2.

 にわたずみなぎさは校門へと至る道を歩いていた。帰途である。

 傍らには、同じ部活の同級生であり、試合ではパートナーを務める九石さざらし亜矢あやがいた。妙に真面目なこの友人は、適度に力を抜いている自分と相性がいいらしく、気づくと大体一緒に行動していることが多かった。力関係からすると自分の方が亜矢にくっついているように見えなくもない。というか事実そうだ。

「ねー、あややん」

「ん?」

 亜矢のふわっとした艶やかな黒のボブが微風にさらさらと肩口で流れ、片側だけの質素な髪飾りが揺れた。控えめにも主張する女性らしい凹凸がスレンダーな肢体にほのかな魅力を添えている。優しそうでどこか凛々しさが同居する彼女の横顔は、同性の自分をして不覚にもドキドキとさせられる。誰彼構わず惹きつける美少女には困ったものだ。

「歴史のテストでさー、最後の方の“国連で締結した条約”ってなんだっけ?」

「大問4の? 画術に関するパリ条約、だと思うけど」

「あれ……画術および関連項目なんちゃらじゃなかったの?」

「それは改案の方。最初に出されたのはパリ条約」

さすがは学年で総合トップ3常連、回答に迷いがない。

「今回も好調そうですなぁ。うらやまし」

「高校レベルならコツコツやってれば誰でもできるようになるよ。そんなことより今回も赤は無いよね?」

「や、やだなぁ。あや先生のレッスンのおかげで全教科平均点以上は取ってる……気がする」

 彼女の特別講座は大変わかりやすい。どれぐらいかというと、ビフォーアフターで内申点が3点上がった。大体平均付近をふらふらしていた点数がコンスタントに平均を超えるようになった。その教え方もちょっと独特だ。勉強内容を教えるというより、勉強の仕方を教えてくれる。彼女自身は折に触れてアドバイスをする程度で、具体的なことはほとんど生徒に一任。部活でもそうだが、何かを教えるときにはまず本人の意識改革を行うのが一番効果的だということを身を以て知った。やり方さえ掴めば必要最低限のモチベーションと行動でそれなりの結果は残せるらしい。

「赤取られるとパートナーの私が困るからなぁ。特に汀には頑張ってもらわないとね?」

 と、同じ文句を言われるが、これが半分ぐらいは建前だということになんとなく気づいている。亜矢は他人の手助けをするのが好きなのだ。でもお節介とは呼ばれない。過干渉にならないように的確な距離関係を保ってくれるから一緒にいても楽しいし、めんどくささも感じさせない。

 なによりそんな亜矢が構ってくれるのがうれしい。本音を言えばそれだけだ。

「えへへ」

「ちょっ、こら。暑苦しいから……」

 不意打ちとばかりにワイシャツ越しに細い腕に抱き着いてみると、香料剤の柔らかな甘さの香りがする。困った顔をしながらも振りほどいたりしないあたりが彼女らしい。

 

 個人的に至福の時間に浸かっていると、亜矢が倉庫前にたたずむ男子に話しかけていた。

「あれ、怜人。帰り?」

「うん。今日は部活無いんだね」

「実技館もグラウンドも空かないから、さすがの鬼コーチも休みにするよ」

 端っこ使わせろって交渉してるの見たけどね、と亜矢が疲れた顔でため息をつく。

「……じゃあ、お先に。お邪魔みたいだしね」

 空気を読んでカバンを持ち直した彼を見て、するりと組んでいた腕を離した。

「へいあややん、わたしゃ家の手伝いがあるから失礼するよん」

「えっ、うん。分かった。また明日ね」

 ばいばーい、と大手を振ってから駆け出す。残された二人が遠近法の一点に向けて遠ざかる。

(ちょっと分かりやすすぎたかな? でも人のことは言えないよね)

 亜矢がまとっていた香りは部活の後で匂い消しに使うもので、彼女が常用しているお気に入りのものだ。そして今日は部活がない。先週末に連絡されていたことだ。つい先ほど昇降口で会ったときにはまだ香りはしなかった。自分が靴を履き替える間、彼女が校舎の外で待っている前までは。

(しっかし、あの男っ気のないあややんがねぇー……)

 あの男子、あんまり見かけない気がするけど誰だろう。明日にでもいじるネタにすればいいか、と汀は微妙に浮き沈みする気持ちを飲み込んだ。




 九石亜矢は冷静に困惑していた。正確に言えば、困惑している自分を俯瞰的に自覚していた。

 いつもそうだ。

 怜人が高校に復学してからおよそ一ヶ月ほどたったが、二人だけになったときの微妙な雰囲気は一向に変わる気配がない。彼はどうあれ、自分の方はなんとか変えようと思っているにも関わらず、だ。顔を合わせるたび、そうだあれを聞こうとか、これは伝えておきたいなとか、話題に上るべき内容はふっと頭に浮かんでいる。しかし、いざ話しだしてみるとほとんど上手くいかない。彼自身は気遣いに長けているし知り合いとなら会話に参加している。悪いのはどちらかと言えば自分の方だ。ただ、性質タチの悪いことに原因に思い当たる節がない。

「亜矢?」

「ん、行こう」

 高校からの帰り道は二つある。シンプルなものと、そうでないものだ。

 正門前の都会的なバス通りを直進、2番目の交差点で右折して直進、商店街に入って駅に着く。そこから3駅目で降りると、地方的な賑やかさに溢れた駅前の広場が広がる。メインストリートを少し進むと閑静な住宅地に街並みが切り替わり、ひたすら進むと途切れ途切れに緑が混じり、畑が目立つようになる。林に囲まれた橋を渡ると長く緩やかな坂が伸びる。まばらに一軒家の立ち並ぶその途中を左折すると、その先にわが家がある。これが後者だ。

「さて、どうしよう」

「そこで選択肢が出てくるあたり、亜矢だよね、ほんと」

「少なくともペイントリウム部員は皆出てくるよ。ほらほら、あんまり混んでなさそう」

 クラウドベルト帯の交通情報を確認すると混雑度が30%を切っていた。これなら問題なさそうだ。怜人は観念したようにISDを起動させ、防護機能をアクティブにさせていた。交通ルールとはいえ、そんなもののお世話になるような腕ではないんだけれども。

「分かってると思うけど安全運転で」

「フィクターに安全を求めるのかねキミは」

「それもそうか、とは思いたくないな……」

 ちなみに回避予測に引っかかりにくいランダム回避を搭載してあるから、その気になれば大変トリッキーな飛行になること請け合いだ。今のところ使う気はないが。

「昔はイカロスの選手目指すって言ってたのに、なんで止めちゃったんだよ」

「うーん、親の影響?」

 血は争えず、だ。伊達に父親は職業軍人のフィクターとして戦場に立っていなかった。おかげで娘はすっかりマシン漬けの青春を送ることになっている。

「まぁ、イカロスもイカロスでスピード狂になっちゃう可能性が無きにしもあらず、って感じがするけど」

「……コースを守ってくれるだけマシだよ、乗客にとっては」

 話しを中断するように、ICの利用申請と登録完了を告げる通知が視界の端の端末上に明滅した。バックの中から線の細い馬蹄形の専用ISDを取り出して首に掛ける。フルフェイスが形成され頭部を覆った一瞬の暗転ののち、画術処理を済ませたクリアな視界が元通りに広がった。

 人型ロボットに類する機械が誕生してから決して短くない歴史が紡がれてきたが、その一つの終着点がヘルメットの形をしているなんて、恐らく過去の誰も想像し得なかっただろうな、とふと考えた。

「コール、”サハルスカ”。描出」

 両腕に巻かれたISDが実体化すると、ヘルメットとともに淡く緑色に発光した。音声認識を行い、内蔵された1セットのIC群をまとめて起動させる。網の目のように広がった緻密な線形構築体ワイヤーフレームが脳内で膨張するイメージが繰り広げられる。徐々に具体的な色と形を伴って一つの像を成していったそれは、5秒も立たないうちに現実世界へと『描出』された。

 全長5メートル、装備高を含めて全高8メートル超の鋼鉄の人型。灰色を基調とした女性的なラインの細身なボディは、肩部の細長いバインダー・ユニットと腰から伸びる4枚のスカート、そして背部の逆V字状のマルチスラスター・ユニットを除けばヒトと変わらない。一般的にベーシックと呼ばれる素体である。ハフフィックという画式そのものは使用するたびに術者に合わせて適応変化する自己進化機能が備わっているが、父親から受け継いだ機体は自分が使うようになっても大幅な形状変化は起こらなかった。運用方法を父から叩き込まれ、同じようなスタイルを取っていれば当然の結果ともいえる。

 怜人は愛機が実体化する様を見上げて、感心したように頷いていた。

「ハフフィックの展開って、何回見ても飽きないな。完成度の高いICほど描出が研ぎ澄まされた感じがする」

「できれば出来上がったモノの方も見てほしいんだけど…まぁいいや。乗った乗った」

 

 ハフフィックは言わずもがな画術による産物である。いかに複雑な機械構造を再現していたとしても、操縦系統は全て脳内のIC操作に準拠する。操縦席も無ければ『搭乗する』という発想も無い。運搬用や旅客用に使われる素体であれば人員収容を想定しているため、そういった区画を持っている。だが生憎とこのサハルスカは現行のハフフィックの原点となっているFタイプの設計思想を色濃く反映している。すなわち、純然たる戦闘仕様だ。戦場から術者を遠ざけることが目的の一つにあった当時、人を乗せるなどタブーでしかなかった。実用面を考えてOSに手を加えコクピットを増設するライディングモードを導入してはいるものの、あくまで一人分のスペースだ。

 ではどうするか。この機体の最大の特徴、肩部と背部のユニットに装備された汎用ジョイントを活かせばいい。多種多様な兵装を臨機応変に使いこなすためのものだが、使いようはいくらでもある。機体に関連登録されたオプションICのセットの中に、“アサルトアーツ”と呼ばれるものがある。両肩部に接続して、下部のブースターとともに腕全体をすっぽりと覆うアームカバー、脚部の推力を高める追加ブースター、そして可変式のノズルを4基配置した背部ユニットから構成され、背部には水平移動時に砲撃可能な高出力砲2門を始めとした兵装をマウントできる。この兵装部分を市販のスペースボックスICに変えてしまえば、即席航空機の完成だった。これは外部と内部を画術的に独立させ、回転しても使用者にとっての『下』を固定する。また気圧や衝撃、控えめながら画術干渉も防ぐ。ボックス自体は床以外無色透明なため、車両の運転席のような狭苦しさは(あまり)ない。8畳一間の安全な空間があると言って差し支えなかった。


 慣れた体運びで背部に飛び乗ると、同様に怜人も続いた。二人を乗せた機体が低くブースターの風を噴かせて飛び立った。全身の推進系が次々に点火していくと、一気に加速度が高まる。細い螺旋を辿るように青空を駆け上がった先には、まばらに運搬型のハフフィックが行き交う空路のアウトバーン、クラウドベルトが彼方まで縦横に伸びていた。何本もの赤い光のレーンによって区画化されたそれは、一定間隔に設置されたガイドレール状のISDが画式のトレースと登録を行い、ついでにそこから割り出した走行距離に応じて利用料金を引き落としていく。その料金は下界の高速道路の約半分という安さだが、元より通学定期が効く身にはあまり関係がない。誘導レーンに従ってベルト帯に入ると、前傾姿勢を取った機体が滑るように水平飛行を開始した。

「いつも亜矢に乗せてもらうから気づかないけど、ここまで機体制御を安定させるのって難しいんだよね、ほんとは」

「そうかな? ベルトの方から誘導が入るから、それに従うだけだよ」

「普通はそのアシストコントロールに全部お任せするけど、亜矢のはマニュアルでしょ? それが凄いなって」

「だって。安全重視なのはわかるけど無駄が多いんだもん」

 苦労してライセンスを取得したのだ。ある程度は自由な使用が認められた身で、公道を飛ぶとはいえ何もお行儀よく教本通りの飛行をしなければならない理屈はない。それに腕も鈍る。

 

 機体が安定状態に入ったのを確認して、ISDから送られてくるアシスト情報に合わせて操縦を半オートに切り換える。怜人から言われたようにいつもはマニュアルで済ませることだが、今は少し気を緩めたかった。ゆっくりと加速する眼下の景色は、変わり映えのしない雑多な色に染まっていた。

 ちらりと横へ視線を流すと、同席者は平淡な面持ちで前方を見据えていた。ハフフィックの操縦中はお互いに言葉少なになる。術者は画術の展開に集中するし、同席すればそれを慮ってむやみに話しかけようとはしないのがマナーだ。だから、これは逃げだった。

(なんでかなぁ。どうしてこう……)

 あれだけ帰ってきてほしいと思っていた存在が、すぐ隣で機体に寄りかかっている。声を掛ければ返事をしてくれるし、(それだけの勇気はないが)手を握ればちゃんと暖かいだろう。それなのに、なぜにこうも触れられないのか。近づくことができないのか。怜人、と口の中で小さく呟く。シャットアウトされた風音と駆動音が遠くの方で聞こえていた。

(臆病だね。いつまでたっても、私は)

 もう二度と失いたくないと思うあまりに、いつしかそこに在ることすら失うことを恐れる対象となってしまっていた。いっそ待っている時の方が落ち着いていられた、なんて、あまりに皮肉が過ぎる。


「亜矢。どうかした?」

「えっ、あ……、うん。ちょっとね」

 意図せず見つめてしまっていたのが気づかれたと知ると、制御アシストを追い出して操縦に専念する。気を紛らわせば赤面はすぐに引っ込むはず。

 幹線を外れて一つ下の階層へと降りる脇道へと入ると、『CAUTION』の文字が拡大画像を載せたウインドウと共に視界の中央に躍り出た。1キロほど遠方に、いびつな人型が鎮座していた。ここは公道だ。言うまでも無く交通ルール違反である。

「なんかいるけど。どうする、亜矢」

 怜人がソレを指差しながら怪訝そうに言った。

「できればどうもしたくないんだけど……そうもいかないみたい。おかしいな、この辺の人達とは大抵済ませたと思ってたんだけど」

「どういうこと?」

「あれは、なんていうか。いわゆる空のチンピラというか、暴走族の一種というか……ああやって通りかかったフィクターを足止めしてケンカ、野良試合を吹っかけてくるの」

「いい迷惑だね」

 全くだ。

「まぁ、私がこの辺りだとちょっと有名になっちゃったから絡まれやすいっていうのもあるんだけど……」

 全国大会に出たことの弊害がこんなところに出てくるとは思っていなかったが、完全に後の祭りだ。部長に相談したところ、一番強そうなのを潰して来いと言われそうしてきたら一応『襲撃』は止んだが、まだ残りがいたようだ。

「え、でもここで戦うわけじゃないよね?」

「それはもちろん。やったら捕まっちゃうし」

 ハフフィック同士の戦闘行為は国の認可を受けたペイントリウム内以外では法律で禁止されている。武装ICの展開も同様で、ISDに制限が掛けられており使用出来ないようになっている。

「でもね、ああいうことしてる人ってだいたいライセンス持ってない非認可のフィクターの場合が多くて、そういう人たちってあんまり細かいこと気にしないから」

「まともにやりあうだけ損、か。あれ、けどさっき大抵済ませたとか何とか」

 そうこう言っているうちに彼我の距離は600mを既に切っていた。相手のシルエットが徐々に明確になってくると、その異形があらわになる。浮遊した相手の機体は、全身が分厚い積層装甲に覆われた人型の巨体だが、下半身が人間のそれではなかった。足が生えているべき場所には、上半身のものよりも長大な腕が変わりに伸びている。見覚えのある形状だった。中国系のIC開発メーカーが開発した『フォーアームズ』という機種の改造機だろう。

『そこの機体、止まれ! ちょっと相手してもらうぜ』

 肩に乗った人影から発されたと思しき声が、拡声されてボックスの消音画術を透過し聞こえてくる。

「いいよ。止まりはしないけど」

 即答すると、展開されている追加ICにイメージを重ねる。反応し、二人の立つスペースボックスが撃ち出すようにパージされた。

「うわっ!?」

 宙に投げ出されたボックスが慣性で前へ飛ばされる中、更にICにイメージを飛ばす。背部に格納されていた機首が前面へ、真っ直ぐ伸ばした両腕は内側に移動し、側面の翼部を開いたアームカバーが左右から胴体を挟み込むように展張する。腰部が180度回転して膝下から脚部が折りたたまれ、増設されていたブースターが後方へと向きを変える。アサルトアーツ本来の巡航形態へ、ものの3秒ほどで機体は様相を変えた。

「止められるものならどうぞ?」

 瞬間、機体が大気を引き裂いて猛然と急加速した。

 機巧画術によって描き出された物体は現実の機械と異なり、強度も性質も二回り以上に強化された画性金属で構成されている。土台が写実法に属するため一応物理法則に則ってはいるが、現実の物差しでは測れない性能を秘めている。それがハフフィックの醍醐味だ。

 異様な加速度で迫る暴威を前に、フォーアームズは4本の手にそれぞれ菱形の盾を展開した。『出せている』ということは、武具ではない盾らしきもの、と言った方が正しいのだろうが。それらが手甲の部分に固定されると、一斉に手が前方へ向けられる。

 短い擦過音が連続し、盾が『射出された』。薄くウエハース状になっている盾の層が、一枚ずつ鋼鉄の刃として飛来する。

(なるほど、あれは盾じゃなくて装甲板の一部。緊急パージの方向と速度をいじって弾丸代わり、か)

 単に装甲を剥がしているだけで、攻撃ではないと認識させISDの目を誤魔化している。ただのチンピラにしては頭が切れるようだ。もっとも、誰かの入れ知恵かもしれないが。

「でも、まだまだ」

 既に音速域に達していた機体が、更に速度を上昇させる。殺到する刃の乱舞を、僅かな移動とヨーイングで躱していく。

『クッソ……っ!』

 悪態をつく声が耳に届く頃には、最早回避不可能な距離まで両者は接近していた。

 四つ腕の胴体に刹那の一閃が突き刺さる――、

 その直前に、愛機の灰色が空の青に溶けた。

『消えた……!?』

 敵の視界から逃れたサハルスカが再び人型として姿を現したのは四つ腕の頭上。自由落下に移行しようとするボックスを掴み、肩部に接続させた。機体を反転しつつ背後に回り込むと、手刀を肩甲骨部分に押し当てる。肩に乗るフィクターに対し、これ以上は直接当人に攻撃を仕掛ける、という警告だ。もちろんここは場外なのでポーズだが。

『チ……降参だ』

 唾棄の声と共にフォーアームズが掻き消え、自分とは少し意匠の異なるヘルメットを被ったフィクターが残される。

「どこの人か知らないけど、この辺りは暴走族お断りだよ。ここをシマにしてたボスの人たちが怒っちゃうから、騒ぐならよそでお願いね」

 念のため自分の知る限りの情報で忠告はしておく。黒い影のようなボックスの『床』の上に立つ彼は、こちらを見上げながら指差してきた。

『余計なお世話だ。オレはただ――』

 不意に横を向いた彼の口が止まり、威勢よく噛みついた言葉が途切れた。明らかに動揺が見て取れるISDの操作を経て手続きをしたのか、床の下に展開された公共用の料金制ハフフィックに飛び乗ると、脱兎の如く走り去っていった。

「……何だったんだろ」

「さぁ?」

 残された方は面食らうしかなかった。大方、空路監視をしている警察部署からお呼び出しメールが届きでもしたのだろう。泡を食って逃げ出した、というところか。

「暴走族見習いか、新人? 本物は警察にバレても堂々としてるし」

 それはそれでどうかな、と怜人が尤もな意見を寄せていた。すっかり場の雰囲気が切り替わってしまったこともあり、ひとまず下へ降りることにした。サハルスカをクラウドベルトからの降下ルートへと乗せる。赤いガイドレーンが機体の左右に延び、視界の右端ではベルトの支払明細が表示されていた。通学定期は偉大だ。


「お疲れさま」

 空中でハフフィックを消し、じわじわと落下するボックスから飛び降りる。着地したそこは、三叉路に面した児童公園の一角だった。

「ごめんねー。変なことに巻き込んじゃって」

「新鮮な経験にはなったよ。あと、全国ベスト4のお手並みを拝見しました」

「本気を出せばもうちょっと色々出来たんだけど?」

「それはおれのいないときにやってね」

 そんなに真面目な顔をしなくてもいいのに。

「あれ、怜人そっち?」

 自分の家と怜人のマンションへは同じく右の道を行くが、彼の足は左の方へ歩きだしていた。

「ああ、今日は……その、定期健診で病院行く日だから」

「そっか。って、それならさっき言ってくれれば送ったのに」

「いいよ、別に。そこまで気を遣わせたら悪いし」

 そこで遠慮しないでくれると嬉しいんだけどな、と無意味な願望を想う。なんだか空回りばかりしている気がしてならない。

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 踵を返して遠ざかっていく背中に小さく手を振る。

(また明日、か)

 その何気ない言葉の重みは、恐らく誰よりも自分自身が知っている。

 抱え込んだ甘さを自覚しながらも、今はまだこれでいいと、そう思える。通いなれた帰路の後ろで、風に揺られたのかブランコが小さく軋んだ。




 ミラ・インバートは退屈していた。

 手元のコントローラーによって画面内を走り回るキャラクターは、せっせと草原のフィールドを駆けずり回って四足のモンスターを倒している。レベリングとは後顧の憂いを絶つための積み立てだ。しかしそれが作業であることは否定できない事実なのである。先ほど気分転換をしようと出かけてきたところだが、結果的にあまり楽しいことにはならなかった。むしろこれからの応対を考えると気が滅入る。

 高層マンションの一室。カーテンを半分閉じたリビングは昼間の日差しを通して、ミラの周囲に薄暗い影を落としていた。その布地の端がふわりとたなびいた。

「やぁ怜人君。テストの出来はいかほどかな?」

 廊下のドアを開いたこの部屋の主は、カウンターキッチンの手前にあるテーブルの上にバッグを乗せた。

「まずまず、です。ミラさんは相変わらずですか」

「ご覧の通りだ。君の友人の貸すゲームは面白いがどこか単調だな。ま、貸してもらえるだけ文句は言えないが」

 コンフィグ画面を開いてゲームの進行を止めると、傍らにコントローラーを置きながらぼやく。

「いつも言ってるけど『お姉さん』と呼びたまえよ。いい加減君も強情だなぁ」

「分かってはいるんですけど……違和感が拭い切れなくて」

「君は精神衛生と施術の経過観察のために一人暮らしを義務付けられている。その世話役として滞在しているのが、従姉であり病院関係者のミラ・インバートだ。それ以上とそれ以下の部分は意識する必要はない」

「いとこは姉でも義姉でもないですけどね」

「従姉は従姉だろう。そこは意識しなくていい部分だ」

 立ち上がると、キッチンの入り口に置かれた冷蔵庫を開く。古式ゆかしいデザインのラムネを一本取り出すと、景気のいい音を立てて栓を開けた。

「というか、違和感も何も、今の私は外も中もちゃんと女性だ。最低限二人の時はこの姿でいるようにと決めたのは君の提案じゃないか」

「それは、まぁ。ころころ外見と人格を変えられると一緒にいて生活しづらいですから」

「違いない。我ながら」

 くっくっと笑ってソーダライムのビンをあおる。その間に怜人は洗面所へと消えていた。水音が静かな室内によく響く。

「ところで」

 飲みかけのラムネをことんとテーブルに載せる。示し合せたように洗面台を叩く流水が止まり、静寂が戻った。

「なぜ呼び出されたか、分かっているな」

 本来、怜人はここに帰ってくる必要性は無かった。この部屋は名義こそ『新枝怜人』になっているものの、実質的な所有者は自分だ。建前もあるが、あくまで建前に過ぎない。何も考えず実家に帰ればいいだけだった。

「私は君の盾だ。いついかなる害悪が降りかかろうとも、その全てから君を守り抜く。そのためだけにここにいる」

 冷たいフローリングの横たわるコントローラーを拾い上げると、コンフィグを閉じてゲームを再開する。

「そのためには手段を選ばないし、私がそれを躊躇わないことも良く知っているだろう」

 プレイヤーキャラの接近に気付かない四足のモンスターが、背後からの一太刀を浴びてぐらりと崩れ落ちた。精緻な描写で表現された物言わぬ死骸は、数秒ののちじわりと背景に溶け込んで見えなくなる。後には結晶のようなアイテムシンボルが残された。

「あの珍妙なフィクターを消すのは造作も無かった。だが、あの場でそれをして、真っ先に疑いの目が向けられるのは君の幼馴染だ。だからこちらも警告で止めておいた」

 結晶に手を伸ばすと、触れただけで自動的にアイテムボックスへ格納される。制限重量がほんの少しだけ増えた。

「あの子は全国大会を控えているのだろう? そんなデリケートな時期に不祥事でも起こせば、間違いなく出場は危うくなる。それは君も望むところじゃないだろう」

 照明の落ちた薄暗いリビングには、自分の声と音量を絞ったゲームのBGMだけが広がっている。

「今回は幼馴染君の腕が良かったから何事もなく済んだが、常にそうである保証はどこにもない。この生活を初めて一ヵ月ぐらいで、少し気が緩んだかな?」

 草原の外れに位置する小さな集落に入ると、宿屋のような藁葺の建物に足を運ぶ。セーブ画面が現れ、データが保存された。

「我々は『未知の事態』『想定外』という言葉が何の言い訳にもならない立場にある。そういった場面を積極的に回避していかない限り、私の出番は限りなく増える。そうなったとき被害が及ぶのは君だけでなく、周囲の人間にも降りかかることを覚えていた方がいい」

「……」

 沈黙を貫いていた廊下の向こう側にある気配が少し色を変える。

 テレビの電源を落とすと、まとわりつくようなクッションの感触から身を離す。再び手に取ったラムネは、気持ちばかり冷たさを失っていた。

「……さて、長々とつまらない説教をしてしまったな。早くこっちに来て2コンを持て。CPU相手では暇つぶしにもならん」

 言い終わらないうちに気配が動いた。返答の代わりに聞こえたのは、玄関のドアの静かな開閉音だった。

「む……」

 予想はできた反応ではあったが、実際にやられると少しへこむものがある。損な役回りだとは思う。だが、必要だ。

(バッグがある以上、戻ってはくるか)

 

 面倒だ、とは考えない。自分の他に、誰が彼を支えられるというのだ。

 17歳の少年ともなれば、確かにそれなりの状況判断と責任能力は持ち合わせて然るべきだろう。いくらこちらがプロだとは言っても、対象者の協力が無ければ不測の事態はいくらでも起こりうる。そしてそれこそが最もあってはならないことなのだ。だから彼にはそれを自覚させなければならない。いくら背負うものが大きかったとしても。

「――などと求めるのは傲慢だな」

 彼が自ら選んだ道とは言え、自分達が敷いたのはあまりに険しい道だった。16歳どころではない、それこそ、人間には重すぎるほどに。

 つけっぱなしだったゲームハードの電源に赤を灯すと、残った炭酸を喉に通す。甘味はいつだって甘い。かくありたいものだと必要のない後悔がよぎった。

(この『私』はどうにも感傷的になっていけないな)

 これもまた思い出か、と脱力してクッションの柔らかさに身を委ねた。品質の良いクッションはヒトを駄目にするというが、これはヒトでなくでも十分駄目になる。ここ最近でよく実感している。

(しかし、九石亜矢君か。彼女もまた難儀な性格をしている)

 とても強く自身の内面を隠し通そうとするのはこちらのルームメイトと同様だが、どうにも彼女は毛色が違う。何か別の溝が二人の間には横たわっているように見えた。

「良くも悪くも時間はあるんだ。焦らずにやればいい」

 届かせようと思えば届く声を、しかし伝えずに一人口に出す。それはどうしようもなく自分への戒めだった。


「あ、そうだ。ついでに晩御飯の具材を頼むか」

 どうせ外へ出るのだ、生産性のある行動をしてもらおう。こういうのは切り替えが大事だ。半同棲している以上、いつまでも妙な雰囲気を漂わせているわけにもいかない。ここは敢えて空気を読まない女を演出してもいいだろう。

 ブレスレット状のISDを起動させると、ICを介さずにイメージを直接対象の脳内に送り込む描画式対話の回線を、怜人のものへと繋げた。言葉として変換される前の、『意志』とでもいうべきイメージが伝達される。

『ああ、怜人君? さっき見たら冷蔵庫が物寂しくてね、いくら好きとはいえ私分の食糧がラムネだけというのは何とも――』

 切られた。すかさず追送をしようとするとブロックが掛けられていた。

「薄情な奴め……」

 とりあえずラムネでも飲んで一息つこう。その発想自体、かなり危ない食習慣が身に付きつつあることの証左でもあったが、深く意識しないようにした。

(それにしても咄嗟の言い訳が病院はマズいだろう。話が余計にややこしくなる)

 後で先生からも電話が来そうだ。子供を持つ親とはこんな気分かと、愚にもつかない想像が想像の表層を撫でていった。

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