7.

 三影歩凪は廃墟を移動していた。

 マンションやビルの壁を蹴り、中空を猛スピードで飛び続ける。目指す場所は決まっていた。『絵の中心』だ。これが風景画術である以上、必ず焦点の当たる場所が存在する。最も画力が濃い、風景の本質。そこへ一直線に向かっていた。時折その姿を捉えた国画高専のハフフィックが火器を構えるものの、発射される前に彼女の岩塊さながら膨れ上がった巨大な腕が道行きざまに殴りつけ、フレームに大穴をこしらえて落下していった。

 怜人と別れ、会場に突入してから約5分。小柄な体に不釣り合いな重々しい着地音で大地を揺るがしながら、ようやく移動を止めたのはビル群の谷間、三叉路の交差点だった。

 

 一人の先客がいた。健康的な小麦色の肌に露出の多いラフな服装。女性的な魅力に溢れた容姿。その少女は何をするでもなく、交差点の中心で目を閉じ、空を見上げていた。

「あなたが、この風景を描いている画術師ですね」

「そうだと言ったら?」

「二、三お聞きしたいことがあるんです」

「いいよ。ちょうど暇だったし、ぼくに答えられる範囲で答えよう」

言った褐色の少女はぱちんと指を鳴らして小さな肘掛け椅子を描き、足を組んで座り込む。

「あなたは北米協商とICUC、どちら側の方なんですか」

「あっはは、参ったなぁ。最初から答えられない質問をぶつけられちゃうとね。あえてずらして言うなら、ぼくは単なる雇われだよ。エージェントといってもいい。君だって似たようなものだろう? さっきしていたようなことさ」

「し、知ってるんですか。怜せんぱいのこと」

「知ってるよ。――ついさっきまで同居人で、護衛対象だった」

その言葉の真偽は定かでは無かったが、歩凪は心中で焦りを覚えた。彼女たちが遂行してきた計画が見抜かれている恐れがあったからだ。

「じゃ、じゃあ、なぜみすみす見逃すようなことを? 妨害することだってできたのに」

「ん? さして問題ないからさ。彼らは何も分かっちゃいない。その分、安全なんだ。ぼくとしては新古典画術派に付け狙われるよりよっぽどマシだよ。君達の意図とは少し違ったかな」

「あなたは、何者なんです……?」

「ふふ、よく聞かれる。で、毎回同じ答えを返してる。むしろぼくが教えてほしい、とね。分かりやすく説明しようか?」

少女を形作る色が融解し、風景との境界を失って色水に変わる。凝集したそれが像を結んだとき、それは面長の少年の形を取っていた。

「これでどうだろう。似ているかい、歩凪」

「――――っ」

椅子の背もたれを投げ付けられた無骨なハルバートが砕き割った。真上に跳躍した少女は得物に込められた射殺さんばかりの怒気を気にもせず、クッションの上に立った。

「その声で、しゃべらないで」

「なぜ? もう二度と会うことのない、実の兄との再会だよ。あれほど懐いていてくれたじゃないか」

前に伸ばした歩凪の右腕が空を握りしめると、椅子が置かれた付近の横断歩道が数メートルにわたって陥没する。範囲外の後方へ着地した少年は、元の少女の姿に戻っていた。

「怖いなぁ。怖い怖い。でもまぁ、時間稼ぎとしてはこんなところかな」

少女は後ろ手に操作していた端末のコンソールを開いたまま、こちらへ滑らせる。複数の矢印が、一つの座標にめがけて集中している。歩凪は遠方から徐々に画力反応が集まりつつあることに気付いた。その数は留まるところを知らず、もう10は越している。

「かの有名な仕事人の家系である君が来たっていうことは、“そう”なんだろう? 鬼ごっこは、ごっこのまま楽しみたかったけどねぇ」

「逃げる気ですか? でも無駄ですよ、わたしは――」

「あぁもちろん、君ぐらいの画術師になれば画力反応だけでどこまで追ってこられるだろう。なにより、初めにも言ったけどぼくはもうしばらくここを動くわけにはいかないんだ。だから、逃げは無し。代わりにお友達を呼んで賑やかにしよう」

わざとらしく指をぱちんと鳴らすと、高出力のレーザーが地面を融解させながら赤黒い線を引いて歩凪の足元を焦がした。


 少女を守るように何機ものハフフィックが降り立つ。一際目を引くのは中心にそびえる巨大な銀色の機体だ。行軍を終え合計にして25機のFタイプと一機の規格外機が、立体的な布陣でたった一人の画術師に照準を合わせていた。

「さて、どうする? この辺りで退いてくれると、ICUCの皆さんも無駄弾を使わなくて済むよね」

「……本気ですか」

「うん?」

「こんな人形を並べて、“本物の”画術師を止められると思ってるんですか」

「人形って。これでも一応、政府の精鋭部隊なんだよ、彼らは」

笑わせます、と歩凪は思った。大規模国家間紛争の結果だけを見て人々はハフフィックの力を誤解したまま信じ込んでいる。戦争のために造られた兵器は戦場で勝つためのものであって、戦闘で勝つためのものではない。それを忘れてしまっているのだ。

「特級ライセンス権限により、第二種上級画術の使用を申請」

「撃て」

同時に口にした二人の宣戦布告を合図に、奇妙な構図の戦端が開かれた。

 一斉に殺到する銃撃爆撃の嵐が路上の空間に吹き荒れる。継続的に破壊の音を紡いだ死の暴風雨の中で、歩凪は逃げもせずただ待っていた。ISDが絶対防御として自動展開するAPSSすら貫通する画性金属弾やAPSエネルギー弾は、全身を覆う薄い膜のような障壁――物質化された“弾く”という概念――によって全て阻まれる。精鋭部隊、と聞いて真っ先に思い浮かべたのは画術師殺しとして悪名高い“モスキート弾頭”だったが、その脅威は今のところ無い。なぜか彼らはその存在に気づいていないが、この距離では風景画術を維持している彼女にも被害が及ぶ以上、使わせるわけにはいかないのだろう。

 申請を承認した指輪型ISDが第二種ライセンス固有の赤と特級を示す白を混ぜたローズカラーに発光する。これでわずらわしい監視の目から解放された。

(その身に天地を宿し、内なるものをうつつと信じよ。かくあれと願う色がかくあらんことを)

 歩凪はお決まりの文句を念じると、すぅと深く息を吸い込んで深呼吸をする。


 これより先は人智の埒外。

 人間の想像が生み出した、現実を超える現実。


 「夜目に疾く 蓑にあらはし かの所行」


 この世にあって、この世にないもの。

 いつか人が神威とあがめた領域。


「――あかの寒凪かんなぎ 影鎌鼬」


伝承の獣が音も姿も無く駆け抜けた。



 潦櫻は戦場にいた。

 準決勝の試合に赴いた亜矢を喜々として見守っていた彼女は、ついぞ音沙汰の無かった相手からのメッセージを受け取っていた。その内容は、これから起こるであろう『状況』に対し、ICUC傘下の人間として現場の指示に従うように、とのことだった。なんのことやらと訝しんでみれば、いつの間にか辺りは風景画術の檻の中。国立画術高専の機体が暴れまわり、事態を飲み込めない他校の生徒や観客が嬲り殺しの憂き目を見ていた。歯の根も合わない状態で逃げ隠れしていると、KAWASAKI政府軍からの直通回線が開いた。機体と共に作戦行動に加わり、テロの鎮圧に努めよ、と彼は述べた。テロという言葉はこのご時世珍しいものではなかった。ただ、自分が巻き込まれるのでは全く意味が違った。

実戦なのだ。人が人を殺す、本物の戦場。

 何の実感も、覚悟も無かった。

 流されるままに一つの部隊に加わり、情報提供のあった目的の画術師の討伐を行うべく、指定座標へと向かう。そこにいたのは、やはり国画高専の制服を着用した一人の女子生徒が大通りの交差点に立っていた。あの幼い顔立ちの女の子が、この風景画術を描いているのだろうか。テロの先導をしたというのだろうか。

 隊長機からの発砲指示が下される。櫻はトリガーを引いていることを数秒してから自覚した。指の感覚など無かった。爆炎に包まれて人影が確認できなくなり、ほっとしている自分がいることに驚いた。

「高濃度の画力反応! ……有り得ない、推定再現率200%を超えています!」

「全機APSSを前方に圧縮展開! 攻撃に備え!」

何やら外が騒がしい。言葉面だけを追って、自機の『グラトニーフライズ』による画力吸収シールドを味方機の周囲に展開する。情報処理された外部映像が映し出されるスクリーンのうちの一枚が、少女の姿を斜め上から捉える。その足元の影が、ふっとかき消えた。

 櫻は下に伸ばしたツインテールがたなびくのを感じた。風だ。一時だけ吹きすさぶ冷たい風が、気密空間であるはずのコクピット内に通り抜けた。

「え……」

突然、左腕から力が抜けた。ぶらりと垂れ下がって膝の上に落ちたそれを目線が追った。切れている。二の腕から、鋭利な刃物で刈り取られたようにばっさりと。わずか皮一枚でつながった腕は、なぜか生々しい骨肉の断面で血をとどめていた。櫻は悲鳴を上げようとして、声が出ないことに気付く。視界全体がぐらりと傾き、首が同じ末路を辿ったことを知った。

(お父さん、お母さん……なんで、わたしを)

 画力供給が途切れ機体ごとコクピットが消失する。十数メートルを落下した櫻の身体が地面に叩きつけられ、赤い火花が散った。



「“伝承再現”とはよく言ったものだよ、単なる広域殲滅術式じゃないか。しかも風景には一切に傷が付いていない。まだ若いのにさすがの腕だ」

 鋼の巨体がことごとく消え去り、代わりに死屍累々の血の河に変貌した交差点の奥から、少女が乾いた柏手を鳴らす。

「でも本当に凄いのは、これだけの人間を微塵の躊躇も無く殺し尽せる君自身なんだろうね」

「……あなたも狙いました」

「ぼくはちょっと特殊でね。攻性画術が効きにくい」

「なら、効くまで当てます」

「それは勘弁してほしいな。というか、君はこんなところでいつまでも油を売っていていいのかい?」

「……どういう意味ですか」

「どうやら君のご主人様がピンチのようだけど」

それがブラフであるかどうかの判断もつけないまま、歩凪はISDから画性対話を燈香と繋げた。ここでは彼女がゲームマスターだ。少なくとも、この風景の中で起きている出来事は全て把握しているはず。ならば、最悪のパターンも有り得た。

(燈香さま?)

『……歩凪、さん』

伝播するイメージは、繋げる相手を間違えたかと思うほど別人のように弱弱しかった。

(燈香さま、燈香さま!? 何があったんですか!?)

『ごめんなさい。少し、わたくしの見立てが甘かったようです……。予定とは外れますが、迎えに、来てもらえますか。座標は、こちらから……』

(わ、分かりました! すぐにまいります! 燈香さまもどうかそれまでご無事で……!)

通話が切れるや否や、歩凪は先ほどのハフフィック部隊に向けたものとは比べ物にならない殺意を目の前の少女に宿した。並みの人間ならその威圧だけで“死んだ”と勘違いするほどの。

「誤解のないように言っておくけど、君達のことについては君達の行動が招いた結果だ。ぼくは何も干渉していないよ。……信じられないというなら、一つ足が速くなる情報をあげよう。ご存知の通りICUCの政府軍に偽装して紛れ込んでいる北米協商の特殊部隊だけど、そのうちの一個中隊が問題のドームに向かっている。さて、彼らは何をするつもりなんだろうね」

上手く乗せられているとは彼女も思った。しかし選択の余地は無かった。癪ではあったが、これ以上ここで得体の知れない画術師と不毛なやり取りを続けていられる時間は一秒たりとも残っていなかった。

「またお会いできるといいですね」

「ふふっ、そうならないことを祈っているよ」

 少女の返答を聞き流しながら、歩凪は冷静に状況を分析した。ここから燈香の待つドーム跡地まで、空間の歪みを考慮しても直線距離で十数㎞はある。

(いったん風景を砕いて外に出る……? でも、狙った座標に入り直せるとも限らない。これ以上距離が離れたら、ぜったい間に合わない)

目的地との間の空間を全て消し去り強引に二点間の距離を詰めるという荒業もあったが、この風景の構造が正確に把握できていない以上、無闇な破壊は風景全体の崩壊を招く。『鎌鼬』で干渉しないようにしたのはそのためだった。この状況でその手段を取るには別の力が要る。力技ではなく、精妙に座標同士を固定して最小限度の空間だけをくり抜く画術と、凝縮されて襲い掛かる莫大な身体負荷に耐え得るだけの身体。

 方法はあった。また父親の叱責と警察のお世話を覚悟しなければならないだろう。だが、その程度だった。

 右手の指に嵌った指輪を左手で強く押さえると、パキっと小気味いい音を立てて割れる。セーフティという名の拘束術式が軒並み消え去り、想像の自由が完全に回復する。

「刻印術式、解放」

全身の血液が沸騰するような感覚と共に、物理的に刻み込まれた線状の術式が少女の雪肌に浮かび上がる。

「剛化・一ノ方」

手足の先まで舐めるように這いまわった細い紋様が青白くスパークを散らす。軽く地面をノックして浮遊すると、左腕を突き出した。画力の流れを辿り、燈香のいるドームの場所を、そのイメージを脳内に焼き付ける。

(――捕まえた)

空を掴んだ左手を全力で引く。その剛力に耐えかねた景色がガラスのように砕け散った。そうして出来た空間の抜け穴の向こう側に、錆びれた観客席が見える。穴の端に手を掛け、その中へと身を躍らせた。

 

 歩凪が立ち去り、徐々に修復されていく景色を見やって残された少女は大きく安堵の吐息をついた。

「ジャパニーズ・ボディペインティング、刺青といったかな? アレまで兄から引き継いだのか。危ないところだったね、まったく」

異様な惨状を呈する交通路の中央で、緊張感に欠けて大きく伸びをする。彼女自身、まったくこの役回りは楽しくは無かった。

「さて、色々大詰めだ」

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