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替えの下着とタオル類、それから洗顔クリームや化粧水などを入れたポーチを持って、浴場へ向かう。
オレンジ色の明かりが灯った、赤い絨毯敷きの廊下を歩いていると、各部屋からの話し声や、自動販売機の低い稼働音が静かに漏れてくる。お風呂上りらしい、浴衣を着た人たちとも、何度かすれ違った。
時刻は午後九時過ぎ。お腹がいっぱいだったから、わたしは少し休憩をしてから温泉に入ることにした。お母さんも、もう少ししたら来るらしい。
「女」と書かれている赤い暖簾を見つけた。温泉になんて中等部の修学旅行のとき以来入っていなかったから、わくわくしてきた。
暖簾をくぐって脱衣所に入ると、湿気が強くなった。お湯の匂いもほのかに漂っている。棚に脱衣カゴが置かれていたので、わたしはまずそこにポーチやバスタオルを入れて、今まで着ていたものも畳んで仕舞った。
手拭と髪をまとめるクリップを持って、湿気で曇っているすりガラスのドアをあけて、露天風呂に入る。湯気でもわもわと視界が薄く曇り、今までよりももっと強く温泉の匂いが漂ってきた。何人かのおばさん、それから女子大生くらいの若い女性二人が、お湯に浸かっていた。
わたしは身体を洗って、さっそくその岩風呂に入った。とても熱かったから、足先からゆっくりとお湯に入った。胸元まで浸かって岩に背を持たせかけると、気持ち良さに自然に息が漏れた。じわりと熱が身体に浸透してくるようで、少しすると汗が首筋を伝っていった。山のなかだからか、真っ暗な空に、いつも見ているものよりも多くの星が見えた。
とっても気持ちがいい。足をまっすぐに伸ばして、腕も上へ伸ばし、深呼吸をした。綺麗な山の空気と温泉の湯気が、身体を満たしていくようだった。
ぼーっと、夜闇のなかで黒い影になっている山々や星々、もくもくと形を変えていく湯気を見ながら、わたしはしばらく温泉に浸かっていた。少し離れたところでお湯に浸かっている若い女性二人組は、楽しそうにおしゃべりをしている。夜の虫の音も聞こえる。意識が、心地いい温泉の熱に溶けていきそう。
「温泉、パンフレットの写真よりも広く見えるね」
その声に振り返ると、手拭を持ったお母さんが立っていた。
片足をお湯に入れて、「あっつ」と声を出した。それから、そろりそろりともう片方の足を下ろし、完全にお湯に浸かると「ふーーーー」と長い息を吐いた。反応がさっきのわたしと同じだ。やはり親子なんだなぁと思ってしまう。
「うぁーー。いいお湯だね」
「うん。気持ちいい」
お母さんはお湯を身体にかけている。それからわたしのほうをチラリと見て、
「里奈、お腹出てるぞ」
「え、うそ。たくさん食べたからかな」
焦って、自分のお腹を見下ろす。少し濁ったお湯に浸かっているわたしのお腹は、ゆらゆらと揺れて見える。
「うそ」
そう言って、お母さんは楽しそうに笑う。それから、わたしの方をまじまじと見て言った。
「うーむ。我が子ながらよく成長したな。っていうかもうすでに私の全盛期越えてんじゃないかしらこれ」
お母さんはわたしの胸元を見詰めながら、手を伸ばしてきた。何だろうと思っていると、いきなり躊躇なくむにっと触られてしまった。思わず声が出て、わたしはその手を反射的に払うようにのけた。
「けしからん。これは男の子のいる家に預けるのはやはりまずかったか」
「…………」
ため息が漏れる。親子とはいえヘンな言動は慎んでほしい。
「健一君のことを言ってるなら、大丈夫だよ」
そう言うと、お母さんは意外そうな表情でわたしを見た。
「ほう。彼のことを信頼してるのね。仲良くなったんだ」
「うん。最初は無口でちょっと怖いと思ったけど。最近は普通に話せる」
「へー。それはなにより」と言ってお母さんはお湯のなかで身じろぎし、座り直した。
「そういえば、隆一君はどんな感じなの? 頭よくって、今、院生だとかって聞いてるけど」
「うん。でも、元気のいいお兄さんって感じの人だよ。髪形とか服装も、ちょっと派手だけど、おしゃれな感じだし。まだ三回しか会ってないけど、ラインで『何か困ったことがあったら連絡して』ってメッセージもくれたし。いろいろ頼りになりそうな人」
「ふーん」
お母さんは気のないような反応をしながら、空を見上げている。
「弟はサッカー頑張ってて、お兄ちゃんは人文系の研究者になろうとしてるのか。純一君もいい息子二人を持ったもんだ」
「健一君たちのお父さんのこと?」
「そう」
「知り合いだったんだよね」
「うん。昨日も言ったけど、大学生のときからね。学部は違ったけど、同じ授業取ってて、それで私と美恵と知り合って、仲良くなっていったんだ」
美恵さん、というのは、坂本のおばさんの名前だ。
「長い付き合いだったんだね」
「そうね。知り合ってからしばらくは、三人でお昼食べたり、純一君のサッカーの試合を美恵と観に行ったりしてたんだけど。そのうちに二人が付き合いだして」
「ふんふん」
とても興味深い。わたしは食い入るように、お母さんやおばさんが若かりし頃の恋バナに耳を傾けた。
「それでお母さんはどうしたの?」
「三人で会うことはあんまりなくなっちゃったかな。でも、それからもしばらく仲良かったよ。純一君と二人とご飯食べに行ったことも何度かあったし」
うむうむ。面白くなってきた。興味津々で、「もしかしてそれは三角関係とかだったりしたのですか?」と、ちょっと冗談めいた口調で訊ねた。
「どうだろうねー」と、お母さんはじらすように言って、湯けむりに霞む遠くの山々の方へ、視線を向けた。しばらくしても何も話してくれないから、「ねえ、そうだったの?」とわたしは答えを促した。
「ご想像にお任せする」と言って、お母さんは余裕たっぷりに笑った。
むう。
大事なところではぐらかされてしまった。ちょっとからかわれているみたいですっきりしない気分だけど、きっと三人は昔、そういう関係だったんだと思うことにした。そっちの方が、想像が捗って面白いから。
もう結構長く、温泉に浸かっていた。湯けむりの向こうに見える、木の柱に取り付けられているアナログ時計を見れば、お湯に浸かってから二十分ほど経っていた。汗もたくさんかいたし、咽喉も渇いて、頭がぼーっとしてきた。
「わたし、先に上がるね」
「うん。部屋の鍵、フロントに預けてあるから」
「わかった」
そんなやりとりをして、わたしはざぶりと、お湯から上がった。ひたひたと、濡れた岩タイルの上を歩くたび、身体から汗やお湯が滴ってくる。脱衣所に入ってバスタオルで身体を拭き、肌着と浴衣を着る。髪をタオルで巻いて、自動販売機でミネラル入りハト麦茶を買い、扇風機の前の椅子に座って飲んだ。
汗をたくさん流して、すごくさっぱりとした気持ちだった。一休みしたら、髪を乾かして、お部屋へ戻ろう。
☆ ☆ ☆
温泉から戻ってきて、またお母さんはお酒を飲み始めた。お風呂上りに飲みたいから、夕食のときのビールは控えめにしていたらしい。今は布団をふたつ部屋の中央に並べているから、机は隅っこに移してある。お母さんはその机の前に座っている。
夜が深まり、わたしはだんだんと、心地のいい眠気を感じてきた。さっき歯を磨いているときに自分の顔を見たら、目が眠そうにとろんとしていた。
わたしは窓際の籐椅子に、体育座りのように膝を抱えて座っている。夕方座っていて、なんとなくこの場所が気に入ったのだ。天井についている暖色の灯りもいい感じで、リラックスした気分になれる。
「里奈ー」と、お母さんがわたしを呼んだ。
「何?」と、わたしは答えた。
「友達とか健一君の家に、お土産買ってくでしょ? 帰る前に、このあたりのお土産屋さんまわって行こうか」
「うん。家用と、あと健一君とおばさんと、入沢に住んでる友達の子と、クラスで仲のいい子たちにも買っていこうと思ってた」
「……多いねー。まあ里奈くらいの年頃の子はそういうの好きか」
そう言って、お母さんはコップを口元に運んだ。今飲んでいるのは、ルームサービスで頼んだ日本酒だ。会話は途切れて、しばらく部屋のなかが静かになった。もう遅いから、人の話し声や足音は聞こえない。夜の虫の音と、近くを流れている川の水音だけが、かすかに聞こえる。静けさに、さらに眠気が増して、うつらうつらとしてきた。もう布団に入ろうかと思ったとき、いきなりお母さんが何の脈絡もなく、「もし里奈と健一君がくっついたら面白いなー」などと呟いた。くっつく? とぼんやりした頭で考えて、それから意味を理解して、にわかに目が覚めた。
「っていうかそうなったらいろいろ好都合。最近老後のこととか考えはじめちゃってさー」
「ちょっと何言ってるのお母さん」
「あれ? 里奈顔赤くなったぞ」
「お風呂上りで暑いからだよ!」
「んんー? りななん照れているな?」
わたしの顔を覗き込んだあと、お母さんは『りななん、りななん』と変な歌を歌い始めた。酔っているのか、なんだか上機嫌だ。「りななん」はお母さんが使っていた、わたしの小さな頃の愛称だ。
「むー」
「あれ? 里奈? 怒っちゃった?」
「知らない」
わたしは席を立って、敷いてあった布団に、ぼふっと飛び込んだ。ごめんごめん、とお母さんはわたしの腰やお尻のあたりをさすりながら、楽しそうに言い続ける。わたしは枕に顔をくっつけたまま、意地を張って反応を返さない。
「もー。しょうがないな。里奈の意地っぱり」
お母さんはわたしから手を離した。トクトク、という液体がコップに注がれる音、コトリ、というコップが机に置かれる音が、静かな部屋に響いた。
まだあと四カ月以上も、彼とは同じ家に住まなくちゃいけないのに、そんなことを言わないでほしい。そういう風に健一君のことを意識してしまったら、きっと家に居る間、今まで以上に、どうやって、どのくらいの距離を取ったらいいのか、わからなくなってしまう。健一君のことは嫌いじゃない。二人で居間で過ごしている時間も好きだ。そんな風に思ったとき、ふいにまた、森さんの姿が脳裏にちらついた。健一君が何かを言ったとき、仲良さそうに、彼女はバンバンと彼の背中を叩いていた。ああいう親しさは、わたしと健一君の間にあるものとは、別のものだ。横になった瞬間、再び強まってきた眠気で霞み始めた意識のなかで、わたしはそんなことを考えていた。
するとふいに、「里奈」と、お母さんはわたしを呼んで言った。
「ごめんね」
それから、独り言のように話を続けた。
「もし私に何かあったら、里奈はひとりぼっちになっちゃうからさ。健一君たちの家なら、美恵なら、里奈のこと、きっと家族みたいに守ってくれるだろうって思ったんだ。こういうと、なんだか悪いような気もするけど、私と美恵、同じような境遇になっちゃったし」
ぽつんと言われたその言葉に、わたしは枕に顔を埋めたまま、小さく頷いた。
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