5.

 朝、目が覚めたら、見知らぬ場所にいた――。

ありきたりな小説の導入に見受けられる、ありきたりなパターン。

非常に残念かつ不可解なことに、今まさしくそのような状況下に置かれていた。ただ幸いなことにそれと自覚することができている。おれにはドアノブの生えた木の幹に寄りかかって立ち寝する習慣は無いし、天井が本棚になっている廊下にも見覚えは無い。ここでさしあたってするべきことは一つ。これが内在的な妄想なのか、外部からの干渉によるもの――すなわち画術によるものなのかをはっきりさせないといけない。

 

 夢とうつつの区別をつけたい時、「画術が使えるかどうか」は判断材料にならない。術式の構成に必要なイメージの創造と画力の供給は、極論を言えば該当する脳機能が働いてさえいればいつでも可能だ。つまり、寝ながらでもレム睡眠中なら画術が使えるということになる。もちろん滅多にそんなことはないが、実験で一応「起こりうる」ことは立証されたらしい。

 画術の気配を感じ取る、画術探知という手段も、事今回のような状態に至ってはあまり功を奏さない。ISDにセットされている精度の低い探知術式は、周囲が画術使用者で溢れているような場所、つまりおれが本来いるべき家がある市街地では役に立たない。「画術反応がある」ということは分かっても、様々な反応が入り乱れて処理が追いつかず、肝心の画術の内容が分析しきれない。自力で探知を行うにはかなりの技量を要するし、そもそも高位の画術は探知避けの性質を含んでいる事が多い。そうなればもう同じ高位の画術師でもない限り認知するのは不可能に近い。

ならばどうするかと言えば、こうする。

「ロード、”ハンマー”。最大理論値を設定」

念のため丁寧に言葉を区切りながら左手人差し指にはまった小ぶりのシンプルなリングに話しかける。リングが無言で赤く発光すると、脳内に構築体(ハンマー)のワイヤーフレームがトレースされる。あとはそこに、画力という絵の具で色を付けるだけ。

「描出」

呼びかけに応じ、ほんの少し世界に色が描き加えられる。具体的には、ヘッド部分が赤ん坊ほどの大きなハンマーが左手に握られていた。厳しい外観の割に重量をほとんど感じないそれ――「重さ」を軽く描きこんでいるからだ――を両手で振りかぶり、手近にあった木に叩きつけた。打撃の瞬間、鉄色のハンマーと薄茶色の幹が溶け合うように揺らぎ、そしてハンマーだけが消えた。対する幹にはわずかに黒ずみが残るばかりで、傷ひとつない。

「……そうなるか、やっぱり」

予想通りといえば予想通りで、嫌な予感が当たってしまった。画術を行使した唯一の痕跡である黒ずみは、画術同士が干渉し、「超越作用」が発生したことの証左だ。この作用が起きるということは、この木の幹はとんでもなく高い(とは言っても相手となった自分の画術の解像度は大したことはないのだけれど)再現率を有していることになる。ならば、やはり結論はひとつ。

 ここは「絵の中」だ。正確には、「風景画術」という術式に取り込まれてしまっている。

 

 風景画術と一口に言っても、その技法には様々なものがある。そのうちでも最もメジャーなのが抽象法によるものだ。抽象法では、個人の認識に基づき、現実世界を概念ごとのまとまりとして解釈する。風景画術においていえば、対象となる風景を一つの概念とし、それを丸ごと指定した座標範囲に描きこむ。…と言ってしまえば簡単なようだが、全くもってそんなことはない。むしろ真逆で、範囲の大小はあれど「空間を再現する」というのは至難の技。内部に存在する全ての事物の様態を把握し、それらを脳内で再現するだけの構成力と、その膨大な情報量を描出するだけの画力が必要になる。並大抵の人間に扱えるものではない。日本国内でも十数名程度しか使用者がいないほどに。

 ここで問題になるのは二つ。それほどまでに希少な風景画術師がなぜこんな街に来ているのか。そしておれは目標として狙われたのか、単に付近で展開した絵に巻き込まれただけなのか。

 遺憾ながら、どちらにしてもこの状況でできることはほとんどない。一度この手の画術に飲み込まれた以上、この身はすでに絵の一部。生殺与奪は描き手に委ねられてしまっている。もちろんISD備え付けのセーフティ、APSSを利用した絶対防御術式はあるが、遥か高位の画術を操る画術師を前にしては5秒と持たないだろう。それ自体が強力なAPSSを発生させるジェネレーターを装備しているハフフィックでもあれば多少は持ちこたえられるだろうが、それでも時間稼ぎにしかならない。当然、殺傷力を持つ画術を対人行使しようとすれば事前にISDが術式を感知し、干渉術式が自動的に作動してイメージの生成を妨害する。同時に機能を一時的に凍結し、警察機関への通報まで行うという徹底ぶりだ。だが、干渉術式さえも無力と化すほど強固なイメージを構築できる人間がいれば? 風景画術師とは、そんな愚にもつかない想定をしなければならないほど掟破りな存在なのだ。

 こちらから能動的にアプローチできることといえば、絵の目的を探すことぐらいだ。風景は描き手である画術師の強いイメージによって描かれるが、題材となるのは過去の記憶に由来するものがほとんどだ。そこには秘められた感情なり事実なりが必ず存在していて、それが絵の中心部分を成す。残りはシチュエーションを演出するための背景だ。ひとまずはその中心部分を探し当てられれば、重要なヒントになることは間違いない。下手に歩き回ると死期を早めることになるかもしれないが、この場に留まっていたからといって事態が好転する訳でもない。


「とは言うものの…」

 どうしたものだろう。改めて辺りをぐるりと見渡してみる。

 ここは廊下だった。どこかの学校の廊下だ。両サイドには磨りガラスばりの壁で内部がぼやけて見える教室が並んでいる。ドアノブの生えた木がところどころに立っていて、梢の先端に届くかどうかの高さにある天井は一面が本棚だ。ぎっしりと、豪華な装丁のなされた厚い本が落下することもなく敷き詰められている。そんな光景が延々と、果てが見えないほどに、前にも後ろにも続いていた。

「……」

左右の教室を眺めながら、ゆっくりと歩いてみる。眺める、とはいっても曇ったガラスの内側では大したことはわからない。どこか全く別の景色の中で何かがうごめいている、程度のものだ。高層ビル群のようなものもあれば、森林のような緑に見えるものもある。動いているのは人かもしれないし、動物かもしれないし、風に吹かれる植物かもしれない。その様子は教室ごとに異なっていた。共通しているのは、教室に引き戸がないことだ。もちろんドアノブもない。そして、無音だった。

「あれ」

 ふと足が止まる。何かが聞こえた気がした。元々足音などしていなかったのだから、止めることに特に意味はない。が、少なくとも完全な無音ではなかった。

どこからか、かすかに金属の擦れ合うような音が聞こえてくる。

 音源はどこだろう、と首を振る。他の音が完全に排除されているせいか、方向は比較的簡単に分かった。30秒ほど代わり映えのしない廊下を走ると、一つの教室の前で立ち止まる。少しだけ音が強まってきていた。どうやらこの中から響いてきているようだ。問題は入る手段が欠け落ちていることだが、それはなんとなく分かった。廊下の対岸に伸びる木の幹に近づくと、これ見よがしに生えているドアノブに手をかける。押下して捻ると、木自体がふっと掻き消え、ノブだけが残った。

木が消えたのは予想外だったが、手に入れたノブを目的の教室の壁に押し当てる。同じ動作を繰り返すと、消えたのはノブの方だった。

(え、ダメなのか?)

てっきりこれで開けろ、ということなのかと思ったのだが、どうやら違ったようだ。そこまで単純ではないか。やれやれと手をついた教室の向こう側に、一本の木が生えているのが見えた。ドアノブはおそらく付いていない。そして、天井は本棚に埋め尽くされていた。

 視界を廊下に戻したとき、そこはすでに廊下ではなかった。

 

 場面が変わっていた。目の前には古めかしい西洋風の小さな建築物があり、その後面に自分は立っていた。音はかなり明確になり、それが鎖を動かす音だと聞き取れるほどになっていた。

 背後に自分の身長の倍ほどの黒っぽい石壁があり、建物の周りを取り囲むように円形に広がっている。青空の下、壁の向こうにはまばらに針葉樹が顔をのぞかせていた。そのどれもが異様に枝が長く、幹の周りを螺旋状に渦巻いているという奇妙なものだった。対照的に、壁の中の苔むした土の地面には雑草の一本も生えていない。あるのは、

「墓標、かな」

簡素な作りの小さな石造の墓石がぽつんと一つだけ、忘れられたように安置されている。表面がかすれて彫られた文字は判別できない。

 何か後ろ髪を引かれる思いはするものの、建物を回り込むように歩を進める。年季を感じる薄汚れた大理石の壁の高い所には、ステンドグラスがはめ込まれている。正面にたどり着くと、建物は礼拝堂らしきものだということが分かった。ただ、特定の宗教を暗示するような象徴物は見当たらない。入り口には立派な木の扉がそびえていて、それだけが新調されたように綺麗なままだった。壁は途切れずにただ続いていて、外に出るような門の類は用意されていない。

 幸い、今度はリング状のドアノブが付いている。手をかけ、ひとときの逡巡の後に引っ張った。重い手応えと共に、ドアが口を開……かない。またドアノブを探してこいということだろうか。壁をよじ登ってみれば、あの針葉樹の根元にはドアノブが生えているというのだろうか。仕方なく先ほどは通らなかった側を回って建物を一周して見たものの、やはり壁は途切れなく続いており、外部との接触を阻んでいた。とは言っても凹凸のある石の壁だ。足を掛けるスペースはどこにでもある。簡単に乗り越えられるだろう――とは思わなかった。

 ここは絵の中だ。つまり、全てのものには意味があり、何らかの役割を持つ。この壁は明らかに外部との遮断を行うものだ。上げた足はあえなく滑り落ちた。

というか、礼拝堂のあるこちらの空間に飛ばされてから感じていたことではあるが、画力の持つ特有の気配が凄まじく濃い。それはもう、探知に素人な自分でも分かるほどに。こちらはもはや試すまでもなく、ICどころか中級以下の画術は全て使えないに違いない。使った瞬間、先ほどのハンマーの比ではない超越作用が起き、術式が暴発しかねない。擬似飛行術式で乗り越えようとか、適当にブロックを積み上げて足場を組もうとか、そう言った選択肢が消えた。

 この礼拝堂らしき建物が絵の中心であることは確からしい事実となっていた。でも、とここでまた疑問が浮かぶ。この空間、確かに風景画術というだけで相当な画術だが、それほど彩度が高いようにも思えない。過去にある人物の描いた風景画術を体験したことがあるが、この空間よりは精緻な描写がなされていたにも関わらず、感じる気配はそれほどでも(あくまで相対的にだが)なかった。

礼拝堂の中からゆるやかに鎖の音だけが聞こえ続けている。ノーヒントとなると手詰まり、万事休すだ。感触だけはゴツゴツとした外壁に身を預けると、静かに座り込んだ。苔の柔らかな感覚と、ひんやりとした土の温度が伝わってくる。これが絵なのだと思うと、画術の驚異を実感させられる。


(何が、いるんだろうな)

ここにきて初めて、鎖の先にいるもののことを想像した。不定期に聞こえる様子からして、何か装置を使った作業をしているという風ではない。やはり、何者かが繋がれているのだろうか。鎖に繋がれる、というワードで、頭の中には巨大な犬のような猛獣が、4つ足に拘束を受けている様子が浮かんだ。我ながら安直な発想だと思いながら、すぐに打ち消した。強制的に拘束されているなら、もっと鎖の音は激しくていい。最も、その気力もないほどまで衰弱しているのかもしれないが。視界の上の方、建物の上部では、ありもしない陽光を浴びて色とりどりのステンドグラスがきらめいていた。

「……あ」

無意識に間の抜けた声が漏れ、大変よろしくない悪巧みがよぎった。 

墓石を掘り返すことに、倫理的背徳感を覚えないわけがない。普段の自分なら、おそらくそこで踏みとどまっただろう。そこまでしなくても、と。でも、なぜかその時は気にも止めなかった。ラグビーボール大のそれは、拍子抜けするほどあっさりと引き抜けた。ステンドグラスの下に少し距離を空けて立つ。アンダーハンドで放り投げた石塊は吸い込まれるように窓に近づき、そして破砕音が鳴り響いた。しばらく音が遮断されていた耳をつんざくような轟音だった。

 この絵は、どうやら戻ることは阻むが進むことに対しては比較的寛容だ。その意図はどうあれ、敷かれたレールには従っておくべきだろう。それが「描かれた者」としての自然な行動だ。

 外壁とは異なり、建物の壁面には特に障害も無く登ることができた。3メートルもクライミングをすると、あっさりステンドグラスがあった窓枠へと辿り着いた。

 投石によって空いた穴は意外に大きく、十分に内部がのぞけるだけのものだった。さすがに破砕面が尖りすぎていて首を突っ込む勇気はない。

 そこから見えた景色は、これまで同様に色々なところで現実離れしていた。

 まず、非常に広い。外から見た建物の大きさは、平均的な二階建ての戸建て住宅がせいぜいだった。対して内部はと言えば、ざっと見ただけでも学校の体育館どころか公営のアリーナほどもある。いわゆるヨーロッパ風の「大聖堂」といって差し支えない。

 長椅子の代わりにぽつぽつと肘掛け椅子が立ち並ぶ大空間は、松明の炎によってはっきりと明暗が分かれていた。壁に映し出される無数の松明の影は見えるが、なぜか肝心の松明そのものが見当たらない。薄暗く、それでいて照らされている。

奥に向かうにつれて高度を増していく天井は、物足りない光量もあって遠くかすんでしか見えない。おそらくその最高度、つまり外から見れば尖塔にあ部分(もちろんそんなものは建物外部にはない)の真下に、大きな台座がどこからか差し込む陽光を浴びていた。普通なら聖人の像か十字架でも立っていそうなものだが、そこには、

(人……だ。あれは)

 一つの小さな人影がある。そしてその人物に向かって、数本の鎖が天井の暗闇から伸びていた。人影が僅かに動くたび、最早聞きなれた擦過音が耳に届いてきた。

 夜目に慣れたのか、次第に鮮明になってきた視界には、そのシルエットが女性らしいということ、そして彼女の周囲に散らばっているパレットが映っていた。動いてるのは彼女の腕だとしたら、絵を描いているのだろう。

 そんな風にして遠方に目を凝らしていたせいか、頭上から妙なモノがゆっくりと近づいてきていることに気づかなかった。

 室内の暗闇がそのまま伸びてきたようなそれは、じわじわと形を成しながら窓を挟んで眼前の宙に浮いていた。呆けたようにその様を眺めていると、やがてそれは能面に似た仮面になった。顔を掴まれている、と気づいたのは、その不気味な笑顔を視認した直後のことだった。

 成す術も無く建物の中へ引きずりこまれた。感じたのは、長い浮遊感だった。

 すなわち、落ちている。

(しまっ――!?)

 薄暗い上に床との距離がありすぎて確認できていなかったが、そもそも建物に床があるなんて常識的な発想は捨てるべきだった。過ぎ去っていく景色の中で、肘掛け椅子が無心に浮かんでいた。果てのない聖堂の底へ、ただ、落ちていく……。

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