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二日目は、美術館や公園を巡り、夕方からはまたお母さんと二人で温泉に浸かって、のんびりと時間を過ごした。緑の多いところで綺麗なものを見て、おいしいものを食べて、すごくいい気分転換になった。お母さんも、箱根に来てからずっとご機嫌だった。二日目の夜には、お風呂上りに旅館のなかでマッサージも受けてきたみたいで、かなり疲れが取れたと言っていた。
チェックアウトの日の朝、前夜にセットしたアラームがまだ鳴る前、早朝の薄明るさのなかで、目が覚めた。明かりを消した電灯と、天井の木目が見える。空気が生ぬるい。少し寝汗をかいていて、何気なく額を触ったら指先に汗が付いた。
お母さんは、まだ横で眠っていた。ちょうどわたしの方に寝顔を向けている。わたしは手を伸ばして、枕元に置いておいたスマートフォンを取って画面を見た。まだ午前六時前だ。朝食は七時半からだから、ちょうどいい時間だった。チェックアウトまでに、もう一度、温泉に入ってこようと思っていたのだ。
――もうちょっとだけ布団のなかでぐずぐずしてから部屋を出よう。
そう思って、スマートフォンを畳の上に置いたとき、「んんー」と、お母さんの寝ぼけたような声が聞えた。
お母さんは、寝つきはいいけど寝起きは悪い。朝食に遅れないように、時間になったらわたしがちゃんと起こしてあげないと。
五分ほどまどろんでいるうちに、少しずつ目が覚めてきた。わたしは起き出して、そっとお母さんに声をかけた。
「お母さん、わたし、朝ご飯の前に、もう一回温泉に入ってくるけど、一緒に来る?」
「んー」、あるいは「ぬー」と聞こえる、何とも表現し難い声を出しながら、お母さんは上掛けのなかでもぞもぞと動き、それから「寝てるー」と、眼を閉じたままとても眠そうな声で言った。
「わかった」とわたしは小さな声で言って、タオルと着替えを持って、部屋を出た。早朝の廊下は静かだった。まだお客さんたちの多くは寝ているんだろう。足音を立てないように、廊下を歩いていく。どこか遠くから、早起きの蝉の鳴く声が聞えてきた。窓の外の、まだ少し黄色く色付いている朝日に、今日の日の暑さを予感した。
☆ ☆ ☆
温泉に軽く浸かって、さっぱりした気分で部屋に戻ると、お母さんはもう起きていた。布団の上に座り、朝のニュース番組を見ている。
「おかえりー」
「ただいまー」
そんなやりとりをして、わたしは濡れたタオルをタオル掛けにかけた。温泉から上がったときに普段着に着替えて髪も整えてきたから、朝食へ行く準備はもうばっちりだ。今日もたくさん歩くだろうから、短めのスリーブの白いシャツに、ミニスカートっぽく見える紺色のショートパンツという動きやすいコーデにした。お母さんもジーンズに、黒のタンクトップに胸元の大きく開いたTシャツを重ねた服に着替えている。
朝食が始まるまでの十分くらいの時間をニュースを見て過ごし、それから、食事会場に向かった。
オムレツとサラダ、ウインナーとご飯にお味噌汁というメニューの朝食をとり、食後にコーヒーを飲み終えたあとは、わたしたちは手早く荷物をまとめ、日焼け止めを塗ったりお化粧をしたりして身支度を整え、部屋を出た。
お母さんがチェックアウトの手続きをしている間、わたしはロビーにあった売店に入った。綺麗な柄の手拭や温泉饅頭といったお土産の他、温泉旅館と何の関係があるのかわからないけれど、砂時計や、可愛らしいイルカのぬいぐるみや、キャラクターグッズ、イニシャルキーホルダーが売られていた。わたしは、買っていこうと思っていたお饅頭の箱を一箱、坂本家へのお土産に買って、リュックに入れた。
その後ロビーのソファーに座っていると、チェックアウトの手続きを済ませたお母さんが歩いて来た。
今日も、ずいぶん陽射しが強い。蝉がうるさいほどに鳴いている。旅館から駅前まではシャトルバスがあるのだけれど、せっかく知らない場所に来ているのだからと、わたしたちは駅まで歩いて向かうことにした。
あちー、と呟いているお母さんと、坂の多い道を歩いていく。よく晴れていて、山の緑が青空を背景に、鮮やかに映えていた。わたしが住んでいる東京の街や、坂本家のある入沢ではあまり見ないような古い建物も見かけて、趣のある通りだった。
「こりゃさすがに日傘使ったほうがいいなー。おばさんっぽくてあんまり好きじゃないんだけど」
そう言ってお母さんは立ち止まり、バッグから折りたたみの日傘を取り出した。白地に水色の花柄で、爽やかなデザインだった。
「ほれ。里奈も入りな」
お母さんが、わたしの方へ傘を伸ばしてくれた。
「うん。ありがとう」
一つの日傘の下、二人並んで、てくてくと歩いていく。日傘のなかにいても、アスファルトから立ちのぼってくる真夏の熱気に汗が出てきた。わたしはハンカチを持って、頻繁に汗を拭い、ときどき、お母さんと交替して傘を持った。
やがて、賑やかな駅近くの通りに出て、わたしたちはお店をいくつか回った。それから、少し路地の奥まったところにあった和雑貨屋さんに入った。和モダンな感じの布製品が上品に陳列されている、お洒落な雰囲気のお店だった。
それまでに買っていたお土産は食べ物ばかりだったから、せっかくなら長く使ってもらえるような小物も、買っていこうと思っていたのだ。
お店のなかを見ていると、栞つきのブックカバーに目が留まった。健一君はよく家のなかで本を読んでいる。これにしよう、と思った。これなら、気合いも入り過ぎていないし、置き場所に困ったりもしないだろうし。
ブックカバーには何種類かの柄があった。紫やピンクの花柄のもの。落ちついた藍色に、白のラインが入っているもの。赤地に、黄色の細い幾何学模様のようなものが描かれている、和風な感じのもの。説明書きを見ると、麻の葉柄という、平安時代から使われてきた柄らしい。
男の子にあげるものだから、とりあえず花柄のものは却下。となると、藍色のものと、麻の葉柄のどちらか。わたしとしては、赤いものの方が可愛い感じがあって好きだけれど、藍色のものの方が落ちついていて、健一君の好みには合う気がする。
うーん、迷う。
せっかく和雑貨店で買うのだから、より和風な感じのものの方がいいだろう。それに、わたし好みのものを健一君に使ってもらっているのを想像すると、なぜか、ちょっとだけ嬉しいような気もしたのだ。
というわけで健一君用のお土産は、この赤いブックカバーに決定。
その後、またしばらく店内をうろうろし、おばさん用に上品な花柄のハンカチを選んで、お会計を済ませた。お母さんもこのお店で、桜模様の巾着袋をひとつ買っていた。それも可愛らしい柄だった。
「もうオッケー?」
お店を出たときに、お母さんが言った。うん、とわたしは答えた。リュックにも、手に持っている紙袋にも、お土産がいっぱい入っている。お母さんも、大きな紙袋を提げている。
わたしたちはそれから駅まで歩いていき、電車に乗った。席に座ると、ふぅー、と二人同時に息を吐いた。猛暑のなか、一時間ほど歩いていたから、ちょっと疲れた。冷房控え目と書かれたシールがドアのところに貼ってある車両だったけど、ずいぶん涼しく感じて、汗もすぐにひいていき、気持ちがよかった。
電車は、がたんごとん、という音と振動を立て、窓からきらきらと夏の陽射しが降り注いでくる。カーブを曲がったり、樹木や建物のそばを通りすぎて行くときに、車内に出来ていた影は、さまざまに形を変えたり、場所を変えたりしていた。
遠ざかっていく緑の山々をわたしは見続けた。少しの間しか過ごさなかったけど、ちょっとした寂しさを感じた。ここからは東京の家までまっすぐ帰り、お母さんがまた南米へ発つまでの間、久しぶりに自宅で過ごす。
楽しい時間は、どんどん過ぎていく。きっと、東京での残りの数日も、坂本家で過ごす四か月も、すぐに過ぎていってしまうんだろう。そのことにも寂しい気持ちを感じ、そして、わたしはあの家にいることに慣れただけではなく、気に入りはじめてもいるのだということを、はっきりと感じた。最初はとても緊張していて、正直気が重いときもあったのに、ずいぶんと変わったものだ。
坂本家用のお土産は、一つの袋に整理してしまっておいてある。お菓子は結構な量になってしまったけれど、おばさんと食後のおやつに食べよう。健一君も、甘いものは嫌いじゃないはずだ。それと、かなりわたしの趣味が入っている、赤いブックカバー。彼がどんなふうな反応を返してくれるか、楽しみだ。
近すぎる彼らの、十七歳の遠い関係 掌編 著:久遠 侑 ファミ通文庫 @famitsu
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