前章

±1

 もし仮に一人の人間の全てを一つの絵として描き出すことが出来たなら、僕はきっとそんな世界を否定するだろう。

 もし言葉にも形にも出来ないこころの情動をそのまま描き出せたら、僕はためらいなく自分を捨てるだろう。

 もちろんそんなことは出来はしないから、僕は僕として今を生きている。それがどうしようもなく苦痛で、耐えがたい。

 優れた芸術家は溢れる創造力をイメージとして形あるものに託し、そこに自身を再現する。そんな人々なら、この心の中に巣食う光景を吐き出すことが出来るのだろうか。そうした才能を持ってさえいれば、こんな感情に頭を抱えることはないのだろうか。

 恐らくそれは間違っている。

 技術とか知識とか、問題がそういった次元のものではないことを、なにより僕自身が悟っていた。ほんの12歳の子供にも悟れるものだった。

 それは言い換えれば呪縛のようなものだ。自らが創り出し自らを縛り続けているから、誰かに解いてもらうわけにもいかない。もちろん、どうにかしようとは考えていた。この状態を甘んじて受け入れるには、僕の心は弱すぎた。

 家族とか友達とか医者達は、時間が解決してくれると言った。思いつめるな、考えすぎるな、ゆっくりと忘れてしまえと。正しい解決方法だと思った。そうしよう、そう努めようとした。

 でも僕の心はそれを否定した。

 忘れなれけばならない。忘れたくない。

 思い出してはならない。思い出していたい。

 自分でそれがいけないことだ、自らを追い詰める行為だと分かっていながら、あの光景を手放すことを僕自身が許さなかった。

 なぜならそれは「美しかった」から。

この世のものとは思えない、神がかった、スピリチュアルな…。言葉にしてみれば陳腐なものだけど、人の感性で捉え切れる限度を遥かに超えたものがそこにはあった。だから、それに触れた僕は壊された。至極尤もなことだった。


 ある日、一人の訪問客があった。その人は何をするでもなく時折たわいもないことを話しかけては、窓の外を眺めたりしていた。そんな時間が10分ほど続いたのちの帰りがけ、ふと気づいたようにその人は言った。

『人が人として認識されるには、何が必要か分かるかな』

ぼんやりとしか受け止めていなかった他人の言葉に、なぜかその時は鈍い痛みを感じたのを今でも覚えている。

『きみは答えの一部、もしかしたら全てを持っているよ』

そう言ったその顔がどんな色を帯びていたのか、今でも思い出せない。

『もしよければ、またいつか会ったときにでも教えてくれると嬉しい』

そういってその人は部屋から去った。

 その夜は久しぶりに夢を見た。必ずあの光景が映し出されるからだろう、本能的に夢を見ることを嫌っていたはずの脳が、数か月ぶりにそれを許していた。そしてその懸念は当たっていた。


 照明の落ちた中学校の理科室は昼間でもひっそりと影が広がっている。直前の授業で使ったのだろう、居並ぶ蛇口の丸い口からもったいぶるように落ちる水滴の刻む静かな音が、外の廊下から聞こえる子供たちの喧騒に紛れていた。

そこには一人の少年と一人の少女が立っていた。少女が何かを必死に訴え、少年はそれを聞いていた。と、そこに一人の少女が入ってくる。二人に話しかけると、その場を諫めるようにして二人を外へ連れて行こうとする。

 しかし、少年はそれに反発した。彼女に向かって自分たちだけにしてくれるように頼んだ。やがて彼女は折れ、仕方ないなといった風で廊下へ戻ろうとする。

その姿が不意に掻き消えた。少女に振り向いた少年が叫ぶ。少女が不自然なほど優しい泣き笑いを浮かべた次の瞬間、その小さな体を奇妙な揺らめきが襲った。

 輪郭が次第にぼやけ、徐々に背景に溶けて混ざり合う。少年は透き通るほどの白銀色をした炎を見た。少女はまばゆいまでの煌きに包まれ、そして、ものの数秒で跡形もなく消え去った。塵一つ残らない、完全な消滅だった。

 少年はただその場に立ち尽くしていた。瞬く間に広がっていく白銀の奔流が周囲を飲み込み、人を、建物を、地面を、何もかもを燃やし溶かして消していくのを、意識の許す限りただ眺めていた。


 ある日、一人の訪問客があった。気づくのにしばらくかかったが、その人は以前に僕の元へ訪れたあの人だった。

 四年が過ぎていた。

 僕は今でもあの光景を忘れられずにいる。


 ところで、と僕が言った。君は何を描こうとしているんだい?

 それはもちろん、と咄嗟に答えかけて、そして答えに詰まる。描こうとしているものがなんであれ、それを言葉にすることは不可能だった。そんな疑問すら抱いたことは無かったのだ。自主と強制の狭間にあって、正しさなどは無意味を表す最たる象徴だった。全ては始まってしまったことなのだ、少なくとも自分と呼べる認識の中においては。ならば、もう立ち止まることは許されない。

 

 それが彼女の望んだことなのか、とおれの声がした。

違う。これは彼女の望みではない。かといって自分が望んだわけでもない。誰かが望むべくして生まれた結果なら、それはその誰かに帰属する現実が映りこむだけのことだ。もしこれが本能によるものだとしたら、それは人間であることを否定しなければならないのかもしれない。例えそうだとしても選択の余地など無いのだが。

 

 私はこう告げる。あなたは間違ってるよ、と。

『知っているよ』

ただ、感情が生成される過程はあまりにも無情で、冷酷で、そして美しかった。それだけのことだったのだ。本当に、たったそれだけのことだった。

『世界が淡色だったら、少しは楽になれたかもしれないんだけど』

その世界を自分は認められないだろう。だからこうして先の見えない鎖の束を、その一端をたぐり寄せている。アンチノミーの合わせ鏡は消失点の彼方まで終わらない。

 

 誰かが言った。

――混交した情動を一枚の絵に現せたなら、一切の感受を捨てるだろう。

――願った色に空漠が染まるなら、万象は欺瞞に沈むだろう。


『だからここにいる。自分が自分で無くなることも、彼女に近づけることもない』

いつしかそれすら平生となった時、何かが変わるのだろうか。

『変わりはしないさ』

 何もね。

 そう言って、分裂した意識は揺らめく陽炎の向こうに消えた。


 深夜の病室に12歳の少年のものとは思えない絶叫が響き渡り、そしてまた静寂が訪れた。




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