第2章「怜人」

第1節 Boy (can) meets girl

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 病院というほど露骨な響きも無く、監獄と言うほどの物々しさもない。収容施設という言葉がどれほど適切な単語か分からなかった。こういう時、思い浮かべたイメージを直接伝えられるというのは便利だなと、言語の通じない相手との会話に際して実感する。

 今自分が地球のどこにいるのかは分からないが、少なくとも窓から遠目に見える街並みの違いで日本でないことは確かだった。いかんせん行動の自由が建物の敷地内に限られているため、得られる情報も少ない。端末のアクセスやISDの交信機能もシャットアウトされているため、外部の情勢を知ることも叶わない。普段はAPSSの絶対防御で身を守ってくれるセーフティ機能も、コントロールを奪われた今では監視と拘束術式を自らの画力で強制使用される檻でしかなかった。

 監禁と言えば監禁だが、それなりに行動の自由は与えられていた。小学校ほどの建物と敷地内は一部を除いて歩きまわることが出来たし、クローズドネットワークの設置型ISDにアクセスして味もそっけもないコンテンツを利用することも出来た。

 この収容施設には、他にも何人か同じ境遇を迎えている人々がいた。恐らく十数人といったところだろう、彼彼女らはそれなりの時間をここで過ごしたようであり、談笑したり共に質素な配給食を囲んだりしていた。

 あれから特に目立った動きはない。新神戸ペイントリウム近辺を歩いていたところをいきなり拉致されてから、既に一週間が経っていた。彼らの正体が何だったのかは分からないが、KAWASAKI政府軍やUCICの派遣軍ではない。だとするならば、あの場所で偽装をしてまで潜入して自分を狙ったのだろうか。あのテロが起きることを事前に察知していての行動だったのだろうか。それとも、あのテロ自体、この謎の組織が計画したものだったのだろうか。確信に至るものはほとんど無かった。

 実のところ、ここまで自分が冷静でいられるのも驚きではあった。もう二度と故郷の土を踏めないかもしれない。ここで誰にも知られずひっそりと死ぬのかもしれない。そんな未来があまり思い浮かんでこなかった。自分を連行した彼らの行動は、有無を言わせぬ示威こそあれ、危害を加えるようなそぶりを見せなかった。それがまた奇妙な違和感を覚える一因となっている。なぜ彼らはこの自分を、新枝怜人という人間をはるばる日本まで攫いに来たのだろうか?

 ロの字型の建物の外周には、手入れのなされていない庭園が原っぱのように広がっていた。そして6メートルはあろうかという外壁の黒が不協和音を奏でていた。まだ細いブナの木に寄りかかると、何の危機感も安心感も与えない風景を眺める。

 拉致の原因に思い当たる節がないわけでは無い。

あの短かった学校生活を得るため、自分は幾つかの契約をした。それは多数の守秘義務の遵守と、監視者の同行だった。

 画術の暴発事故に巻き込まれて生死の淵を彷徨っていた頃。運び込まれた病院から精神科へと移され、入院生活が始まった頃。その時のことはよく覚えていないし、思い出したいとも思わない。明確に記憶が戻ったのは、そのどちらでもない病室のベッドの上での事だった。そこで聞いた展開はおよそ想像していなかったものだった。

 通常の療法では回復が困難だと判断された自分を、IPRI――国際画術研究所――附属病院の医師が、どこで聞きつけたのか訪れ、後日になって治療を引き受けたのだという。IPRIという組織の存在と高度な画術研究機関という一般常識的な知識しか持ち合わせていなかったため、日本に附属病院があるということ自体まず驚いたが、そんなことは些末事だった。

 結果としては、二度と正常な意識の回復は望めないとまで言われていたらしい病状があっさりと治り、日常が取り戻された。一体どんな治療が施されたのか、担当医と看護師らしき人から事後説明をしてもらったがさっぱりだった。恐らく今聞いても全く分からないだろう。それもそうだ、最先端の画術治療なんて、素人が聞いて理解出来る内容の話ではない。

 それから経過観察ということで入院生活が始まった。いつの終わるのかと思いながら過ごしてみれば二年間にも渡った。それは奇妙な世話人と共に過ごした日々でもあった。その人は良く言えば自由人、悪く言えば無責任で奔放な性格の持ち主であり、本当に病人の相手などする気があるのか疑わしいほどだった。しかし事務連絡でない、雑談の相手が一人いるというだけで心持ちが遥かに楽になっていたことは確かだった。

そして二年後のある日、条件付きでの復学が認められた。入学の手続きなど何一つしていなかったが、研究所の方でねじ込んだのだろう。権力とは恐ろしいものだった。

 渡された書類にはいくつかの契約事項が記されていた。この病院内で見聞きしたものは口外しない。定期的な通院と検査を義務付ける。そして、あの事故が起きたあの日、あの瞬間に居合わせた自分が見たものは忘れること。特に“織篠涼葉”という幼馴染の存在は無かったものとして振る舞うこと。そして、学校生活を始めるにあたって監視兼護衛の同行を認めること。その一文が指し示した同行者こそ、いつも適当な態度で、それでも何だかんだと付き合ってくれた世話人――ミラ・インバートだった。これらの条件が破られた場合、命の安全は保障しかねるというのが脅し文句として文末を飾っていた。

 もしここへ連れてこられた原因がそのどれかもしくは全部であるとしたら、とんだとばっちりであった。何せ、事の重要性について何も理解していないのだ。自分の知り得る情報にそこまでの価値があるとは考えられなかった。もし仮に尋問でも受けて守秘事項を漏らしてしまったらどうなるというのだろう。ISDに監視プログラムが仕込まれていて、自動的に口封じが行われるとでもいうのだろうか。

 それとは別に、一つの仮定も考えられた。ここに集められた他の人達も同じ基準で選ばれているとしたら? 彼ら彼女らもまた、自分と同じくIPRI絡みの治療か何かで接触を受けたのだろうか。だとするならば、その人物を集める意味は何なのだろう? IPRIはれっきとした公的組織だ。情報公開は行っているはずだし、後ろ暗い話も聞いたことが無い。迂遠な手を使わなくても、直接調べればいいだけの話だ。もちろんプライベートの問題で患者絡みの具体的なことは伏せられるだろうが、例えば自分を快癒させた治療法についてはその技術が公開されているはず。いずれにしても、猟奇的な人体解剖にしろ尋問や拷問にしろ、向こう側からこれといったアクションを起こしてこないというのは不自然だった。こちらとしてはありがたい限りではあるのだが。

 ややもすれば小鳥の鳴き声でも聞こえてきそうな草地を歩くと、建物の裏口にさしかかる。傍に立つ支柱に絡みつく蔓のような非常階段を登ってみると、立ち入りを禁ずる薄っぺらいドアが道を塞ぐが、老朽化して鍵の部分が朽ちてしまっていた。錆びついた金属音と共に押し開けた先は、建物の屋上だった。

 空が青い。上だけ眺めていれば、ここはミラと過ごしたマンションの一室と変わらなかった。そんなことを考えていたせいか、急に無力感が襲った。

(よく分からないまま生き返らされて、また普通の生活が送れると思っていざ始まってみれば惰性になって。気づいたらまた妙な所に連れてこられた、か)

多分この感覚は贅沢なのだろう。生きていられるだけ感謝すべきなのだ、何に対しても。

(一体いつまで、流されるだけの人生を送ればいいのかな。おれは)

不運と言えばそうなのかもしれない。自分に積極的に非があるわけでは無いのに、物事は悪い方向へばかり進んでいく。

「偉そうなこと言って、結局肝心な時に助けてくれないじゃないか、ミラさん。……馬鹿話でも何でもいいからさ、また話し相手になってよ。それだけでいいんだ……それだけで」

 何度目か分からない弱音を吐いて、赤錆が浮く鉄柵を握りしめる。ただただ無力だった。怒りよりも、不安よりも、恐れよりも、ただ無力さだけがつのった。映像にされた己の人生を見て、座席から文句を垂れたり嘆いたりするだけの自分が、どうしようもなく嫌だった。

(ほんと、人間不信になりそうだよ。――なぁ、三影)

だから、誰かの声が聞こえた気がした時は我ながら都合のいい妄想だと嘲笑った。屋上には哀れな一人の少年を除いて、誰もいなかった。

(……?)

そう、誰もいない。誰もいないのだが、誰かの気配がした。テニスコートを二つ並べたほどの広さのスペースで、振り返った反対側の鉄柵の前、視界の中央。もしそこに人がいるなら、見逃すはずはない位置に。

(気のせい、か?)

 乾いた眼が瞬いた。その視野に、誰かの人影が映り込んだ。

「っ!?」

 間違いない。明らかに自分のすぐ前に誰かがいる。だというのに、その姿を見ることが出来ない。超現実系、シュールレアリティアと呼ばれる画術法には見る者に錯視効果を与えるものもあると聞いたことがあるが、これもその一種なのだろうか? 

「そこに誰かいる?」

通じるかどうかも分からない日本語に応える声は無かった。無かったのだが、誰かの声がした。聞き逃すような小声ではなく、はっきりとした返答が。

(なんだ、これ)

 奇妙な感覚だった。

 見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。

 それはあたかも都会の雑踏に紛れた他人の姿、他人の声だった。

 それが何かの危険性を帯びているかもしれない。今すぐこの場を立ち去ったほうが賢明かもしれない。だが、取った行動は違った。

 手を伸ばす。盲目の人が前方を確かめながら歩くように、手をかざしながらゆっくりと前へ。屋上の真ん中を過ぎ、数歩を数えた頃、手先が何かに触れた。

 目の前に一人の少女が立っていた。

彼女は自分と同じように片手を伸ばし、その広げた掌を自分のものと重ねていた。優しく色付いた亜麻色の髪が、無地の白いカットシャツが、こなれた黒のハーフジーンズが、彼女に確かな色彩を灯している。

彼女は初めからそこにいた。気づけなかっただけで。

「あなたは、」

その姿もその声も、初めから感じていたはずだった。

「わたしを見られるの?」




少し儚げな印象の彼女の声は、やはり初めて聴いたという感じはしなかった。この建物での生活が始まってから、いつかどこかで耳にしている。ただ問題は、何を言っているのかが分からない。少なくとも英語と日本語ではない。こういう時にこそ言語化される前のイメージで会話する画性対話が便利なのだが、実質的に初対面の相手とオープンチャンネルで話しかけるのは非礼ではないだろうか。そんな度胸もないが。

 などと自身のコミュニケーション能力の乏しさを遺憾無く発揮していると、あちらからイメージが送られてきた。一も二も無く要求を承認すると、仮想の回線がつながる。

『……わたしの声、聞こえてる?』

『大丈夫。ちゃんと聞こえてるよ。声も、イメージも』

『……わたしが今、どこにいるか分かる?』

『とりあえず、女の子が一人、目の前に立ってる』

『……やっぱり、見えるんだ』

 今更のように、手を触れ合った状態であることに気づき、互いに慌てて引っ込める。すると、ほんの僅か彼女の姿がぼやけたような気がした。

『あのさ。もしかして、前にも話しかけたりしてた?』

『……二回ぐらい。食堂と、廊下ですれ違ったとき。……見えてたなら、無視してた?』

『いや違う、そうじゃないんだ。……今、初めて見えた。君のこと。君の声も。確かに、誰かに声を掛けられたような感じはしてた。でも、その時は何も聞こえていなかった』

『……あなたの言ってることがほんとうなら、そうかも』

『君のそれは、画術? ここで存在を隠さなきゃならない理由でもあるの?』

実はどこかから拉致集団が監視していて、妙な行動を取ろうものなら即座に罰を受けるとか。他愛もない想像が頭をよぎる。

『……一つ確認したいことがある』

頷くと、彼女の瑠璃色の瞳が自分の眼のあたりを見つめていた。

『……さっき、ミラって言ってた。ミラ・インバートのこと?』

『知ってるの? ミラさんのこと』

『……うん。ミラさんも、わたしも、そしてたぶんあなたも、同じ“被験体”だから』

 被験体。その言葉からは冷たい印象しか伝わってこない。

だが、それ以上にこの一人の少女の存在が自分にとって意味のあるものになっていた。彼女は知っている。自分の知り得ない何かを。

 場所を変えよう、という彼女の提案で、人のまばらな棟内の廊下を歩く。やはりというか、その姿は他の人には見えていないようだった。全く避けるそぶりを見せないためぶつかりそうになる対向者を躱すたび、伸ばした編込みがふわりと揺れた。

『……名前。聞いてなかった』

『怜人。新枝怜人』

『れえ、と?』

『ああ、うん。それでいいよ』

『……レート、ね。日本人にしては、覚えやすい』

『それって偏見じゃなかったんだ……。えっと、それで君は、』

『……わたしはリリア。リリア・フランチェスカ・アディティス。リルでいい』

『フランチェスカって、イタリア系だっけ』

『……生まれだけ。育ったのはアイルランド』

先導するリリアが曲がり角に面した一室の扉を開く。傍から見ると勝手にドアが開いているように見えるんだろうな、と思ったが、別に画術を使っていると勘違いされて終わりだろう。画術が汎用性を増していくにつれて、オカルティックな現象というのはほとんど根拠を失ってしまった。

 小さな会議室だろうか、並んだ長机とパイプ椅子、壁際にはスクリーンボードが一枚。二人だけしかいないのにやけに狭く感じられるのは、立ち込めた暗鬱な空気の所為か。

『じゃあ改めて。初めまして、リル』

『……うん。よろしく』

『それで、えーっと……何か、話があるのか?』

『……ミラは、今どこにいる?』

『分からないよ。……おれだって知りたい』

『……そう』

曇ったガラス窓の傍らで外を眺める彼女は、そのラフな服装にも関わらず深窓の令嬢が如き雰囲気をまとっていた。

『……わたしのこれは画術じゃない。副作用、みたいなもの。あの実験の』

『被験体、か。ミラさんとおれもそうだって言ってたね。でも人体実験なんて受けた覚えは――』

まさか。

 アレがそうだったのか?

『……わたしはアイルランドの小さな町に住んでいた。叔父さんと、叔母さんと。小学生のとき、学校の健康診断で異常が見つかったと言われ、詳しい検査のために研究所に連れていかれた。その“検査”が終わっても、わたしは家に帰してもらえなかった。研究施設に閉じ込められて、何年もそこで過ごした。ミラと、一緒に』

『その、研究施設っていうのは、もしかしてIPRIだったりする?』

『……うん』

 やはりか。

淡々とした彼女の独白に、一つの確信が嫌な感覚と共にもたらされた。そのストーリーは導入部分こそ違えど、自分の時と全く同じだ。

『……最初のうちは、気づかなかった。でも半年が立つ頃には、“検査”する研究員の人達は私を眼で見なくなった。必ず画力反応を感知するセンサー越しに私を“見た”。……それで分かった。私はどんどん「見えなくなっていった」』

『視覚操作、みたいなものなのかな。強制的に視野から外れるような』

『……違う。これは、私の色そのものがどんどん薄くなっていく。風景の焦点から、外れていく。背景の一部になっていく。誰も、私を視認することが出来ない』

その断片的な言葉で、ようやく理解が追い付いた。ピントがずらされるのだ。だからいつも彼女の姿は焦点の外にあり、その存在が確かにあるのに、認知が届かない。姿だけでなく、声も、彼女の発する情報は全て認識の網を潜り抜けていく。

 それは絶対的な孤独だった。世界は彼女一人きりなのだ。誰も彼女を見つけられず、彼女の声も誰にも届かない。そんな世界で生きていくことがどれだけの苦痛を彼女に強いたのか、余人に計り知れるものでは無かった。

『でも、だとしたら、なんでおれは君のことが見えるんだろう。最初から見えたわけじゃなかったけど、今は完全に見えてるし、声も聞こえる。こういう例外は前にもいた?』

『……ミラは見えた。だから、一緒にいてくれた。ミラ以外では、レート、あなたが初めて』

『ミラさんか。……あの人は結局何なんだろう。いつもはぐらかすばっかりで、自分のことは何一つ教えてくれなかった』

『……ミラは研究所のメンバーだった。そして、私より前に実験を受けた被験者』

『ちょ、ちょっと待ってくれ。その「実験」っていうのは?』

背後でドアが軋む蝶番を鳴らしながら閉まった。

『……“フラクタル・ポートレート”。聞いたことある?』

フラクタル。自己相似形とか、そういった類の理論を指す言葉だったはずだ。そしてポートレートと言えば肖像画だが、恐らく彼女の意図するものではないのだろう。どこかでそれらしいワードを耳にしたような気がするが、何だっただろうか。

『いや、たぶん無いかな』

『……わたしも詳しくは分からない。けれど、私やミラの受けた実験が、フラクタル・ポートレートを完成させるためのものだった。そのために、IPRIはもう何年も実験を続けている』

『それは、誰から?』

『……私の担当だった研究員の人。ここに来る途中に教えてもらった』

『え? じゃあ、君は連中に連れてこられたんじゃないのか』

『……4年前。ミラが私とその研究員の人をこっそり外へ連れ出してくれた。それからしばらくはその人と一緒に生活していた。……でも二年前ぐらいになって、あの人はこの収容施設私を連れてきた。ここに居れば安全だから、と』

 なんとなく話は読めてきていた。恐らくその『研究員の人』はIPRIを裏切り、情報を持ち出した。リリアを助けるためだったかどうかは定かではないが、結果として組織に追われる立場になった。ミラはその手助けをし、逃げ延びた研究員はこの施設を利用することを考えた。それがリリアを救うことになるとの判断だとすれば、今度はこの施設の存在が不可解になってくる。

 ここは安全なのか? 誰にとって?

『ねぇ。この施設、誰が管理しているか知ってるんじゃないか?』

『……北米協商の軍部。そう聞いている』

『じゃあここって、もしかしなくても旧アメリカ領?』

『……カンザス』

北米大陸の中央も中央だ。これはまたとんでもないところに飛ばされてしまったものだと天を仰ぎたくなった。

 今となっては北中米大陸全土が北米協商連合の勢力圏内にある。とはいっても、その影響力が弱まる――反抗勢力が根強い地域がある。例えば、ヨーロッパに近く、新古典画術派の一大拠点であるマンハッタンを抱えるニューヨーク界隈。西海岸付近ではUCICの中核たるシリコンバレーが周辺地域にも牽制の目を光らせている。南米との接点であるパナマでは、好戦的で知られる新古典派の改派勢力と常に小競り合いが起きている。

要は大陸の外縁に向かうほど協商の影響力が危うい。逆に言えば……、ということだ。

『……ミラは自分も被験者だったから私が見えるのだろうと言っていた。あなたも実験を受けたのなら、私が見える可能性はある。……でも、あなたは違う……?』

『君の話を聞くまではそう思ってたけど、前言撤回するよ。おれもたぶん、その実験を受けさせられていたんだ。ミラさんは教えてくれなかったけどね』

 そう言って語れるだけのことをリリアに打ち明ける。

守秘義務、という言葉が浮かばなかった訳では無かった。彼女に話していいものか、そのリスクは如何ほどのものか。そもそもこのリリアという人間は信用に値するのか。それを確かめる術は無かった。そしてここで自分が口を閉ざせばそこまでだ。事態はまた停滞してしまう。

別に無理をして隠していたつもりは無かったのに、口にしてみると胸が軽くなるような思いだった。自覚しないうちに、その事実は重荷になっていたらしい。

『……オリシノ、スズハ。その子が気になる』

『わざわざ口止めするほどだからね、何かあるんだろうなとは思って、自分なりに調べてはみたんだ。幼馴染だったし、家に行って部屋を見せてもらったり、家族と一緒に出掛けてた頃のアルバムとかを見返したりしてね。でも、特に変わったことは無かった』

『……スズハとは、仲が良かった?』

『そうだね。家が近かったし、よく一緒にいたよ。だからこそ、何であんなことになったのか、今でも分からない』

『……』

『ああ、ごめん。そんなに重い話をするつもりじゃなかったんだけど』

 微妙な空気に陥った場の雰囲気を救ったのは、廊下に取り付けられたスピーカーから流れるチャイムだった。端末を見ると、いつの間にか12時になっていた。

『……お腹がすいた』

『食べに行こうか』

 朝は7時、昼は正午、夜は19時からそれぞれ30分間、建物の一階にある食堂で簡素な配給食のプレートを受け取る事が出来る。食料は外部から供給されているのか、メニューは大体3パターンぐらいのものだったが、安定して全員分が用意されていた。

『いつも、ここにいたんだ』

『……うん』

二人で着いた席は部屋の一番奥、長テーブルの端。元々大した人数がいないため、テーブルはどこも空席だらけではあった。自分も今までは一人で食べていた。それでも、リリアの「一人」とは訳が違う。彼女にとって、他人は居て居ないようなものだ。

『誰かと一緒に食べるのは落ち着かない?』

所在なさげにパンをかじるリリアは、小さくかぶりを振った。

『……一人よりはずっといい』





 奇しくも願った話し相手が得られたことで、収容施設での生活に潤いがもたらされた。基本的に自分からはしゃべらないリリアだったが、こちらが話しかければなにか返してくれる。情報を共有した仲ということもあり、何とはなしに共に行動することが多くなった。

 これは自分達二人に限ったことでは無かったが、ここでの生活の9割はいかにして退屈を殺すかにかかっている。そろそろ一週間が経とうという自分でさえそう実感してきているのだから、二年を過ごしたリリアの方は察して余りある。

『見ず知らずの人達の集まりって割には、不思議と一体感があるよね』

『……ここにいる人のほとんどは私と同じタイミングで連れてこられた。残りはレートのように不定期』

『なるほど、だから皆さんでコミュニティが出来てるんだ。新参には辛いな』

『……レートは、にぎやかな方が好き?』

『生憎と。かといって一人もね。適度な人数で適度に騒ぐのが好きかな』

 三階にある端末室。情報化された電子書籍の閲覧が出来るということで、今日も少なくない人数が宙にウィンドウのページを繰っている。外部との情報共有が遮断されているためラインナップも更新されず、恐らくはこの施設が機能し始めた2年前から変わっていない。それでも一通り有名どころの小説や学術書が揃っているところを見ると、プリセットを一括購入してそのまま放置したのだろう。

『……何を探してる?』

『“フラクタル・ポートレート”。もしかしたらと思って……、あ、あった』

 世界広しと言えと、「画術理論体系」を置いていないライブラリは無かった。さすがに版は古いが有るだけ文句は言えない。細い記憶の糸を手繰り、大体の見当でページを進める。本の最終部、現代画術についての記述だ。

 フローリ・D・ミュラー。この本に記されている最後の画術研究者だ。その業績は言わずと知れた「定量化理論」だが、彼の死後に刊行された論文集には、一つだけそれ以後に書かれた論文が含まれていた。

『“The Theory of Portrait”』

ポートレート理論。関係があるとすればこれで間違いないだろう。

しかしその内容についての紹介は薄い。この理論は完成したものでは無く実証も成されていないことから、学会も重要視しなかったようだ。

 展開したウィンドウの画面をリリアに見せる。彼女はICが使えなかった。ISDが装着者の存在を認知できず、生体認証を行えないからだ。それがこの現代画術社会で生きていくにあたって如何に不便なものであるのかは想像に難くなかった。

『……フローリの名前は研究所でも聞いた。定量化理論との関連から実験を進めているとか、そういう話だった。でも、ポートレート理論自体が何なのかは分からない』

『やっぱりか。うーん、でも流石に論文集まではデータベースに入ってないな……。定量化理論の部分だけの英訳版ならあるけど』

『……手詰まり』

『かなぁ。残念だけど。いずれにしてもここのクローズドネットじゃロクに情報検索もできないし、これ以上のことを調べるなら外に出ないと』

出られればの話だけど、と付け加えて、自分の言葉に疑問を持った。まだ特に何も試していないが、あの壁はただの壁なのか? それなら画術で飛び越せそうな気もする。

『……一人、脱走しようとした人がいた。飛行画術で乗り越えようとしたらしい。でも途中で画術が中断されて落下死したのを他の人が見つけた』

『うわ……それはまた。中断、ってことは、モスキート装置でも組み込まれてるのかな?』

『……その可能性は高い』

 大規模国家間紛争後、新古典画術派との対立が深まったことで対画術師戦闘の必要性に駆られたUCIU企業群が開発した兵器。それがモスキートノイズ発生装置、通称モスキートと呼ばれるもの。

 これは強力な特定周波数の音を広範囲に継続散布する装置で、その音は画術師が画術を使用する際に構築するイメージに混入してノイズを発生させる。これによって画術の使用を妨害またはその再現率を大幅に低下させるという代物だ。予め完成したイメージを扱うICの使用には影響せず、純粋な画術使用にのみ効力を発揮する、まさにUCICにとって理想的な兵器と言える。既に実戦投入されており、装置を組み込んだマイクロマシンを広域にばらまくクラスター弾頭が用いられて絶大な効果を上げている。専用の逆位相音発生装置を身に着けていないと防げないその凶悪さは、裏を返せば効果範囲内に無差別に被害をもたらすということに他ならない。旧来のクラスター爆弾と同じく、残留したマイクロマシンが起動して民間人の画術利用、特にクラウドベルトの使用を妨げ事故に繋がるなどの事例が多数報告されている。特に新古典画術派を中心に、総じて非人道的であるとの声が高く、非難の的になっている。マスコミの格好の餌食として、今日もどこかでセンセーショナルな被害者の映像と共に批判的な報道がなされていることだろう。

 戦略上は友好関係にあるUCICと北米協商の間で技術流入があってもおかしなことではない。が、画術派に対する切り札となりうる最新兵器をそうも簡単に供与してしまうものなのだろうか。

『……画術で物理的に壊すとか?』

『……無理。外に画術師がいて高い再現率のAPSSを張ってる』

『画術師までいるの!? ますます分からなくなってきた……あいつら、ここにいる人達を一体どうしたいんだ』

反画術派とはいえ、北米協商も画術師の存在自体を否定しているわけではない。それでもあまりいい顔をされないのが実情だとミラに聞いたことがある。その中をわざわざ配備するとは、上っ面の見得を捨ててまで閉じ込めておきたい何かがここにはあるというのだろうか。

いかんせん情報が足りなすぎる。持ちえる手段を使っても大して得るものが無い以上、進展は望めなかった。返された端末のウィンドウを閉じると、ふと思いついた話題を振ってみた。

『リルってさ。普段は何して過ごしてた? 最近はおれに合わせてくれてるけど、何かしたいことは無いのかなって』

『……』

無言のまま彼女は部屋のガラス窓に向かうと、開け放つが早いかひらりと身を投げ出した。ここは三階だ。

「ちょっ――」

慌てて窓に駆け寄り桟を掴んで見下ろすと、眼下では草地の上で平然と手招きをするリリアがいた。素で抽象系画術を使える人間は感覚が違う。なぜかどこぞのクラスメイトの顔が浮かんだ。仕方なくこちらも飛行ICを起動させ、緩やかに地面に飛び降りる。

 そこでは彼女が二挺のライフルを両手に持っていた。見た目はボルトアクションに見えるが、両手持ちをしている時点で破綻している。だがそのアンティークなデザインには見覚えがあった。

『ドローシュート、やってたんだ』

『……アイルランドでは人気があったから』

 確かにアイルランドは世界大会でも強豪だ。国内でも熱が入っているのだろう。

 マリオネイト、イカロスロードと並んで三大ペイントリウム競技とされるうちの一つ、ドローシュート。ICの使用に積極的でない欧州やアフリカではそれを用いるマリオネイトを抑えて根強い人気を誇る。

試合は直径10メートルほどの球体状のフィールド内で行われる。二挺のライフルを持った二人のプレイヤーが、フィールド内にランダムに次々と現れるターゲットを早撃ちしてポイントを稼ぐ。しかしこのターゲットは破壊されると命中者に対して一発反撃する。それに当たるとポイントが減点されてしまう。また、対戦相手に直接弾を当てても減点となる。そうして制限時間内に得点が多い方が勝ちだ。

 この競技、観戦している方からすると、空中を縦横無尽に飛び回って乱れ撃つガンアクションであり、スピーディで爽快感のあるように思われる。が、その実一発一発が非常に緻密な計算に基づく頭脳戦であることで知られている。例えばターゲットによる反撃にどう対応するか。初心者は回避に徹し、中級者は片方のライフルで迎撃する。上級者になると先読みして立ち回り射線を相手にぶつけたり、複数の射線を張って動きを制限したりする。更に達人級になると、迎撃を誘導して他のターゲットに当てその迎撃を誘導してまた他のターゲットに当てる、いわゆるチェインショットと呼ばれる芸当を披露したりと様々だ。

 しかも銃は二挺である。一挺ですらこれだけの選択肢がある上、これが二つ同時進行するのだ。一発を撃った瞬間に次の何十発先の行動までが決まっていく。その点では将棋に近い洞察力が求められていると言っていい。

『あれ、でもライフルも競技用ICを使うんじゃなかったっけ?』

『……自分で描出してもチェックが通れば使える。元のICを覚えれば同じものは再現できるし、慣れればこっちの方が早い』

その言が既に玄人臭を醸していたが、一、二回程度にしか経験のない自分にはあの複雑な機構をよく再現できるなと感心するので精一杯だった。

 その辺りに、と指差された場所まで移動する。リリアは建物の壁と黒い外壁の間隔が狭くなっている部分の中央に立つと、左右それぞれの壁に向かって発砲した。

 弾の材質と再現率を調整しているのか、壁にぶつかった青い光弾が跳弾する。それを左右の二射目が撃ち返した。更に跳弾が増える。ジャンプして数メートルを飛びあがり、上方から跳ね回る光弾を撃ち落とし、また増やしていく。スカッシュを一人で高速かつ何個ものボールでやったらこんな感じだろうかと素人目の感想が浮かんだ。

着地と同時に全ての弾が掻き消え、無意識に拍手を送る。

『実は有名な選手だったりしない?』

『……地方大会で優勝したことはある』

自分の周りにはペイントリウム競技に強い人が集まりやすい法則でもあるのだろうか。何かしらの賛辞を贈ろうとしたが、その顔はアンニュイだった。

『……練習しても、もう大会には出られない。ただの習慣』

言葉に詰まり、ISDのストレージから滅多に使わないハフフィックの練習機を選択する。懐かしい複雑な構造の線形体が脳裏を埋め尽くし、多少時間はかかりながらも機械の巨人を描出される。

『いつ以来かな、これ使うの。一回でも描いたことがあるとなんとなく覚えてるよね。と言ってもICなんだけど』

どこか角のとれて間の抜けた格好の機体を見上げる。使用者の特性に応じてフィッティングされていくというが、これが自分の現身だとするといくらか不満があった。もっとも、そこまで使い込んでいないから思い込みに過ぎない。

『おれはどっちかと言えば中庸な人生を送ってきたつもりなんだ。だから最近はトラブル続きで大混乱だよ、ほんとに。それでも不思議とキャパオーバーって感じはしてない。それは楽観かもしれない。でも結局はおれっていう人間のレールの上に置かれた障害物じゃない? なら、自分が辿ってくる間に引っ張ってきたもので何とかするしかない。どれだけ進んでも進んできた軌跡は消えないからさ』

『……?』

頭に浮かんだものをそのまま伝えられるのはいいことだが、その脈絡は本人のみに由来するもので、そこまで共有できるとは限らない。無理やり捻り出したイメージは疑問符で一蹴された。

『ミラさんの変な連想が伝染ったかな……画性対話で通じないってよっぽどなんだけど。ええと、要は、』

目を閉じて彼女に背を向ける。昼近い高度の太陽の温度が瞼を浸す。

『今リルを見ている人間は誰一人いない。じゃあ君は完全に消えた? どこにもいない? そんなことはないよね』

『……ここにいる』

『うん、リルはそこにいる。じゃあなんでそこにいるかって言えば、それはおれの知らないようなことも含めた紆余曲折があったからでしょ? その紆余曲折が誰の目にも留まらなくなっても、リルだけはそれを知ってるよね。これまでも、これからも』

『……見えないのは、今のわたしだけ?』

『そうだよ。皆の目に見えないのは今のリルだけ。だから過去の自分まで消えたわけじゃないんだ。……ちょっと楽観的過ぎるか。気を悪くしたらごめん』

『……そんなことない』

少なくとも伝わるイメージに怒気の色はない。喜色もない。当然だろうなと思いつつも、リルが考えていることが分からないのを残念だとは感じなかった。これ以上は出過ぎた好意だった。知り合って似た境遇を共有したとは言え、まだお互いのことを何も知らな過ぎるのだ。

 目を開けて最初に映った木目調の小奇麗なベンチに座る。ISDを操作してICを消去していると、幼い頃、家の近くの公園で一人で端末をいじっていたことを思い出す。いつの日だったか、砂場で遊ぶ二人の女の子がいた。画術で砂を操って何かを描き出そうとしていたが、しばらくして片方の子が見ず知らずの自分に声を掛けてきた。その屈託のない笑顔と言葉に乗せられ、一緒に舗装されていない公園の土をかき集めた。結果的に創作に専念していた女の子は、シュールレアリティアが描くような異様な完成度の時計塔を建立していた。後で近所の大人に見つかって三人まとめて盛大に叱られたものだ。

(亜矢はともかく、涼葉も過去の自分に忠実だったよなあ……そういう人間が周りに多かったせいかな)

 中途半端に目を閉じたからか、あくびと共に眠気が襲う。サイドの肘掛けにもたれかかるようにして再び視界を遮断する。気が抜けた訳でもないが、疲労も溜まっていたらしい、手を離せばそのまま意識が沈んでいきそうだった。反対側の肩から控えめな重みと熱が伝わってくる。それは慰め損ねた彼女のものかも知れないし、自分のイメージが誤作動を起こしたものかも知れなかった。

人生なんてこれぐらい曖昧なままにしておいた方がいいのだろう。そう考え、握っていた自我の綱を手放した。

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