里奈編 夏休み、わたしと母の箱根旅行

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 わたしはお母さんと全く逆の性格の子だと、昔からよく言われてきた。


 お母さんは仕事で忙しい人だったので、わたしは早くから保育園に通っていた。保育園では積み木をしたり、絵を描いたりして、ひとりで過ごしていることが多かった。わたしは外で砂遊びや追いかけっこをするよりも、室内で遊んでいることの方が好きな子供だった。


 一度、お母さんが遅くまで迎えに来なかったときがあった。保育時間を過ぎたその時間に教室のなかにいる子はわたしだけだった。わたしは、帰り支度を済ませたバッグをそばに置いて、ずっと保育士さんと一緒に絵を描いていたのだけれど、窓の外の暗さと、友達がみんな帰っていってしまったことの不安と寂しさがどんどん募ってきて、最後には大泣きしまったのだった。


 ことあるごとに、お母さんはその話をする。


「なかなか里奈が泣きやまなくって、保育士さんがすごく困ってたんだよ」


 覚えてないよ、とわたしはその都度、笑いながら答えていたのだけれど、本当はちゃんと覚えていた。あのときに感じていた不安と寂しさは、不思議な懐かしさの感覚とともに、今でも鮮やかに思い出すことができる。


 冬の日だった。ようやく保育園にやってきたお母さんがペコペコと保育士さんに頭を下げていたこと、帰り道の夜空が真暗で、白い月や星がはっきりと見えたこと、とても寒くて、止らない涙がひどく冷たかったこと、繋いでいるお母さんの大きな手の温度を熱いくらいに感じていたこと。


「ごめんね」と、あのときお母さんは言った。ぐすぐす泣きながらも、わたしはこくんとそれに頷いた。


「でもおかしいなー。私の子なのに、里奈はなんでこんなに大人しいんだろう。母と娘はよく似るっていうのに。小さい頃のお母さんは、絶対泣かない子だって言われてたんだよ」


 お母さんは首を傾げてそう言った。わたしはなんだか責められているみたいに感じて、またぐすりと涙を流してしまった。慌てたお母さんは近くのコンビニに入り、当時わたしが好きだったチョコレートのお菓子を買ってくれた。それを食べて、ようやくわたしの気持ちは落ちついたのだった。


 自分とお母さんの性格が大きく違うことは、成長するにつれてますますはっきりと自覚するようになった。家庭訪問や三者面談でお母さんと会った学校の先生はいつも、「里奈ちゃんはお母さんと全然違う性格だね」とわたしに話した。


 うちは母子家庭だったから、わたしは小学三年生くらいから家事を手伝うようになった。洗濯物の畳み方や仕舞い方、包丁の使い方を教えてもらうのは面白かった。そして、そういう作業に慣れ、自分なりに身の周りのことができるようになると、だんだんとお母さんの家事の雑さが気になるようになってきた。特にアイロンをかけるのがヘタでお洋服に皺がついてしまうのも気になったし、高い服を着たまま、お酒を飲んでそのままソファーでごろ寝してしまうのも気になった。


 何本も缶ビールを飲んだあと、ブランドものの素敵なブラウスをしわしわにしながら、おへそを出してソファーで寝ている姿を見て、わたしは決してお母さんのようにはなるまい、と心に誓ったのだった。


「お母さん、体痛めちゃうから、ベッドで寝なよ。パジャマ持って来てあげるから、ちゃんと着替えて」


 ごろ寝しているお母さんに、いつもわたしはそう声をかけた。お母さんは寝ぼけたような声で返事をして、のそのそと服を脱ぎ、半目のままわたしが差し出したパジャマに着替え、とぼとぼと自室に戻っていく。わたしはお母さんの脱ぎ散らかした服を洗濯機に入れ、パンツとブラウスにはアイロンをかける。そのままお風呂を沸かして、わたしが入浴を済ましたころ、お母さんも仮眠から起きてお風呂に入る。というのが、いつもの平日のパターンだった。


 わたしはお母さんと二人で、だいたいこんな日常を送ってきた。働く母親と、学校へ通う娘の、特別なことなんてない、普通の二人暮らし。


 ☆ ☆ ☆


 朝から、とても暑い日だった。


 じりじりと地面を焼く、鋭い陽射しが空から降り注ぎ、電車の冷房が、大きな音を立てて、冷たい空気を車内に送り出している。車窓から見える緑の葉が、陽射しを受けて、ちらちらと発光するように揺れている。


 お母さんが仕事の長期出張で南米へ行き、わたしが遠い親戚の坂本健一君の家で居候をするようになって、二カ月ほどが経った昨日、夏休みの休暇を一週間もらったお母さんは日本に帰国した。空港からそのまま健一君の家を訪れて一泊し、その翌日の今日、わたしたちは電車に乗って、箱根旅行へやってきたのだった。


 電車が止まり、ガイドマップを読んでいたお母さんと席を立った。車両から降りると、真夏の暑い空気が、むっと身体を包んだ。


「ねえ里奈、観光するまえに、このあたりでお昼、食べてこうか。評判のいいお蕎麦屋さんがあるみたい」

 黄色のブラウスに、白い七分丈のパンツをはいたお母さんが、ガイドマップを片手に改札口に向かって歩きながら言った。


「うん。行ってみたい」とわたしも頷いた。もう十二時を過ぎているし、ちょうどお昼時だった。


 昨日の夜、お母さんはおばさんの部屋に泊まった。わたしはいつもの通り、借りている二階の部屋で眠り、朝の六時半に起きて、おばさんと朝食を作った。おばさんは仕事に行き、健一君は部活に行った。そのあとで、旅行の準備を済ませて、わたしたちも家を出た。着替えなどの荷物を詰めたリュックとキャリーケースを持ち、しっかりと玄関の鍵を閉めた。


 あたりには緑がたくさんあって、蝉がひっきりなしに鳴いている。ショートパンツや、半袖のシャツから出ている手脚の皮膚はもうすでに、少し汗ばんで湿っていた。

「こっちの方角みたい。この距離なら歩いていけるね。ご飯食べてから、荷物だけ先に預けにいこう」


 仕事で出張の多いお母さんは、さすがに旅慣れている。ガイドマップを見ながらてくてくと先を歩いていく。わたしはリュックを背負い直し、サンダルの足音をぱたつかせながら、早足でお母さんのあとを追った。横に並んで、レトロな雰囲気の商店街を見ながら歩いた。強烈な陽射しが屋根に遮られて影になっていたから、商店街の道は歩きやすかった。


 お母さんと旅行に行くなんてずいぶん久しぶりだった。というか、お母さんが一週間もお休みをもらったことだって、ここ数年は一度もなかったかもしれない。お母さんは仕事が好きな人なのだ。出張でいろいろな地域に行ける今の仕事は、活動的で旅好きな性格の人には合っているのだろう。


 わたしたちは少し歩いて、目的地のお蕎麦屋さんに入った。古くからありそうな木造の瓦屋根の建物で、店内には木のテーブルと椅子が並んでいる。壁際には書の掛け軸が掛けられていて、落ちついた雰囲気のお店だった。


 テーブル席に座ると、お店の人が、おしぼりとお冷を持って来てくれた。カラカラと氷がコップに当る音が涼やかだった。わたしはおしぼりで、汗ばんでいた髪の生え際のあたりを、軽く拭った。


 メニューを開いて少し考え、わたしはざるそばを頼むことにした。すると、お母さんが「うーん」と悩ましげにうなった。


「どうしたの?」


 そう訊くと、「ビール飲みたいなぁ」とお母さんが呟いた。


「夜まで我慢しなよ。まだちょっと歩くんでしょ?」

「うぇーん」と、わざとらしくお母さんは言い、それからしばらくして店員さんを呼び、


「ざるそば一つ。それと生ビールの小ジョッキ一つ」と、エプロンをつけた店員さんに告げた。


「お母さん……」

「一杯くらいなら全然酔っぱらったりしないから! 歩くのも問題なし!」

「もう……」


 わたしたちのやり取りを聞いていた店員さんは苦笑していた。わたしは恥ずかしさを感じながらぺこりと頭を下げて、自分の分のお蕎麦を注文した。


 それからすぐに来たビールを、お母さんはごくごくと咽喉を鳴らして飲み、くぅー、とおいしそうに声を上げた。半分くらいはすぐに飲み干してしまい、残りはその後、お蕎麦を食べながら少しずつ飲んでいた。


 せいろの上に盛られたお蕎麦は濡れてキラキラと光っていた。徳利のなかに入っているそばつゆを小さなお椀に注いで、ゆっくりと食べた。


 お蕎麦にはコシがあって、冷たいお汁は上品な風味でほのかな甘みがあり、しかし程よいしょっぱさが、味を引き締めていた。しばらく、わたしとお母さんは無言でちゅるちゅるとお蕎麦を食べ続けた。


 おいしいお蕎麦でお腹を満たし、お会計を済ませると、わたしたちは「ごちそうさまでしたー」とお店の人に言いながら外に出た。真夏の熱気と、シャワーのように降り注いでいる蝉の鳴き声が、再びわたしたちを包んだ。

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