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 一度旅館にキャリーケースだけ預け、その後いくつかの寺院を巡ったあと、午後四時過ぎに旅館に戻った。部屋に案内してくれた従業員の人が、露天浴場に大きな岩風呂があること、夕食は六時半からバイキング形式で行われるということを説明をしてくれた。部屋は畳敷きで、上品な藺草の香りがほんのりと漂ってくる。漆塗りのテーブルが真中にあって、お菓子と急須、湯沸かしポットが置かれている。


 疲れたー、と言いながら、お母さんは籐の座椅子に座った。わたしもリュックを部屋の隅において、お母さんの向かいの椅子に座った。足を伸ばすと、やはりちょっと疲れていたのか、ふくらはぎのあたりに重みを感じた。


「お茶淹れる?」

「うんお願い」


 わたしが聞くと、お母さんが頷いた。湯沸しポットの電源を入れて、急須にお茶のパックを入れた。お湯が沸く間、少し待つ。


 お母さんは旅館の説明の冊子をぱらぱらと捲っている。部屋のなかは静かで、遠くから聞こえる蝉の鳴き声と、お母さんがめくる紙の擦れる音が小さく響いている。それから、近くを流れている川の水音もかすかに聞こえていることに気付いた。わたしは椅子に深く背を持たせかけ、深く息を吐いて、吸った。藺草の匂い。川の水の流れる音。日常から離れた場所に来ているという実感が、深いリラックス感とともにやってきた。やがて、ポットのなかでお湯が沸騰するポコポコという音が聞こえてきた。わたしはお湯を急須に注ぎ、お茶を淹れた。鮮やかな緑色の、綺麗なお茶だった。それを茶托に乗せて、お母さんの近くに置く。


「ありがと」とお母さんは言って、読んでいた冊子を置き、テーブルの上に置かれていたお菓子を食べながらお茶を飲んだ。


 わたしも自分の分のお茶を淹れて、そのお菓子を食べた。お饅頭だったのだけど、餡の甘さがしつこくなくておいしい。皮もしっとりとして、口の中がパサつかず、甘みが程よく口の中に広がる。


「おいしいね、これ」


 わたしが言うと、「うん」とお母さんも、ずずっとお茶を飲みながら頷いた。お菓子が入っていたお盆のなかに説明書きがあったので読んでみると、どうやらこの旅館内のお土産屋さんでも売っているようだった。健一君とおばさんにも買っていってあげようと思った。


 ☆ ☆ ☆


 夏の日がゆっくりと暮れていく。お母さんはお茶を飲んで少し休憩したあと、旅館の浴衣に着替え、押入れから枕を見つけてきて畳の上に横になった。最初は寝ながらスマートフォンをいじっていたのだけれど、その後すぐ眠りに落ちたみたいだった。昨日帰国したばかりなのに今日も朝から旅行に出かけて、さすがに疲れたのだろう。浴衣がはだけてしまっていたので、わたしは押入れから上掛けを出して、お母さんの体にかけてあげた。


 わたしたちの部屋は夕日が窓から差し込む位置にあって、今、電気を点けていない部屋の壁は黄色く染まり、畳は薄暗い影に沈んでいる。騒がしかった蝉の鳴き声はいつしかひぐらしのかん高い鳴き声に変わっていた。


 わたしは窓際の広縁に、ローテーブルを挟んで二つ、向かい合うように置かれている籐椅子のひとつに座って、文庫本を読んでいた。窓の外には箱根の景色が見えるから、障子はまだ開けたままにしている。


 遠く見える山の近くで、沈みかけの太陽が真っ赤な光を薄灰色の空に滲ませていた。周囲に漂う雲は、光を受けてその輪郭を金色に輝かせている。遠くにある鉄塔は薄暗い夕空を背景にした黒い影になり、陽が高いときは緑色に輝いていた木々も、今は薄闇に飲まれている。


 ゆっくりと、わたしたちの部屋も暗くなってきている。部屋のなかは静かで、廊下を歩く人たちの足音や、お母さんの寝息がかすかに聞こえる。あまりにも落ちつく旅館の雰囲気に、だんだんわたしも眠くなってきてしまったけれど、もうすぐ晩ご飯の時間だ。わたしまで寝てしまったら、二人とも時間に遅れかねない。


 そんなことを考えながらなんとなく、横になっているお母さんをぼーっと見ていると、ふいに、むくりと起きあがった。


 座ったまま、うーん、と伸びをして、それから乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、まだ眠そうな顔で、わたしの方を振り向いた。


「はー、よく寝た、いい気持ちだった。今何時?」


「六時過ぎ」とわたしは自分のスマートフォンを見て答えた。その答えを聞いたのか聞いていなかったのか、「てか暗」とお母さんはつぶやいて立ち上がり、電灯のスイッチを入れた。影に沈んでいた部屋のなかが、明かりで白々と照らされる。


「もうすぐご飯ね。里奈、お腹減ってる?」

「たくさん歩いたから、ぺこぺこ」

「よし。いっぱい食べるよー」


「うん」とわたしは頷いた。わたしたちは身支度を簡単に整えて、部屋の外に出る準備をした。


 ☆ ☆ ☆


 夕食の会場にお母さんと一緒に歩いていく。もうすでにたくさんのお客さんがやってきていて、室内はとても賑やかだった。入口のところに受付けがあって、従業員の人が、わたしたちのテーブルまで案内してくれた。窓際の席で、離れた場所に建っている建物や街灯の灯りが見える。


 隣のテーブルには、四人家族の人たちが座っていた。お父さんもお母さんもとても若く、五歳くらいの女の子が子供用の足の長い椅子に座っている。お母さんの横には、もっと小さい、三歳くらいの子が座り、ストローで飲み物を飲んでいる。


 バイキング会場に来ている大人はほとんどの人が旅館の浴衣を着ている。同じ格好をしているからか、不思議な親近感が湧いてくる。


 お母さんはテーブルの上に置かれていたバイキングの説明書きを見ていた。わたしも軽く目を通す。使用したお皿は、係りの人が回収してくれるのでそのまま机の上に置いておく。お酒以外の飲み物はドリンクバー。おすすめの料理はローストビーフとお寿司。時間は午後九時半まで。


「よーし、里奈行くよ!」


 お母さんは説明書きを二つに折りたたんでテーブルの上に置き、席を立った。「うん」と頷いてわたしも立ち上がり、料理が並んでいる台の方へ歩いていった。


 まずお盆とお皿を取り、同じようにお盆を持っている人たちの列に並び、ゆっくりと歩きながら、ひとつひとつの料理を見ていく。たくさんの料理に目移りしながら、わたしはサラダとローストビーフ、ナポリタンを少しずつお皿に盛りつけ、オレンジジュースをコップに注いで、席に戻った。お母さんはすでにビールを注文して、食事を始めていた。


「おそかったね」

「うん。どれもおいしそうだったから、迷っちゃって」


 お盆を机に下ろして、わたしも席についた。それからスマートフォンを取り出し、料理の写真を撮った。


「それ、インスタとかに載せるの?」とお母さんが言った。わたしは笑いながら首を振った。


「なんとなく撮っただけ。お母さんも映る?」


 わたしがカメラを向けると、お母さんはお箸を置いてピースをした。バンスクリップで髪をアップにしたお母さんは、わたしと同年代の女の子みたいに、顔の近くでピースサインを作っている。自分の親ながら、なかなか若々しいポーズだ。ぱしゃっと一枚撮ってから、料理に髪が落ちないように後ろで結び、いただきます、とひとり手を合わせた。


 しゃくしゃくとサラダを食べてから、ローストビーフを一枚食べる。甘めのタレとお肉の味が口のなかにじわりと広がる。おもわず、「おいしー」と漏らしてしまった。ビールを飲んでいるお母さんが正面でニコニコしている。


 ナポリタンもくるくるとフォークに巻きつけて、口に入れる。酸っぱいトマトの味がよく利いていて、こちらもとてもおいしかった。


「里奈、あそこの焼肉もおいしかったよ。あとで食べてみなよ」

「うん、食べてみる」


 焼肉、と言われて、ひとつの話題を連想した。


「そういえばこの間ね、健一君と、お兄さんの隆一さんと、それから友達の女の子と、四人で焼き肉を食べにいったんだ」

「へー。友達って、里奈の友達?」

「ううん。健一君の友達。小学生のころから一緒にサッカーやってたんだって。森由梨子さんっていうんだけど、元気がよくって、可愛い子だよ」

「そうなんだ。やっぱり今時は、女の子もサッカーやるんだね。その子、里奈よりも可愛いの?」


 お母さんは悪戯っぽくわたしを見ながらそんな質問をしてきた。一瞬、どう答えていいかわからなくて、曖昧に頷きかけたあと、しかしわたしは苦笑を浮かべて首を横に振った。


「森さんはわたしとは全然タイプが違うよ」


 変な答え方になっちゃったなと、自分のなかに小さなわだかまりを感じた。でも、どっちが可愛いか、なんて意地悪な質問だ。わたしの方が可愛いなんて自分で言えないし、森さんの方が可愛いと答えても何だかすっきりしない気分になってしまうだろうという気が、なぜかした。


「ふんふん。なるほど」


 お母さんはにやにやしながらわたしを見て、それから通りかかった旅館のスタッフのお姉さんに「生中おかわりください!」と告げて、空のジョッキを渡した。それから、「健一君にそんなに仲のいい女の子がいたとはね。そりゃ大変だ」と言って、なんだか訳知り顔でうんうんと頷いた。お酒が回ってきているのか、ほっぺたのあたりが少し赤らんでいる。わたしはまたはぐらかすような笑みを浮かべて、首を傾げた。


 健一君と森さんが、実際どういう関係なのか、わたしはまだよくわからない。一見、二人ともお互いをぞんざいに扱っているように見える。でもそれと同時に、深いつながりのようなものも感じる。長い間積み上げてきた関係の強さのようなものを、何度か三人で過ごして感じてきた。


「あれ? 里奈、お箸止まってるけど。もうお腹いっぱいなの?」


 お母さんが聞いてくる。わたしはにこりと、困ったときに自然と出て来てしまう笑みを浮かべて、首を振った。


「まさか。まだまだ食べるよ。おかわりとってくる!」


そう言い残して、わたしは使ったお皿を机の脇に置き、お盆を持って席を立った。


 ☆ ☆ ☆


 お母さんがおすすめしていた焼肉を食べ、ピザやお寿司も少しずつ食べて、お腹がいっぱいになった。これはちょっと太っちゃうかもな……と思いつつも、わたしはデザートに、アイスクリームを食べようと思った。実は最初から目をつけていたのだ。アイスクリーム屋さんにあるようなガラスドアの冷凍庫のなかに、バニラや抹茶やチョコレートのアイスが入っている。そばにはチョコレートソースやカラースプレーのようなトッピングの材料も置かれている。


 お皿を持ってその場所に歩いていくと、先客がいた。隣のテーブルにいた女の子だ。ガラスドアを開け、スクープで抹茶アイスをすくおうとしているのだけれど、アイスが固いのか、少しずつしかすくえないようで、悪戦苦闘している。


「よかったら、取ってあげようか?」


 わたしが腰をかがめて言うと、女の子はおずおずと顔を上げ、少し警戒した目でわたしを見た。それから「うん」と頷いた。わたしは女の子から深皿を受け取って、抹茶のアイスをすくって盛り付けた。よいしょ、と力を入れないとスクープがアイスのなかに入っていかず、たしかに小さな子供がすくうにはちょっと固いかもしれない。


「どうぞ。これでいい?」


 お皿を渡すと、女の子は両手でそれを受け取った。綺麗な緑色のアイスクリームを見て、ニコニコしている。


「うん。ありがとう、お姉さん」


「どういたしまして」とわたしもにっこりと笑みを浮かべながら答えた。


 女の子はその後、近くにあったチョコレートの入っているディスペンサーを絞って、とろとろとアイスにかけ、色とりどりの細かなカラースプレーを振りかけて、満足そうにお皿を抱え、席の方へ戻っていった。あのくらいの子にとっては、たくさんトッピングをしたアイスは、きっとものすごく魅力的なんだろう。自分も同じ年頃だったら大喜びしたと思う。


 わたしもバニラアイスをお皿に盛りつけ、生クリームやカラースプレーなどでたっぷりとトッピングをして、デザートを作った。小さい女の子とやっていることが一緒で、自分で笑いそうになってしまった。この方面の趣味は、あのくらいの年頃から、あんまり進歩してないみたいだ。


 飲み物に紅茶を入れて席に戻ると、「うお!」と、お母さんがわたしのお皿を見て声を上げた。


「甘そー。ずいぶん盛ったねー」

「ふふーん。いいでしょー」


 再び食べる前に写真を撮る。超高カロリーのデザート。この夜の食事のカロリーを頭のなかで見積もると苦笑いが浮かんできてしまうけれど、一日くらいなら、きっと大丈夫。たくさん歩いたし。そう自分に言い聞かせて、わたしは甘々なアイスを頬張った。するとぱしゃりと音がした。顔を上げると、お母さんが自分のスマートフォンのカメラを構えていた。


「むふふ。幸せそうな里奈の顔いただきましたー。あとで健一君たちに送っておこう」

「やめて!」


 冗談なのか本気なのかわからないその言い方に、わたしは強く言った。そんなことをされてしまったら、恥ずかしすぎる。せっかく、今までそつなく坂本家で暮してきたのに。


 お母さんは「あら残念、せっかくいい表情だったのに」と冗談めかして言って、スマートフォンを机の上に置いた。まったくもう、とわたしは思いながら、生クリームを乗せたアイスをスプーンですくって、パクリと口のなかに入れた。

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