4.
――画術師の優劣を論じるとき、まず大きな条件がある。用いる画法の種別だ。
古今東西、世界には様々な画法が存在する。現存するものだけでも50種は下らない。だが、依って立つ理論に着目するとたった二つのカテゴリーに大別される。すなわち、『写実法』と『抽象法』である。
写実法は現実の事物を”現象”として捉える画法だ。現実世界に実際に存在するものを忠実に描き出す。だから同じ対象物に対しての再現率を比較すれば、完成度の差がそのまま優劣となって現れる。赤いリンゴを机の上に置いて隣に同じものを描出すれば、その味や色、触感、香りで判断がつく訳だ。
一方、抽象法は現実の事物を”概念”として捉える。事物を一つの概念として自ら規定し描き出すため、術式の最終的な形成は個人によって様々だ。どれも個々人にとっての『正解』を描き出すため、比較のしようがない。矢の刺さった黄金のものに変わっても、毒入りの青リンゴに変わっても本人にとって赤いリンゴの概念であるなら否定はできないのだ。
つまり、使用した画術が写実法によるものでなければ、術師の優劣という考え方そのものが成立しない。
そういった意味では、数値化すら可能な写実法は力量が非情なまでに絶対評価で示される。ところが、ICという存在はその差すら無に帰した。下地となるイメージがあらかじめ完成しているため、『それが何であるのか』を理解する、一般常識レベルの教養さえあれば誰でも再現率80%近い構築体を描出出来るようになった。しかもイメージ生成の過程が構造的に確定している。平たく言えば毎回同じ順序でプラモデルを組み立てるようなものだ。
通常の描出ではこうはいかない。画術を使用するとき、画術師の脳内ではその瞬間の思考や蓄積された記憶、周囲の環境などから付与される五感情報、そうした種々の関連情報から目的のイメージを創り上げる。同じイメージを創り上げようにも、条件が毎回異なるために完全に同一のものは生まれない。そして、この方法では必要のない情報――ノイズの混入を防げない。これが再現率を下げる大きなファクターとなってしまう。これはどのような画法を用いても避けられない。
この不安定性や再現性の低さを克服したことは、もう一つ重要な意味合いを持つ。反復による習熟を可能にしたのだ。あるいは自転車に乗るように、ピアノを弾くように。同一のプロセスを辿るなら、幾度も脳にそのイメージを覚え込ませることによって完成度を高められる。
これこそがICが僅か10年足らずで全世界的に浸透した最大の理由だ。誰でも簡単にそれなりのクオリティの画術を扱える。理解さえあれば、生成されたICを読み込むことでどんな構造の物体でも描出できる。その一つの到達点がハフフィックに代表される機巧画術だろう。
では、現代において写実法式画術師の優劣はどこで決まるのか。それはトランシェントの加筆技能だ。
イメージの描出とその加筆(リタッチ)は二つのパターンがある。最初からトランシェントのリタッチがイメージに組み込まれている(動かすものとして描かれている)場合と、描出とは独立してリタッチを行う場合だ。前者はさほど説明を必要としない。頭の中で人形を操るようなものだ。後者は意図して行うものではなく、前者による描出後に想定外の挙動を要求された場合の対応策になる。
描出したイメージの構造・性質・状態をどこまで熟知し、把握できるか。その度合いが洗練された加筆の実現に直結する。その最たる例が、言わずもがなハフフィックの操縦だ。
なぜこの機巧画術は人型なのか。なぜ飛行するのに鳥類のような翼ではなく推進器を用いるのか。それは動作をイメージしやすくするためだ。基本的な骨格や関節系の動きがヒトのそれを模してあるからこそ、フィクターは自身の肉体の延長のように鋼鉄の巨体を操れる。無論習熟さえ積めば、多脚でも軟体でも扱えるのだが。
そうした構造上、現実の身体の動作を基準にしてイメージを重ねるわけだが、そこには当然個人差がある。いくら人型とはいえ、現実で動かし方に慣れていないようでは恩恵がない。つまり、術師の運動神経の拡充に比例する。運動が出来なければハフフィックも動かせないのだ。頭脳労働者であるはずの画術師の中でフィクターが体育会系と呼ばれるのはこのためである。ストレッチや体術、格闘術など自分の身体の動作を把握するトレーニングを積むことで、ハフフィックはより人間的な動作を取れるようになるのだ。筋力や体力、肺活量は機体のスペックに準ずるためあまり関係がないが、そもそもこうしたトレーニングを実行する大前提としてこれらがあるため、結局ある程度は鍛えることになる。これがフィクターの優劣を――
「ふー……」
文字数のカウントが2000に近づいたところで、宙に投影されたキーボードを叩く手を一旦止める。
『現代画術における画術師の優劣の判断基準を考察せよ』――。次回の授業までに課された3000字縛りのレポートも、もう少しで終りだ。論展開はあれこれ悩んだ挙句、自分の得意分野であるハフフィック方面に向かった。
腰掛けていたベッドに倒れ込む。下ろした髪が薄緑の布地の上に広がり、先客のくらげがころんと横たわった。ずっと昔に親に買ってもらってからすっかり部屋の一部として馴染んでしまった白いぬいぐるみを、両手で頭上に持ち上げる。柔らかに調整された照明を浴びて視界に影を作った。
「一般論よね」
長々と書き連ねた文章は、確かに通説だ。だが、それだけではない何かがフィクターの技量を左右しているのは、自分の身で実感していた。
思い浮かぶのはいつも一人の同級生だ。卓越した操縦能力と天才的な戦闘センス。二つを兼ね備えた、マリオネイト部のエース。その洗練された画術は、強さより美しさすら感じさせる。他の部員や他校の選手とは別次元の練度で対戦相手すら魅せる、そんな存在。
彼女の努力がどれほどのものであるのかはよく知っている。部活でも常に精力的に、他の部員の倍近いメニューをこなしている。幼少期は大規模国家間紛争に参加したという父親から軍隊仕込みの鍛錬を受けていたらしい(彼女の動向にやたらと詳しい部員から聞いた)。
例えば、自分が彼女と全く同じメニューで経験値を積めば、彼女と同等の技量を身に付けられるだろうか。サハルスカを借り受けて運用すれば、同等の戦果を上げられるだろうか。有り得ない、と断言できる。根底にある『才能』――持って生まれた先天的な素質の差が、私達の間には横たわっている。
才能とは、適正とは何だろうか。今やこと写実法式画術においてその良し悪しは習熟度の違いでしかない。ICという共通のイメージを用いる以上、そこには何ら差異は生まれないはずなのだ。脳の連合野が平均より発達しているとか、そういった身体的な分野に起因するものはほぼ無いと言っていい。ICを使うとき、私達の脳はアルゴリズムデータを構築体に書き換えるだけの処理装置に過ぎない。
深山来夏と、九石亜矢という二人の画術師の間に、一体何が横たわっているというのだろうか。
「あー……やめやめ」
これ以上は自己嫌悪がひどくなる。この辺りで切り上げておこう。まだ期日まで余裕はあるし、煮詰まったときは一度放り出すのも選択だ。頭の中にちらつく愛機のワイヤーフレームは、いつまでたっても像を結ばなかった。
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