6.

「やあ怜人君。今日は休校だったかな?」

「寝坊です、普通に」

 リビングに出ると、リズミカルなBGMがテレビ画面から流れ、ソファにもたれたミラがコントローラー片手にラムネをあおっているという日常的な光景が繰り広げられていた。今では珍しい、古風な壁掛け時計の時間は9時半を少し回っている。完膚なきまでに遅刻確定だった。

「……なにか、夢を見たような気がするんですけど、いまいち思い出せなくて。あとやたら頭が重い」

「寝すぎじゃないか? それか風邪」

画面から目を離さずに応対する姿はあまり慮ってくれている風ではない。もともと期待もしていないが。とはいうものの、風邪気味なのかもしれない。寝起きは割といいはずなのに、どことなく思考にもやがかかっているようだ。念のためを思って体温計を取りに、固定電話が置かれた机の引き出しを開けた。こんなもののお世話になるのも久しぶりだ。いつ以来か思い出せないほどに。

「にしても珍しいね、君が寝坊なんて」

「それは自分でも思います。どちらにせよもう一限には間に合わないし、ゆっくりしようかなと」

「相変わらず切り替えは早い。お姉さんも見習わないと……っと」

ミラの投げた空き瓶が放物線を描いて向かいの専用ダストボックスに吸い込まれる……手前でなんとか捕まえ、静かに中へ落とす。慣れたものだ。

「投げないでくださいっていつも言ってるのに」

本人はどこ吹く風、ひらひらと手を振るだけで全く反省の色を見せていなかった。こういう部分はいつも通りであって欲しくない。小刻みな電子音に我に返ると、手に掛けた細いリングがかちりと外れる。表示された体温は全くの平熱だった。どうやら自分の体は都合よく物事を運んではくれないようだ。


 2限に間に合うように家を出た後の通学路は普段とは打って変わって閑散としていた。今日は少しばかり起伏に富んだ学校生活が送れそうだ、と校門をくぐる。既に連絡をしてあったため、何事もなく教室に入り、授業に合流する。

 時間割を確認しておけばよかった。完全に後の祭りだがそんなことを考えた。こういったケースに慣れていないから、面倒な授業だったら流れで3限までサボろうなんて発想自体が出てこなかったというのもある。自分でも不埒な考えだなと自覚するぐらいの案が浮かぶほど、この現代画術理論という授業は退屈で、苦手な科目の一つだった。最大の理由は、内容のほとんどが既知のものだから。加えて、個人的にそこで述べられている内容に批判的だからだ。


「いいか少年、何は無くともこれを読め。これさえ頭に突っ込んでおけば、大抵何とかなる」――。そういったのは他でもない、ミラ・インバートその人だった。暇を持て余していた退院後の療養時代、電子化が進むこのご時世に貴重な紙媒体の分厚いハードカバーを3冊、どすんと眼前に置いたものだ。それこそが『画術理論体系』なる、長い画術史における最高傑作と呼ばれる名著だった。味も素っ気も無いタイトルとは裏腹に、古代から中世、近代から現代に至るまでの画術理論が独特の視点で編まれた、非常に革新的な書物として認知されている。ただ意外なことにその文面は比較的平易……とまでは言わないものの、多少の予備知識と専門用語をあれこれと検索する手間を惜しまなければ、中学生の自分にもなんとか読み進められるものだった。共同執筆者たちは原文をフランス語で記したため、恐らく邦訳者が優秀だったのだろう。


 そんなわけでほとんど1年間、みっちりと(半ば強制的に)読み込んだせいか、いくつかはっきりと記憶に残っている文章がある。例えば、『魔術』との相違点から画術の定義を再検討する、なんて一説だ。そこで挙げられていた魔術とは、いわゆるファンタジー的なアレで間違いないのだが、当時の研究資料としては主に中世の黒魔術が参照されたようだ。だから、一般的な魔術よりは文字通りダークな方向性のものを指していた。

 魔術と一口に言っても、それが空想の産物である以上様々な語られ方をしている。ただ、いくつか共通するポイントは持っている。その一つが、使用に際してなんらかのエネルギーを用いること。それがマナであったり魔素であったりエーテルであったり、それ以外のものであったりはするものの、必ずそういった燃料が必須になる。

 対して画術には基本的にそれがない。画術師は何かを消費して術式を起動させるようなことはしない。画術の起動に必要なのは明確なイメージと、それを現実に構成する画力だけ。だから原理的には無限に使用できるし、どんなに大規模な画術でも展開できる。が、実際には構造体の認識限界や画力容量の制限などややこしい問題が絡み、使い放題とはいかないのが現実。術式の連続使用時間という点に限っては、強いて言えば集中力が該当するのかもしれない、と筆者は述べていた。


 もう一つ挙げるとすれば、まさに今授業で解説をしている画術の起源について。結論から言えば、具体的にいつから画術が人間の歴史に入り込んできたのか、いまだにはっきりしていない。ただ、その存在が明瞭になってきたのが古代ギリシャ時代からというのが定説となっている。中でも、現代画術に至るまで概念部分の中核を担っているのがプラトニズムにおける「イデア論」だ。

 プラトンによれば、私たちが三本の線に囲まれた図形を見たとき、それを三角形と認識できるのは「三角形のイデア」が形而上の認識に存在するからだという。イデアとはすなわち万物の完全な姿のことを指す。つまり、世界にはもう一つ、その完全なイデアから構成されたイデア界なるものがある。それがあるからこそ、私たちは現実に存在する事象をイデアの輪郭を通じて認識することができる。かいつまんで言えばそういう理論だったはずだ。

 なぜこの話が出てくるのかと言えば、19世紀にある画術学者が画術とはこの「イデア」そのものを呼び出す行為であるとする理論を打ち出したからだ。どんな画術であれ、その行使には脳内で“線形体”――事象のワイヤーフレームを思い浮かべる。これは経験や知識とは別領域にある。実際に見たことのないものでもその組成情報を与えられればイメージが出来るからだ。これが何に由来するものなのか、長年研究と議論が行われてきた。その代表がユング心理学における集合的無意識と、そしてネオプラトニズムを源流とするメタイデア論になる。

(でも、そこまでは授業じゃだろうな……どう考えても高校の学習指導要領には載らないし)

 内容的に難しいとか易しいとかいった問題ではない。それらがイデオロギー、引いては体制に関わるからだ。要は政治である。

 ――世界はいつからか二世界観に染まった。超常を超常と認めるか否かで、今人類は宗教戦争を起こそうとしている――。

 執筆者の一人が遺した言葉の一つだ。確かに、今の画術を巡る歴史の歩みは宗教のそれと何ら変わりはない。良くも悪くも、過去に三大宗教が辿った過ちを繰り返そうとしている。いや、そんな呑気は話ではない。とうに「大規模国家間紛争」とあえてぼかされて表現される代理戦争が口火を切った。これを端緒として世界はいつWW3に突入してもおかしくない状態にある…と言えば過言だろうか。

(仮にそうだとしても、ね)

 高校生の自分たちにとっては知識の一端に過ぎず、真剣に議論するようなことではない。世界はいつだって、当事者だと名乗る少数の人々によって流されている。小舟に乗った人々にできるのは、蛇行する度に見えてくる少し手前の景色を眺めることだけなのだ。


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