭徹尾、俺から、こっこ先輩にはたった一つしかなかった筈だ。
「ちょっ、たっくん……」
先輩を引き連れたまま、僕はフェンス前ギリギリの所まで歩み出た。
眼下には広がるグラウンド。やや上を向いて、遠く、中空に的を絞る。
喉を開け、腹に思いっきり力を込める。音楽の授業は大嫌いだったけど、意外と役に立つ時もあるらしい。
僕はそのまま大きく息を吸った。
「前! 言! 撤ッ! 回ッ!」
こっこ先輩が反射的に耳を抑えようと身を捩ったが、もちろん手は繋がれたままだ。ごめん先輩。でも、最後まで聞いて欲しい。
「あーもう、宇宙人とか関係ねぇ! ……俺はっ、俺の中ではっ! 絵で、あんたに勝つ。今はとにかく、そんだけなんだよ!」
……言った。言ってしまった。
壁も天井もないこの場所で、誰にも遮られる事無く、僕は自分の本当の気持ちだけを叫び出していた。
「こ、声が大きいってば! 人、人居るからっ!」
「俺は才能の上に努力を積み重ねてきたし、これからもそうする。歳だとか、ましてや宇宙人だからって、そんなんが理由になるか! 上手くなって、いつか越えていくだけだ。だから、だから――」
もうちょっと、時間をくれと。
僕はようやく手を離して、こっこ先輩に深く頭を下げた。
「無理言いますけど……僕、こう見えて結構執念深いんすよ。だから絵であなたに勝つまでは離しません。絶対に」
「たっくん……」
困惑した様子の先輩を前に、昇った血がどんどん引いて冷静になっていく。
……あれ? もしかして自分、すっごく恥ずかしい事言った?
変な汗が全身を伝い平衡感覚をすっかり失った頃、先輩は告げた。
「えと……じゃあ、夏休みが終わるまで、なら」
「あっ……はい。よろしく、お願いします」
そんなやり取りに、僕らは二人して顔を赤らめてしまった。断じて違うのだと言い聞かせながらも、言うに事欠いて『離しません』『よろしくお願いします』だなんて。まるで違う風に聞こえてくるじゃないか。僕のバカ。
……こっこ先輩も。いつもあんだけふざけてちょっかいかけてくるくせに、どうして今日は俯いたまま黙ってるんですか。何か言ってくださいよ。
かくして僕の人生で、一番長い夏休みがこれから始まろうとしていた。
……とは言ったものの。
僕は夏休みが始まるまで毎晩、ベッドで天井を見上げては『先輩に勝つ方法』というのをずっと必死に考えていた。
絵で具体的に何がどうなったら勝ちなのか。実際のところ、その辺りは全然思い浮かばなかった。これが今まで通りこっこ先輩の卒業まで、という区切りだったならばいくつか大きなコンクールもあったけど、今から描いてすぐ出したところで、結果を待っている内に先輩は帰ってしまう。
第一、こっこ先輩はもう旭高美術部員ではなくなってしまった。一応けじめを付ける、なんてらしくない事を言い出し、あの場で僕以外の美術部員にかけていた暗示を解いた上で、先輩にまつわる全ての記憶と記録を消したのだ。
そして僕に、夏休みの交換条件として先輩が今まで描いて部室に取って置いてあった絵の処分を命じた。僕は密かに自分の家へ持ち帰ってやろうと考えていたが、やはりこれも考えを読まれてバレてしまい、結局焼却炉まで立ち会わされた。
自分の描いた絵に愛着はないのか、何故ここまでするのかと燃え盛る作品の前で問い詰めると、曰くモノ、というものはそこに遺してあるだけで、誰かが居た証拠として記憶を喚起させる危険性があるのだという。
暗示は暗示でしかない。だからこそ彼女は、美術部以外の場所へと干渉しなかったのだろう。写真にも写らないよう特殊な電磁波処理をしているらしく、実際に携帯電話のカメラを向けてみても液晶にこっこ先輩の姿は映らなかった。
それ以来、部室でこっこ先輩の名前を口にする人はぴたりと居なくなって、僕も黙々と絵を描いては掃除して帰る日が続いている。
先輩が居ないと僕はこんなにも話さなかったのかと、いずれ来る日を前倒しにして初めて、あの何でもなかった日々の素晴らしさを思い知った。
……考えれば考える程、話がどんどん逸れてしまう。
僕はもうタオルケットを頭まで引っ被って寝てしまう事にした。
そして夏休み初日。午前八時前。
蝉が命がけで喚き散らす中、僕は先輩が暮らしているというアパートの、103号室のチャイムを鳴らした。
……が、出ない。
もう一度押してやる。携帯を鳴らす。こっちも出ない。というか宇宙人がどうやって携帯電話を購入したのか気になったが、ちょっと怖くて聞けなかった。
しびれを切らし、チャイムを連打してやるとピンポピピンポピンポーンと不協和音がこちらにまで鳴り響く。学校の授業もまともに受けていなかった事を考えると、きっとまだ寝ているのだろう。まあ、こっこ先輩だし。
……折角の夏休みだから寝かせておいてあげたいけど、僕にとっては残り少ない貴重な時間だ。申し訳ないけど、付き合って貰おう。
「うるさーーーーーーーーーいっ!」
その内堪えかねたこっこ先輩が飛び出して来る。ここまでは計算通りだ。
……が、問題はその格好だった。
どこで買って来たのか全然判らない『るちゃどーる』と筆文字で書かれたどギツい赤色のTシャツに、下はあろう事かグレーの味気ない下着のみ。
幸いにも周囲には誰も居なかったが、正直、目のやり場に困る。
「あれ、たっくんじゃん。何で制服着てんの?」
「ちょっ、先輩! いいからとりあえず服、服着て!」
「あっ。えーっと……じゃ、上がる? 着替えてる間、あっつい外で待って貰うのもアレだし」
「え」
この予期せぬ展開に、僕の思考回路は凍り付いてしまった。
宇宙人だが、女子。先輩の独り暮らし。いいのか。僕、いいのか。
……しかしまあ、とにかく一刻も早くこっこ先輩には部屋の中へと戻って貰わなければならない訳で……
「……ははーん」
しまった、と心の中で呟く。そう言えばこの人、思考読めるんだった。
「上がってもいいけど、変な事すんなよー?」
「しません! 朝一番からなんて事言うんですか!」
「え、泊まった翌日の朝の方が危険らしいけど」
「知りませんよそんなん!」
「んふふ。ま、たっくんなら大丈夫かな。テレビでも見て待っててよ」
その余裕にもちょっと複雑な気分になったが、これ以上何を考えてもあまりいい展開にはならないだろう。僕は黙ってお邪魔する事にした。
「何もないけど」
「そっすね」
世辞も何も即答せざるを得ない程、何も無い部屋だった。
置いてある生活用品と言えば、折り畳み式の小さなテーブルと、シンプルなデザインの姿見。部屋の隅に追いやられた古いテレビからは朝のニュース番組が流れている。……拾って来たのか判らないけど、今時ブラウン管とは。そもそもよく映るな。
そして窓際には壊れかけのイーゼルが、布を被せたままで置いてあった。これは知っている。以前部室で廃棄処分になりそうだったものをこっこ先輩が背負って帰ったやつだ。ガムテープぐるぐる巻きな修繕の跡が生々しい。
「こっち見んなよー?」
「……見ませんよ」
で、こっこ先輩はどこかと聞かれれば、ロフトだ。テレビも上からリモコンで点けていた辺り、生活に必要な多くの物は全部あそこに押し込めてあるらしい。
すぐ動かせるようになっているテーブル然り、割と絵の事を考えているみたいで内心ほっとした。
どんな絵を描いてるんだろう。僕は何気なく作品を隠している布に手をかけた。しかしすぐに「あ、それダメ!」とこっこ先輩からNGが入る。
「絵ですよね?」
「……絵、なんだけど。まだ完成してないからそれはダメ、絶対。っていうかたっくん、ずっと立ってないで座りなよ。もうちょっとかかるから」
「はあ」
先輩の描いた絵。正直、気になる。が、家主の反対を押し切ってまでも、とはいかないだろう。僕は諦めてその場に腰を落ち着けた。
「あ、それより、たっくんって何座?」
「てんびん座ですけど」
テレビからは朝の星座占いが流れ始めていた。てんびん座の今日の運勢は十二星座中六位。いつも一位か十二位を取っているイメージのあるてんびん座からすると、結構珍しい気がするのは僕の思い込みか。
「先輩は?」とつい反射的に聞いてしまい、僕は少し恥ずかしくなった。そんな非科学的な風習が宇宙にあるとはとても思えなかった。
けれどこっこ先輩は意外にも、よくぞ聞いてくれましたと嬉しそうに答えた。
「面白そうだったから計算してみたんだー。多分私、さそり座だよ。さそり座の女」
……本当、地球のどうでもいい事に詳しいな。この人。
「面白い事考えるよね。空の星に産まれた日を当てはめるなんて」
「先輩の星ではそういうの、ないですか?」
「ないねー。心の余裕のない、つまらない人ばっかだから」
その一言に僕は違和感を覚えた。こっこ先輩が他人をここまで辛辣に評価したのを、初めて聞いた気がしたからだ。
こっこ先輩の星。宇宙の黒。今の地球の技術じゃ何光年先にあるのかも怖くて聞けなかったけど、先輩自身は自分の星があまり好きじゃないのだろうか。少なくともこっこ先輩を見ていると、そんなに悪いところじゃ無さそうだけど。
「で、今日は制服なんか着てどうしたのさー」
そんな事言われても。夏休みに高校生がわざわざ制服着て行くところと言えば、一つだろうに。
「学校ですよ。部活に決まってるじゃないですか」
「えっ? でも、私もう部員じゃないんだけど……」
「部員じゃなくても、別に行けますよ」
「ウソ」
先輩の語気はいやに断定的だった。やっぱり、部員に対して引け目を感じたままだったのだろう。だったら尚更、このまま帰す訳にはいかない。
「嘘じゃないですって。話は付けときましたんで。あ、先輩は私服でいいです。……流石にそのTシャツじゃマズいですけど」
「? あれ、余計判らないよ、たっくん?」
「まあ、任せといてください」
「……という事で、旭高志望の僕の従妹が、夏休み中一緒に部活へ参加する事になりました。ほら、こっ、いや、琴子ちゃん。あ、挨拶を」
「あ、赤星琴子です。よろしくお願いします。こっこ、って呼んでください」
僕に促されるままお辞儀してみせるこっこ先輩にでけぇ、大きいと、声が次々に上がった。そりゃそうだ。高校二年生でも充分背が高かったのに中学三年生と言われてしまっては、尚更そう感じるだろう。
先輩は顔を赤くして俯いてしまったが、まあ、報いというか通過儀礼としてここは割り切って欲しい。僕だってもう一度先輩がここに来られるよう、偽名を考えたりとそれなりに努力はしたのだから。
まあ、我ながら妙案だったと思う。ちょっと体育会系の入った部活だからこそ、ここに本気で入りたい、という者を拒める訳がないのだ。江上先生も、夏休み前に志の高い女生徒の話をするやいなやすぐに快諾してくれた。……本当、こういう時は扱い易くていい。
早速懇親の意味も込めて、上級生下級生を交えた大デッサン大会が始まった。
最初はこっこ先輩も不安そうだったが、明るく、絵の上手い彼女の周りには皆が自然と集まっていた。
これなら最初から暗示なんて使わなくっても大丈夫だったんじゃないか。僕は出来上がった作品の彼我の差には相変わらず凹みながらも、そこだけは素直に喜べた。そしてこっこちゃん、こっこちゃんと親しげに彼女が呼ばれているのを聞いて、折角考えた偽名すらも無駄になってくれそうだと、独り胸を撫で下ろした。
ただ「どこかで会った事ない?」と、件の「身を引いてくれないか」と言っていた先輩からも声をかけられていたのが気にかかったが、別にあれはこっこ先輩の記憶操作が完全ではなかったとか、そういうのではないのだろう。
この部室で、やっとまた心の底から笑えた気がした。
こっこ先輩と二人で帰るのは随分と久しぶりだった。
従妹さんを遅くまで待たせては、という粋な計らいで夏休み中の掃除当番を回避した僕らは、いつものセブン=イレブンでアイスを買って、それを食べながら自転車を押して歩いた。図らずも先輩の僕に対する気遣いは、今となって結実した訳だ。全く、世の中何が起こるかわからない。
「色々、ありがとね」
ソーダ味のガリガリ君を丁度咥えていた僕は、ただ首を横に振って応えた。ギブ&テイクじゃないが、勿論僕の方にも考えはあっての事だ。それに、何だかんだ言っても部活を休むのは気が引けた。絵から離れたくないのは勿論だけど、嫌な物事から逃げてしまうのも良くないと思う。
「ね、アカホシコトコって名前、たっくんが考えてくれたの?」
「結構適当ですけどね。琴子、はこっこの逆輸入で、赤星、っていうのも今朝、先輩の話を聞いて急遽決めた名前ですし」
「? 今朝? 何かあったっけ?」
「アンタレスですね。地球から見て、さそり座で一番明るい星。日本語で赤星っていうんです。元々星って字は苗字に入れようと思ってたんですけど」
「へー、そこまで考えてくれたんだ」
夕映えを背景に、まじまじとこちらを見てくるこっこ先輩に僕は思わず視線を逸らした。本当にそんな必死で考えた訳でもないのだけれど、何故だかいやにこっ恥ずかしくなってきてしまった。
「……ま、今日の様子を見てる限り、必要無さそうでしたけどね」
「ううん。たっくんが折角つけてくれた名前だよ。大切にするね」
そうですか、良かったですと相変わらず味気ない返事しかできなかったのが内心もどかしかったけれど、喜んでくれたのなら何よりだ。
「あとそう言えば、こっこ、って名前はどこから来てるんですか?」
「本名の一部だよ。でもそのままこっちの名前に当てはめるのも難しそうだったから、あだ名ならいいかなって。何かさ、自分で自分の名前考えるのって難しくない? 真剣に考えれば考えるほど、わかんなくなっちゃって」
そう言って、こっこ先輩は手に持っていたガリガリ君の最後の一口に喰らいついた。
「あっ」
「おっ」
瞬間、二人の声が重なり、また笑ってしまった。当たり棒。さそり座の一位は伊達じゃなかったらしい。
「お礼しなくちゃね。ね、たっくん。今度の日曜、空いてる?」
僕は頷いた。部活が無ければ、夏休みだからといって特にやる事もない。絵を描かなくてはとは思うけど、そこまで野暮でもないつもりだ。
「実は、こんなんあるんですけど」
先輩が財布から取り出したのは県美術館で今やっている、生誕百周年を記念したダリ展のチケットだった。
「ダリですか」
「そ。私の大好きなサルバトーレ・ダリ。お嫌い?」
「いや、そんな事ないですけど」
でも本音を言うと、僕の目指すところではない。上手いのは間違いないけれど、絵を描く人間はただ黙々とやっていればいい、と僕は考えている。商業的なのはともかくとして本人がアート、という考え方は引っ掛かる。
けれど、それ以上に何故こっこ先輩がダリを選んだのかというのがどうしても気になった。まだ作品を見ていないから何とも言えないけど、クロッキーを見て先輩は写実派寄りなのだとずっと思い込んでいたからだ。
「っていうかこれ、どうしたんですか」
「貰い物だよー。新聞屋のおじさんの言う事にふんふん、って適当に頷いてたら、くれた。アンケート答えるだけでこんなにいい物くれるなんて、何か凄いね。地球って、日本ってそうなの?」
……宇宙人だ。やっぱりこの人、宇宙人だ。
「……先輩。それ、多分新聞の勧誘です」
「えっ。あー、そうなんだ。でも、8月で帰っちゃうし、いいよね?」
「いいんじゃないですか、もう」
「んふふ、初デートだ」
……考えないようにしてたのに。
そうやっていざ言葉に出されると、やはり意識せざるを得なくなってしまう訳で。
そして日曜日。僕らは最寄りの駅で待ち合わせ、連れ立って地下鉄に乗った。
こっこ先輩がまた変なTシャツを着て来るんじゃないかと心配していたが、今度は割と普通の格好だった。黒いワンピース型のキャミソールにグレーのTシャツ、下にはデニムのショートパンツ。そこからすらっと覗く白い脚は僕ら男子の注目を引くには充分だ。
絵だけでなく服もモノトーンが好きなのだろうか。そう思ったけど、女の子の着てくる服にいちいち感想が言えるほど僕も詳しくなかったからやめておいた。
地下鉄の車窓には当然ながら何も映らない。目的地までずっと黒一色だ。おかげで乗車中、間を持たせるのにも一苦労だった。先輩を隣にしてまさか一人本を読み出す訳にもいかないし、車内の吊り広告の話なんかしても面白くないだろう。
そんな事を考えていると、こっこ先輩の方から話しかけてきてくれた。
「実は、地下鉄乗るの初めてなんだ」
「え。あっ、そうか。ですよね。そりゃ、そうかも」
基本的な事をどうしても、つい忘れてしまう。僕からすればいつもの風景でも、この人にとっては何もかもが新鮮なのだ。
「僕も結構久しぶりですよ。休みの日はずっと部活ばかりでしたから」
「だよね。エガちゃん気合い入れ過ぎ。こうやって観に行くのも、いい勉強になるのにさー。一度くらい、部のみんなで行っても良かったよね」
僕は来る十月に予定されていた、部での鑑賞会の事を思い出した。
「……すみません。僕が変な事言ったばっかりに」
「あ……そういう意味じゃなくて、自主的にね? 別に学校で決められたやつだけじゃなくて、自分たちで企画して行っても良かったかなーって。……といっても、私の言えた立場じゃないんだけど。実際、やっぱり言い出せなかったし」
「僕は先輩と行ければ満足ですよ」
そもそも美術館なんて大人数で行くところじゃない。話の解らない奴とだらだら回るくらいなら、見識の高い、信用できる人間と二人ないし三人で行った方が絶対価値がある――
――と言いたかったのだけど、よくよく考えればそんな真意が伝わる筈も無く。僕はまたこっこ先輩を赤くさせてしまった。
……ダメだ。ここのところ、どうもダメだ……。
「もう、本当にすごかったねー!」
キンキンに冷えた抹茶フラペチーノを片手に、こっこ先輩は目を輝かせて言った。
僕も素直に頷いたが、多分先輩の感動には敵わないだろう。こうしてスタバに来る前、美術館の中から既に声を出せないのをかなりもどかしそうにしていたから。実際、こちらも凄く勉強になった。食わず嫌いというのは結構勿体無いものなんだなと、言えるくらいには。
しばらくは次々とあふれ出してくる先輩の言葉を、ひとつひとつ受け止めていくので精いっぱいだった。それでも悪い気の一切しなかったのは、先輩の人徳だろうか。
「絵そのものももちろんだけど、何かね、いいよね。昔の絵がああやって大切にされて、今までずーっと残ってるのって。関わってきた人たちの愛を感じちゃうね」
「そうっすね。扱う人もそうですけど、何と言うか、絵画側にもオーラがありますよね。こいつに手を出したらマズい、って、本能的に思わせるような……」
慣れないブラックのコーヒーを啜りながら率直な感想を言うと、先輩が急に身を乗り出してきた。
「あ、それもわかる。やっぱ絶対何かあるよね! ……私ね、実はそれを研究する為に地球に来たんだ」
「え、そうなんですか?」
「うん。……私の星ね、あんまりそういうのに関心がなくって、代わりにみんな資源とかお金の事でケンカや戦争ばっかりしてる。でね、世界平和とかって、もうそういう美術とかの方向からアプローチしていくしかないと思うの。日本だって、第二次世界大戦の時に京都や奈良は空襲を免れたんでしょ?」
「とも言われてますけど……普通に文化財は沢山燃えてますし、どうなんでしょう。でもまあ、悪くない発想だとは思います」
「でしょ? けどなかなかね、みんな解ってくれないんだー」
以前言っていた『心の余裕のない人たち』のくだりだろうか。
地球だってテロリストが歴史的価値の高い石仏を破壊したりしてるけれど、もし美術的な感覚が全体的にあまり育っていなかったら、もっと殺伐としていたかも知れない。
いい悪いはともかくとして、先輩は向こうでも変わり者だったんだなと、得心が行った。でも、そういう人が歴史を変えるのだと思う。
「先輩の星って、遠いんですか?」
「遠いねー。少なくとも、千葉県茂原市よりは」
何と言っても本物ですのでと、先輩は鼻を鳴らした。
「よくわからない例えはいいですから。……僕も一度行ってみたいんですけど、って言ったら、連れてってくれたりしますか」
半ば無理と解っていて聞いたが、それでも行き来できるのなら一度帰った後でまた会えたりはするかもしれない。
そんな一縷の望みに、先輩は真剣な顔で答えた。
「……もし帰ってきた後で、自分の知ってる人たちが全員死んでてもいいなら。それこそ、浦島太郎みたいにね」
「あ……相対性理論、ですか。アインシュタインの」
「うん。光の速さで進むと時間の流れが遅くなるってやつ。もう地球でも気付いてる人がいたのは、ちょっとびっくりしたかな。あれ、本当だよ」
「えっ、でもそれなら、先輩は……」
「あー……言ってなかったけど、実は私たち、寿命が地球人より長いんだ。だからあまりそういうの抵抗なくって。もちろん、いい事ばかりじゃないんだけどね」
そうなんですね、とできる限り軽く答えたつもりだったが、僕は内心落ち込んでいた。まだ方法次第では何とかなるだろうなんて、甘い事を考えていた自分が情けなかった。覚悟の足りていなかったのが、すっかり露呈した形となった。
「……まあ、私の話はいいからさ。今日の絵は、ダリ自体はどうだった?」
「基本的には人を食ったような絵ばかりでしたね。えっと、何でしたっけ。ポスターにもなってた……」
「あー、『奇妙な廃墟の中で自らの影の上を心配でふさぎがちに歩き回る妊婦に形を変えるナポレオンの鼻』ね! いいよねー。どうやったらあんなにキャンバスが立体的に見えるんだろうね」
「……よく、そらで言えましたね」
「んふふ、記憶力だけはいいから」
それが宇宙人特有のものなのか、ダリが好きだからかは判らなかったけれど、図書館で仕入れたというダリに関するエピソードの数々を先輩は息もつかせぬままに語り出した。
幼くして死んだ同名の兄が居た事、潜水服を着て酸素供給が上手くいかず死にかけた事、今日観た『自画像』が、僕らと歳の変わらぬ十七歳にして描かれた事。
そして、ガラ・エリュアールという女性の事。
「ガラ・エリュアールって知ってる?」
「えーっと……確か、奥さん?」
「正解。でも最初は違う人の奥さんだったんだよー」
「……あの辺の人たちって、本当、奔放というかなんというか」
「そうだねー。ガラもダリと結婚してからも、何か色々あったみたい。でもダリはガラの事が凄く好きだったんだよ。それで、ガラが先に亡くなっちゃった時『自分の人生の舵を失った』って、それっきり亡くなるまで絵を描くのを止めちゃったんだって。……たっくん、どう思う?」
「……」
突然の問いに僕は戸惑った。
以前の僕だったら、才能があるくせにそんな理由で絵を描く事を止めたダリを躊躇なく、烈しく糾弾していた事だろう。
でも今は、少し気持ちが解ってしまう。
目の前に居るこっこ先輩はもう、ただの壁じゃない。かけがえのないものになってしまっているのは、自分の中でどうしても否定できなかった。
今までも越えるべきものは沢山あった。全部に勝ってきた。けど、次は? そう思うと、ダリの決断を一笑に付す事などもはや出来はしなかった。
いつまで経っても回答を出せない僕に、先輩は優しく微笑みかけた。
「……たっくんは、てんびん座なんだよね」
「そうです、けど」
「じゃあきっと、大丈夫だよ。私、たっくんの絵が好きだから。だからずっと描き続けてね。絶対いい画家になれると思うよ」
「それを言うなら、先輩こそ。……僕は全然。まだまだですよ」
……どうしてガラの話の途中で、いきなり僕の星座の話なのか。
てんびん座ならば何が大丈夫なのか。
何故先輩が僕の言葉に謙遜するでもなく、ただ寂しげな表情を見せただけだったのか。
この時、僕は何も理解できていなかった。
そして八月最終週、夏休み最後の部活。僕はこっこ先輩の前で、部員全員にあるお願いをした。
――こっこちゃんと二人、同じ被写体で十分間のクロッキーをするので、どちらの作品が良かったか教えて欲しい、と――
これが僕の、彼女を部に呼び戻した真の狙いだった。
一ヶ月強一緒にやって来た以上、全員こっこ先輩の実力の程は知っている。事実こっこ先輩の実力を目の当たりにして中学生相手に、などと言い出す人間は一人も居なかった。むしろ高校受験に向けて具体的なレベルを推し量るという意味で、皆賛同してくれた。
こっこ先輩も嫌とは言わなかった。心の中で礼を言うと、すぐさまセッティングに取りかかる。椅子とイーゼルとカルトンを二つずつ、そして被写体は同級生二人にお願いした。所謂ダブルポーズだ。
席に着き、肩を回し深呼吸する。一方、こっこ先輩に気負った様子は一切見受けられなかった。全くいつもと同じだ。
……僕としては、先輩の言葉を借りるなら清水の舞台から飛び降りる程の大勝負のつもりだったのだけど。
一瞬目が合ったが、どうしてそんな申し訳無さそうな顔をするのか解らなかった。見下されているのか。勝てるわけがないのに、という憐憫の情なのか。嫌な考えが次々と頭に浮かぶものの、彼女はそんな人じゃないと紙に向き直る。結局、やる事は一つだ。
副部長の合図と共に鉛筆を取ると、僕は目の前の被写体に全神経を集中した。二人の体の芯を捉え、線に起こしていく。今見えているもの、服の下の筋肉、学んだ骨格図。全てを頭の中で統合し、少しでも正しい線を見つけ出そうとあがき続ける。
副部長の手にしたストップウォッチは僕の思いとは関係なく、冷酷に世界から十分間を切り取る。でも、それは先輩も一緒だ。このたった一ヶ月、彼女と過ごした日々から何を見出せたのか。僕はそれを知る為に今、全力を尽くしているのだ。
「はい、そこまで」
その声と共に、僕は鉛筆から手をすぐに離した。
今日だけは、潔くありたかった。例えどんな結果になろうと、これが今僕にできる全てだと。胸を張って言いたかった。
二枚の絵が並んで前に張り出された瞬間、雌雄は決したように見えた。自分でも少しは進歩したつもりだったが、やはり到底敵わない。何度見ても先輩の線は完璧だ。そこにあるものを主観の入り込む余地無く、一切の衒いなしに写し出している。
「凄いね、参った」
僕はこっこちゃんに話しかけた。でも当の本人は「まだ、わからないよ」としか言わなかった。優しさは嬉しかったけれど、どう見ても僕の負けだった。スタート地点が違う上で同じだけ描いてる訳だから、当然なんだけど。
黒板に書かれた名前の隣に、次々と正の字が書き足されていく。僕はその間モデルの二人にお礼を言ったりして、途中経過は敢えて見なかった。
判り切っている事だ。勝てなかったのは悔しかったが、いい経験をした。自身の実力の程を今一度思い知る事ができた気がする。
そう思って、頃合いを計り黒板に目を遣ったその時だった。
「ね。だから言ったでしょ?」
先輩の一言と共に、僕は自分の目を疑った。
僅差ではあったが、投票結果は僕の勝ちだった。
そんな馬鹿な、と僕は思わず声を上げそうになった。――どれだけ見る目のない奴らだ。どう考えても先輩の絵の方が上手いじゃないか。中学生が現役高校生と遜色ない結果を出しているのだから受験は大丈夫だろう、とアカホシコトコにも惜しみない賛辞の声が上がっていたけれど、デッサンの正確さはどう考えても僕の比ではない。
「負けちゃった。流石佐君だね」
部内でのその呼び方を含めて、僕はこの意外な結果に、どうにも狐につままれているような気分しかしなかった。
納得がいかない、とその日の帰り道、僕はこっこ先輩に漏らした。
事前に何かの打ち合わせがあったんじゃないか、まさかまた暗示を使ったんじゃないかと、半ば疑心暗鬼になってあらゆる可能性を問い詰めたが、先輩は哀しそうな顔をして「してないよ」と答えるだけだった。
「いや、でも。じゃあ何で……」
……ここも今思い返すと、余計な事に拘り過ぎたせいで要らない事を知ってしまった気がする。悪い癖だ。先輩もぶつぶつと未練がましく理由を問い続ける僕に業を煮やしたのかも知れない。不意に、そのすっかり重たくなった口を開いてこう告げた。
「……たっくん。最後まで言うかどうか悩んでたんだけど……私、君に見せなきゃいけないものがあるの。今からちょっと、時間あるかな」
「え……いや、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあ、家に来て」
僕らはそのまま連れ立って、先輩のアパートに向かった。
蝉の声もすっかり様変わりして、今ではツクツクボウシが自分の名を頻りに叫んでいる。陽の落ちかけた街で、空のウルトラマリンが妙に際立って見えた。
先輩の部屋は二度目だけど、特に変わり映えはせずシンプルなままだった。
この部屋で今更僕に見せたいものとは、一体何なのだろうか。そしてそれが今日の評価とどう関係するのか。僕はまるで想像も付かなかった。
……今にして思うと、少し頭を捻って考えれば判る事だったろうに。
こっこ先輩は荷物を置くと、件の描きかけだという窓際の絵の前に立った。そして「……ごめんね」と一言、ぽつりと謝った。
やはり何か不正な操作があったのかと、僕はもはや憤りを通り越して納得さえしてしまったのだが、先輩が絵にかけられた布を取り去った瞬間、また訳がわからなくなってしまった。
以前の言葉とは裏腹に、絵自体はとっくに完成していた……
……のだと、思う。
だがキャンバスに描かれていた風景画はデッサン、パースこそ全く狂いは見られなかったものの、そこに乗せられた色はアバンギャルドとしか言い表せない有様だった。空は深緑、建物は紺碧、人物は真紅。そのくせ各色のコントラストや基本の塗りはしっかりしていて、それが観る者を余計不安にさせる代物だった。
「……この絵は、先輩が?」
先輩は黙って頷いた。ダリが好き、というくらいだから敢えてシュルレアリスムを狙っているのかも知れないけれど、その割に被写体の内容自体はどこまでも凡庸だ。絵のどこかでキリンが燃えていないか探したが、そんな様子も一切見られなかった。ただ、色だけがおかしいのだ。
「……たっくん。私が何で色の付いた絵を描かないのか、ってずっと思ってたでしょ」
今更嘘を吐いても始まらない。僕も黙って頷いた。
「私の目ね、この星の物が、全部白黒にしか映らないみたいなんだ」
「……は?」
反射的に訊き返したが、こっこ先輩の言葉にいつもの言い淀みは一切無い。ずるりと、僕の左肩から鞄が力なく落ちていった。
僕は先輩の目を見た。黒目がちで大きな、ガラス玉みたいに光る綺麗な瞳。そこにこれまで映っていた物が全部、灰色だったなんて。僕は信じたくなかった。
西日の差しこむ橙の部屋。カーテンに揺らめく影だって本当は黒一色じゃない。壁に掛けられたクリムゾンレーキのTシャツ。あの日一緒に観た、『秋のパズル』の淡い空模様……。
宇宙人だという事自体、心のどこかでは先輩の荒唐無稽な冗談だと思っていた。いつまでもこんな日が続けばいい。そう願っていた。
「そんな。冗談でしょう」
「……黙ってて、ごめんね。それにもう一つ、謝らなければいけない事があるの。私、実は絵なんて描けないんだ」
「嘘だ」
こればかりは言い切れる。じゃあ、今日描いてみせたアレは何だったんだ。人体デッサンでしょう、クロッキーでしょう、絵でしょう?
僕は先輩の肩を掴んで揺さぶりながら、何度も問い質した。
四月から僕が追いかけていたものは何だ。ただの独り相撲だったのか。
けれど、それでも彼女は首を横に振った。
「ただの図だよ。私の星の人なら誰でもできて、見たままはいくらでも写せるけど、それ以外は全然描けないんだ。……正しいだけの線と、ちゃんと思いのこもった絵だったらたっくん、どっちが好き?」
絵が図だなんて、詭弁だ。そう思いながらも、先輩の右手にペンを握らせてみようとはどうしても思えなかった。
……先輩は、嘘を吐くのが壊滅的に下手なのだから……。
「じゃあ、ダリが好きなのも……」
「うん。……あの人はイメージを、自分の頭の中でいくらでも作り出して形にできちゃう人だから。私に歪んだ時計は描けないよ」
その言葉に、コンビニでのやり取りを思い出した。漫画が好きだと言っていたのも、これと同じ理由からだったのだろう。
僕は自分の不明に、口を噤んだ。今まで騙されていた、と怒るより先に、ひとりよがりな自分の思い上がりが恥ずかしくて仕方がなかった。
呆然と突っ立っている事しかできなかった僕に、こっこ先輩が「ごめんなさい!」と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。いつも偉そうな事言って。私の絵なんて、全部ただのふりだったのに……怖くて、ずっと本当の事が言えなかった。たっくんに嫌われたらどうしよう、って……。こうやって今更になって言うのも、私の自己満足なのかも知れないけど、でも、やっぱりこのまま全部ウソにして帰っちゃいけないって思ったんだ。だから……」
泣きじゃくりながら告白する先輩を前に、僕はひどく後悔した。何故、こんな日々が続いて欲しいなどと、一瞬でも自分勝手に希ったのか。
僕は落ちた鞄もそのままに、先輩の部屋から全速力で逃げ出した。背中からたっくん! と呼ぶ声がする。
いつも聞いていたあの声も、もう二度と聞く事はないのだろう。
さようなら、こっこ先輩。
九月がいよいよ迫った、八月三十一日。
僕はこの数日間夏休みで初めて、いや、十六年間生きてきて初めて絵を描く気力を喪った。鉛筆も絵筆も真っ新な紙も、何もかも見たくなかった。描く事の意味がもうよく解らなくなってしまった。
ずっと誰かに勝つ為に絵を描いていた。でも、それがなくなった時一体何を思って描けばいいのだろうか。
考えた。色々考えた。どうせ今日記憶を消すならば、いっその事最後まで黙っておいてくれれば良かったのにと、こっこ先輩を恨んだりもした。それは違うと、心のどこかでは解っていても。
虚しい。僕の中で絵という存在がゲシュタルト崩壊してしまったような、そんな気分だ。確かに絵なんてただの線だ。油絵具の塊だ。それがホルベインだろうがクサカベだろうがぺんてるだろうが、何にも関係ない。究極的にはただのモノだ。そんなものを何故僕は必死に追い求めていたのだろうか。ただそれが他人に比べて上手くできるから、調子に乗ってやっていただけじゃないのだろうか。
もしかしたら、明日になればこんな脳内会議の議事録も、こっこ先輩の存在ごと僕の頭から吹っ飛ぶのかも知れない。そうすればまた有頂天になって、絵が描ける……。
ただ、時さえ待てばいい。そういう事もある。午後一時の気怠い誘惑。あと十一時間。あと半日で、先輩が消える。
――消える。
そんな言い方をした瞬間、僕は背筋がぞっと寒くなった。そうか、消えるんだ。みんなの記憶から、僕の中から。全て。
ガラと死別したダリのような、まだ生易しい関係じゃない。舵を失ったって、ダリはガラの事を思って絵を描く事は別にできた筈だ。でも明日からの僕には、それすらも許されていないのだ。
そして舵と共にもう一つ、僕は先輩の言葉を思い出した。
「てんびん座なら、大丈夫だよ」
きっと何かあるのだろう。僕は机の上のノートパソコンを起動し、てんびん座について調べ始めた。
求めていた解答はすぐに見つかった。
てんびん座は黄道十二星座の内、一番新しい星座だ。元々はさそり座のはさみにしか過ぎなかった星座が、新しく独立したものだったのだ。
繰り返し言うまでもなく、先輩はさそり座だ。きっと自分が居なくなった後の事を考えて――
考える必要が、あるのか。全部、消えるというのに。
こっこ先輩が何故ガラの話をしたのか、何故最後に自分の秘密をわざわざ明かしたのか気付いてしまった。きっと試されていたのだと思う。何があっても、先輩を喪っても、それでも描き続けられるのか。
それと、絵の持つ力の話。
僕は時計を見た。午後一時三十分。この数日間何もしなかった自分を恨んだ。今にして思えば、これは敢えて与えられた準備期間だったのだ。
すぐに机の上からノートパソコンをどかし、紙を広げ鉛筆を手に取る。
流れるような黒髪、愛らしい笑顔、窮屈そうに膝を抱えた姿、彼女に拘わる全てを思い出し、最適な構図を選び取る。色は? 油彩は無理、水彩も水張りしている時間などない。
……いや、ここは素描だ。素描しかない。
方法は解らないが、おそらく先輩は最後ここに立ち寄って、直接僕の記憶を消すつもりなのだろう。そして僕の記憶は消える。
でも。
今持てる限りの力を出し切って、僕はこの入学してからの五カ月、素晴らしかった日々を形にする。これこそは本当に、僕にしかできない事だ。
描け、描き続けろ、河合佐。――お前には、それしかない。
描いては消し、また描く。目に映ったものも、写真には写らないものも、全て。全て織り込む。刻み付ける。折った鉛筆の芯を削り、練りゴムを叩き付け、食事を惜しんで食パンに喰らい付き、僕はどこまでもみっともなく描き続けた。
こっこ先輩――。
深夜。微睡んで朦朧とした頭で、僕は紙のめくれる音と共にこっこ先輩の声を最後にもう一度だけ聞いた気がした。
「……ありがとう、たっくん。今度こそ本当に、私の負けだね」
何とか体を起こそうとしたが、後頭部にやさしく置かれた先輩の掌がそれを許さなかった。触れられたところがじわ、と温かくなり、そこから全身の力が、そして記憶が抜けていく。
再び薄れていく意識の中、最後に残ったのは何か伝えなければ、という義務感だった。言葉は発せなくとも、先輩なら読み取ってくれるはずだ。
ごめんなさい?
ありがとう?
お元気で?
どれも、どこか違っていた。
行かないで。
それが唯一、本当の気持ちだった。いかないで、いかないで、いかないで。
絵を描く事すらも生まれて初めて弾き出し、僕の頭の中はそのたった五文字だけで満たされていた。
……何故、また受けてしまったのだろうか。
こうして応接室で待たされるその度に、僕は過去の自分の安請合いをまた恨んだ。
インタビューの依頼があると決まって「こんな爺さんより、若くて伸びしろのある子をもっと取り上げてやってくれ」と断るのだが、どうしても避けられない事が年に二、三度はある。ルネサンス期より時を経て形は変われど、絵描きはパトロンに逆らえないのだ。
やれやれ、歳を重ねるとどうもしがらみが多くなっていけない。本音を言うと次の二科展の審査もどうにかして他の人間に押し付けたかったが、そうもいかなかった。
――時間が惜しい。もっと上手くなれるはずだ。
僕は何も握っていない、空の掌をじっと見つめた。
絵を描き始めてから実に七十年もの月日が経とうとしているというのに、自分でもびっくりするほど僕は変わっていなかった。審査員として若い才能に出会うといまだにみっともないほど嫉妬するし、その後で発奮もする。大人になってもそれはただ、感情の隠し方が巧妙になっただけだ。
だが手首を返すと深く皺の刻まれた手の甲には血管がくっきりと走り、避けようのない老いというものをまざまざと僕自身に見せつけてくる。
あと十、いや五年生き永らえられたなら、必ずや本物になれるだろう。
歳を重ねれば重ねるほど、北斎先生の言葉がリアリティを増してくるのだった。幸いこの歳までは無事に描き続けてこられたが、それもあと何年もつか。
こうなったら一分一秒でも早くインタビューとやらが終わる事を願うだけだ。……大体話なんか聞かずとも、美術館か画廊まで足を運べば済む話だろうに。僕は絵描きであって弁士ではないのだから。
「お、お待たせしてすみませんっ!」
随分と慌てた声とともに、入り口からスーツ姿の若い女が転がるように駆け込んできた。上下ともモノトーンできっちりと上品にまとめているのに中身は学生気分が抜け切っていないような、そんな印象を受けた。
確か美術誌専門のライターだったか……仲介した人間から事前に話を聞いていたはずなのだが、最近どうも物忘れが激しくていけない。まあ、フリーで仕事をしている人間ならそういうところもあるかも知れないなと、僕は自分の事を棚に上げるのを避けた。
「いえ、お気になさらず」
そう言って僕がソファからゆっくりと立ち上がり握手を求めると、開口一番彼女はこう言った。
「……大きいですね」
僕はその一言を聞けてにやりと笑った。昔と今の僕を比較して一番違う点を挙げるとすると、それは内面よりも背の高さだった。高校一年で半ば諦めかけていたのが高二、高三で一気に伸びたのだ。あれだけコンプレックスだったのに、神様もなかなか気の利いた事をしてくれる。
もう今では、昔の小さかった僕を知る人の方が少なくなってしまったが。
「貴女も、ヒールを抜きにしても女性にしては高い方だと思いますけどね」
「あの……」
「はい?」
「……本当に河合佐さんであってますよね?」
「合ってますね」
一応気の利いたジョーク、という事にして僕は笑っておいたが、これは本当にきちんとした取材なのだろうか。今までインタビューを受けた相手は、皆聞き手のプロらしく事前に色々な事を調べ、下準備を重ねてきていた。
それが目の前の彼女は、いざ向かい合って席についても音声記録機すら出そうとはしなかった。
「あの」
「? 何ですか?」
「あ、いや、テープ起こしとか、されないのかなと」
「ああ、大丈夫ですよ。私、記憶力だけはいいんです」
これにはそうですか、ならいいんですがと却って僕の方が恐縮してしまった。僕も経験があるのはあくまで受け手であって、基本的には門外漢だ。
なるほどそういう主義の人もいるかもしれないと、首を傾げながらもひとまず納得しておくほかなかった。
先行きが危ぶまれたインタビューだったが、いざ始まってみると意外なほどしっくりいった。ウマが合うというか、話していて楽しいのだ。
成程、聞き手の技術だとか体系化された方法論以外にもこういうやり方があるのかと、僕は彼女の手腕に感心しきりだった。ふと聞いただけでは絵に何の関係があるのかよく解らないような話題でも、硬軟織り交ぜる事によって僕自身ですら知らなかったバックボーンが見えてくるような気がした。
「高校生の頃って、どうでした?」
「毎日が勝負でしたね。どうしても下手な自分が許せなくて。闘いですよ」
「卒業後は、そのまま美大に通われたんですか?」
「ええ。県の芸術大学に運良く推薦で拾って貰いました。勉強そっちのけで絵ばかり描いていたものですから、これを逃して一般受験になったら終わりだったんですね。だからまさしく背水の陣でしたよ」
少し喋り過ぎているのでは、と僕は思わず頭の中でブレーキをかけた。こんなにべらべらと話したのは学生以来じゃなかろうか。どうしても孤独な作業が多くなる以上、人と会話する機会は自ずと限られてくる。そして言葉というものは定期的に発してやらなければ澱のように溜まっていく。元々友人も少なく、生涯独り身となれば尚更だ。
こんな絵しか描いてない爺さんのつまらない話にも、彼女はひとつひとつ興味深そうに聞いてくれた。それが仕事なのだからそうだろうが、乞われている、という大義名分の下堂々と話せるのが嬉しくて、少々彼女に甘え過ぎてやしないだろうか。
「その頃から、今に続く少女のモチーフで絵を描かれていたんですか?」
「……そうですね。もう、ずっと」
「誰か特定のモデルがいるんですか? その、奥様とかは……」
「ああ、それもよく訊かれるんですけど、別にそういうのはないんですよ。僕はこの歳で独身ですし。何度か結婚しそうなタイミングもあったんですが、その度どこかで必ず僕の描く少女の話になってですね。どうしてだと思います?」
彼女は腕を組んで少し考えた後、はた、とひざを打った。
「……もしかして、少女の正体について、ですか?」
「ご明察です。これは誰なのよ、って話にどうしてもなるんですよ。で、正直に君じゃないよ、って言うと拗れる。でも、じゃあ誰、って聞かれても僕は答えられない。僕の想像の中の人物なんですから。それで大抵破談になりましたね」
「……なるほど、絵に描かれた少女に嫉妬されたんですね」
「画家としては冥利に尽きますけど、困ったものですよ。だって絵画の中の少女にそんな事言われたって、ねえ」
「……でも、それだけ魅力的というか、思いが込められてるんですよね」
もちろん、と僕が頷くと、彼女は静かに呟いた。
「……ファム・ファタール(運命の女)って言っても、いいのかな」
「そうきましたか。……何でこの少女の絵なのかって、自分でも理由はよく解らないんですよ。ただ、描かなければいけないという衝動がどうしても止められなかった。そういう点も含めて、そうなのかも知れないですね……」
気付けば、当初予定していた時刻をもうとっくに過ぎていた。そうは感じなかったが、かなり長い事話し込んでしまっていたらしい。
……時間とは不思議なものだ。万物を支配する絶対的な単位であるはずなのに、そのくせ個人の主観においては平気で伸び縮みする。
長々と語ってみせたが、僕のこれまでの人生も自分自身にとっては一本の矢のようなものだった。大した障害もなく、たったひとつの目標に向かって真っ直ぐに飛んで行けた事はこの上なく幸せだったと思う。
けれどその一方で、大切な何かをどこかへ置いて来てしまったような寂しさにふと襲われる夜が若い頃から度々あった。最初は単なる将来への不安だと思っていたが、老い先短い今でさえもまだ、時折感じていた。
一度囚われてしまうと、たとえ夜中だろうと筆を取って絵を描き進めるしか為す術がなかった。
この少女は誰なのか。どうやったら上手く描けるかではなく、どうやったら近づけるのか。
我武者羅に、一心不乱に向き合った結果疲れ果てて床に突っ伏してやっと、寂しさから解放された。そうやって完成した絵が何枚かあるが、どれも気に入っている。
そんな話をしようかとも考えたが、いい齢したじじいが今も寂しいなどと何を気持ち悪い、と外ならぬ自分がそう思ってしまったので、止しておいた。
名残惜しかったが、僕は最後にもうひとつ、まだ誰にも聞かせていないとっておきのネタを彼女にお土産として持たせ、このインタビューを切り上げる事にした。
「実はですね」
「はい」
「僕の描く少女の絵には明確な最初の一枚があって、今もアトリエに持って行ってるんですよ。迷いが出たり悩んだりした時は、その絵を見るんです」
「……それは、いつ描かれたものですか?」
自分では秘蔵のつもりだったのだが、その割に彼女の驚きは少ないように見えた。
独りではしゃいでいたのが見透かされたようでバツが悪くなり、僕は少しむくれてしまった。
「高校一年の夏です」
「夏休みですか?」
「ええ……いえ、ギリギリか。8月31日の夜ですね、多分」
「多分?」
「……いや、実は自分で描いたという確証が持てないんです。朝起きたら手元にあった、といった感じで。いや、間違いなく自分の絵なんですよ。タッチとか、癖とかそういうので判るじゃないですか。でも、あれ、僕こんなの描いたかな、って……」
「どういった画法で描かれていたんですか?」
「鉛筆の素描ですね。我褒めになってしまうかも知れませんが、妙に鬼気迫るものがあった。自分の絵で初めて素直に好きになれたのは、この絵でした」
質問の度、僕は何十年も前の当時の記憶をひとつひとつ辿っていく。点と点が結ばれ線となり、次第に紐解かれていった。
未熟だったあの頃。
間違いなく闘っていたはずだけど、一体誰と闘っていた?
学生時代ぶりに話したのに友人が少ないなんて、僕は一体誰と話していた?
「何か見て描いただろ、ってくらい精緻で……」
僕の話を聞いてうん、うんと頷いてくれる、名前も知らない目の前の彼女。
デジャヴなんかじゃない。間違いなく、見覚えがあった。
「こっこ先輩……」
そのどこか不思議な響きの名前が口から漏れ出た瞬間、目の前の彼女は長身を乗り出し、半分体当たりのようにして僕を痛いくらいに抱き締めてきた。
「先輩……本当に、先輩なんですか?」
「……気付くのが遅いよ、たっくん。途中で引き返してきちゃった」
顔を起こした先輩の眦からは、大粒の涙が溢れていた。ああ、間違いない。メイクと格好にすっかり騙されてしまったけど、あの時のままのこっこ先輩だ。
「よかった。本当に間に合って、よかった」
まるで孫娘のような年齢になってしまった先輩の細い肩を、僕は年甲斐もなしに激しく抱き返した。
「たっくんの絵、見たよ。凄いね。ダリに負けてないくらい、凄い画家になった」
「ありがとうございます。……でも、駄目でしたよ」
「どこが? もう謙遜なんかいらないってば」
「……今まで忘れといて何ですけど、先輩がいなかったら描けてなかった。僕は、ずっとアンタレスの爪先のままでしたよ。でも、それで良かった。間違ってなかったんだって、今日、会えてやっと答えが出ました」
こっこ先輩は嬉しそうに笑うと、メイクの崩れた目元を袖で拭った。
「私もガラに負けないくらい、悪い女になっちゃったね」
「でも、こうして戻って来てくれたじゃないですか」
……いいんですか、と、僕はすっかり嗄れてしまった声で訊いた。
黙ったまま、こっこ先輩は首を振った。
「……仕方ないよ。たっくんのミューズは、全宇宙探しても私だけみたいだから。また、私の絵を描いてくれる?」
もちろん、と僕は力強く頷いた。これでもっと、絵が上手くなる。
アンタレスの爪先 髙橋螢参郎 @keizabro_t
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