第2節 Trivial, but fatal wound

2-1



 睡眠から起きるとき人は二回目を覚ます、と言われる。「起きた」と自覚した時点で既に意識は覚醒しているために、本当に「目が覚めた」瞬間はそれより前にあるというのだ。起きているのに起きていないと思っている時間が、僅かながら必ず二点間に挟まる。ではそのラグの間、主観はどこへ行ってしまっているのだろう?

 この逸話は画術の創造性の概念に近いものがある。画術が描き出すものは全て絵空事だ。起こり得ないものを起こっているとする私達の認識はまだ目を覚ましていない。優れた画術師とは、二回目の目覚めを遠ざけることに長けた人を指すのかもしれない。

 未だ早朝の薄明の中にあった竹林は、霞がかって空気を湿らせ肌寒い。伊瀬燈香は愛用のフロートチェアーに身を置きながら、模糊とした風景の向こうから一つのシルエットが像を結んでいくのを眺めていた。

「燈香様自らお出迎えとは、もったいない限りで」

「朝の散歩は日課なのです。お気になさらず」

細い山道の一角、ほんの少し開けた空間に、一人の青年が全貌を現した。トレーニングウェアにスポーツ用のデイパックを背負い、どう見ても登山客にしか見えない。ばつが悪そうに笑って歩く彼のあとに、枯れ葉の崩れる音が続いた。

「存じ上げていますよ。冗談です。……あ、押しますよ」

ありがとう、と燈香は告げてIC製のイスのコントロールを移譲した。実際大した負担ではないのだが、こういう所で上下関係を円滑に回せることもある。

「その後、お変わりありませんか」

「お陰様で、すっかり良くなりました。看病してくれた歩凪さんにはしばらく頭が上がりませんね」

「師範代が相変わらず燈香様に懐いているようで何よりです。他人にも少しはその愛想を分けて欲しいところなんですが」

「紫丹さんは彼女とはあまり……?」

「いえ、そんなことは無いですよ。むしろ門下の中では仲が良い方だと思います……って言ってもここ一年近く会っていませんが」

紫丹、と呼ばれた彼は自分より十歳近く年下の上司の、不機嫌そうな顔を思い浮かべた。燈香を慕うあまり、二人の時間を邪魔するといつもご機嫌ががくりと傾くのは同僚の中では有名だった。間の悪い時に伝令役を仰せつかったものだと嘆息する。

 ゆったりとした勾配を登り切ると、群生するススキが一面にたなびく見晴らしの良い斜面に差し掛かる。その頂上付近に古式ゆかしい平屋建ての日本家屋が一軒、突き出すようにして佇んでいた。桟橋のように伸びた小さな木橋の先端には、来訪者を試す門番の如く、およそ尋常ではない気迫を纏って制服の少女――三影歩凪が正座をしていた。

「お帰りなさいませ、燈香様」

「ただいま戻りました」

腰を折って主を迎える姿はどこか楽し気であり、二人の間柄が感じ取れるようで微笑ましくもある。ただ、

「お久しぶりです、師範代」

「……」

こちらに向けられる視線が厳冬もかくやという勢いで冷え込みを見せているところに、懐かしさとともに面倒臭さを覚える彼だった。

「朝ご飯にしましょうか」

こういう場の雰囲気でも常に朗らかなあなたの主を見習ってほしい、と前々から思っていたが、どうやらまだ無理な注文のようだ。




 質素とはいえきちんとした一膳を平らげたあと、紫丹は高級そうなケヤキの座卓の前で湯呑の日本茶をすすっていた。しばらく日本を離れていた身としては、先のような典型的な和食のありがたみを実感する。緑茶ですらあまり飲む機会が無かったのだ、こうして深みと苦味が喉を通り抜けていくだけで、日本に生まれてよかったとすら思える。楽天が過ぎるのかもしれないが、今ぐらいはいいだろう。

 上座である対面には燈香が浮遊椅子を降り、綺麗な姿勢で彼に習っていた。相変わらず見事な大和撫子っぷりを魅せているが、その服装がいつもの着物姿ではなく、ラフなタートルネックとスキニーパンツになっている。彼女の『オフ』時を知っている紫丹にとっては見慣れたものだったが、この切り替えを見るたびに役作りも大変だなと思わされる。

「落ち着きますねー……」

縁側の向こうには増えつつある木々の枝色が冬の気配を感じさせる配色を映している。すっかり日の上った空には、小さな雲の欠片が数個漂っていた。

「ずっと方々を飛びまわっていたのでしょう? 少しは休息になればいいのですが」

「十分過ぎますよ。誰かに狙撃される心配も無い、ぼんやりしていても怒られない、そしてご飯が美味い」

「ふふ、歩凪さんの手料理は美味しいですよね」

「いやー、意外でした。師範代の料理を食べたのは初めてでしたが、普通に出来が良くて。いつもこんな感じのメニューなんですか?」

「普段は和洋折衷ですよ。ここまではっきりした和食は珍しいんですが……今日紫丹さんが来ると知って頑張って作ったようです」

「なるほど? どうやら俺も師範代に頭が上がらなくなりそうです。いや、元々かな」

同志ですね、とほのかに笑みを浮かべる燈香が創り出す空間はどこまでも平穏そのものだったが、隣の間から凶悪な殺気が主にこちらだけに向けて発された瞬間、気分が強制的にお仕事モードに切り替わりかけた。

「お待たせしました。それでは御用をどうぞ、紫丹」

洗い物と雑事を終えた歩凪が奥座敷に入って席に着くと、変に丁寧な口調で用件を促す。最初から不機嫌最高潮だったが、緩和する手立てが彼には与えられていた。

「あー、その前に」

「なんですか」

「朝ご飯。美味しかったですよ、師範代」

「……お粗末さまでした」

軽く目線を逸らされるが、口調は穏やかだった。どうやら上手くいったようだった。しかし遺憾なことにこれから告げようとしている内容はせっかく改善された空気を盛り下げていくこと請け合いだった。

「まずこちらを。御当主からの言伝です」

懐から白紙の紙を彼女に手渡す。その手が触れた途端、浮き上がるように達筆な文章が印字された。特定の画術を掛けると反応するように仕込んだ伝統の暗号文だ。画性通話が使えるこの現代にアナログ極まりないが、盗聴の可能性を考えればまだまだ現役の手段だった。

「な、納得いきません!」

そう長くない文面だったのか、すぐに読み終えたらしい当人から反対の声が上がった。

「まぁそうでしょうね。でもそれは俺じゃなくて御当主に言ってください」

「紫丹が代わりに行けばいいじゃないですか!」

「無茶な……相手は世界でも五本の指に入る超級画術師ですよ? やり合ったら一秒も立たずに消し炭です」

「というか、何でお役目の内容をあなたが知ってるんですか」

「それはもう、この一年近くはそれ関連の情報を集めてましたから。何となく察しはつきます。というか遣わされた理由の一つが師範代への説明役なので」

「超級画術師って、わたしだって対抗できる自信ないし……」

「師範代なら大丈夫ですよきっと。タフさだけなら三影流刻印術式は世界レベルですから。あ、言伝は他言無用になってます? そうでないなら燈香様に説明して差し上げてください」

無理やり話を誘導すると、根は素直な師匠役は内容の解説を始めた。

「日本海洋上を移動中の『霧の街』に潜入し、エラーコードと目される『光る腕』の詳細について調査を行え、と」

非常にざっくりとした一文だったが、事情通の燈香には十分通じた。以前より聞き及びのある名前だったからだ。

「『霧の街』とは、あの?」

「ええ、そうです。新古典画術派ロンドン支部の長、ジュード・マーレイ・ウィリアム・タスカー……彼の創り出す巨大な隠蔽空間型風景画術の通称ですね」

「それはわたしも知っています。この『光る腕』とは何ですか? 説明役として遣わされたんでしょう、お願いします」

「いや、確かにそうなんですけど……ええと、まず『霧の街』について確認しておきましょうか」

 霧の街。

 それはあくまで遭遇した人々が勝手に名付けたものであり、その画術の実名は不明。術者であるタスカーは、20年以上前にこの画術を行使したという公式記録を残して、現在に至るまで姿を消している。恐らくこの画術と共に移動を続けているものと推測されている。

 濃霧が立ち込める冬のイギリス旧市街を思わせる街路数区画を丸ごと再現した空間は、外部からは全く視認できず、画力反応による追跡も出来ない。推定400%を超える圧倒的な再現率が探知を阻むのだ。そして目撃……というより遭遇した事例が世界中のあちこちで報告されていることから、無軌道に周遊を続けているとされている。

「とまぁ、ここまでは都市伝説のように伝わっている有名な話なんですが」

 その街に取り込まれた人々は、あたかも実在する街に迷い込んだかのようなむせ返るようなリアリティに晒される。行き交う人々、閑散とした店舗の静けさ、まとわりつく湿気。到底画術とは思えない程の空間には、何一つ現実と齟齬が無かったという。大半の『街』の経験者は口々に同様の感想に語るが、そのうち何人かは異なる点を挙げている。困惑しながら街路を歩いていると、その路傍に『光る腕』を見たと言うのだ。それは大体肘から先の部分だけで、全体が石油やシャボン玉のようなニュートンリングに覆われ、鈍い光を放っている。死んだように横たわっていることもあれば、神の啓示の如く空中に屹立していたときもあったという。

「これが、実際に見たという人のスケッチです。若干差はありますが、ほぼ同一の特徴を示してます」

紫丹はISDに画像を読み込ませると、卓上に投影してみせた。それをのぞき込んだ燈香は一言で核心部に触れた。

「これは、霧の街とは独立した存在なのですね」

「ご慧眼です。三影の――東京支部の見解は、コレを隠蔽するために霧の街は機能しているんじゃないか、と」

「では、これがエラーコードですか」

「恐らくは。三影に動員命令が出たということは、何かしらの確信を得られたのでしょう。……師範代、ついてこれてますか?」

無言で睨まれる。ダメそうだと判断した彼は、過去の記憶を掘り起こしながら彼女との対話の内容を想起した。

「シミュレーション仮説の話はしたことがありましたっけ」

「……無いと思います」

「師範代、よく思い出してください。前々回の門中会議で伊瀬家の光延様が『トリニティ』の情勢をご説明下さったときに補足しましたよね?」

「父上の言は御爺様と違ってあまり要領を得ませんから、無理もありませんよ」

さらりと娘から酷な発言がこぼれているが、二人は敢えて聞き流した上で、歩凪の方が言を継いだ。

「……紫丹、わたしはまだ高校一年生なんですよ。分かるように言ってくれないと分かりません。あの場ではそういう雰囲気だったから合わせただけです」

受け取り方によってはただ無知を晒しているだけのように思われるが、彼は尤もだと考え直した。確かに内容は高等学校では習わないような専門的な話だったし、かと言ってあの場で堂々と分かりませんと言えるはずがない。歩凪は仮にも今代の三影流筆頭術師だ。周囲の目線はそれだけ厳しいものがある。

 それに、と紫丹は思った。彼女にはまともに勉強をしている時間なんてほとんど無いのだ。余人には一生掛かっても習得できないような刻印術式の制御に日々心血を注いでいる彼女には。国内でも有数の名門校に通い、授業についていっている(と聞いている)だけでも人一倍苦労しているはずだ。

「仰る通りです。俺の配慮が足りませんでした」

「分かればいいですよ。わたしも紫丹の言葉はそれなりに信頼を置いていますし」

「ふふ、お二人は仲が良いのですね」

別にそこまででは、と二人が揃って反駁すると、何の意味も成さないことに同時に気付く。

「――オホン。ともかくです、シミュレーション仮説について、画術方面からの理解を説明しておきましょう。燈香様、復習がてら質問をさせて頂きますよ」

 シミュレーション仮説、と一口に言ってもその捉え方は様々だが、最もポピュラーなものは、人類より高次元の文明が作ったマシンによって、現実世界と呼ばれているもの全ては仮想上に創造されたデータ情報の集合である、というのものだ。

「では、これを画術的に捉えたものを何と言いますか?」

「旧ネオプラトニズム学派系が唱えた代替イデア論ですね」

 プラトンのイデア論に端を発するこの学説は、要するにイデア界と現実世界の関係性をシミュレーション仮説における真の現実世界と仮想空間すなわち人間にとっての現実世界の関係に当てはめたものだ。画術の根源を探る上ではこの論説は重要なポジションを占めており、大変古い説でありながら現在でも検討が成されている。

「肝心なのはどうやって証明もしくは否定するか。一般的なシミュレーション仮説だと諸説ありますが、代替イデア論ではほぼ一つ、『エラーコード』の発見です。オーパーツとか聖遺物とか言われたりしますが、まぁ総称だと思ってください」

 シミュレーション仮説では、観測可能な現実世界全てを丸ごと再現する、想像を絶する規模のシステムが動いていることになる。であればバグの一つもあっておかしくは無い、と言うのがエラーコードの考え方だ。正常に機能していないプログラムがこの世界のどこかに潜んでおり、それを発見できれば仮説を証明したことになる。ただしこの理論には一つ欠点がある。仮にバグが存在するとして、それは高次元の文明が扱うプログラム言語で表されている可能性が高い。となると、人類には解読はおろかそれを認知することすらままならないのではないか、という反論が付きまとう。

「これは外国語が読めないっていうのとは訳が違うんですよ。例えば師範代、これを見てください」

「……馬鹿にしないでください。ヒエログリフです。ちなみにフクロウです」

「文字とすら認識できないっていう例だったんですけど不要でしたか……っていうか詳しいですね」

慌てて提示した仮想ディスプレイをしまい込みながら、紫丹は何食わぬ調子で一つで解説に戻った。

「この問題に代替イデア論はどうやって対応したでしょうか」

「画術そのものを、エラーコードの識別装置として位置付けました。代替イデア論において、画術は現実とイデア界でのデータの行き来で成立するもの。なので高次文明由来の情報であっても現実世界の文脈に変換可能だと考えたのです」

「完璧です」

「でしょう? 燈香様はすごいんですよ!」

「なんで師範代が偉そうなんですか……。はい、そんなこんなでネオプラトニズム学派の人達は当世の技術では解析できないアレコレを探しては諸々の画術を掛けて検証を繰り返しました。オーパーツとか聖遺物とか。結論から言えば全部ハズレで、今に至るまでエラーコードは見つかっていません。当てのない宝探しみたいなものですね」

「でも今も続けられているんですよね? その宝探しは」

「ですね、流石に本流からは外れましたが。むしろ検証の過程で編み出された数々の解析術式が機巧画術全盛の今では大活躍してます。とはいえ、この論調を否定する動きが無いのも事実です。新古典画術派の源流は間違いなくネオプラトニズム学派ですから」

「だから一部の酔狂も許容し続けている、と」

「辛口に言えばそういう事になります。そういう流れの中で、今回の『光る腕』がまな板に載せられたわけです。実はちょくちょくこういった『エラーコードらしきもの』の報告は寄せられていて、特に調査を行うことに当局は看過していなかったんですが」

 『光る腕』の存在が有識者に知れ渡り、調査したいという動きが起こったのは10年ほど前になる。世界中の支部が年一回集って方針や報告を行う総会においてその発議が成された。慣例通りなら誰の反対も無く通過するところだった。しかし、全支部の実質的頂点に当たる『トリニティ』――パリ・サンクトペテルブルク・マンハッタンの各支部長が特例を行使。調査の取り止めを求めた。その強硬な姿勢に他支部長たちは従い、実際に公式での調査は行われなかった。

「代替イデア論信者が根強い支部では勝手に調査してたとこもあったようです。というか霧の街の目撃者の大半がそうした人達なんですよ。そして我らが三影の属する東京支部も人の事は言えないと」

自分のような人間が動いていたようにね、と彼は軽くウィンクしてみせた。反応は敢えて窺わなかった。

「なぜトリニティは調査を否定したんですか?」

「それを調べるのが師範代、あなたの今回の仕事です。――っていうのはちょっと端折りすぎですかね」

 トリニティの決定を受け、東京支部は他支部同様『腕』に秘されるべき何かがあると踏み、独自に調査を開始した。しかしその方法は余所とは大きく異なり、『霧の街』を確実に補足する手段の模索だった。そして辿り着いた答えが、クラウドベルトの全地球ネットワークだった。

「あれは無賃利用防止に単位区域当たりの画力密度を計測して料金を決めるでしょう? だから『街』も探知はされないけど計上はされる。街区画なんて馬鹿デカい通行者が通ったらどうなります? 一時的にでも料金が跳ね上がるはずなんですよ。そこから位置を逆算するって算段です」

「意外と単純なのですね」

「元々交通量の激しい所とか突発的なイベントとか考慮しないといけないので言うほど簡単ではないらしいですが……それでも一定の効果は挙げられました。もちろん他支部、特にトリニティには内緒です。今回の作戦もそうでしょうね」

「『街』に乗り込んだ時点でロンドン支部長にはバレてしまいますが、それはいいんですか?」

「んー、どうやらタスカーは外部との交信を絶っているようなんです。支部は代行が回していますが、事務関連で連絡を取りたい人は幹部勢にも多くて困っている、というような話は聞いてます」

「では私からも一つ。東京支部は『腕』がエラーコードだと突き止めて、何をするつもりなんでしょう?」

「さぁ、そこまでは。ただ『腕』がエラーコードであるという確たる証拠を突き付ければ、流石にトリニティも黙ってはいられないでしょう。そうなればいずれかの方向に事態が動く可能性は高いです」

「東京支部の東洋圏での地位を考えると、復権を目論んで画策していてもおかしくは無い、といったところですか」

国際社会において中立的なポジションを取っていたはずの日本は、大規模国家間紛争後にその思想的寛容から過激派である新古典画術派・改派の温床になった。それだけが原因ではないがずいぶんと治安が悪くなり、同時に抽象画術師に対する心象も悪化の一途である。

「我らが本尊ながら、ずいぶんと黒いものですよ。……それに、『腕』が本当にエラーなら、この世界はイデア界の代替品に過ぎないってことになります。それを知ったら少なからずペシミスティックになる人は出てきそうですよね。自殺したらイデア界に行けるかも、とか」

「それはちょっと嫌です……」

「ま、まぁ、それは我々の考えることじゃないですよ。とにかくお役目を果たしましょう。あとは東京支部の仕事です」

「はい。……それで、わたしは具体的に何をすればいいんですか?解析画術なんて、一般的なものしか使えないですよ?」

「作戦行動の詳細はさっき渡した言伝に内蔵されてます。ISDに転写しておいてください。なので読めば分かることですが、ぶっちゃけ言うなら持ち帰れればベストです。でも無理な時の為にこれを渡すようにと」

そう言って紫丹はISDから一枚の文章を描出した。紙を覆うように薄い靄が掛かっていて内容が判別できないが、続いて描出したカードキーのようなものを紙に突き立てると靄が消えた。

「刻印術式、最終段階の使用許可書です。思いっきりぶん殴ってください。もし壊れるようならただの構築物、壊れなかったら高い確率でエラーコードってことになります」

 歩凪が扱う刻印術式は、身体に物理的に術式を印字することによって術者の描出再現率を底上げする仕組みだ。対抗画術を破壊するだけだったパンチで空間や距離を破壊したりできるようになる。ただそれだけ術者へのフィードバックも高く、自身が安全に制御するために刻印の機能は段階毎にロックが掛けられている。最終段階を解放した際の実測再現率は最大で398%を記録しており、刻印術式を使用する術者の中では世界最高峰の実力を誇る。

タスカーの描く風景に『腕』が取り込まれているということは、『腕』の再現度は400%よりは少ないことになる。数%の差であれば超越作用も起きないため、歩凪の瞬間火力なら砕ける――という見積もりだった。

 許可書を受け取ると、逆の手順でISDに内容を認知させた。これで一時的に内蔵のセーフティが解除されたことになる。

「うん、大体は分かりました。色々ありがとう、紫丹」

「いえいえ、今回はそういう役回りなので。じゃ、パパッと目を通してご出陣下さい」

「え、もう出るんですか?」

「可能なら今すぐにでも。移動中に読めば時短になりますね」

「え、えぇ?」

「だって、考えてもみてください。ゆっくりとはいえ『街』は今も移動を続けてるんですよ。他国の領域に侵入する前に調査を終えないと不法入国で国際問題になりますから、正直一刻の猶予も無いぐらいです」

「歩凪さん、くれぐれも気をつけてくださいね」

「燈香様もお見送りモードに……!? もっとこう、ちゃんと準備とかしないといけないんじゃ」

「いりませんいりません。風景画術の内部でICなんて役に立ちませんし、師範代の身一つで十分です。あ、他支部の人間に悟られないようにしてください。それだけです」

そこでやっと歩凪は年上の弟子の不器用な気遣いに勘付いた。彼なりに緊張しないようにと空気をほぐしてくれているのだ。燈香も早々にそれを察して乗っかっていたのだろう。

「――紫丹。簡単に打ち込みをします。相手をお願いできますか」

「喜んで」

 刻印術式をいきなり使って失敗したりなどしたら、暴発による心身への影響は計り知れない。刻印自体死んでもおかしくない程の負荷を強いているのだ、当然の結果と言える。一通りの型を再現度を落とした状態で確認していく。これさえ出来ていればあとは力加減だ。庭先で二人がウォームアップを済ませていると、燈香がマフラーとカーディガン、薄手のブロックコートを持ってきた。風景内も季節は冬だし冷えるといけないから、とすっかり冬支度になった歩凪にマフラーを巻く。まるで仲の良い姉妹だなと紫丹は蚊帳の外から眺めていた。

「じゃあ、行って参ります」

別れの言葉は短く、空間のひずみに吸い込まれていく制服の後姿が完全に見えなくなると、残された二人はどちらともなく口を開いた。

「心配ではありませんか?」

「とんでもない。三影の人間は任務遂行に命くらい軽く差し出します。だから、燈香様がいる限りは化けてでも戻ってきますよ」

「できれば足のある歩凪さんとまた過ごしたいものです」

それはただの冗談だったが、紫丹は返答に窮して沈黙に甘んじた。彼女が生まれついた家の宿命をどう思っているかなんてにわかに読み取れるものではなかったし、そんなデリケートな部分に踏み込むような間柄ではないと悟ったからだ。

「紫丹さんはこのまま残られるのでしたよね」

「え、ええ。――不肖、紫丹が三影歩凪に代わり護衛の任を務めます。前任が戻り次第交代することになるかと」

「了承いたしました。宜しくお願いいたします」

楚々として会釈をつくった燈香に、紫丹は跪いて頭を垂れた。

(済みませんね、お二方)

 心中でしか詫びられない立場に、彼は良心の呵責を感じないでもなかった。しかし、心など命以上に軽いものだ。

 そう、自分は三影の人間なのだ。それゆえ任務にはいついかなる時も忠実であらねばならない。たとえそれがどのような結末を導くものであっても。

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