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グローバルネットが全地球的に普及した今、オフラインであることは珍しい状態にすらなった。逆に言えば、個人に属する機器から情報を特定するのが容易になった社会であるということだ。ユビキタスなどと言われていた時代で止まっていればよかったのだが、技術の発展はいつも人間の予想の先を行く。だからこそ、潜伏を図るときは一層の配慮が必要になった。双方向性のある端末は使えないし、能動的な情報の発信もNGだ。こういう世の中では、情報だけを得ようとするとアナログな機械の出番になったりする。不特定多数に向けて発信されている情報を拾うだけにとどまる、ラジオや配信型のコードレステレビなどだ。
伊瀬家の所有するセーフハウスのうちの一つ、山奥にひっそりと建てられた別荘で、紫丹は情報収集も兼ねて壁掛けテレビのニュースを眺めていた。片手には煎餅、卓には煎茶の入った湯飲みである。三影一門が任務用にウィスパーを違法改造した専用回線は、国内であれば傍受されても逆探知できる信頼性を持っているが、それでも8ii使用は最低限に抑えるように指令が下っていた。そのためのテレビ鑑賞であり、決してサボタージュではないというのが彼の言い分だった。とはいっても彼を非難する人間はこの場におらず、家主たる伊瀬燈香は自室で読書にふけっている。
中央アメリカで改派によるテロが頻発しているとか、UCICが違法ハフフィックの取り締まりを強化する法律を可決したとか、どこもマイペースにやっているようだ。一通りの情報を提示し終え、滑らかな女性の機械音声が途切れる。他の番組も一応覗いておこうかとチャンネルを切り替えようと仮想デバイスのスイッチを押した。すると、安っぽいB級ホラービデオの一幕なのか、妙なリアリティで彫り込まれたピエロのお面を被った人影がアップで映った。選局を間違えたかともう一度切り替えるが、同じ映像が流れるばかりだ。
『今晩は、親愛なる画術師の諸君』
腹話術でも使っているのか、まったく頭部に動きを感じさせずに画面内のピエロが語る。古い音声合成ソフトでも使っているかのように英語の音程と発音が微妙に片言だ。それに屋外で編集せずに録音してあるのか、雑音がやたらと混じる。
『これより世界の行く末が揺り動く。羅針盤は既に北を外れた――我々は沈黙を破ることを許されたのダ。そう、今こそは諸君の信ずる画術の在り方を神に問う審判の時。正しき画術が描く軌跡の先に、正しき世界の結末が在ろウ』
芝居がかった台詞を一通り並べ立てられ、事の異常さにようやく理解が追い付く。これはどう考えても民営放送ではない。ちらりと映りこんだ基地施設や装甲車に北米協商軍のシンボルマークがペイントされているのに、肝心の話者本人の言い分はどう見ても新古典画術派のそれだ。しかも意訳が合っていれば過激な事を言っている。改派の過激派を焚き付けて反画術勢力、すなわちUCICに攻め込め、と言っているように聞こえるのだ。だとするとこの人物(人形?)もまた改派に属するという事になるが……。
『さぁ諸君! 第二の
ぶつりと不穏な音を立てて映像が途切れ、間の抜けたBGMをともなったドキュメンタリーが入れ替わった。アナウンサーとともにISD進化の歴史を学ぶのも悪くはなかったが、手持ちの端末に緊急性の高い案件を通す回線からイメージが送られてきた。慣れ親しんだそれは同僚の上司からだった。
『仕事だ、紫丹。状況が変わった』
『今のジャック映像の件ですか』
『そうだ。現在、シリコンバレーが改派の画術師とみられる軍団によって襲撃を受けている。その討伐隊に伊瀬家のハフフィック戦力を出せ、とサンクトペテルブルクから本家に直接打診が来た』
『早すぎませんか。いくら何でも』
『どうやら我々は改派の連中を見くびっていたようだ。明らかに計画された行動だな』
『ま、過ぎたことを嘆いても仕方ないでしょう。で、その対応に伊瀬を?』
伊瀬家のハフフィック戦力。当家が所有する機体は燈香の持つシトメギ一機だけなので、実質彼女を参加させろと言っていることになる。しかし、
『無理でしょう。この段階でシトメギを出せば、消息不明という状況を作り出したのが無駄になってしまう』
先のペイントリウム襲撃事件において、伊瀬家がKAWASAKIと結託して燈香の保護と狂言を演じた。そのおかげで現在『伊瀬燈香』という人間は今社会で未確認になっている。三影が作戦行動を取るために必要とされたそのステップがようやく実現したところにこの要求は到底許諾しえないものだ。
『ところがそうもいかん。歩凪が人質に取られている』
『……なるほど。そう来ましたか』
自分でも思っていたよりは驚きはなかった。このタイミングでサンクトペテルブルクが直接介入してくるのは、何らかの形でこちらの勢力と接点を持ったとしか考えられない。恐らく『霧の町』に潜入したのが発覚したのだろう。
三影としては歩凪を切り捨てるという選択肢は『この段階では』取らないだろう。まさに機が悪い。そこまで見抜かれていての要求であれば、完全にトリニティの掌の上で踊っていたことになるが、憂慮すべきはそこではない。
『伊瀬家の方はなんと?』
『快諾したよ。あちらとしては性能実験としか捉えていないのだろう。改装も終わったようだしな』
そう、伊瀬家は断らない。あの家は根っからの研究者気質で、自分たちの画術探求に常に余念がない。シトメギの開発に噛んだのもそういう経緯だと聞いている。しかしそれで死地に軽々と飛び込まれては困る、というのが三影の本音のはずだ。新古典画術派でありながらハフフィックを所有しているというのは大きなアドバンテージになる。それをみすみす手放すわけにはいかないからだ。
『シトメギ、改装していたんですか』
『詳しくは知らん。大方、先の先行試作機との戦闘データを反映させたのだろう。それよりも留意すべきは、あちらが出撃するなら黙って見送るわけにはいかないということだ』
『それで俺に直衛につけと? 当然S.D.ぐらいは支給してもらえるんですよね』
シリコンバレーと言えばUCIC五大企業の中でも先端技術を次々と投入していくことで有名だ。画術師を相手取ることは設計思想に含まれていないハフフィックだが、おそらく何らかの対抗策は持っているとみて間違いない。一方的な戦闘にならないとなればシトメギとしてもやりやすい環境にはなるが、護衛するとなると大変だ。混戦下では何が起こるか分かったものではない。ましてその渦中に生身で突っ込むなど、無茶を通り越して無謀というもの。ハフフィックの方が継戦能力に長けるというのもあるが、単純に共闘するならコンバットパターンがはるかに組みやすいからである。
『進言ぐらいはしておいてやろう。急ぎ東京支部へ向かえ。そこでシリコンバレーへの足は準備してある』
『燈香様は?』
『あちらはあちらの都合がある。支部で落ち合えば良いだろう。細かい調整は任せる』
『なるほど。諒解』
送受信していたイメージが途切れ、聞き流していた合成音声が不意にピントを取り戻した。そうと決まれば早急に動かなければならない。テレビの電源を落として立ち上がると襖を開け、廊下を渡った。
「おっと」
ちょうどその時、突き当りの曲がり角から姿を現した家主と鉢合わせた。さして驚いている様子もなく、するりと一歩引いて距離を取った。おっとりとした雰囲気と表情を崩さない彼女からは、平生以上の情報は読み取れない。歩凪の件を知っているのかどうかは話題に上らない限り触れない方が良さそうだ、と紫丹は判断した。
「急な話ですが西海岸の日帰り旅行が入りました。相手が俺で恐縮ですが、お付き合いいただければと」
「ええ。こちらでも聞き及んでおります。ずいぶんと物騒な道中になりそうですが、紫丹さんがいるなら安心ですね」
「は、はは……誠心誠意努めさせていただきます」
つい先日歩凪が出立したと思えば今度は自分たちが駆り出されるとはなかなか慌ただしい。誰かが何かの目的で作為的に作られている状況なのかもしれないという懸念はあった。しかしそれは考えるだけ無駄というものだった。世界はいつだって誰かの思惑で動いているし、自分のような人間はその歯車として回るしかないと、彼は割り切っていたからだ。
伊瀬燈香は延々と続く暗い渡り廊下を歩いていた。一切の光源が立たれた細長い空間は全くの暗闇であり、まともに進めるような環境ではない。ただ、彼女の眼には屋外と同じように焦げ茶の床板が映っていた。視覚とは見えなければ意味がない。身体のすべてがそうだ。この感覚を突き詰めていく、と次第に人体という殻が窮屈に思えてくる一瞬がある。「動かす」という概念と基礎となるイメージさえあれば、機能の大半は画術的に拡張できる。むしろそこでは通常の知覚範囲をとどめる感覚器官の方こそ邪魔になるのだ。
そんなことを考えた末に本当に人の殻を捨ててしまった人物が、離れの奥座敷にひっそりと暮らしている。行き止まりの漆喰の壁に、しかし通路という概念を優先させて突き抜ける。先には部屋と言っていいのかどうか微妙な間隙があった。床も天井も壁もないが、屋外ではない。閉じられた場所ではあるのだが、実存がないのだ。空いた押入れには綺麗に折りたたまれた布団があり、畳の角には茶器を載せたお盆がある。足の低い文机の上には大判の書物が開かれている。生活感はあるのだが、肝心の人が見当たらない。否、知覚できない。
「お邪魔いたします、おばあさま」
いつもこの部屋を訪れるたびにどこへ目線を向けたものかと困ってしまうのが常だったが、声はきちんと届いた。
「元気でなによりね、燈香」
優し気な老婆の佇まいを少し離れて感じる。もちろん、そこには何もない。自分の感覚が正しいという保証はどこにもないが、ひとまずはその感覚を信じて会話に臨むしかない。
「今回は災難だったわね。でも、世情に従わなければならない時もある。そういうことでしょう」
「私は……。家名を気にするような家柄でなくてよかったと思います」
「ふふ、そうね。伊瀬の名に泥を塗るなどと、くだらないことを考える必要はない。いつも通り、わたくしたちが求めることを為しなさい。遠慮はいりません」
「はい。おばあさまのおっしゃる通りに」
「わざわざ足を運ばせて悪かったわね。少し息をついて、気を付けていってらっしゃい」
それが対話の終わりを告げる言葉だったのか、相手の気配とも呼べない余韻めいたものが吹かれた煙のように消えていく。この短い間に自分の何を図られたのか、もしくは単に孫娘を案じてのことなのかは分からなかった。恐らく誰にも彼女の意図を読むことなど不可能だろう。しかし燈香にとっては必要なものは得られていた。当主ではなく、彼女の言葉で告げられたという事実が重要だった。
伊瀬家の至上命題、画術による人体の超越。その探求はいつとも知れず始まり、そして今に続く。表向きは画術研究の大家として見られているし、その評は誤りではない。しかし、だからこそ、この身はその進展の礎とならねばならない。そういう覚悟とともに生きている一族なのだ。ゆえに、探求の赴くままにという指示は最大限の自由度を与える命令だった。
「失礼いたします。おばあさまもご息災であられますよう」
始まりと同じく他愛のない挨拶を送って祖母の前を辞すと、来た道を戻る。廊下の暗がりを抜けるかどうかという所で、一人の男性が隣を歩いていることに気付く。視界に収めるまでも無く、それは父親の光延だと分かった。この一家にしては珍しく日常動作に画術を用いていないので逆に目立つ。彼自身、その役割は直接的な画術研究とは離れ、対外折衝を担当している。このご時世、それなりの地位と社会的認可が無ければ内容が内容の研究は出来ない。縁の下を支える存在が一代に数人は必要なのだ。その事は重々承知していたものの、燈香はあまりその役回りに肯定的な感情を持っていなかった。この家に居ながら画術から距離を置くなどということがあってよいのだろうかと、疑問に思い続けていたからだ。だからなのか、父親との距離感はいつになっても図りかねていた。
「イロウの慣らしは終わったか」
「ええ。問題無く」
「調整が要り様であれば今の内に言っておけ。十全に動作しないようでは適切な試行にならない」
「では、スタビライザの補助感度を11ポイント前後で下げてください。フィッティングは慣らしの時の動きを基準にしていただければ」
連続する微かな電子音が技術班に連絡を送っていることを伝える。直接担当の人間に話させてくれればとも思ったが、よくよく考えてみればその担当の取り纏め役が光延だ。シトメギの建造を先行試作機開発プロジェクトに食い込ませて実現させたのも彼の手腕と聞いている。そういう政治的なやり取りには本当に長けた人間なのだ。自分が普通の価値観を共有する家庭に生まれていたら、そんな父親を尊敬していたかも知れなかった。彼女はそんな『もしも』を想像できなかった。
「他に……お前から何か要望はあるか」
「十分です。ご配慮ありがとうございます」
大部屋を通った辺りですっかり道中は明るくなり、方々へ行き交う人々も増える。明るい木目のみで組まれた純和風の構造物は、おそらく国内でも最大規模の木造建築だ。四方を大通路で囲まれた中庭では、身をくねらせる老いた松に止まった小鳥がせわしなく首を振っていた。自然と避けていく人波を抜けて、質素ながら学校の昇降口ほどもある中央玄関に辿り着く。通路の中ほどに待機していた白衣の男が、見慣れた口の空いたリングを捧げ持っていた。
「御大に何を言われたのかは知らんが、くれぐれも言の葉の意味を履き違えるな。知識は受け継いでこそ意味がある。這ってでもこの地に帰れ。よいな」
それはこの家の人間なら誰しも持っているはずの、探求のためなら命も試料にするという覚悟を踏みにじるものだった。自分でなければ――母や義兄などが聞いたら一発で逆上するのは容易に想像がついた。そこに加わるのは当然だし、むしろ父を立てる義理もない。ただ、なぜわざわざそのような事を告げたのか、その意味はちゃんと受け止めるべきだと燈香は感じた。それがきっと親というものなのだろう、と。
「ご心配なく。そうやすやすと墜とされるつもりはありません。……お父様の機体ですから」
データ化した愛機が収められたリング型ISDを受け取ると、着物の襟元から地肌に直接触れるようにそれを首にかけた。ひやりとした金属の冷たさは無く、生き物のような生暖かさが首筋からじわりと伝わる。
「行って参ります」
振り向く必要はなかった。その言葉一つで、全ての意志と了解は済んでいた。
とある画術師におくる葬礼 Greenmagnet @magnetia
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