4.

 午後。

 予定された試合が順調に消化され、ほとんどの部員は会場の一つのICフィールドの観戦席に固まっていた。少し間隔を置くようにして、異なる高校の生徒もかなりの数が席を埋めている。真秋は、対岸の特別観戦ルーム――いわゆるVIP席――にも何人かの人影があることを遠目に確認していた。

 意図的にセッティングしたわけではなかったが、進行の関係で最後の試合には図らずもおあつらえ向きのマッチが残っていた。

「なんか決勝戦みたいっスね」という多々良羽燿の一言に集約される場の雰囲気は、練習試合にそぐわない緊張感を漂わせていた。



 武者震いとはたぶんこういうことを言うのだろう。来夏は久々に戦場で対峙したエースフィクターの、その異形をまとった姿を前に思った。

 総当たりで戦果を比較する以上、フィールドがランダムでは不公平が出るため、今回は全試合が遮蔽物の位置が固定された“フォーマットステージ”での戦闘だった。お互い地形戦は得手だったが、動きが事前に読めるここではほとんど小細工無しのぶつかり合いになる。

 ハフフィックに乗ると饒舌になる人間と無口になる人間がいる。この二人は明らかに後者だった。来夏の頭の中には掛けるべき言葉も聞くべき言葉も無かった。余裕がない、という訳ではない。言葉の代わりに描き出す画術の軌跡が雄弁に語るのだ。画術師の意思表示とはこうあるべきだと誇示するかのように、相剋する二機のハフフィックはそれぞれの得物を構える。

 耳慣れた電子音が、来るべき死闘の開幕を告げた。



 先手を取ったのは来夏だった。

O.D.が通常のスラスターと開放型のブースター全てに火をつけた。両手とサブアームの携行武器、バックパックに据えられたミサイルポッドと、重量機ならではの高火力を前面に押し出して突撃する。これまでの定石――チャフを混ぜた粉塵爆発で視界を覆いつつ距離を離す――から大きく外れた一手は、サハルスカの初動を遅らせた。重火器を携えながら敏捷性で劣る相手に接近戦を挑んでくる、そのセオリーから外れたアクションは、亜矢に未知の判断を迫るものだった。


 その答えは、脚部の増設ブースター、そして背部に現出したフライトユニットとAPSキャノンという形で示された。後方宙返りをしながら空中に飛び出し、弾幕を躱してなお追いすがるミサイルを肩部の内蔵CIWSで撃ち落とす。推力を上げ、そのまま上空へとロールしながら上昇し、引き撃ちの体勢に入る。短射程・高貫通のAPSキャノンは、相手との相対距離の維持が困難な武器の一つだ。単純に距離を離すのではなく、相手を「前から追いかけて」誘導するバックチェイスが求められる。愚直に同じ軌道を辿るO.Dへ用いるのは、半ば賭けだった。誘われている可能性が捨てきれないからだ。

 青白い閃光が大口径の銃口から伸びる。レーザー兵器並みの弾速で直進した一条の光は、O.Dが展開するAPSSに吸い込まれ、そしてその一部を食い破る。シールドの背後では、右腕部のウェポンラッチが付近の装甲板ごと吹き飛んでいた。

 

 O.Dに回避の選択肢はあった。少なくとも、被弾を抑えるに十分な時間はあった。しかしそれをしない。最小限のヨーイングにとどめ、弾幕を維持する。砲撃の反動で僅かにぶれた敵機の軸を捉え、止めどない射撃の雨で復帰を阻む。右腕のガトリング砲をパージし、読み込み待機をさせておいたショットバズーカに持ち替える。少量のAPSを弾頭に混ぜたそれは、ショットガンの如く炸裂する散弾に誘導性と起爆性を与えたものだ。距離が縮んだ瞬間を見逃さず三回トリガーを引き絞る。一気にバレルヒートを起こしたバズーカを投げ捨て、次に読み込まれたAPSライフルで間髪を入れず追撃を入れた。その先では、拡散した150発の誘導弾3セットが包み込むように灰色の標的に殺到する。


 前方角180度を超える範囲から蜂の大軍のように刺さりにくる誘導爆裂弾に、サハルスカは待った。そして逃げ場を潰すべく飛来したAPS弾頭の一発を、完全消滅させないように低出力で放ったAPSキャノンで撃ち落とす。エネルギー弾に接触した弾頭が飲み込まれ、そして内部で破裂する。それは小さな相補色反応を起こし、線状の閃光が二機の中間付近で爆発する。千々に引きちぎれて闇雲に飛び交う折れ曲がった青の光線が、付近を通過するバス―カの散弾を薙ぎ払っていく。視界が爆発点から激しく溢れだす光量によって黒く染められていった。

 

 O.D.はここに来て初めて軌道を大きく変える。消耗した画力残量でこの爆風の中を突っ切るのはシールドの維持を困難にする。左肩に担いだバーストグレネードを発射し、あえて弾を飲ませて光を散らす。そうして弾道補正を司るセンサー系統の安全を確保しながら、光の洪水の合間に目標をロックした。腰部の収納式ラックと脚部の装甲が展開され対画性多弾頭ミサイルを射出する。その直後だった。爆発点の中心を切り裂くようにして、サブアームに盾、両手に実体剣を携えた敵機が急接近してくる。

 

 相補色反応を前に、サハルスカは全身の追加アタッチメントを全て排除して新たなユニットを呼び出していた。巡航形態への移行を可能とするアサルトアーツだ。機体の上下から機首とウィングパーツが接続され、増発の大出力ブースターが爆音を立てて始動する。曲芸飛行さながら乱舞する光条と鉄の雨を掻い潜り、機首を中心とした機体前部だけを高濃度に圧縮したAPSSで覆う。僅か1秒足らず展開されたフィールドは爆心地を突っ切った機体を防ぎ切った。領域を抜けたと同時にアサルトアーツをパージ。サブアームで保持した物理シールドを前に構え、画性金属の実体剣を両手で抜き放つ。瞬間的な加速で得た推力を殺さずに、射出されたミサイルとすれ違うようにしながら肉薄する。

 

 自機を遥かに上回る速度で襲来する機体と斬撃に直面し、O.Dはチャフを巻いて進路妨害と次に行うシステム操作の隠蔽で対応した。同時に背部の大型APSランチャーおよびミサイルポッドを排除し、ハンガーアームをフリーにする。両のサブアームで保持した通常のショットガンを攪乱に連射しながら、敵機の背後から接近する、まだ生きている誘導弾の数を確認する。両手の兵装を前方へ捨てるとショットガンの弾幕に巻き込まれて爆発し、チャフの中で軽い粉塵爆発が起きる。サブアームの向きを固定したまま、突如機体を転身、背を向ける状態で後ろ向きに押し上げた。


 盾が爆発の損傷で欠けていく中、遂にブレードレンジにO.Dが捉えられる。直前で行われた反転が終えられたとき、既に二本の剣による斬撃は胴部を捉えようとしていた。一振り目が腰のアームスカートに食い込んだ、その瞬間。機体の動きが止まった。O.D.の背部から伸びる巨大なハンガーアームとサブアームが抱き着くように両手と胴体を拘束していた。追突する両機は上方から攻めたサハルスカの推力が勝り、組み合ったまま下方へと落下する。


 その最中、O.Dは密かに背部ユニット周辺にAPSSを集中させていた。それは出力は違えど同様に展開されていたサハルスカのAPSSと接触し、互いに補色を生成し合う。画術の過干渉による強烈な相補色反応が発生し、先程とは比べ物にならないほどの爆発が轟音と共に戦場を揺るがした。激しい突風が吹き抜け、二機の姿は黒い光の奔流に跡形もなく飲み込まれた。直下の地面がえぐれ、設置された障害物を削り飛ばしながら拡大していく。サハルスカの後方からは、ここぞとばかりにショットバズーカの生き残りが集中した。



「ちょ、ちょっとちょっと! あれ! 大丈夫なんですか!?」

 耐え切れずに声を上げた櫻は小規模な太陽と化した爆球を指さした。ひとえに亜矢の身を案じてのことだった。加えて背後で激しく頷く後輩の姿が何人か。大げさな、と真秋は思ったが、口に出した瞬間今度は自分が爆散しそうだったので別の言葉で補った。

「大丈夫な訳ないだろうよ、ハフフィックのジェネレーター出力レベルで相補色反応とか、聞いたこともないぞ」

「むしろ部長はなんでそんなに余裕なんです……! ダイブモードなんだし、いったん中断してバイタルチェックした方が――」

反対側からも声が飛ぶ。その藤樹の指摘に、ポツリと呟き返す。

「これで終わりかどうかは、すぐに分かるだろ」

 このフィールドICを形成しているISDは、自動で内部のハフフィックの形態分析を行っている。どちらかの反応が完全に消滅したり、異常なICの作動が検知されれば、すぐさま外部の人間に伝わるような設定だ。

「どっちかのジェネレーターが停止したから、反応が止まったんだねー」

二段ほど高い後ろの席から、相変わらずのんびりとしたいざなの分析が聞こえる。同意見だった。さすがに三年生は落ち着きが違う。いざなの場合はいつものんびりしている気がしないでもないが。

「さて、どうなるかな」

 仮想のアリーナでは、暴威を振るった相補色反応が規模に反して徐々に収束しつつあった。



 光の渦から吐き出されるように黒煙の尾を引きながら落着したのは、背部ユニットを丸ごとパージし全身の装甲も大きく破壊された満身創痍のO.D.だった。危なげながら体勢を立て直し、袖下に内蔵されたスライドハッチから小型ミサイルランチャーを駄目押しとばかりに爆心地に打ち込む。誘爆を起こして再度炸薬による爆炎を形成し、一帯が降り注ぐ火に包まれる。それに交じって大小様々なハフフィックの装甲片やパーツ、武器の残骸がばらばらと落下しては無機質な乳白色の床に突き刺さった。相補色反応の影響で乱れるセンサーを最大限に働かせて周囲の警戒を続けていたO.D.も、完全に爆発が止み、戦場がひと時の沈黙を取り戻すと構えていた火器を下した。



「へぇ」

 ぐい、と身を乗り出してきたいざなの頭が真秋の視界の横に現れる。

「面白い展開になったねー、これは」

「予想外と言えば予想外か」

 来夏が勝った。その事実は当然選択肢としてありながらも、その場にいた誰もが内心では50%以下の確率で捉えていたものだった。

「あややんは!?」

今にもフィールドに乗り込んでいかんばかりの櫻を片手で押し留めながら、戦場を映した複数のスクリーンを見回す。サハルスカの姿は見当たらない。あれだけの爆発だ、普通の機体では耐えようもない。恐らく来夏は最初からこれを見越して装甲やAPSSの配分を考えていたのだろう。でなければ今頃相打ちで仲良くスクラップだ。

「櫻、一応ダイブルームに行っとけ。本人がヤバそうなら医務室」

「言われなくても……っ!」

はじかれたように駆け出したジャージ姿は階段を数段飛ばしで上がり、観客席の最上段にあるホールへの出口を目指した。その足が席半ばの通路部分に差し掛かったところで立ち止まる。

 銃撃と爆発音が聞こえたからだ。



 それは起こるはずのない狙撃だった。右側面斜めの方向から襲い掛かった高速レーザーは、虚を突かれたO.D.の右腕を根こそぎ蒸発させる。続く二射目を目が覚めたように慌てて回避行動を取るが避けきれず、首元から頭部が半分融解した。それでも残り少ないIC兵装、ハンドキャノンを呼び出して狙撃地点を予測して砲撃を打ち込み、自身も射線を遮るように遮蔽物の影へ移動する。改めて画術反応をセンサーで検知しようとし、過ちに気付く。レーダーを切り、片側だけのカメラアイによる望遠処理だけで全方位を見渡す。最後に見上げた上空に、スナイパーライフルを両手で保持した灰色の機影が琥珀色の眼光を瞬かせていた。そのシルエットは所々損傷しているものの、軽微と言っていい程度のものだった。

 残弾を確認することもなく、手持ちの火器を許容限界まで展開して弾幕を張る。O.D.最大の窮地である弾切れを心配する必要は無かった。次に補足されれば確実に撃墜されることが分かり切っていたからだ。スラスターをホバー移動用にフィッティングさせ蛇行走行しながら、敵機のロックオンを振り払うべく距離を離しにかかった。



「え……」

 本人も気づいていないのだろう、間の抜けた声が藤樹の口から洩れる。ほとんどのメンバーが同じような反応に追われていた。ただ、その原因は大きく二つに割れていた。

「あの爆発受けて、ほぼ無傷って。あり得るんですか、そんなの」

「元々重装甲って訳でもないし、APSSは相補色反応で吸い取られてるはずだし……まさかあの状態から一瞬で抜け出して、爆発の圏外に離脱した?」

藤樹の尤もな疑問に燿が半信半疑の答えを返す。

「いや。どうかな」

その可能性もある、と思いつつも真秋の見立ては違っていた。再び動き出した戦場を注視しながら話そうとしたところに、いざなが先んじた。

「爆縮したでしょー? きっとあれ、あやちゃんが狙ったんだよ」

「え、どういうことっすか」

「さっきの狙撃までの間。ICジェネレーターが生きてればリチャージする時間はあったし、APSライフルで一撃だったよねー? それをせずに実弾で撃ったってことはさ、ジェネレーターが死んでるんじゃないかなー?」

真秋はまた台詞を持っていかれたと苦笑しつつ自分の考えを再確認していた。APSライフルを使えばいいのもそうだし、そもそもあれだけ隙があって初撃をわざわざ腕狙いにはしない。亜矢にそのような判断ミスがほとんどないことを鑑みれば、セオリー通り胸部の中心を狙ったのだろう。しかし、超長距離狙撃をしているわけでもないのに外すというのも不自然だ。

 だからこう考えた。ICジェネレーターが死んでおり、画術探知や術式補正などを利用したセンサー類が大幅に機能低下しているのではないか、と。マニュアルで、しかも相補色反応のおかげでレーダー状況が劣悪な環境下で狙撃を敢行したのだ。そうなると今度は当てられる方が驚きだった。これが腕か、と舌を巻かされる。

「爆発が起こった瞬間にわざとAPSSを切り、爆縮を起こさせてから余波と後ろの誘導弾頭をもう一度起動させて相殺したんだろう。ただ反応自体は起こり続けていたから、過剰使用でジェネレーターが逝った。あとは適当にジャミングでもかけて残骸に紛れて脱出した上で狙撃体勢を整えた、ってところか」

藤樹は得心が言った、という様子で頷いた。

「それをあの土壇場の判断で……。凄いな、九石」

「まぁな。ウチのトップエースは伊達じゃないってことだ」

「なんであとぎが偉そうなんだよー」

横から彼の肩を小突いたいざなは、自身も頬が緩むのを感じた。

「でもらいかもすごいよー、ここまであやちゃんと互角に渡り合えるのなんて、全国探してもあんまりいないよー?」

「アイツもアイツで、このところ気合入れてたみたいですからね」

(その気合の代償が俺のところに来てたんだけどな)

練習を積み重ねて明らかに力量を上げてきた来夏の姿には、真秋も共感を覚える部分があった。

「今は亜矢が押してるように見えるが、APSSが張れない以上、高火力をぶつけられたら耐えられない。その分深山は多少の被弾は覚悟で突っ込める余裕がある。まだまだ分からんな」

 冷静な分析に重ねて、がんばれあややーん、と恥ずかしげもなく叫ぶ声が頭上から聞こえた。



 もはや長射程火器は有効でないと判断したサハルスカは武装を換装。ジェネレーターの補助が失われた今、全身武装である“イグナイトアーツ”は容量不足で完全展開を果たせない。部分武装として中距離回転式滑空砲、リボルビングガンランチャ―二基のみが背部ウェポンラッチにマウントされる。折り畳まれた銃身を伸縮し、左右に構えながら弾幕の合間を縫って砲撃を行う。APSSが効いている以上、決定打にはならないが、プレッシャーを与え続ける意味でも牽制は必要だった。


 O.D.は攻撃の手を休めずに地面を蹴り飛ばした。ジャンプし、円筒形の軍事施設のような障害物の上を更に蹴って一気に高度を上げる。片手のハンドキャノンを限界まで障害物に向けて連射し、瓦礫を巻き上げさせる。その隙間を埋めるように胸部内蔵のマシンキャノンの銃弾と脚部ミサイルをまき散らしながら降下する。飛んでくる砲撃は瓦礫と弾幕の合わせ技でこちらには届かない。APSSのエネルギー残量を確認する。そして、二本目にして虎の子のショットバズーカを構えた。敵機が瓦礫に突っ込むのと同時に、その機体名が冠する2発300弾の暴風雨が再来する。


 サハルスカが取るべき選択肢は限られていた。ガンランチャ-の弾頭を変更してこちらも拡散弾頭を射出する。威力も子弾数でも劣るが、シールドを展開出来ない以上、回避する対象は少しでも少ないに越したことは無かった。追加で巻き上げた瓦礫がAPS弾頭と接触してかじり取られたように消滅する。地面すれすれに高度を落として施設を回り込むように回避しつつ、ノイズ混じりのレーダーの向こうに映るO.D.を補足した。間に諸々の弾丸の交錯を挟むものの、改めて相対高度を調整し直線上に並ぶ。次の瞬間、滑空砲の双砲塔がパージされた。更に左腕を覆う装甲が剥がれ落ち、骨格たるメインフレームが露わになる。


 自動制御の子弾が一点をめがけて殺到し、そしてそこにあったものを跡形もなく喰い散らかす。残りの子弾は敵影をレーダーレンジ内でロストし、露頭に迷っていた。O.D.も同様に機影がロストしたのを確認していた。施設の影にいるところまではスキャニングで捕まえていた。そこから姿を見せようという時に遂に追尾に捕まったのだろう、そこで反応が消失した。先のこともあり画術探知ではなく物理レーダーで、敵ハフフィックの存在だけに対象を絞って付近の解析を行う。結果はすぐにもたらされた。


 背後だ。


 振り向いたときには、左腕を何か大型の武装に換装したサハルスカが回避不能な距離まで接近していた。銃撃も間に合わない、そう判断し、APSSの全出力とサブアームにマウントした画性物理シールドを前方に重ねるように展開する。防ぎ切って即座に反撃に移行すればいい。APSSの無い相手はこの距離なら直撃を防ぐ手段がない。攻め手であるはずのサハルスカにチェックメイトが掛かっていた。




(え?)

 来夏は薄暗い空き教室に立っていた。後ろの掲示板の前から眺める視界には誰も映らない。学校特有の生徒の声も聞こえず、落日が僅かにその残り火を差し込ませるだけだ。

(なんであたし、こんなとこに)

 少なくとも、今しがたまで自分は別のことをしていたはずだ。それが何かかは分からないが、すぐにそれを再開しなければならないという強い使命感もあった。とにかくここから出よう。そう決めて踏み出した右足が、何か小さく硬いもの踏みつけた。バランスを崩しかけ慌てて足を引くと、そこには赤色のクレパスが落ちていた。よく見れば一本だけではない。床の至るところに何本も転がっている。色も赤だけではなかった。ベージュに焦茶、藍色に灰色、ペールオレンジなど、誰かが画材ケースをぶちまけたような有様だった。

(ったく、危ないわね)

踏みつけないよう避けながら一帯を渡り切るが、戸口の前に白い一本がぽつんと立てられていたのに気づかなかった。蹴飛ばしてしまうと、それは廊下の隅にぶつかって粉々に砕けた。

 途端、ひどい乗り物酔いのような意識の酩酊とむかつきがして、来夏は思わず教室の壁に手をついた。見覚えのない感覚が頭の中を混濁させて思考を阻む。


否定。肯定。絶望。安堵。狂気。悦楽。憐憫。自虐。


『――わたしは、まちがってない』


 いくつもの相反する感情が互いにせめぎ合い、自我が徐々に押し流されていく。耐え切れずにしゃがみ込み、無意味だと知りつつも両手は頭を強く抱えていた。

「や、め……!」

 このままでは心が、精神が壊れる。来夏は本能的な恐怖に襲われた。反発する磁石を無理やり押し付けているような感覚。思考のすべてを否定され、同時に肯定されるような矛盾。

 何が正しくて何が誤りか。

 何をすべきで何をすべきでないのか。

 死にたいのか、生きていたいのか。

 自らの意志とは関係なく自分という存在を貪る混沌は、軋む歯車が壊れながら回転を続けるかのように、ゆっくりと『深山来夏』という人間を崩壊させていく。

「ひ、あぁ、やめてーー、やめ


ぷつりと意識の糸が切れた。



 そして夢から醒めたように手放した意識が戦場へと帰されたとき、最初に感じたのは胸の辺りに広がる鈍痛だった。恐る恐る視界を落とせば、何がそれをもたらしているのかは明白だった。

 

 杭だ。

 

 巨大な杭が最大濃度のAPSSと二重の物理シールドを貫通し、更には胸部装甲をも食い破り、背面にその凶悪な金の輝きの先端をのぞかせている。それはサハルスカの左腕に装備された、黒と橙に彩られ美しさすら感じさせるフォルムの射出装置から伸びていた。

「パイル、バンカー……」

この武器を亜矢が使用する場面を、来夏は一度だけ見たことがあった。前回の大会、彼女の個人戦最終試合の記録映像だ。ただその時は展開も終了も一瞬で、武器の特徴はよく掴めなかった。だから、という反論もできた。だが来夏は朦朧とした頭で、ありえないと思わずにはいられなかった。

 いくらあの杭が画術的に強化されていようとも、最高濃度のAPSSを貫通するのは不可能だ。O.D.の防御システムよりの出力系統では、最大出力でシールドを形成すればごく短時間ではあるが、その反応値は再現率のリミッター上限に届く。つまり、先の状態のAPSSを貫通可能なICはハフフィックでは扱えない。杭が画術によるものではなく純粋な物理形成だったとしたら、APSSは素通り出来ても画性強化の施された金属由来のシールドを破れない。しかし現に杭は機体を貫通し、致命傷といっていい損傷を刻み込んでいる。

 

 がくん、と機体が揺れて強引に大質量の異質物が引き抜かれる。その反動で杭の打ち手はこちらの機体を蹴り飛ばすと、右のアームで構えたグレネードランチャーを撃ち放った。炸裂弾は吸い込まれるように自機に空いた大穴に飛び込み、機体の内部で弾けた。

 普段なら通らない威力でも、相手が丸裸の状態なら絶望的な破壊力だった。O.Dの上半身が四散し、辛うじて原型をとどめた下半身が粉塵を舞い上げながらごろりと無機質な地面に転がる。間髪を入れずに発射した二発目がその脚部をも鉄屑へと帰した。完全な破壊だった。

 ちょうど30秒が立った。フィールドを形成していたISDから、領域内の解析結果が片方のハフフィックの反応が消えたことを示すシステムメッセージが表示される。それは必然的に残った一機の勝利を意味していた。

 

 はずだった。


「っ!?」

 亜矢は正面遠方から迫った高出力のエネルギー体をほぼ反射で回避した。明らかに予測の範囲外だった。というより、もうISDの解析結果は出ているのだ。では、今の砲撃はどこから――? サハルスカの内部システムに自己診断を走らせる。ジャミング、ハッキングの形跡は無い。つまり、偽のシステムメッセージを掴まされたという線は消えた。

 O.D.は撃墜された。それは確からしい事実だった。

 砲撃は止まない。ICジェネレーター無しで酷使した影響か、出力系に限界の近い機体が回避行動を取るたびに悲鳴を上げる。ICの追従が彼女の要求に微かなラグを生み、その隙を二門目と思しき砲塔からの閃光が穿った。



 フィールドを映したモニターに『Battle Ended.』のチープなテロップが表示され、観戦していた一同は今更の如く戦闘が終了したことを悟った。一拍の間を置き、一挙に場は騒然とした。口々に事の顛末を語り合う声で溢れかえる。長い死闘の、その奇妙な幕切れに。

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