第1章

第6節 ガルデニャ

 そこは、幼い頃に見た絵本のような場所だった。

 布団の中に潜り、なかなか寝付けない時に父が読んで聞かせてくれたのを、今でも覚えている。

 まさにちょうど今自分が着せられているような品のある可愛らしいドレスを着たお姫様プリンセスが、馬車に揺られて辿り着く場所。

 一時は「私にも王子様が迎えに来てくれないかしら」なんて童心ながらに思ったことはあったけれど。

 まさかこの年にもなって、幼き少女が恋い焦がれる殿方の住まう場所を訪れることになろうとは――。


 突如耳に飛び込んできたのは、鞭の音と馬のいななき。

 それと同時に、ガタゴトという不規則な揺れが収まる。そして、視界右側にある小さな扉が開かれた。


「到着でございます。少々長旅でございましたが、お疲れではございませんか?」


 長時間の移動を労う暖かい言葉をかけてきたのは、外に居る黒い燕尾服を着た老齢な男性。どうやら目的地に着いたらしい。

 白妙のドレスに身を包んだ白銀の髪の少女が、馬車から顔を覗かせる。その瞬間、周りから感嘆の声があがった。


「天使様だ……」

「お美しい……」

「なんと綺麗なアルブスだろう……」


 少女の容姿は、天使と見紛うようななりをしている。文字通り頭の先から足元まで白一色。唯一異なるのは、外の景色を見渡す円らな双眸だけ。

 少女の頭上に広がる雄大な空の色の瞳が、目の前に列を成して出迎える兵士たち一人一人の顔を順番に眺めた。これまた好待遇なお出迎えに、少女はひたすらに瞠目するしかなかった。

 兵士たちは真っ直ぐに伸びる赤い絨毯レッドカーペットに沿って、剣を構えながら整列していた。その道は果てしなく長い。少女を出迎えるためだけに、いったい何人の兵士がこうして集っているのかは分からない。

 少女の視界には三つの尖塔が見え、一番高い尖塔の頂点に太陽を臨み、少女は咄嗟に手でひさしをつくり目元を覆った。


「僭越ながら、この老体めが御身をエスコートさせていただきます」


 少女の目の前に、手が差し伸べられる。慣れない儀礼に一瞬戸惑いながらも、少女はその手をとり、もう一方はドレスの裾を引き摺らないように摘まみながら、優雅に赤い絨毯の上へたおやかな脚を伸ばす。その瞬間、まるで少女の来訪を祝福するかのような穏やかな風が吹き、絹のような髪が風になびく。

 少女は、咄嗟に顔に掛かった髪を耳にかけた。

 その可憐な少女の仕草に、またもや周囲から感嘆の声が漏れる。


「ああ……恐縮ながら、まさかこの身朽ちる前にこれほどまでお近くで天使様のお姿を拝見できようとは……この老体には身に余る光栄にございます……!」


 目の前の老翁もまた、同様の声を発し、片足を引いて頭を下げてみせた。

 彼らの反応は、少女にとっては今更驚くべきことでもなかった。これまでに幾度となく、似たような反応を見せられたせいだ。

 しかし慣れてしまったとはいえ、まだどこか落ち着かない。芝居がかっているというか、大袈裟というか……。

 現実離れした様子が、逆に目の前の現実から目を背けさせている。

 記憶が正しければ、つい先日までは学生生活を送っていた一介の生徒でしかなかった。それが今や、一国の姫のような――国宝級の扱いを受けている。

 少女が所在無げに視線を彷徨わせていると、老齢な男性が腰を低くしたまま片手を出し、先導する。


「ささっ、こちらでございます」


 彼はいわゆる執事バトラーという職の方だろう。見た目の年齢とは裏腹に、歩く時は背中に定規でも挿しているのではないかと疑念を抱きたくなるほどに背筋がピシッと伸びている。その歩く姿は武人さながらの雰囲気を漂わせるような威風堂々たる風格、されど水の上を歩くように清廉された動き。

 その歩き方ひとつとっても、ただの老人ではないと推し量ることは十分だ。

 少女は黙って老翁執事の後ろに続いた。


「総員、直れ。――カントゥス斉唱!」


 瞬間、地響きにも似た声が、どこからともなく響いた。その掛け声を合図に、兵士たちが目の前で構えていた銃を一度脇に抱えてから、ロボットのように機械的に、一糸乱れぬ動きで地面に銃身を置く。

 それから、彼らは一斉に歌いだした。

 どこかの国の、知らない言語で。


(すごい……っ)


 皆一様に遠くの空を見つめ、喉仏を震わせていた。誰一人怠けることはなく、その身に敬意と尊厳を持ち、皆一心に中央の赤い絨毯の上を歩く少女を言祝ことほぐ。

 オペラハウスとまではいかないにしても、ミュージカルの舞台の上に立った気分だ。少女は口を半開きにしながら、忙しなく周りの兵士たちを眺めながら歩いた。

 ここは、本当にお伽噺とぎばなしの世界なのかもしれない。あるいは夢の国。不思議の国。


(絵本の中のお姫様って、こんな気持ちだったのかな……)


 なぜこのような場所に自分がいるのかは、未だに分からないままだけれど。

 少女の心は終始高揚したまま。慣れないヒールで足を捻らせ転ばぬように注意を払うことさえ忘れながら、ゆっくりと歩みを進めていった。


 メルヘンチックな気分に浸っているうちに、気付けば城内の一室に通されていた。


「来る聖日せいじつまで暫くの間、こちらを私室としてお使いください。天上の楽園エデンより手狭で窮屈な想いをさせるやもしれませぬが、ご用意できる部屋の中では一番のものでございますので、ご容赦を。何か御入用でしたら、卓上にあります呼び鈴を鳴らしていただければこの私、あるいは使用人の者が直ちに参りますので。では、一度失礼させていただきます」


 老翁執事は一通り説明を終えると扉の向こうへと消えた。

 途端に静けさが訪れる。部屋の中には少女ひとりだけ。

 初めて許された、自由時間だった。周りには誰の目もない。


(どうしよう……。やっぱり、逃げ出した方がいいのかな……)


 少女はおそるおそる扉を開けて外を覗いた。


「……ん? は――っ! い、いかがなさいましたかっ!?」


 ――バタン。

 当然のように扉の前には見張りが居て、少女はすぐに扉を閉めた。


(さすがに……そう上手くはいかないよね……っ)


 無駄に騒ぐ動悸を落ち着かせ、少女は改めて室内を見回した。

 そこは部屋というよりも、ホールと呼んだ方が良さそうなくらいに広い。自室と比べると、少なくとも六倍以上の広さはある。にも拘らず家具は天蓋付きのベッド、いわゆるお姫様ベッドというやつと、文机、椅子、化粧台ドレッサーのみ。奥にはもうひとつ扉があったが、中はこれまた無駄に広いウォーキングクローゼットだった。中には色とりどりの高級ドレスが何着も掛けられており、ついつい体に宛ててみてしまう。

 この部屋の隅から隅まで、壁紙、絨毯、家具、照明、それらすべてが上質なものばかりで溢れている。だが一人で時間を過ごすのに、どう見てもこれほどの広さは不要だ。昔家でひとり、お留守番をしていて寂しくて泣きそうになったのを思い出す。

 壁には見たこともない形をした電灯が一定の間隔を隔てて並んでおり、高い天井にぶら下がるシャンデリアの絢爛な光と相俟って、部屋の中をより贅沢な空間へと演出していた。

 少女はガラスの靴をベッド脇に脱ぎ揃えると、絨毯の上に素足を乗せた。これまた上質な絨毯は肌触りがよく、柔らかい羽毛の上を歩いているようだ。ドレスなど来ていなかったら、この上に寝転がってゴロゴロしたい。普段の少女であれば、間違いなくそうしてたことだろう。

 しかしながら此処、この見知らぬ世界では天使様と呼ばれ、崇められている。昔から比喩でそう呼ばれたことは何度かあったが、ここまでのVIP待遇を受けたことはなかった。

 少女は四人で寝ても十分な広さがあるベッドの縁に腰を下ろし、ため息を零す。


(これからどうなるんだろう、私……。本当に結婚させられちゃうのかなあ……)


 インシグナスと名乗った男性が告げたように、“聖日”とやらが来たら結婚させられてしまうのだろうか。

 まだ本気で誰かを好きになったこともないのに……?

 それは、少女が思い描いたような契約ではなかった。

 お互いに愛し合い、誓いを交わしたのではない。ただただ一方的に宣言された。こちらの意思など関係なしに。

 さもそれが当然であるように、周りに反論する者は誰一人としていない。周りには父も、母も、友達も、兄もいない。もっと笑顔になれるものであれば、これほど不安で、不満に思うこともなかっただろう。


(そりゃあ、石油王みたいなお金持ちかもしれないけど……)


 こんなの、結婚といっていいのだろうか?

 いや、よくない。こんなのおかしい。そう、おかしいのだ。

 ここは少女が知っている世界とは何もかもが違う。土地勘も、人柄も、価値観も――。

 すべてが異なる世界。それは物語で読むような、異世界にでも来てしまったかのような――


コンコン――。


 ドアをノックする音で、思考を中断させられる。少女は顔をあげた。


「天使様、御着替えをお持ち致しました!」


 子供のような、可愛らしい声が隔たりの向こうから聞こえてきた。少女は静かに扉の前まで歩み寄ると、恐る恐るドアを引いた。


「あっ……」


 外に居たのは、栗色の髪を左右に結い上げた幼い少女だった。白と黒を基調にした、フリルのたくさん着いた洋服――メイド服を着ている。


(か、可愛い……っ)


 少女が見惚れていると、徐々に少女メイドの顔が赤く染まっていった。


「あっ……あっ、ひぅぅ……ひゃ、ひゃいっても……よろしいでしょうかっ!?」


 少女メイドは身を硬くして目を閉じ、大声で許可を求めた。少女はその声で我に返り、慌てて身を引く。


(どうぞ~……なんて言っても聞こえないか。それにしても……)

「あっ……ありがとうごじゃりますっ!」

(可愛いなあ……)


 少女メイドは噛み噛みだった。呂律が上手く回っていない感じも年相応で、心がくすぐられる。

 少女メイドは足を高くあげながら歩いていた。しかし実際の歩幅は大したことなく、騎兵隊の行進のようにきびきびとしてはいたが、ゆっくりまったりと時間をかけて行進した。その少女メイドが大切なものを抱えるように持っていたのは、少女がドレスを着せられる前に身に着けていた制服だった。皺のひとつもなく、綺麗に畳まれている。


(洗濯してくれたのかな……? まるで新品みたい……って、まだ着てそんなに経ってないか)


 メイド少女は背伸びしながら文机の上に畳まれた制服を置くと、くるっと踵を返した。


「置きましたので! そ、それでは……っ!」

(あっ、ちょっと!)


 ペコリとお辞儀をしてそそくさと退室しようとするメイド少女を呼び止めようと、少女が手を挙げた瞬間だった。


「あ――ひゃぁぁっ!?」


 メイド少女が大きく飛び退いた。その勢いで文机の脚に引っかかり――次の瞬間にはけたたましい音とともに、メイド少女が宙を舞った。


(だ、だいじょうぶ……?)

「ひっ――」


 幸いふわふわな絨毯の上だ。怪我はなさそうだが、少女は手を差し伸ばす。だがそれを見たメイド少女は、即座に腕で顔を覆った。かと思いきやすぐに体勢を起こして床に手を突き、深く頭を下げた。


「あっ――ご、ごごごめんなさいっ! ごめんなさいっ! 条件反射でつい身を庇ってしまいましたっ! 自らの不徳な行いはその身をもって償うべきであるにも関わらず……ごめんなさいっ、天使様っ! お気分を害されたのであれば、このガルデニャ、天使様のお怒りをお鎮めになられるのであればっ、どんな罰でも受けますので……っ! どうか……どうか命だけは――っ!!」


 メイド少女――自らをガルデニャと名乗った少女は、早口で謝罪の言葉を捲し立てた。そこに少女が言葉を挟む隙は微塵もない。

 少女は上手く状況を飲み込めないでいたが、小刻みに体を震わせているガルデニャの姿を見て、理解した。


(この子、心の底から怯えてるんだ……殺されるんじゃないかって……)


 崇拝の姿勢の次に見せられるのが恐怖とは。なぜガルデニャはそこまで自分に怯えるのだろう。

 何かそう思い込ませるようなことをしただろうかと、少女は自分の行動を思い返す。

 神聖な存在を傷付ければ罰が当たるというようなおしえがあるのだとすれば、この反応も頷ける。しかし罰程度の反応としてはいささか大袈裟過ぎる。

 少女はふと、野良猫を前にしたときのことを思い出す。でたさのあまり手を挙げては、その度に逃げられてしまったことを思い出す。

 この子はただ臆病なだけじゃない。きっと人一倍想像力が豊かなのだ。

 もしかするとこの世界では逆らえば殺されるというのが常なのかもしれない。ガルデニャはきっとそこまで想像して、身の危険を察したのだ。

 そうであれば、ガルデニャの怯え様は合点がいく。

 少女はガルデニャの傍らでドレスの裾を折り、絨毯の上に正座する。


(だいじょうぶだよ。私は何もしないから……)


 それから、この想いが届くようにと心の中で祈りながら、少女を安心させられるよう優しく頭を撫でる。


「ほぇ……? 今のお声は……」


 すると、ガルデニャが真っ赤に腫らした目で少女を見上げた。


「今の……お声は……天使様……ですか……?」

(え? 声が聞こえたの? まさか、ね……)

「いえ……聞こえます……! 天使様のお声、ガルデニャ、聞こえますっ!」


 ガルデニャは、明らかに少女が思考を巡らせたタイミングで反応していた。


(うそっ、聞こえるの……? ホントにっ!?)

「聴こえます! はい! 聴こえます! 天使様は、ガルデニャをおゆるしくださるのですか……?」


 間違いなかった。ガルデニャには少女の声が聞こえている。

 少女は嬉しさのあまり、ガルデニャを抱きしめた。


(やった……っ! 嬉しいよお、ガルデニャちゃん! 誰とも喋れなくて、寂しかったんだから……っ! 赦すも何も、こっちが感謝したいくらいなんだからっ!)

「て、ててて天使しゃまっ! わ、わわ私にあまりくっ付かれない方が……っ!」

(えっ、どうして?)

「そ、それは……ガルデニャが、使用人だからでございます……」

(使用人に抱き付いたらダメだっていう決まりでもあるの?)

「は、はい……それに、私はレクサスです……。天使様のお色も、穢れてしまいます……」

(れくさす……?)


 ガルデニャが言っている意味は分からなかったが、少女が抱き付いたことで彼女の気分が沈んでしまったということだけは見て取れた。それも、ただ恥ずかしがっているだけ……という風には見えない。彼女の瞳の奥には、畏怖の感情が浮かんでいる。


「が、ガルデニャはまだ仕事が残っておりますので……し、失礼します……っ!」

(あ、ちょっと……っ!)


 ガルデニャは少女から目を逸らしたまま深く頭を下げると、少女の呼び声には反応せずに逃げるように部屋を出ていった。


(行っちゃった……)


 また一人取り残される少女。

 とはいえ、意思疎通が出来た感動からか、無性に誰かと話したい衝動に駆られた。

 そこで――

 ――チーン。


「お呼びでしょうか?」

(わぁっ!?)


 呼び鈴を鳴らすと、先ほどの老翁執事が音もなく背後に現れた。

 てっきり扉から入ってくるものだとばかり思い込んでいた。不意を突かれて少女の体が跳ねる。


(びっくりしたぁ……どうやって入って来たんだろう……? ――あ、えっと、私の声聞こえますか?)


 少女は身振り手振りを付けて会話を試みるが、


「おや、散らかってしまっていますね。すぐに直しますので少々お待ちください」


 彼は少女の意思とは見当違いの方へ目を配り、ガルデニャがぶつかってずれた文机の位置を調整し、上から落ちたものを拾い上げて整頓した。


「これで大丈夫でございます。他には、何かございますか?」


 それを終えると少女に向き直り尋ねてきたが、先ほどの問いへの返答はなかった。


(やっぱり通じないのね……)

「では、失礼します」


 少女はがっかりして首を振ると、老翁執事はお辞儀をしてから部屋を出ていく。


(どうして声が聞こえないの……? さっきのガルデニャって子には通じたのに……)


少女の心の中には、幾つかの疑問が残るのだった。

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アイリス・マギア ―天使と悪魔の恋から始まる虹色魔法― 真白流々雫 @mashiroluna

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