6.

 新枝怜人は往来もそこそこな空中の大通りに立ち尽くしていた。

 予定通り武咲陽馬と尾糸研二と共に新神戸ペイントリウムを訪れていた彼は、準決勝の試合観戦に備えて食料と飲料を調達し、二人の待つ指定席へと連絡通路を急ぐ最中だった。

 ぐにゃりと風景が歪み、平衡感覚が奪われた刹那。画術か、と身構えていると、見えない壁のようなものに前から弾き飛ばされた。反射的につぶった目を再び開けると、低くなった視界で自分が地面に転がっていることに気付いた。先の衝撃で打ち付けたのか、ずきずきと痛む全身を起こすと、そこは空中に点在する噴水や草木の庭園が並ぶ、近未来的な外観のペイントリウムの正面通路だった。

 意図的に座標移動させられた、という感じではない。画術の範囲外へと無理に飛ばされたという方がしっくりとくる。事態の把握を求めて会場へ戻ろうと走った。しかし、正面ロビーへ入ろうとすると再度あの衝撃が身体を襲い、押し返される。人の入出を拒む画術なのかと思いきや、すぐ隣のカップルが談笑しながらロビーの赤絨毯へ足を乗せた。その瞬間、二人の姿は吹き消された蝋燭の火となった。

 これは尋常じゃない、と咄嗟に入り口から離れると、通路の外壁に寄りかかって人々を一望した。誰も自分のような混乱には陥っていない。あのどうみても異常事態に反応する者はいない。

なんでおれだけが、と疑問を口にする。答えは頭上から降ってきた。


「怜せんぱい!」

見えない段差を飛び降りるが如くぴょんぴょんと高度を落としてきたのは、どこか懐かしい面立ちの少女だった。

「三影……?」

「は、はい! そうです、お久しぶりです」

「小学校以来かな、元気そうで何よりだね」

「えへへ、ありがとうございます」

変わってないなと思わせる風体はともかくとして、このタイミングとその意味を推し量らざるを得なかった。

「……ペイントリウムがヘンなことになってるみたいなんだけど、三影は何か知ってる?」

「詳しくは分かりませんが、内部で画術師による大規模な風景画術が展開されているみたいです。KAWASAKI政府も気づいて、軍を動かし始めたみた――あ、あそこ!」

 ペイントリウムに通じる何本もの大通路のうち、今いる場所から日本ほど隔てた所で、軍服の集団が隊列を組み軽快に場内へと突入していった。

「ほんとだ……! ずいぶん大事みたいだね」

「噂ですけど、テロなんじゃないかって話も上がっていて。この辺りもすぐに立ち入り禁止になると思います。軍本部がISDでペイントリウムの周りに簡易バリケードを構築しているそうなので、その付近までいっしょに行きましょう。ここにいると、変に勘違いされちゃうかもです」

「あ、ああ。分かった。けど、なんでそんなに色々知ってる?」

「わたしのお仕えしている方が軍部の事情に通じている方なんです。あ、亜矢お姉ちゃんとも会いましたよ! それで怜せんぱいも来てるって聞いて。し、心配になったので……」

「そっか。なるほどね。亜矢に感謝しないと」

「……はい。じゃ、じゃあ、捕まってください。一気に跳んでいきます!」

差し出されたセーターに包まれた腕をそっと掴む。そして振り落とされないかという不安がよぎり、少しだけその手に力を込めた

「これでいい? ……あの、大丈夫か? 顔赤いけど」

「だだだいじょうぶですよ、ぜんぜん行けます! せぇ――のっ」

可愛らしい掛け声とともに歩凪は両足に画術を掛け、現実を描き変えた人外の脚力で仮想の地面を蹴り、大空に弧を描いた。


 数回虚空の足場を経由した放物線の行き着く先は、早くも集まってきている野次馬とそれらを押し留める軍組織と思しき一団で埋まった通路の一端だった。

「えっと、まだ中にお知り合いの方が……?」

「うん、二人いる。連絡も取れないし、この辺りにいるしかないかな。泊まってたホテルも朝チェックアウトしちゃったから。それにしても、何でおれは出入りができないんだか。三影は普通に中に入れた?」

「は、はい。わたしは入れました。風景画術の形成になにか条件があるのかもしれません。でも、入れなくて正解ですよ。いったん足を踏み入れたら、基本的に画術師の意思が無ければ風景から出られませんから」

「あー……確かに。ってことはあの二人も出られないな。気長に待つしかないのか」

「あの、もしよければ、この連絡通路を1ブロック進んだところにフリーダイブ用のISDスペースがあるので、そこで待ってもいいかもです」

手際よく仮想の情報板を展開した歩凪が、その一枚を手渡してくれる。ハフフィックのダイブモードと同じ要領で没入型のコンテンツを楽しめる、設置型のISDが置かれた施設だ。日本でも時々街中で見かけるものだった。

「そうしようかな。色々ありがとう、昔の知り合いってだけなのに」

「そ、そんなことないです! あ、いえ、どういたしましてです……」

「あはは、やっぱり変わんないね三影は」

「……うー、それじゃあ、わたしはお仕事があるので戻りますね! 怜せんぱい、お気をつけて」

「そっちもね。じゃあまた」

 

 ぺこりと頭を下げた歩凪は、踵を返して会場の方へと跳躍していった。よくよく考えると制服のままアレはまずいんじゃないかと思わないでもなかったが、野暮というものだ。本人も周囲も、気づかなければそれでいい。

 一ブロックとは言っても多少の距離があった。が、怜人は徒歩で行こうと決めていた。上空100メートルを超える空中回廊から眺める画術と実体のサイバネティックな景色など、そうそう拝めるものではない。二人の事は心配しても埒が明かないのだし、せいぜい与えられた状況を楽しむとしよう。同居人譲りの合理的な判断が、それを最良の選択とした。

 

 通路の中央は時折現地へ急ぐ軍車両のために一般の通行が制限されていた。新たに到着した三台のIC車両から、ICUC共通規格の軍事用ボディスーツを着た軍人が数人、足早に下車してくる。車両の脇を通り過ぎるとき、プライベートチャンネルでの画性通信を受け取っていた。しかし、端末に相手の情報が表示されない。不信感から着信を拒否しようとコンソールに手を触れた。

『君がレイト・ニイエダだな』

中年男性の、冷厳な声のイメージが脳内に届けられた。

『我々に同行してもらう』

「な……」

言葉と、耳元で生々しいコッキング音が連続するのはほぼ同時だった。

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