第4節 Loosen trigger

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 平凡な毎日、と聞いてどのような生活をイメージするだろうか。それは決して「何も起きない日常」を意味してはいないと、怜人はこの場所で過ごして気づいた。予想内にしろ予想外にしろ、その大小を問わず、まともに暮らしていれば何か起こる。宿題を忘れたことかもしれないし、エレベーターの床の隅に50円玉が落ちていることかもしれない。それを些細なこととして受け取るかどうかはその人次第だが、平凡な毎日とはそうやってできている。だから今ここで、どういう成り行きか見ず知らずの土地と人々に囲まれながらの生活を送っていても、それはやっぱり平凡な毎日なのだろう。置かれた環境に慣れてしまえば、たとえそれが他人から見てどんなに異質なものでも、本人にとっては日常になる。

「うーん。ククク、クカカカカカ! レイト君、キミは面白いことを考えるネ!」

 だから、隣でやけに甲高い哄笑を上げる木偶人形がいるのもまた、日常の一端なのだ。たぶん。

「僕にとってはあなたの存在もかなり面白い部類に入るんですが……」

頭部をカタカタ言わせながら意味不明な意思表示をするその人形とは、昨日別棟を散策していた時に出会った。個室の中でブツブツとヒトの声がするので覗いてみれば、この人形が一体、見えないキャンバスに絵を描くような大振りのパントマイムをしていたのだ。立ち去ろうとしたが感付かれて話しかけられ、そのまま何となく同行することになって今に至る。その割には言っていることの半分も理解できず、ただ彼(?)のリクエストに応えて自分たちの話をするばかりだった。

「……お昼ご飯、持ってきた」

「ありがとう、リル。まかせちゃってごめん」

小さく首を振って、リリアはサンドイッチとスープが載ったプレートを三枚、器用に浮かせながら丸テーブルの上に置いた。あまり人けのない裏庭の一角で、二人と一体が食卓を囲んでいる図は中々どうして不思議な感覚だった。

「あの……飲み物、オレンジジュースしか残ってなくて……」

「クカカ、クク。ああ、構わないサ。フロリダ? バレンシアか?」

おずおずと差し出されたグラスを受け取ると、木人形は豪快に中身を空けた。ピエロのような意匠の三日月形の口の穴にジュースが吸い込まれ、どこかに消えていった。と言うのも彼には胴体が無いのだ。頭と首、肩元から腕先、太腿の付け根から足先はある。薄鼠色の上着とズボン、黒い靴下に小さな石の留めボタンが付いた黒靴を履いている様はごくありふれた姿だが、しかし胴体部分だけがすっぽりと抜け落ちている。本人は全くそれを感じさせない滑らかな動作をするが、見ている方からすると違和感が凄まじい。

「食事に美学を持つ人間は好ましい、それが虚勢であってもネ。カカカ」

丸っこく模られた指で4切れのサンドイッチをまとめて掴むと、ひょいと空白の喉元辺りに投げ込む。同じように白地とレタスの緑や卵の黄色が背景の遠い灰色の壁に同化して失せた。同席する二人が呆気に取られていると、彼はまた意味の無い笑い声を漏らした。木肌色のピエロの風貌はじっと見ているとそこはかとない不気味さがあり、怜人は逃げるように自分のサンドイッチの一つを手に取った。

「ところデ」

ぎくしゃくした挙動を止め、人形はじろりとリリアを彫り込まれた双眸で見下ろした。180センチは優に超えているであろう彼は座っていても視座が高い。

「キミも大層面白いものを抱えているネ。クカ、クカカ」

蛇に睨まれた蛙の如く、彼女はびくりと身を震わせて口へ運んでいたコップを置いた。そう、彼にはリリアが見えるのだ。怜人同様、どういう理屈かは分からないものの、確かに視認している。

「最初に見かけた頃よりも、カカ、随分形を得たようダ。クク」

「さ、最初って……。あなたは、いつからここに……」

「クカカカ、キミよりは先だネ。尤も、形というのであれば我輩もまだ未成熟な段階ではあったナ」

リリア自身も当時の記憶にそれほど自信があるわけではなかった。怜人が来るまで全く他人と接触してこなかったために、彼らにそこまで気を払っていなかったのだ。だがこれだけ目立つ人形が居れば気づきそうなものだが……と考え、ふと彼の言葉端に引っかかるものがあった。

「……形って。あなたは、わたしが何なのか、分かるの……?」

彼の物言いは、まるで彼女が実験の結果こうなったことを知っているかのような口振りだった。リリアはもちろん自身の過去についてはまだ何も語っていない。怜人もそうだ。ただ、この施設にいる時点で実験関係者である可能性は高い。彼の異形から察するに被験者だったのかもしれない。しかし、彼の回答は端的だった。

「さぁネ」

「でも、あなたも元は人間だったんですよね?」

「勿論。そう、そうだ、我輩もダ。クク、クカカ、クカカカカカカカ!」

何がツボに入ったのか、木人形は大笑いをし始めた。

初め、彼を見た怜人は誰かの創り出した構築体だと判断した。抽象法に親しんだリリアですら同意見だった。理由は簡単で、その存在がとても『リアリティのある』形容をしていたからだ。それを前提に誰が作ったのだろうかなどと話していれば、『我輩は人間だ』と当人が割り込んできた訳である。

 無いはずの上体が震えていると錯覚する見事な首と腕の動きが落ち着くのを待って、怜人は再度尋ねた。

「なぜ今の姿に?」

「鋭いね、ああ、鋭イ。カカカ、だが的は向こう側だ、いつだってそうサ」

「……えぇと、もしあなたが人体操作系の画術に詳しいなら、リルの異常を治す方法を知りませんか。また、普通に見えるように」

木彫りの浮いた首がぐるりと回り、怜人とリリアを交互に見比べた。リリアの方は何か言いたそうに怜人を見つめていたが、敢えて怜人は沈黙を貫いた。

「空は青いかネ。フム、そういう事もあるナ。クカカ」

彼は長く逞しい片腕を振り上げると、何かを指で摘まむような動作をしてその手をテーブルの上に置いた。そこには二つ、『四角錐台の空色の何か』があった。空色、と言うよりは空の一部をそのまま切り取って張り付けた、と言う方が正確かも知れない。手の中に残った一つを口の中に放り込むと、咀嚼する代わりに楽し気に頭をぐらぐらと揺らしている。反対の腕を「さぁ」と促すように差し出すと、二人はためらいがちに彼に倣った。――はずだったのだが、それは口の中に入れた瞬間、綿あめのように食感ごと消え失せてしまった。当然なんの味もしない。互いに微妙な表情を浮かべていると、一定間隔で彼の首が見やった。どうやら感想を求められているようだった。

「……わ、分からない、です……」

「というか今のって食べ物って認識で良かったのか?」

カタカタと見えない上体を揺らすように笑う彼は、マジシャンが良くやるように握りこんだ掌からポトリと同じ形の物体をまた二つ、眼前に落とした。派手な包み紙に覆われたそれはキャラメルだった。

「プロの仕事場には必要なものだけがある、中には他人に見えないものモ。クカカカカ。――キミ達には適さないようだがネ」

「それは……」

無理だということか。試されていたのであろう、今の画術を理解できなかった時点で。しかしよくよく考えてみれば人体の直接的な再構築は非常に高度――というより危険な部類に入る。確か第2種特級ライセンスが無ければ術の行使すら国際協定違反だったはずだ。このような状況で今更協定も何もないのだが。

「鏡像である事を知らなければ、また生に執着したくもなル。カカ」

彼は席を立ち、数歩テーブルから離れると後ろ手を組んで空を見上げたまま、動かなくなってしまった。残された二人は判然としない気分のまま、止まっていた手を動かしてパンを味わった。気のせいか、最初より味が薄くなっているように感じた。




 それからというものの、この変わった人形はフラフラと二人のあとをついてくるようになった。何をするでもなくただ後を追うだけだったが、時折会話に混じっては禅問答のようなものを披露していた。珍しく雨が降ったその日も、彼は変わらず同行して書庫の高い書棚の上に神妙なそぶりで腰掛けていた。

「クカ、カカカ、フローリの遺産かネ。因果なものだナ」

リリアの語った実験の手掛かりを求め、フラクタル・ポートレートについての記述を漁ってからもう随分と画術関係の専門書を読んできた。フローリについて記してあるものは数多あるものの、当該の理論について触れている書物は皆無と言ってよかった。希少な当たりも、「そういう理論を唱えた」程度の情報しか備えておらず、さして進展は望めない。どうせそこにいるならと彼女が駄目元で尋ねてみると、彼は思わせぶりな反応を返した。

「……何か、ご存知なんですか……?」

「その問いは適切ではないよ、末節は切り落とすといイ。カカカ」

「……それは、その、どういう……」

どうにも相性の悪い二人を見て、何となく彼のペースを把握した怜人は助け舟を出すことにした。

「どこに行けば分かりますか。フローリのポートレート理論について」

「どこニ。どこに、カ。……クカカ、さて、どうしたものカ」

ゴトンと重々しい音を立てて床に降り立った彼は、腕を組んでその場をくるくると回り始める。意図は分からなくても常に主張が一貫していた彼にしては珍しく、意向を決めかねているようだった。

「ふむ、ふむ、事態はこれ以上の安息を許してはくれないようダ。クカカカカ……いやなに、一人事だがネ」

おもむろに両手を掲げた彼は、その手の上にそれぞれ別々のオブジェをポンとわざとらしい効果音と共に出現させた。右手にはフラスコを象った、左手には望遠鏡を象ったブロンズ像が載っている。

「選ぶといい、レイト君。キミにはその権利があると我輩が承認すル。――右を取れば、求める結果が得られるだろウ。左を取れば、そう、真実がそこにはあることだろウ」

「真実……って」

洞のように虚ろな瞳の無い両目が怜人を見つめた。いつになく厳かな雰囲気をまとった彼の語調は、とても冗談を言っている様子ではない。選べば、確かに真実が与えられると信じられるほどだ。

(待て待て)

黙考に至り始めていた自らの思考を慌てて中断させる。何よりもまずはっきりさせなければならないことがあるはずだった。

「なんでそんなことを知ってるんです?」

「それを問うことがキミのすべきことか、再考の余地があるのではないかナ」

「あなたは……実験を行った側の人間なんですか」

「だとすれば、どうすル」

不動のまま淡々と語られた返答に、彼は虚を突かれた。もしこの人物が研究者側――つまりIPRIの関係者だったとしたら、どうするのか? 過去の被験者たちと同じ空間に身を置き続けていることの意味が、現時点でははっきりしない。何の意図があって彼はこのような選択肢を自分達に用意したのかが分からないのだ。彼の堅い口から出てくる情報が本当なのか嘘なのか、むしろ判断が付きにくくなってしまう。

「ともあれ、キミは選ぶことが出来ル。そしてその選択には応えよウ。それをどう扱うかは我輩の与り知らぬところだ、クカ、カカカ」

話半分でも聞いておけということなのか。押し売り業者のような口ぶりに不信感を募らせながら、怜人は改めて彼の質問に向き合うことにした。

真実。つまり、フラクタル・ポートレートの真実ということだろうか。彼の選択肢を素直に受け取れば、それは求めていることとは違う答えを持っているという事になる。求めていることは、リリアの欠落を回復させること、そして自分も過去に受けたらしい実験とは何だったのかを突き止めることだ。しかし、その答えと「真実」が別のものを指すのであれば、果たしてどちらを優先すべきだろうか……。そもそも答えがある問いなのかすら分からないまま思考の渦に囚われていると、彼はゴトリと両手の荷物を手近な作業デスクに置いた。

「何、性急に解を出すものでもないヨ。熟考を重ねるといい、それこそ世界が終わる手前まデ。カカカ、クカカカカ……」

木の洞を震わせる声が遠のいていったかと思うと、彼の姿も失せていた。

「……言われてもな」

これ以上待っていても判断材料は増えないだろう。ならば後は自分が踏ん切りをつけるだけなのだが、決断の針は憎らしいほど均衡を保っており、どちらに振れるとも取れなかった。



 翌日になっても心境は模糊として文字を追っても頭に入らず、リリアとも別れて久しぶりに一人の時間を過ごすことになった。とは言ってもやることなど無い。屋上に行って代わり映えの無い高い空を眺めるのが関の山である。

「痛いことしてるなぁ」

そう言えば自分はまだ高校生だった。高校生らしいと言えばらしいのだろうか。今の高校生がどのような生活を送っているのかを真面目に学ぼうとしていた頃が懐かしい。あれこれと面倒事を重ねてつかみ取ったその学生生活もあっけなく中断されてしまったのだ。占いなど信じたことは無かったが、もうこういう星に生まれついてしまったのかもしれないと、ぼんやり思うようになった。

 人に、人の作る状況に流されるのは悪いことじゃない。そう思って、思い込み続けてここまで来た。おかげで色々と取り返しのつかない結果を辿り、一人の女の子がこの世を去った。それでもまだ流されることを躊躇わないのは、きっと自分自身の切り開いた道にオリジナリティーを見い出せないからだろう。自分が決めたことは、所詮誰かが用意した分かれ道を選び取っているに過ぎない。そうして積み上げてきたのが新枝怜人という人間の人生だ。

悲観的になっているつもりは無かった。ただ、そういうものだと自分で再確認することで、見えてくるものもあるんじゃないかと淡い期待を抱きもした。ロクなものじゃないな、とうんざりしながら握った手すりの赤さびを爪で削った。数週間前まで仮暮らしをしていたマンションの近くの公園の柵もこんな感じだった。

(なにやってるんですか、ミラさん)

行き場の無い欝々とした感情の矛先がある意味でこの境遇を招いた人物に向かう。別に理不尽な怒りを抱いているつもりはなかった。あれだけ制約を強要したIPRIが自らそれを破ってくるとは思ってもみなかった。仮にも国連という公的機関に属する組織だ、事前に疑えという方が常識的に考えて無茶というものだ。おかげでこうして箱庭の日常を謳歌しているのだから何とも救えない。

 ただ、それはどこまでも自己中心的な見方だ。元はと言えば自由を欲したのは自分なのだから。研究者に囲まれながらのんびりと施設で暮らす生活より、普通の学生としてまっとうに生きることを希望したのは他ならない自分自身だ。彼らにはこの希望を認可する権利はあっても保障する義務は無い。義務は無いが、損をするのが彼らだというだけの話なのだ。だから手の届く範囲での自由を与えた――はずだった。

一時はどうなることかと命の危険まで感じたものだが、現状はひどく落ち着いている。平穏そのものだ。もしその事実を何らかの手段でミラが、IPRIの担当者が知っているのであれば、無理に手を出し来なくても不思議はない。逆に言えば、ここが「届く範囲」内である限りは少なくとも新枝怜人にとって安全な地であると考えることも出来る。出来るが、根拠はどこにも無かった。

(楽観的に考えすぎかな。とはいえ……)

所々コーティングの剥げた屋上の地面は日光でじわりと暖かい。ずるずると座り込むと柵の底部ブロックの間に寄りかかる。

(いつまでこうしていられるか、いさせられるか)

彼の差し出す選択肢が一つの岐路であることはいくら運命に鈍感な自分でも察しがついている。いつもならこういう時はどうしていたっけと記憶の蓋を開けると、そこには端正な幼馴染の横顔が浮かんだ。彼女なら――と夢想したところで、妙に気恥ずかしさが襲った。こんな時まで頼ってしまうのはどうなのか。

「あー、ダメだなこれは」

思わず声に出してしまうほど生産性のない時間を過ごしている。そう自覚した瞬間に眠気が首をもたげた。どうせ無為に過ごすなら英気を養った方が数倍マシだ。そう開き直って半ば強引に瞼を下ろした。


「寒……」

襟元から全身を撫でていった冷気に、微睡んでいた意識が徐々に覚醒させられる。変な体勢と場所で寝たせいか微妙に痛む足腰でふらふらと立ち上がると、視界の遥か遠くで一条の光が瞬いた。

(流れ星とか、何年ぶりに見たかな……って、もう夜か)

把握していた以上に精神疲労が溜まっていたのだろうか、日本にいた頃とは段違いに精彩を得た星空が全天を飾っていた。田舎の特権というとこの土地の人に怒られそうだが、夜中に時間を潰せる手段があることは悪くないと勝手に思う。

 流石にこの時期にろくな装備も無く屋外に止まり続けるのは無理があったので、とりあえずと屋上を出て階段を降りる。当てがあるわけではなかったが、自分の部屋に行く気にはならなかった。頼りない照明で明暗のコントラストが映し出された廊下はどこか芸術的であり、メランコリックなムードを助長していた。こういうシーンを見せると陽馬はホラー映画の一幕みたいだと言う。暗いものを暗く捉えていては画術師としては二流だぞとミラの受け売りを偉そうに説いたような気がするが、あれはいつのことだっただろう。自分だって出来ていないではないかと総突っ込みを喰らうところだ。

 とは言うものの、ムードは大事だ。何より乗せられる。自分の人生には乗り物が必要なのだ。それは一つのモノでない方がいい。軌道はあっても無くてもいい。乗り換えながら、その乗り物が向かおうとする先にあるものに未来を描く。素晴らしく無責任な漂泊流離だ。

(だから、僕はこうしよう)

大味な人感センサーの間隙に沈む自動ドアをくぐり、人気の無い資料室の奥へと足を延ばす。仰々しく佇む一対のオブジェは、昼間と変わらずそこに置いてあった。背景となる窓際の外の群青に、シンボリックなシルエットを浮かばせている。完璧だな、と拙い感性が満足げに頷いた。

「決めたのかネ」

「決まった、って言った方がいいかもしれません。僕はそういう生き方しか出来ない人間だから」

「我輩が知りたいのは岐路の淘汰の先にあるものサ。過程に興味は無イ。クカカカ……」

いるだろうなという推測通り現れていた木偶人形に、真鍮の望遠鏡を掲げた。台座の分もあってずっしりと重い。

「『世の中には知らない方が良いこともある』……あれって、知ってる人じゃないと言えない言葉だ。真実って、結局そういうものなんじゃないですか」

コンコンと木の棒が叩く柔らかい音がして、本のオブジェが青に溶ける。気流も無いのに彼の外套の裾はたなびいていた。

「真実は知識じゃない、体験なんだ。その一瞬に出会えるかどうかで全てが決まる。そこには後悔も喜びもなくて、あるのは知ったという事実だけが残る。なら、始めから迷う必要なんてなかったんですよ」

「成る程、成る程。如何にもダ。しかし相方はいいのかナ」

「見捨てるわけじゃないですよ。むしろ寄り道から帰ってくるための道標みたいなものです」

「カカカ、ククク。そうか、なら、最早何も言うまイ」

彼が勢いよく指し示した片腕の先で舞台のピンスポットのような照明が点灯した。部屋と廊下の境目付近で眩しそうに手をかざしていたのは、他にでもない、リリア・フランチェスカ・アディティスその人だった。

「……わたしは仲間はずれなの」

珍しく不機嫌そうな声音の彼女は、男二人の勝手な盛り上がりを非難するように腕を組んで傍らの脚立の中段に腰掛けた。

「我輩は構わんがね、キミはどうする、レイト君」

「お願いします。リルが望むなら聞く権利はあるはずだ」

巻き込まない方がいいとは思っていたんだけど、とは決して口には出さなかった。言わずもがなそれはエゴだ。

「では諸君、準備が整ったなら――、まずはこの籠から飛び立つとしよウ」

「……え?」

「うン?」

「ここから出るんですか? な、なんでまた」

てっきり彼の口から話されるものだと思い込んで身構えていたせいか、口を突いたのは馬鹿らしい質問だった。彼の答えを聞いた瞬間、そう反省していた。

「それは勿論、キミ、『真実』の元へ行くためだよ、カカカ。キミの言う通り、真実とは体験だ、主観的な存在だ、語られるものではなイ」

「……で、でも、ここの警備は凄く厳しいですよ」

まだ若干彼に対して引き気味なリリアが間髪入れずに現実的な問題を突きつける。そう、出ると簡単に言うが、あの強固な二重のセキュリティを突破しないことにはどうしようもない。彼が指を鳴らすモーションを取る(もちろん音は鳴らない)と、蝶番が怪しげな音を立てて窓が開いた。

「では……あの辺りから、行くとしようカ」

取り囲む高い外壁には等間隔に青白いサーチライトが設置されている。のだが、あの辺りと指差された先ではその目が光っていなかった。夜目が効かず望遠ICを使おうかとISDを立ち上げかけたが、それを待たずして木人形が窓からひょいと飛び降りた。リリアも片手で桟をつかんで飛び越すように身を躍らせる。

「……」

外国では窓を出入り口にするのは一般的な文化なのだろうか。日本に生まれてよかったと変なところで怜人は安堵を覚えた。

 体格的に大柄な先導者の歩調に合わせて小走り気味に並走する。ひび割れ雨で黒ずんだアスファルトの歩道が過ぎ去り、行き着く場所には当然、おそよ出口らしい出口の無い巨大な障壁がそびえ立っている。少なくとも、二人の共通認識ではそうだった。今、三人の眼前にはぽっかりと巨大な釣り鐘型に壁がくり抜かれ、外界の軍事基地のような風景がのぞいていた。人形は何の躊躇いもなく穴のトンネルに潜っていった。

 このままここを出ていいんだろうか。その懸念が今更のように湧いた。リリアは元研究員の人の判断でここへ連れてこられたはずだ。自分としてもわざわざ日本まで来て拉致された以上、勝手に出れば追手はやってくる。そのリスクを冒すべきか否か――。逡巡の時間は一瞬のアイコンタクトで断ち切られた。

「リル」

「うん」

ほぼ同じタイミングですでに壁の向こうに立つ木偶人形のシルエットを追いかける。そう、流れに乗せられる人生は今に始まったことではなかった。それが宿命だと言うなら、抗うだけ馬鹿らしいというものだ。



  壁の外を取り囲むようにカットされたバームクーヘンのような建物が等間隔で並び、立ち入りを阻むフェンスと手前の緩衝地帯を挟んだ外側の円周には、細々と同規格の宅地やビルが建っている。それがいつも屋上から眺めていた景色だった。だから、いざ実際に踏み出した時、大量のハフフィックや種々の軍用飛行機、戦車などが居並んでいるのには驚きと共に焦燥が込み上げた。そのうちいくつかは既にこちらに向かって物々しい銃口や砲身を差し向けていたのだ。小雨が降りしきる中、砲塔が旋回する駆動音と自動小銃を携えて駆け寄る足音が紛れた。流石にそのまま鉛の暴力が飛んでくることは無かったが、笑顔で送り出してくれる雰囲気ではなかった。

 動きを止める三人の前に、車両の合間から現れた一人の軍服の女性が居丈高に立ち塞がった。指揮官らしき女性自身も片手でオートマチックの拳銃を構え、あやすような口調で告げた。

「即刻壁内に戻って。我々としても危害を加えるのは本意ではないわ」

彼女の立場を考えればそれはごくごく自然な通告であったが、場の選択権は一身に砲口を受け止める木製の男にあった。

「即刻引きたまえ、ただでさえ少ない税収を無駄遣いするのは愚かというものダ。クカカ」

「……あなた、名前は。それとISDの認証番号を提示しなさい」

「クカ、カカカカ……。名前、ネ。〝コッペリウス〟だ、良い名だろウ?」

常態の人を喰った態度を崩さない彼の様子に痺れを切らしたのか、そうでないのか、軍服の女性は人形の足もと近くに一発の弾痕を残した。

「いい加減に――」

「するのは、どちらかネ」

マリオネイト観戦をしているとそれなりに瞬発的な画術の使用を察知しやすくなる。怜人もそういう目を養ってきた自負はあったが、ハフフィック戦闘でいう「流れ」の予測で助けられている部分も大きい。そういう意味ではあまりに予想外の展開だとうっかり見逃してしまうこともある。ちょうど今がそれに当てはまった。

 いつの間にか彼――コッペリウスは武骨な木の腕を掲げ、警告を発した女性軍人の背後から首を掴んで宙づりにしていた。

 悲鳴を押し殺しながら、周囲を窺っていたリリアは身を強張らせた。その行動を目の当たりにした兵士たちが銃器の引き金に手を掛けたのだ。いくら得体の知れない彼の力量を持ってしても、これだけの数を同時に相手取るのは無謀だ。彼女は木片となって人型が崩れる様を想像し、せめて気でも引ければと愛用のライフルを描出しようとして、

(あ、あれ)

失敗した。イメージはいつも通り自然に形成されたはずだが、なぜか描出されない。自分でも気づかないほどに心身のコントロールが取れていないのだろうか。こんなことでもたついている場合ではないのにと焦るが、一向に馴染んだ得物は姿を現さない。唇を噛んで彼の方を見たとき、そこに映ったのは絶望的な破壊の情景――ではなかった。

「オマエ達は画術というものを勘違いしていル」

ハフフィックが威容を放っていた場所には、パイロットらしき男性たちが這いつくばっている。歩兵が構えていた武器は消失し、呆気に取られた表情でISDらしき腕のリングを操作していた。

「画術とは認識だ、現実を識る術ダ。故に、洗練されたその手法は数式が如く美しイ」

そこでリリアはようやく事態を悟った。この場にいる誰もが画術を使えないのだ。たった一人、彼を除いて。なぜならこの状況を創り出しているのは間違いなく彼であり、それは画術の産物以外に考えられないからだ。

「無理解な輩に我輩は慈悲を持たなイ。虫唾が走るその出来損ないを、これ以上振りかざすというのなら――」

ごきりと嫌な音がして、手中にあった首が真横に折れ曲がった。重さを感じさせない動作で軽く放り捨てると、女性は顔面から地面に叩きつけられて動かなくなった。

「危ない‼」

怜人の咄嗟の叫び声とほぼ同時に電柱ほどの巨大な銛が四本、コッペリウスの頭上から降り注いだ。灰のコンクリート片が飛び散らせて突き刺さったそれらの一本の上に乗り、筋肉質な男性が見下ろしていた。

「ほう」

当の木人形は既に回避を済ませており、ぶらりと両腕を垂らして前傾姿勢を取っていた。周囲の軍人たちへの興味はそがれたようで、その視線は新手の男に注がれている。

「新枝怜人。リリア・アディティス。施設に戻るといい。私も彼らも、君達に危害は加えない。遅くとも一ヵ月以内にはこの場所も役目を終え、全ての収容者は各々の居場所へと責任を持って送り届けることが決まっている。それまでの辛抱だ」

一方、精悍な顔立ちの東洋系の男は、コッペリウスを無視するかのように二人を諭し始めた。

「特に、新枝怜人、君の方は恐らく私が……カルド・インバートが後見人を引き継ぐことになる。ミラが迷惑を掛けたと思うが、私は比較的まともな方だ、安心していい」

「……っ、ミラさんは、どこに」

「彼女は別の仕事だ。同僚ではあるが、詳しいことは聞かされていない。……ともかく、今は待つことだ。このタイミングで外へ出るのは君達二人にとって不幸な結果しか招かない」

人の善し悪しの見極めに特別自信があるわけではなかった。しかし、嘘を言っているようには聞こえない。視野の端ではリリアがこちらに目線を送っているのを感じた。当事者は自分だ、判断もこちらに比重がある。いきなりそんなことを言われてもと文句の一つも言いたくなるが、それでは何も事態は進展しない。今日はやたらと決断を迫られるなと他人事のように意識がぶれると、そこに一石が投じられた。

「レイト君。迷いを抱くのは結構なのだがーー、吾輩はごく個人的な主義に従ってアレを殺すことにしたヨ」

再び彼の姿が消える。もはや残像すら捉えきれない速度で放たれた右の裏拳を、しかしカルドは交差させた新たな二本の銛で防いだ。

「その物言い、改派の狂信者か。どうやってここに入り込んだ」

「人の心を弄り回したあげく残り滓になってまで現世にへばりつク。そんな輩に世話焼きなどしないサ」

銛が砕け、拳が振り抜かれる。その腕を狙って上方から数本の銛が連続した。右腕を横に平行移動させて直撃を避けると、コッペリウスは得物の軌道の間を泳ぐように手足と頭をくぐらせて肉薄する。さらに後方に下がろうとするカルドの背中に向けて、回し蹴りが迫った。

「ふむ、ふむ、ふむ……クカカ。画力の描出を海流と解釈したか。初歩的ながら天晴れダ」

「貴様、何者だ。なぜ私を知っている」

「哀れなコッペリウスさ、クカカカカ」

後ろ手に振り回した長物の柄で蹴撃をいなしながら、動きを縫い留めるように上空からの強襲で対応する。打撃の軸線を乱された相対者は追撃の手を緩め、手足をばらばらの挙動で引き戻し、距離をとった。

「この場を引くならそれまでとは思ったが。そういう事情であれば、こちらとしても生かしておく訳にはいかない」

不敵に立つ人形を覆うように半球状に無数の銛の刃が生成される。その数三桁に届き、丸まったハリネズミが如く細緻な布陣を敷いた。ただその配置を保っていたのはほんの数秒で、矢継ぎ早にそれらは内側に向けて殺到した。舗装された大地を突き破る重低音が絶え間なく響き渡り、ようやく鳴りやんだ時には再び小さな針の筵が出来上がっていた。餌食になった人形は最早影も形も無い。

「他愛もない。所詮は妄信でしか己を語れない者たちの強がりだ」

海中を漂うように浮かんでいたカルドは片足ずつ静かに地面に着地すると、左手を振って全ての銛をペイントアウトさせる。静けさを取り戻した基地の一角で、及び腰で成り行きを見守っていた周囲の兵士もじわじわと体勢を整えつつあった。

 一方、事の展開に棒立ちを余儀なくされていた二人の肩に、ぽんと固いものが置かれた。続いて頭の間にぬっと見慣れてきた奇術師の横顔が映る。そこで奇妙な安堵感を覚えたのも束の間、小声で

「念の為ダ。ほんの十数分、気を飛ばしていてくれるかナ」

と囁かれると、その通り、強制的に意識がブラックアウトした。ぐらりと倒れかけた二人を丁寧に背中合わせに座らせると、何一つ変わらぬ風貌で現れた木人形はその場で人形のようにカクカクとした動きで諸手を広げた。驚愕に支配される群衆を前に、

「Recognize. What you are, how you are――.

斯く在れと願うものよ、斯く在らん」

斜めに傾いだ頭部の口は同じ形のまま何かを唱える。そして彼を取り巻く数十メートルに渡って、電源を落としたテレビのように現実の全ての意味と理解が消失した。


 ふと気が付いたとき、カルド・インバートは無色の世界にぽつんと存在していた。無色というと大抵白を思い浮かべるものだが、実際には何色でもない。「色」という概念が消失してしまっている以上、目に映るのはただの「光景」という抽象的な存在である。同様に音も、臭いも、触感も、恐らく味覚も、五感全てが機能を失っていた。

(違うな。これは――)

自己の状態を確認する。五感が一斉に停止した訳ではない。失ったのは解釈だ。「見る」とは何か、「聞く」とは、「嗅ぐ」とは……、その意味が白紙に戻されたのだ。

 あの木人形が展開していた「現実再解釈法」を用いた風景画術内では、外界の認識方法がごちゃ混ぜになっていた。色で香りを感じたり、音で光を感じたりと、画術の使用に必要な情報の全てが整合から逸していた。自分自身の感覚を頼りに、最初から外界との接触の全てを再構成する必要がある。そういう画術だった。だからこそ一般人はそれに対応できず、外界との繋がりが断たれた事にも気づかず、画術を使えなくなってしまう。幸い自分は再解釈法の心得があったため、即座に外部と内部の情報を整頓し接続し直すことで自らのペースを維持していた。

 しかし今のこれは風景画術ですらない。全く別物だ。そもそも感じるとは何かという次元まで解釈が巻き戻されている。それだけではない。思考するとはどういうことか。自己とは何か。生とはいかなるものか。あらゆる根源的な要素に定義が求められている。逆に言えば、全てが白紙であるがゆえに如何様にも世界を、自身を解釈できる。もしこれが完全に使いこなせるのなら、時間や空間、生命といった概念ですらも超越出来るだろう。再解釈法の真髄とはまさにこういう事だ。現実の全てを疑い、しかし現実の中から真実の形を探り出す。その局地だ。ただ、それは恐ろしいほどの深淵だった。人には荷が勝ちすぎる問いだ。生涯を掛けて追い求めてもなお見えてくるかどうか分からない深みだ。

 ここに在る自己はただ自我のみの存在。人の形はとうに無くし、個人としての領域を残すのみ。莫大な解釈の余白のみが無限の彼方まで続いている――。


「オヤ、オヤ、オヤ。これだけ画術の道に踏み込んだ者がいて全滅とは、なんとも情けなイ」

一人現実の知覚を保ちながら、間の抜けた表情で置物のように静止した人々を睥睨する。コッペリウスは心底呆れた口振りでやれやれと言わんばかりに首と手を振ると、その内の一体に向かって木製の脚を動かした。

「知らぬことを知らず、上辺だけの理解と解釈でさも全てを悟ったかのように術を振りかざス。児戯に興じるのは子供だけで十分だとは思わないかネ」

だらりと腕を垂らして脱力し、胡乱気な目で空を映す人物の頭上に、鈍器にほど近い片腕を掲げる。その所作には怒りよりも、憐れみと失望がにじみ出ていた。

「恥を知るといイ。キサマに画術を使う資格など、もとより無イ」

無慈悲に叩き下ろされた一撃はカルドの頭蓋を粉々に割り砕き、足元に内容物だったものがペンキのように撒き散らされてアスファルトを染めた。

「さて、さて、残りの諸君。調律者たる我輩の言は届いているはずダ。これから提示する要求が飲まれない場合、再度〝背反の後者〟を描き出し、諸君の骨肉でアバンギャルドに興じることになル。愉しみでならないな、そうだろウ? クカカカ……」

本当に愉快そうに甲高い笑声を上げると、わざとらしく右手の指を二本立ててどこへともなく見せつけた。

「まず、これ以上の我々へのちょっかいは諦める事。そして、次に示す声明を一言一句余さず伝える事ダ。そのご立派な通信施設から介入可能な民間の放送局、クラウドネット上のサイト、全てニ。よろしいカ? では行動するとしよウ」

打ち下ろした片足の靴がコンと澄んだ音を立て、その波紋が広がるにつれて世界は欠落を取り戻した。我に返った軍団が泡を食って立ち退き始め、一気に場は慌ただしさを増した。渦中で昂然と両腕を組んだコッペリウスの元に、5分と経たずして古典的な録音用マイクレコーダーが投げ込まれた。それを準備完了の合図と受け取った彼は、背後で依然昏睡状態にある二人を見やってから、口の隙間にあてがい滔々と語り始めた。

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