第1章「亜矢」
第1節 Artistic School life
1.
武咲陽馬はテストを受けていた。
科目は歴史、範囲は近現代画術史。本音を言うまでもなく、苦手な分野だった。だいたい必要ならその都度調べれば済むようなことを暗記しなければならないというのが理解できない。だが泣き言を喚いたところでテストの点数がもらえるわけではない。そんなことは分かっているが、頭が受け付けないものはしょうがないだろう。彼のお決まりの現実逃避だった。
【4】次の文章を読んで、以下の問に答えなさい。
画術を規格化するにあたって、最大の障害とされたのが「非完全再現」問題である。術者の想像力(イメージ)を現出させる力すなわち画力によって構築体もしくは再構築体を描き出す画術は、その再現率にブレが生じる。どんなに高い技量をもってしても全く同じ再現率の画術を繰り返し使用することはできず、安定性に欠けるものだった。この問題から、長らく画術は科学技術を支える副次的なものとしての側面が強かった。2040年代初めに起きた[ a.大規模国家間紛争]の最中、オーストリアの画術師フローリ・D・ミューラーがイメージの定量化に成功したことで、画術を取り巻く環境は大きく変わった。続いて開発された、データ変換されたイメージ体を保存したIC(Image Contents)とそれを実用的に使用するためのISD(Imagination Supporting Device)を以て、難問とされた再現率をめぐる問題は解決を見た。これがいわゆる現代画術の幕開けである。
定量化技術確立以降、科学と画術はその立ち位置を入れ替えた。現代における科学技術は、いかに画術を拡充し、補助していくかに重点が置かれるようになってきている。特に顕著とされるのが、ICおよびISDの改良である。黎明期におけるISDは専らICのデータベース、ローダーとしてのみの使用だったが、これはISDの容量が当時の技術限界に達していたため、他の機能が搭載できなかったことが原因とされている。今日主流となっている並列多層式ISDは[b.]によって開発されたが、その設計思想は複数のICの同時使用に対応したイメージのマルチローディングを前提とした画期的なものだった。IC関連においては、2050年代になると[c.日本の国立画術研究所がVLSIICを開発、実用段階まで押し上げた]。これは旧来のものに比べて1000倍以上のデータ容量を誇り、このことから大容量の画術の保存と運用が可能となった。これらの技術向上により、HUHFIC(Humanoid High-functional Image-Contents)を始めとした高度な機械構造の再現・拡充が実現し、機巧系画術の爆発的普及の起因となった。
ISDの基本構造は、ICの記憶容量を内蔵する、わずかに湾曲した直方体のハード部分が中心となっている。アクティブに描画補助(ICローダー)、装着用リング構築・フィッティング、画術検知・制限・強制停止、そして[d.対画術防護]が、パッシブに本体の各種制御(シーキング、カスタマイザーなど)がデフォルト機能として組み込まれている。これら内蔵ICによる画術式は装着者の画力を消費して起動しているが、ごく微量で済むように非常にハイレベルなコストパフォーマンスをしており、現在でも追求され続けている。
《問1》
[a.]について、
(1)aが起こる契機ともなり、のちに国連加盟各国で締結された条約は何か。施行当時の名称で答えよ。
(『画術および関連項目に関する管理条約』、と)
(2)本文と(1)で挙げた条約の内容を踏まえ、aについてその流れに注目しながら200字程度で簡潔に述べよ。
(飛ばしだ飛ばし。文章題はさようなら)
《問2.》
[b.]に当てはまる人名と出身国をフルネームで答えよ。
(誰だっけこれ……授業で聞いたような気がするんだけどな。くそ出てこねぇ、飛ばすか)
《問3. 》
[c.]について、
(1)VLSIICの前段階であるLSIICの設計によりノーベル物理学賞を受賞した人物は誰か。
(2)日本の画術研究が画術工学面において大きく発展した理由は何か。aと関連付けて簡潔に述べよ。
(1は知らん。2はあれか、中立として戦後も両勢力と国交を持ったからICUC側からの技術供与が得られたとか何とかだな)
《問4. [d.]について、この機能が搭載されることになった経緯をまとめて述べよ。
(あー、都内で起きた画術テロの影響か。いやふつうに条約締結を踏まえて自己防衛手段の確立が要求されたでいいのか? 国内での採用理由と開発の経緯とどっちだこれ)
残り時間を鑑みて、これに頭を唸らせるよりは空欄を埋めにいったほうが合理的だし、問題数が少ない分、失点確実の問題があるのは痛い。流れるように最終問をスルーしたのちに2周目を終え、最後の見直しをしようと冒頭の問題に目を通し始めたところで、終了を告げるチャイムが鳴った。
回収が終わり、一気に喧騒に包まれる教室。陽馬は筆記用具と問題文を適当にスクールバッグに押し込むと、窓際の席から教室の反対側に向かう。
「よお研二。爆散したよな?」
「そのやらかした前提で訊くのはよせ」
男にしては長い黒髪がかかる長身の背中をばんばんとたたくと、実に予想通りの反応が返ってくる。
「……ということは、お前は今回もいつも通りか」
「ちょっと哀れみの間を置くの止めてくれませんかねぇ……」
仏頂面で雑多なプリント類をファイルに収めている尾糸研二その人は、ことテストにおいては共感が得られないことで陽馬の中で密かに不況を買っていた。大体の科目でクラス5位以内に入る学力を持っていれば当たり前とも言える。
「んじゃ行くか。さっさと着替えに行かないと更衣室が込む、でもって試験を受けるのが遅れる」
3クラスまとめて同じ時間帯に行うせいで、会場の実技館はそれはもう大変な賑わいを見せる。他の生徒を出し抜けるかどうかで解放されるまでの時間が三十分近く変わるのだ。
「そうだな……」
今度はその研二が少しアンニュイな表情を浮かべていた。先ほどの「大体」に漏れるのが、次の科目――『画術実技』だからだ。
「怜のやつはもう先行ったかな?」
ざっと教室を見渡した限りでは見当たらない。席が教室の出口に近い前の方だけあって移動が早い。加えて言えば特に誰かを待つとか、そういうことを考えないタイプの人間だ。
「やぁお二方、待たせてしまったね!」
「急ぐとしよう」「おう」
視界に割り込んできた若干一名をことごとく無視しつつ、二人は体操着と通学カバンを手に廊下を歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれてもいいんじゃないかな!? 先ほどのテストについて二、三確認したいところが……」
「生憎だが俺には無い」「右に同じ」
ほぼジョグペースまで歩調を早める二人と一人は同じ場所に向かう生徒達を追い越しながら教室の並ぶ廊下を過ぎると、突き当りの階段に差し掛かった。
「ショートカットしとくか?」
「先生は」
「パッと見大丈夫だと思うぜ」
「おいおい、窓から出るのは止めた方がいいと思うよ? 校庭でもこれからテストをやるクラスがある。実技の大兼先生だったかナ」
「……だそうだが?」
研二は踊り場で足を止めた。大兼と言えばあの大兼だ。生活指導担当で、典型的な体育会系教師。見つかったら非常に面倒なことになるのは目に見えていた。
「イリル、それホントか」
少なくとも同学年では室外のテストを行っていない。他学年の試験日程など知らないがそれは彼女も同じはずだ。するとイリル・ハルハティは若干息を荒げながら、その特徴的なイントネーションで返答する。
「ふふふ、ぼくの情報収集力を侮らない方がいい……その程度のことは当然把握しているさ。なぜかと言えばそれはだね、」
とにかく本当らしい。
「足を止めてる時間がもったいないだろ、オレは行くぜ!」
研二が渋々といった風で頷いたのを見た陽馬は、よいせとガラス窓を開け放った。初秋というにはまだ暑さの残る空気が頬をかすめていく。
「うし、じゃあ――」
「では会場で会うとしよう。あの人込みで会えたらの話だが」
「えぇー! お前も行くんじゃねーのかよ! 今の一緒に来る流れだろどう見ても……ってもういねぇ」
大方、画術で加速系のICを呼び出したのだろう。校内を素早く移動するのも選択肢としては十分アリだ。ついでに弥祐もそれについていったようだ。
「しかたねぇな」
窓枠に手を掛けると、一気に身体を外へと押し出した。
このショートカット方法を使うのは初めてではない。一年生の一学期末のテスト時に上級生がやっているのを見て、二学期の中間テストで試したのが始まりだ。ちなみにその時はあえなく先生にバレた挙句捕まり、散々説教を食らった後に一人で実技テストを受けることとなった。
今いるのは校舎の3階。校舎の2階から突き出して伸びる連絡通路の先に体育館がある。そして更にその地下が目的の実技館だ。しかしこの時間帯、連絡通路自体が混雑の極みにあり遅々として進まない。加えて通路から体育館に入ると地下へ降りる階段までがかなり遠回りになってしまう。更衣室は地上にも地下にもあるが、上はいつも他のクラスで既にごった返している。
となれば、最も効率が良いのはここの窓から飛び降り通路の下を行って体育館外周を校庭側に回り込み、一番近い実技館に直接降りる階段に向かうルートだ。これなら下の更衣室にも早く着ける。ただ問題は、最初から最後まで見事に校庭にいるであろう先生方から丸見えだということ。なんとかしてこの区間をやり過ごす必要がある。始点の窓ですら校庭に面していると来ている。
ただ幸いなことに校庭でも画術実技のテストが行われているため、先生の画術探知に引っかかる心配は無い。これだけ至るところで画術が飛び交っていれば、探知のしようがない。
つまりこちらは画術が使い放題だ。
(コール、“wall”。
首元のリング、ISDが実体化しICを読み込んだことを示して白く発光する。連動して、眼前にのっぺりとした薄い壁が描き出される。大きさはちょうど自分の姿を覆い隠すほど。こちら側から見ると灰色のプラスチック板のような外観だが、校庭側からは校舎と同じくすんだ白に見えているはずだ。さらに境目が不自然にならないよう、距離感が校舎の外壁と等距離になるように視覚調整してある。
「よっと」
同じ壁を今度は厚みを増して強度を上げ足元に数枚、ずらしながら配置する。そうして出来た即席のステップを手早く蹴って着地。
さて、ここからも同じ手で壁を使いながら移動できれば話は早いが、生憎と背景は単色ではない。連絡通路下は北口校門まで続く広い道になっており遠近感が強く、倉庫や植栽などもある。それらを齟齬なく再現できるほどの画術の腕前は、残念ながら持ち合わせていなかった。ただ、やりようはあった。
(伊達に5回もやってきてませんよ、ってな)
自分の移動している部分だけを背景に合わせて色調を変化させ、カモフラージュするのは難しい。だが、あらかじめ移動する部分全ての背景を先に創り出しておくことが出来れば難度はかなり下がる。
具体的には、先ほどの壁を横に引き伸ばして連絡通路から体育館までの距離分を一気に配置する。そこに事前に作っておいた視覚調整済みの背景の色を乗せておけばいい。
(うし、先行者もいないな)
一気に駆け抜けて階段手前まで辿り着くと、背後の壁を消去して体育館の外壁と同じ色の壁を再展開。喧騒に包まれた地上から、まだ音の少ない地下へと降りていく。役目を終えたISDが光を失い、元のように空間に溶けて見えなくなった。
こちら側の階段を使う者は少なく、案の定すんなりと更衣室のドアノブを回せた。中にはまだまばらにしか生徒がいない。手近なロッカーを開けようとしたところで、背後から声がした。
「……またそっちから」
「早いだろ?」
荷物を突っ込むと、くたびれた学生服を無造作にフックにかける。
「これから画力使うっていうのに、陽馬は余裕があって羨ましいよ」
「何言ってんだ、これぐらい使ったところで俺の成績はビクともしねぇよ」
「……ちょっとは上を目指してもいいんじゃない?」
「うるせ……」
彼の言うことは最もだが、多少画力消費をしたところで前提となる技量がイマイチな自分には関係がないのだ。悲しいことに。
軽口を叩きながら着替えを終えると、隣人も準備を終えていた。
「つーかよ、お前も人のこと言えないぐらいには早いぞ? 教室から出るのが先だったとはいえ俺とほぼ同着じゃねーか」
非難がましく言うと、ああそれはねといった口調でレイ――新枝怜人はアクティブになっていた手元のISDを指さした。
「校内を飛ばしたから。ウイングで」
ウイング、要するに簡易飛行補助ICのことだ。重力制御や加速・減速制御がデフォルトで設定されているため、簡単に飛ぶことが出来る。が、操縦系のアシストは無いため、素の状態で飛ぶか(物凄く難しい)自分で設定する必要がある。
「お前それ、自分のICか?」
「まさか。亜矢にもらった」
こんな高度な制御プログラムは組めないよ、と怜人は小さく苦笑いを浮かべた。
「だろうな! てかなんでお前はもらえて俺は断られたんだよ!」
「日頃の行いとかじゃない?」
「ちくしょうめ……いや、そもそもお前まだ日頃とか言えるほどこっちで行い積んでなくねぇか」
微笑ましい会話で時間を浪費していると、二人は実技館の入り口前に到着していた。
実技館とは、その名のとおり画術実技実習専用の場として設けられた空間だ。十数年前に画術が義務教育課程に組み込まれてから、全国の小中学校と高校に設置されたという話をどこかで聞いた。
その構造は大体どこも似通っており、大根を厚く切ったような横に広い円柱系をしている。内部には安全用フィールドICを展開するための設置型ISDがあり、授業に必要な各種ICもそこに収められている。また、学校によってはペイントリウム競技を行うための設備が整えられている所もあり、そういった実技館が大会の会場になったりもしている。ここの高校は比較的最近になって実技館の改修を行ったため、ほぼ最新の設備環境が整っていることで人気だった。
「そいじゃあ、パパッと終わらしますか」
「だね」
複数人の生徒の声が廊下から聞こえてくる。そろそろ混み始めてくるころだ。タイミングとしてはちょうどよかった。だが、
館内には細長いレーンが建物の中心から端に向かって放射状に何本も延び、一本のレーンが3分割されてそれぞれテストが受けられるようになっていた。
怜人がその内の一本に立つと自分もその横に並んだ。朝に配布されていたICを読み込ませると、試験用の感知画術が起動する。不正対策だ。
(さてさて、鬼が出るか蛇が出るか)
事前に担当教師から知らされていたのは、サッカーボールと原稿用紙の再現度を上げておけ、の一言。それがどう使われるのだろうか。
『それではこれから画術実技の中間試験を行います』
人が立ったのを確認したのか、レーンのサイドに浮遊する小型の多機能電子ボードに文字が次々と浮かび上がった。
『試験の流れを説明します。まず、”構築”によってサッカーボールの構築体を所定の位置に描き出します。そしてレーン中央にあるリングまで移動させ、中を通過させます。次にサッカーボールを
「うは、マジかよこれ」
「これは……確かに辛い」
無慈悲な解説文を他所に、二人は若干頬の筋肉が引きつるのを感じた。2学期のテストは難しいと聞いていたが、ここまでとは。
『今回の試験では、主に次の3点を中心に評価を行います。
1、サッカーボールの再現率。
2、原稿用紙の再現率。
3、原稿用紙がトレーに入るまでの時間。
受験者の皆さんは、これらに留意して試験に臨んでください』
かなり出鼻をくじかれながらもNextと書かれた矢印をタップすると、締めの言葉があった。
『以上で説明は終わりです。なお、この試験に関する説明文は何度でも読み返すことが出来ます。試験時間は3分間です。それでは開始してください』
それまでの画面が終了すると、デジタル表記で時を刻むタイマーがでかでかと表示された。
さてどうしたものか。いや、やることは決まっているのだが。
最初はサッカーボールの『構築』だ。すなわち既に完成したイメージ体であるICは使えない。何もないところから自力で描き出す構築系画術の技能を求められている。採点されるのは再現率。どれだけ目的のモノに近い構築体を描き出せるかが得点を左右する。
目を閉じる。
神経を研ぎ澄まし、イメージを想起する。その質感、色、重量、関連するエピソード、ありとあらゆる関連情報を手繰り寄せ、脳内でまとめ上げる。一つのイメージとして確かに結実したのを感じて、
「描出」
必須というわけではない誦句を呟く。1メートルほど先、肩の高さにおよそサッカーボールにしか見えないモノが描き出される。それをゆっくりと動かしていく。『移動せよ』という項目があるため、一気にリング手前まで持っていけないのが実にじれったい。これは別に重力を無視して動かしているわけではなく、描き出す座標をズラしていっているだけ。当然だ、布と皮とラテックスの塊に重力にあらがう力はない。白黒の球がリングを通過したのを見て小さく息を吐く。最大の難関はここからだ。
上描き。既存の事物を任意の事物に変化させる、再構築画術のことだ。それなら大分マシだっただろう。だが実際にはこの課題、
上描きは『既存の事物』を対象としている。一般的に下地の画術(ベースレイヤー)となるのは現実に存在しているモノだ。白い壁を赤く塗る、バットを竹刀に変える、晴天を雨天に変える(環境改変系の大規模画術は高度過ぎてお目にかかったことがない)、そういった風に。
しかし、今回はベースレイヤーが構築体だ。既に『そこにある事物』に対して上描きするのではなく、画術によって生み出された構築体に対して上描きしなければならない。一見すれば同じ動作だが、術式同士の干渉を考慮しなければならないために、難易度で言えば単純な上描きとは比較にならないほど難しい。単に術式を重ねるだけでは下地の画式との差異化が維持できず無秩序に混ざり合ってしまい、重ねた方の
ベースがICではなく自力で構築したものであるなら、更に慎重な画術の制御が求められる。一度構築すると画式を維持さえしていれば形成を保持できるICと違い、自力で描出した構築体は常にそのイメージを固定化させる必要があるからだ。
加えてICの特性には常に一定の再現率を出せるため加工がしやすいということがある。再現率に差が有り過ぎる画術で上描きすると高い方が低い方を完全に消去してしまう(超越作用という)が、これはそうなる危険性を無くしてくれる。ICの再現率を事前に自分の合わせやすい数値に変えておけばいいのだ。だが話が構築体となれば、自分の中で再現率の調整を行う必要性が出てくる。一度超越作用を起こすとベースレイヤーの消滅に伴って重ねたレイヤーも全て消える。こうなると目も当てられない。何としてでもそれは避けたいところだった。
作業としては『構築体「サッカーボール」の維持』『原稿用紙への変化プロセスの実行』『構築体「原稿用紙」の維持』、この三つをよどみなく同時に行わなければならない。
(こう、なぁ。サッカーボールからテニスボールとかならまだしも、原稿用紙とか……全然別物じゃねえか)
だからこそテストの問題になるのだろうが、果たしてサッカーボールを原稿用紙にしなければならない状況に自分が巡り合う確率はいかほどのものか。ふと、割り切りのシビアな研二の言葉を思い出す。義務教育の内容が社会でどれだけ役に立つかなど詮無いこと、今は成績のことだけ考えていればいい。笑いたくなるほどその通りだった。
「上描き」
一瞬、サッカーボールが波打ったようにその形を歪ませて、一枚の紙に変わった。少しばかり罫線が薄い気がする。脳が二つのイメージで剥離していくような感覚を味わいながら、ひらりともしない用紙をトレーへと運ぶ。脇の電子ボードの表示が「1/5」と変わったのを見て術式を終了させる。ここまで55秒、まずまずのペースだ。怜人の方が気になるが、他人の心配をできるほどの余裕がない。
2回目、3回目とそれ以降は初回ほど苦労はしなかった。画術とは反復による過程の理解で習熟度がはっきり分かれる技能だ。一回でも「できた」という感覚をつかめさえすればその後はかなり楽になる。もちろん個人差があるし、扱う術式にもよるが。何でも、一つの術式を安定して扱えるようになるまで40年掛かったなんて話もあるらしい。
2分30秒と少しがカウントされたころ、5枚目の原稿用紙が音もなくトレーに収まった。ちらりと隣を見ると、危なげな軌道をする用紙がトレー付近でホバリングしていた。
「やれやれ、今回も焦らせてくれたぜ全く」
「ここの高校の画術実技って進度早かったりする? 層構築って2年生の最後あたりにやる内容だと思うんだけど」
「よそのことはよく知らんが、そうなんじゃねーか。あのスパルタ教師なら十分やりかねん」
テストを終え、人込みを避けるように早々と実技館から撤退した二人は体育館の外、北口倉庫の前にいた。人待ちだ。
「どんな感じだった」
「テスト? うーん、ギリギリかな。なんとか時間内に5枚は入れ終わったけど、再現率はすこぶる自信がない」
陽馬は、と聞かれて、答えようとした言葉がふと逡巡に飲まれる。
「……平均点は超えただろ、たぶんな。それよか俺はまだ復帰して間もないお前がそこまでついてこれることに驚きだぜ?」
「そりゃあまぁ、ただ“安静な”毎日を送ってたわけじゃないからね。一応勉強はしてたんだよ。もちろん画術も」
苦労を懐かしむような面持ちで足元の小石を転がす怜人は、どう見ても自分たちと同じ普通の高校2年生だ。それが時々不自然に思えてならない。まるで何事もなく、腐れ縁の幼馴染として過ごしてきたかのように。
「あ、でも借りてたゲームは大抵終わったから今度まとめて返すよ。改めて見ると凄い量だよアレ」
「おい、さっきの言葉は信じていいんだろうな」
腕に着けたウェアラブル端末が小さく鳴動して着信を知らせる。マルチフリックで届いたメッセージの内容を確認した。どうやら研二は渋滞に巻き込まれたようだ、すまんが先に帰っておいてくれと謝罪する文面があった。この通り、自分たちと到着の差がほんの少しずれるだけでこれだけの時間差を生む。やはりショートカットは正義だ。そう実感しながら展開されたメッセージウインドウを怜人に投げてよこす。
「そいじゃお先に退散しますかね……と?」
「あれ、陽馬じゃん」
砕けた感じの女声に顔を上げると、小さくこちらに手を振るブラウンの髪色の女子を先頭に近づいてくる男女の一団があった。クラスメイトとそうでない生徒も混じっているが、全員見知った顔だ。
「この後暇? このメンツでスタジア行くんだけど」
スタジア、高校の最寄り駅から一駅隣の駅ビルにあるアミューズメント施設だ。カラオケやボーリングなど若者が楽しめそうなものは大体揃っている。横目に校舎から女子二人組が出てくるのが見えると、方針は決まった。
「マジで、じゃあ俺も行くわ」
軽く受け答えして集団に加わる。ここで誘われなくとも、試験勉強明けにどこか遊びに行こうとは思っていた。
「じゃあ怜、また来週な」
「分かった。またね」
突然の申し出にも関わらず怜人は穏やかに頷いた。一団のメンツと会話しながら、倉庫に寄りかかるようにして空を見上げる旧友を通り過ぎていく。別れたとはいえ、途中までこちらと帰り道が同じなのだ、タイミングをずらしてから帰ろうというのだろう。
中学校のとき、画術の暴発事故があった。
ある一人の女子が自身の画力制御を失い、強力な相補色反応爆発が起きたのだ。校舎は全壊し、多数の死者を出した大惨事だった。
多くの被害者の中に一人の男子生徒がいた。彼は事故の影響で精神に深刻なダメージを受け入院生活を余儀なくされた。医者の見立てでは完全に回復する見込みは薄いとのことだった。面会謝絶状態が一年以上続き、関係者の記憶から少しずつ彼の面影が失われていった。そんなある日のことだ、学校に復学するという知らせが他ならぬ本人からあったのは。あろうことか同じ高校に入学していたことすら知らなかった。そうして高校1年の10月に、新枝怜人は帰ってきた。
だから時々、武咲陽馬は違和感を覚えずにはいられない。彼がもし何事もなく自分たちと同じように中学校を卒業し、同じ高校に入学してともに学生生活を送っていたら、ちょうどこんな風な新枝怜人がいたのではないか。そう想定される彼の姿と、今の彼がなんの齟齬もないことに。
(なぁ怜……俺たちはまた、友達でいられるんだよな?)
その問いに、はたして答えがあるのか。まだ分からない。何も、まだ。
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