第5節 I don't tell the answer.
-1.
「ただいま」
人感センサーが働き、廊下に落ちる闇のとばりが幕を開ける。誰もいない室内を歩き、リビングへ。肩掛けのポーチをテーブルの上に置くと、冷蔵庫からラムネのビンを一本取り出す。端末が脳内に着信を告げた。設置型ディスプレイの前、お気に入りのソファに身を落ち着けると、対話回線を開いた。
恐らく世界中で最も秘匿された情報ラインを通して、中性的で平坦なトーンのイメージが伝わった。
『やぁ。久しぶりだね、イリル・ハルハティ』
『ご無沙汰している、所長』
『おや、その声ということは、今はミラ・インバートと呼んだ方がいいのかな。気に入ったのかい、その姿』
『貴方にそう聞こえるということは、そうなのだろう。この家にいるからかもしれない』
『ああ、彼が使っていたマンションか。そう言えば今日は弔問の日だったね、それこそイリルとして参席したかい?』
『世界のどこにいるかも分からない人間が、よく学校行事の日程など知っているな。……中々に酷い有様だったよ』
KAWASAKI領内での画術テロから三日。蓋を開けてみればその死傷者は優に三桁を数え、ほとんどが過剰フィードバックによるショック死だった。居合わせた先ヶ橋高校マリオネイト部は、部員の二人が死亡、一人が全身不随、一人は重篤に精神を病み、一人が行方不明となった。応援に向かっていた生徒も9人が死亡し、十数人が重い後遺症を背負うこととなった。
『まぁ、事態で言えば国立画術高専の方が深刻だ。参加した生徒のほぼ全員がKAWASAKI内で重刑判決を受けている。協商と裏で繋がるのはいいが、とばっちりを受けた生徒は散々だな』
『君ともあろう者が、感傷かい』
『まさか。いくつか腑に落ちない点はあるが』
『ほう。例えば』
『なぜ北米協商は怜人君を欲した。奴らにとって彼は――』
『利用価値が無い、そうだね。それ自体には無い』
『確保しておくことに意義がある、と』
『そうだ。北米協商は彼が必要だったから手に入れたわけじゃない。必要とする者に渡さないために手に入れたんだ。そのカードを自分達が持っているということ、それで彼らは自分達が一歩優位に立っていると思い込む」
『しかし、なぜあのタイミングだ。計画に勘付いたわけでもないだろう』
『一ヵ月ほど前に“トリニティ”が「フラクタル・ポートレート」の実用化に向けて本格的な情報収集を始めた、と報告がきている。恐らく彼らもそれを掴んでいて、先制のつもりで動いたと見るべきだろうね』
『それなりに抵抗する準備はある、ということか。だからと言って彼の安全が保障されるとも思えないが』
『いつまでも中立地帯に置いておくよりはカウンターパートに預けてしまった方がいくぶんマシさ。どこに潜んでいるのか分からないネズミを探し出すより、張った罠の前で待ち構えて叩くだけの方が我々としてもやりやすい』
『連中に気づく機会を与えることにならなければいいがな』
『大丈夫さ。彼らにはその知識も技術も人材も無い。その意味では、こちらが不干渉を貫いている以上、あの二人組の方がよほど注意すべき存在ではあったよ。杞憂に終わって良かった』
『下手に手出しをすると面倒だというのは分かるが、いつまでも泳がせておけばいいというわけでもないだろう。彼の価値を断片的にでも掴んでいる以上は』
『あの調子でこちらのことを嗅ぎまわっていれば、いずれ何らかの形で接触することにはなるだろうね。だけど、果たして間に合うかな? フローリの遺志を解読するのに我々は10年近くを費やした。彼女たちが同じ土俵に立つころには、全てが終わって――いや、始まっているよ』
『二人の行動はお膳立てにしかなり得ない、と?』
『今回同様にね』
『なるほど。であれば、私も懸念はしまい。それで? 本題は何だ』
『君に別の仕事を頼みたい。実は手を空けてもらったのもそのためなんだ』
『また被検体の護衛か? 今度は子供のお守りにならないと助かる』
『いいや、ちょっとしたお使いだよ。先日、ICUCが第四世代型ハフフィックの運用実験を行った。そのデータをある場所へ、頃合いを見てリークしてもらう』
『ふん、いいだろう。承った。相変わらずやる事成す事、国連の組織とは思えんな』
『怜人君の件もそうだが、北米協商にはもう少し精をつけてもらわないと困るんだ。これから気質の難しい女性二人と激しく交わろうというんだから』
『……所長。貴方のその悪魔的な発想力には感服する。よくもまぁ次々と思いつく』
『なぜか凡庸な人間がこんな地位についていると暇でね。考え事をするぐらいしかやる事が無いんだ』
『まったく素晴らしい上司を持ったよ、私は』
『褒め言葉として受け取っておこう。凡庸以上の評価に対しては寛容にと決めているんだ』
『では、追加で一言言わせてもらう』
『何かな』
放り投げたビンがダストボックスの上の壁に当たって砕け散る。中身が壁に染みを残し、筋をつくって垂れ落ちていく。
『貴方の醜悪な作戦とやらに付き合わされていい加減反吐が出そうだ。一方的に命を弄ぶだけの混沌を創り出して、人類の為にだと? 大概にしてもらおう、私だって元は人間だ』
『……本当にそれを望んでいる人間がいると思うかい?』
『いるはずがない。だから私のようなものが肩代わりをするのも已む無しとは考えた。だが、これでは地獄の門に手を掛けているのは我々だ』
『だからだよ。望んではいない、だが、もう門を開けること以外に方法はない。人類は、もうそういうところまで来てしまっている。それは誰の所為でもない、種としての責務だ』
『――ハァ。我々は最悪な役回りだな、所長』
『しかたないさ。一応、元の研究員としてのポストは残してあるから、戻ろうと思えば戻れるよ』
『遠慮しておこう。人としての思い出まで穢したくはない』
『君がそう言うのなら。では、仕事の詳細は追って知らせよう。また会おう、ミラ・インバート。全てはイデアのために』
『……イデアに至らんことを』
もはや呪詛といっていい組織の悲願を言葉尻に、回線からのイメージが消滅する。家主を失った部屋は、昼下がりにも関わらず半分閉じられたカーテンと薄明かりの照明で所々に深い影を落としていた。
「なぁ、怜人君。ここでの生活は楽しかったか?」
ソファには人影があった。その姿は、姿では無かった。一人の人間の存在だけがそこにあり、その人物は一切の形容を持たなかった。人間の枠とでもいうべき、観測不可能な異物と化したそれは、誰にともなく白い天井を見上げた。
「所詮君も歯車の一つに過ぎない。全ては一枚の絵の中だ。君はそんな世界を否定するかな。描き、描かれるだけの世界を」
混交した情動を一枚の絵に現せたなら、一切の感受を捨てるだろう。
願った色に空漠が染まるなら、万象は欺瞞に沈むだろう。
カーテンの隙間から洩れたうららかな日差しが足元に差し込み、古風な時計の針が13時を告げた。
「私はごめんだね」
<とある画術師におくる葬礼 第一章『亜矢』 了 >
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