第5節 冥府送還

 ――それは一度だけ本で読んだことがある。

 まばゆさに目が眩むような、白い輝きで溢れた世界。

 雲と陽光のつる世界――天界アストゥルム

 名立たる神々とその御使いたる天使たちが住む場所は、人の身では決して踏み入ることが許されない、神聖なる領域。

 いったいどれだけの人が、其処へ導かれたいと願ったことだろう――。

 ぼんやりと考えながら、二度三度瞬きをする。

 リズは体を起こすために左手を動かそうとした。だが、何かに邪魔されて腕が動かない。


「ファナ」


 まだ胸の上で眠っているファナへ優しく呼びかける。するとファナはもぞもぞと動き出し、やがて透き通った深海のような碧い双眸をゆっくりと覗かせた。


「リズ……?」


 寝ぼけているのか、ファナはうすぼんやりとした意識のまま返事をする。


「おはよう」


 リズはファナの頭を撫でるために右手を動かした。本当は左手でファナの髪の感触を味わいたかったが、彼女の夢見心地が抜けない可愛いらしい表情を眺めるのも悪くない。


「くしゅんっ」


 突如、ファナがくしゃみをした。そういえば、心なしかいつもよりもぐっと気温が冷え込んでいる。単に夜風にあてられて体が冷えた、というわけではなさそうだ。

 そこへ、ひらひらと、ファナの頭の上に精霊樹の葉が落ちてきた。

 リズは笑みを零し、ファナの頭の上の葉を手に取る。

 ところが、それは緑色をしていなかった。やがて精霊樹の葉は端の方からじんわりと光り輝き、マナの粒子となって空気中へ融解していく。


「この時期に、紅葉……?」


 フィッシャドーフ村は中央大陸ケントルムの南側に位置するため、一年を通して温暖な気候であることが多い。くわえて今の時期は四節ある季節の中でも一番暑くなる「アエスタス季」に差し掛かり、徐々に気温が上がっていく時節であった。

 しかし精霊樹の落葉といい、肌寒い気温といい、異変が起きている。異常気象かとも考えたが、昨晩の出来事を思い出し――

 違和感を覚えたリズは首を起こし、ファナの暗青色の髪をずっと越えた先にある氷塊を認めた。

 その中には、昨夜ファナが唱えた魔法によって瞬間凍結されたエジルと、転化し醜悪な魔物と変わり果てたヴィラーが居る。二人は全身の大部分は氷漬けのままだが、少しずつ表面が融けてきて部分的に体表があらわとなっていた。

 そして――


「ファナ、ちょっといい……?」


 リズはファナに断りを入れてから、体を起こした。

 すると、そこには異様な光景が広がっていた。

 昨日まで青々と茂っていたはずの木々は色を失い、草原に生えていたはずの草花は萎れ、辺りを飛び交っていた夜光虫ステラーや鳥たちの死骸が幾つも辺りに転がっていた。

 昨晩まで自然で溢れていたはずのこの草原は、見るも無残な枯野かれのへと変わり果てていた。


「なに……これ……っ――!?」


 リズは眼前の光景に絶句した。まさかと思いながらも、リズは振り返った。

 リズがいつも愛用していた、お昼寝スポット。

 そこには、ただ枯れた大木が聳えるのみ。幾千、幾万もの葉を茂らせ、風に躍らせていた姿はもうどこにもない。

 冷たい風がリズの髪を撫でた。風が吹いても自然が奏でていた音がひとつも聞こえてこない。ずっと付き纏っていた違和感の正体はそれだった。

 さっきファナの頭に落ちてきた葉は、精霊樹の最後の一枚だ。

 なんてことだ……。

 途端に寒気を感じて、リズは自らの体を抱いた。

 リズが目を見張っている隣で、ファナが静かに立ち上がる。服に付着した土をはらい終えたところでリズと目が合い、ファナが首を傾げた。

 リズも靴を履き直して脚に力を入れる。不思議と、昨日あれだけ脚に負担をかけたのにも関わらず、痛みは微塵も感じられなかった。もちろん、長老が靴に施してくれた術式も消えていない。おかげでリズはすんなりと立ち上がることが出来た。ところどころ擦り剥いたり引っかいた傷もいつの間にやら消えている。付き纏う疲労感、筋肉痛、神経痛もない。奇妙なくらいに体調は万全だ。


「ファナは怪我してない……? 大丈夫……?」


 リズはファナに向き直り、彼女の全身をくまなく触る。


「リズ、おおげさ」


 ファナが半眼でリズを見た。寝ぼけているのか、呆れているのか。しかしリズにはどっちだってよかった。

 この状況を見て、ファナが自責の念に駆られないかということの方が心配だった。しかしファナはリズの動揺など意にも介さず、いつも通り。

 ファナは理解しているのだろうか。この周りの惨状は自らが顕現させた魔法が招いた結果であるということを。


「……リズ、心配しなくていいよ。わしはちゃんと理解してる」

「え……?」


 まるでリズの心中を読んだかのように、ファナが答えた。


「エジルさんは残念だった……。ギリギリまで待ったけれど、掴まってしまったから……。あと一秒でも魔法の詠唱を長引かせていたら、全身を鋭い爪で引き裂かれていた。だから――わしが殺した」


 幼い容姿には似合わないほど淡々と、そして平然とファナは断言した。自分が殺したのだ、と。その円らな碧い瞳に迷いや穢れの類は一切なく、どこまでも純粋にリズを見据えている。

 その瞳に映る自身の姿を見た瞬間に、リズは自分の罪を思い知らされた。

 さも自分は悪くないと心のどこかで思っていたのだろう。ファナひとりに生命を殺めた罪を押し付けようとしていた自分が居たことに気付かされ、途端にリズの胸中は罪悪感で満たされた。

 彼女が取った行動は、自分ファナと、リズを守るための防衛本能に過ぎない。だというのに、己の罪を理解しているのか等と疑問を抱くなど、傲慢以外のなにものでもない。

 真に懺悔すべきは、力を持たない者――私だ。

 何もできなかった私の代わりに、ファナが全て代行してくれたのだ。

 ならば真っ先にすべきことは、心配なんかじゃない。

 リズは膝を突き、両腕でしっかりとファナを抱きしめた。


「ファナ……ごめんね……。何もできなかった私の代わりに……」

「泣かないで……。リズの苦しみは理解できる。わしも……ああする以外に……リズを守る方法が無かったから……」


 自分の弱さに反吐が出そうになる。この惨状は、己の弱さが招いた結果だ。

 そのせいでファナに頼り、助けてもらうことしか出来なかったくせに、無意識に責任からも逃れようとしていた自分は、なんと愚かなのだろう。


「リズが居たから――わしは、リズを守りたかった。だから、リズが生きていてくれて嬉しい」

「うん……私もだよ……。ありがとう……ファナ……。本当にっ、ありがとう……っ」


 せめてリズに悲しい思いをさせないように。リズは涙ぐみながらファナに微笑みかけた。そのリズの光に映える表情を見て、ファナもリズへ微笑み返す。

 何度も死を覚悟した。なんども生きることを諦めそうになった。

 だが自分たちは確かに生きている。この腕の中にある温もりが、他ならぬその証明だった。

 リズとファナは互いの体を、もう一度抱きしめ合った。



「……ところでリズ、冥界に送れる?」


 リズが落ち着いてきた頃を見計らって、ファナが尋ねた。


「えっと……儀式の手順は解るんだけど、術式は分からない……」


 リズがしゅんとしていると、ファナがその頭にぽんっと手を置いた。


「……じゃあ、私が教えてあげる」

「術式組めるの!?」


 リズの質問には答えず、ファナは歩き出した。それが答えだと言わんばかりに。

 ファナの口調はいつも通りだったが、やや声が弾んでいた、気がする。あくまで気がする程度でしかないが、ひょっとしたらあまり感情を動かさないと思っていたファナでも、楽しいと思うことがあるのだろうか。

 ――リズが生きていてくれて、嬉しい。

 いや、ここは自意識過剰だと言われようが、先のファナの発言を信じることにしよう。


「はい、先生」


 いつもとは逆の立場だというのが可笑しくて、リズは思わず笑った。自分をこんなにも好いてくれている人が、すぐ傍に居る。それが無性にこそばゆかった。

 リズは立ち上がり、ファナの後ろに続いた。


 ファナはどこからか木の枝を拾ってくると、それを使って地面に大きな円を描き始めた。皮肉にも、草花が枯れたおかげで土のキャンバスは広い。複雑な術式を組むためのスペースは十分だ。

 ファナは幾何学的な模様を、不規則に見えて効率的に、無作為に見えて計算された配置に、次々と円の中に描き入れていく。リズはファナの背後でそれを静かに見守った。

 ファナが口にした「冥界に送る」というのは、死んだ者の魂を冥府へ送り出す「冥府送還サムサーラの儀」のことを指す。やることは単純だが、神の御使いクレールスという魔法職に従事している者、あるいは学術機関で専攻している者以外は、術式を正確に構築することはほぼ不可能とされる。

 その理由は、術式の複雑さと繁雑さにあった。

 神の御使いクレールスを生業とする者たちでさえ、その術式を簡略化させるために専用の道具を幾つも持ち歩いているくらいだ。だのにファナはその術式を一から組み立てようとしている。

 100人に聞けば99人は口を揃えて言うだろう。「お前はバカか?」と。後ろ指を指されて笑われるかもしれない。それ以前に「出来るわけがない」と信じてもらえないかもしれない。

 それほどに、至難の業だ。

 しかしそれも、人並み外れた記憶力と、術式を理解する高度な知能を有しているのであれば話は別だ。

 始めこそ驚いたが、リズはそれ以上動揺することはなかった。

 ファナの内に秘めた才能を垣間見たのは、なにもこれが初めてではない。

 リズが見つめる中、ファナはその手を一切緩めることなく、ひとつひとつ丁寧に術式を地面へと描いていく。

 ふいにリズは思った。

 ファナにとって、この行動は償いなのかもしれない。

 今でこそ道具を用いて儀式リートゥスを簡略化できる時代になったが、昔は魔法を簡略化させるための道具などどこにも存在しなかった。だから眼前で地面と向き合うファナのように、昔の人はこの時間さえも冥府送還サムサーラの儀の一環としていたのかもしれない。

 ひた向きな小さな背中を見て、リズは改めて彼女の強さを実感させられた。

 彼女は、いつでも自分と向き合っている。だからこそ、己が犯した罪から逃れようとはせずに、向き合うことができた。でなければ、10歳にも満たない子供が、「私が殺した」などと断言出来るはずがない。

 ファナだったら――目の前で母を亡くしたとしても、すぐに自分のすべきことを実行出来ただろう。リズのように、三年間もその時の悔いを引きずるようなこともしない。

 いつまで後ろ向きで、過去を引き摺ったままの自分でいるつもりだ……?

 己の眼前には、ひたすらに前を向き、自らが為すべきことを為そうとする背中がある。


「私に出来ること……。しなければならないこと……」


 リズは一度目を閉じて考えた。

 決して忘れてはならないことが、ある。

 リズは目を開き、ファナの邪魔をしないように遠回りして、氷漬けになっているエジルの傍へ歩み寄った。

 周囲の草花は枯れて散ってしまっていたが、茎や双子葉には朝霜が残り、その水滴が陽の光を反射して、昨晩の夜光虫ステラーとはまた違う輝きを見せている。

 不謹慎かもしれない。性格が変なだけかもしれない。でも、決して自分たちの罪をないがしろにしたいわけではない。

 この場所にある自然は死んでしまった。

 ――それでも、美しい。

 そう思った。

 生命は、ただでは滅びない。人も、植物も然り。

 その命を何かに託して、明日へ繋いでいくように――。

 自らの命を繋いでくれた彼の傍に近寄ると、氷に覆われている表情がよりはっきりと見えた。リズは胸の内にもやもやとするものを感じて視線を逸らしそうになるも、ぐっと堪え、彼の死に顔をその目にしっかりと焼き付けた。

 エジルは安らかな表情で、眠るようにこと切れていた。役目を全うしたと言わんばかりの、満足げな顔だった。

 そのときリズはエジルが投げたペンダントのことを思い出し、記憶の中でそれが落ちた付近へ足を運んだ。


「あった……!」


 ペンダントはリズたちが寝ていた場所からさほど遠くない位置に落ちていた。傍らには小さな銀の板も落ちていた。リズはそれらを拾い上げる。

 ペンダントは純金製で、片翼の天使の羽が描かれたロケットが着いていた。ロケット部分を開くと、中にはどことなくエジルの面影を感じる、若い女性の写真が入っていた。おそらく彼の娘のだろう。

 リズはロケットを閉じると金属の板とともに握りしめた。それからエジルの許へ戻り、再度向き直る。

 エジルが奮戦し、時間を稼がなければ自分たちもヴィラーに襲われていた。しかし彼は自らの死すらいとわず、最後まで戦い続けた。

 彼の願いを聞き入れることしかできないが、リズはその決意を言の葉として紡ぐ。


「エジルさん、任せてください……。私がこの手でちゃんと、ご家族にお渡します……。ありがとうございました……っ!」


 誉れ高き王国騎士団の騎士道を貫き続けた彼に、リズは深々と頭を下げた。

 死者に声は届かない。それは何度母に語り掛けても返事をもらえなかったことから、重々承知している。だからこの行動も無駄かもしれない。

 否、無駄じゃないと思いたい。守られた命が、此処に在るのだと伝えたい。

 貴方の死は、無駄になんかしないと――。

 しばらく経って、リズが顔を上げようとしたとき、彼の手元で何かが光っているのを発見した。幸いにも指先はほとんどとけており、引っかかっているのを取るだけだ。


「失礼します……」


 断りを入れてから、リズはエジルが持っていた小さな銅の板を手に取った。それは先ほど地面に落ちていた銀の板と形が全く同じものだ。

 よく見ると、そこには精霊文字で何かが刻まれていた。リズは精霊文字は書けないが、ある程度読むことは出来る。


「えっと……れ……しお……? レシオ!」


 それは彼が担いでいた兵士の名前だった。

 この金属板は、騎士団の教習課程を修了し、一人前の兵士と認められた者にのみ授けられる、謂わば階級章だ。

 エジルもいつか飲みの席で部下たちに語っていたことがある。


「俺はシルバー止まりだが、娘にはゴールド以上になって欲しいな!」


 「娘に越えられてどうするんだよ」とツッコミを入れられていたことを思い出す。

 実際に目にするのは初めてだったが、騎士団に所属する騎士にとって、これは大事なものだ。

 もしやと思い、リズは辺りを探ってみる。しかし他の兵士の階級章は見当たらなかった。身体を食われた兵士のは残っていないようだ。

 リズは二つの金属板を鞄の中にしまい、移動した。

 もう一方のヴィラーの氷塊は、至る所に空洞が見られた。転化した際に成長させた腕や爪、腹部が変化した口や背中の触手といった部分は既に朽ち果てて木炭のようにすすけてしまっている。宿主の命が絶えたために、マナを食っていた部分が形状を保てなくなり、マナ化したのだろう。わずかに残された人の部分である顔や胸などは、血も抜けているせいか青白く、腐敗が既に進行していた。おまけに体中変形していたせいで面影はほとんど残っていない。

 それでも、生きていた頃の彼の姿をかろうじて留めていてくれたことが、リズにとっては嬉しかった。


「良かった……戻ってくれて……」


 あの醜い魔物と化してしまった状態のまま別れを告げたくはなかった。


「本当は、もっと話さなきゃいけないことが色々あったのにね……」


 リズはヴィラーの足元で、寄り添うように足を伸ばして座った。そして、彼の亡骸を見上げる。


 なんとなくは、分かっていたんだ。

 ヴィラーがどうしてこの村に残ってくれたのか。

 それを知っていながら、知らないふりをして、あなたに甘えてばっかりだったね。

 どう接していいのか分からなくて、どんな顔で向き合えばいいのかも分からなくて。

 でも、それでもあなたは……そんな私に優しくしてくれた。

 それがいつの間にか当たり前になっちゃって――。

 いつからか、ワガママになっちゃったね。

 皆の前で、私の味方をしてほしいなんて。

 十分すぎるほど優しさをもらっていたはずなのにね。おかしいよね。

 最後も、なんだかんだ私を守ろうとしてくれたんだよね。

 転化して私を殺さないように――。


「ありがとう、ヴィラー。でも……でもね……?」


 本当は、私はあなたに――。


「バカだよ……私も……あなたも……」


 結局、お互いに言いたいことは言えないままだったね――。



「リズ、終わったよ」


 背中にファナの声がかけられた。どうやら術式が完成したらしい。

 リズは溢れる涙を拭い、空を見上げた。


「ヴィラー、これから行くところは、きっと素敵なところだよ……? それこそ、仕事熱心なあなたが、仕事を放り出して私のところに来ちゃうくらいに……」


 洟をすすり、涙を堪えた。

 もう涙は流れてこない。大丈夫。


「だから、そこから見てて、ヴィラー。私――強くなるからっ……!」


 リズはそういって笑うと、ヴィラーの手に触れ――そして離れた。


 リズはファナのもとへ戻ると、出来上がった術式を眺めた。

 死者は正しいやり方で冥界へ送ってあげなければならない。そうしなければ人の魂は永遠に地上に残り続け、やがて死よりも悲惨な結末を迎える。

 魂を食らうことを目的とした凶悪な魔物を呼び寄せるための餌と成り果てるか、あるいは自身が新たな魔物となって人を襲うか――。

 いずれにせよ、亡くなった者の魂は未来永劫浄化されることなく、永遠に地上を彷徨い続けることとなる。

 それを防ぐために行うのが――冥府送還サムサーラ


「……もし私が死んだら、ファナが送ってね」


 リズがお願いすると、ファナは「やだ」と即答した。


「送らなくてもいいように往生するか、ファナより長生きして」

「……がんばる」


 ファナはリズと会話をしながらも、黙々と手を動かしていた。最後の仕上げに、円の中に幾つか文字を描き入れているようだが、リズには一切読めなかった。


「それは?」

「契約の言葉。天使語。なんて書いてるかは分からない」

「えっ? 契約って……そんなんで大丈夫なの……?」

「意味は知ってるから大丈夫。“我、の名の下に汝のたもとに死者の魂を送らん”――要するに、見送るからちゃんと面倒見てください、っていう契約の言葉」

「なるほど。そのが私たちなのね」

「そう。……リズも書く?」

「うん。貸して」


 リズは木の棒をもらうために手を差し伸ばすが、ファナは代わりに右手を載せてきた。


「え……っと?」

わしが書く。この術式は最初から最後まで同じ者の手によって描かれなければならない」

「そっか、そうだったね。じゃあよろしくっ」

「うん……出来た」


 リズはファナの手をしっかりと握った。

 ファナは描き終えると、木の棒で四か所にある特徴的な模様を指しながら説明した。


「上にあるのが天界アストゥルム。左が人界オルビス。下が魔界インフェルナム。右が冥界カエルムを表している。それぞれの世界は専用の箱舟アルカで移動しなければならず――されど、4つの世界はひとつの線で繋がっている。すべての線が交わる中心には何も書いてはならない。そして大事なことはもうひとつ、各記号を象徴する模様には、必ず死線しせん生線せいせんを通すこと。この死線と生線の間に、さっきの契約の言葉と、専用の呪文カンターメンを描き入れる。一番外郭には、実際に詠唱する呪文カンターメンを書くこと――簡潔に説明するとこんな感じ」


 ファナは説明を終えると木の棒を投げ捨てた。

 簡潔なのか……?

 甚だ疑問に思うリズ。しかし言ってることはとても解りやすい。

 しかしこの術式における一番の難点は、それらの術式を正確に組み込めるかどうか、ということなのだが……。


「この術式を木の棒で地面に書くって……絵が得意な私でも難しいよ」

「リズは絵を描く時に魔法は使うでしょう?」

「もちろん」

「それと同じ」


 つまり術式を組み立てるためにも魔法を使った、ということか。


「ファナは無色レクサスの私と違って魔法も使えるし、私よりも物知りだよね」


 正直、ファナには知識面において勝てる気がしない。冥府送還の術式も理解するのがやっとで、「はい、じゃあ組み立ててみて」と言われても出来る気がしない。きっと本を読んでる数も質も、ファナの方が圧倒的に上だろう。

 純粋に感想を述べただけだったが、ファナは珍しく声を大にして反論した。


「そんなことない! リズの方がよっぽど物知りだ! 私はリズみたいに常識は知らない。感情も……。だから、エジルさんたちにどう報いればいいか分からない。から、出来るだけのことはやったつもり……だけど……」


 徐々に語気を失くしていくファナ。しまいには俯き、指を絡め合わせてモジモジしていた。その言動から、彼女の自信の無さが窺える。

 己のしたことが正しいか否か、判別がつけられないでいる。

 思い返せば、ファナはリズよりも小さい時に両親を亡くしていた。おそらく、今まであまり褒められたこともなければ、叱られたこともないのだろう。

 それに、エジルたちの死が平気だなんてことはなかった。リズが勝手に強いと思い込んでいただけで、彼女はまだ見た目相応に、子供だった。ただ知識や能力が優れているだけで、大人と同じ扱いをしていいというわけではない。

 リズは、自分が抱いていた勘違いを是正した。

 ファナもまた、感じやすく、傷つきやすい、繊細な心の持ち主だ。ただ、それを表現するのが苦手なだけで。


「……だいじょうぶだよ。きっとファナの想いはエジルさんたちに届いてるから……。もちろん、ヴィラーにも、ね?」


 リズはファナの頭を優しく撫でる。

 そしてひとつの決意を胸に抱いた。

 彼女の傍に居よう。彼女が進む道を示していけるように――。

 いつでも前向きでいてくれた母のように――。


「……うん……ありがとう……」


 ファナがうっすらと微笑んだ。綺麗な青い双眸を細めて。

 まだ笑い方を知らない人形ドールのような不器用な笑みだったけれど、それは初めて彼女が見せた笑顔だった。


「リズ、詠唱は一緒にやろう……?」

「うん」


 リズはファナの提案に頷き、ファナの手を握り直した。

 互いの手を握りしめながら、二人は声を揃えて短い詠唱を行う。


――なんじの地に眠りし者を妨げることなかれ。

――れよりの旅路は、森羅万象に約束された安息のみち

――みち行く者に、魂の導きの有らんことを。

――魂の旅路に安寧をリクウェイスカット・イン・パーチェ


 詠唱を終えた途端、地面に描かれた陣の中心に黄色く発光した球が出現した。光の球は宙へと浮かび、徐々に膨張していくのかと思いきや――次の瞬間、地面に衝突し爆散――急速的に水面に波紋が広がるが如く、光の波動を地面に走らせた。

 その光の波動に触れた氷塊の中のエジルとヴィラーの足元から、縦に光が立ち上る。

 ――それは、空への道標みちしるべ

 それを合図に、頭、足、手などの末端から無数の小さな光の粒子がぽつぽつと浮かび上がり、二人の亡骸の粒子化が始まった。粒子へと変わった場所から順に、ゆっくりと、淡く光り輝きながら、踊るように空へとかえり始める。


「――死は終わりではない。死は、新たな生を迎えるための旅の始まりである」


 ファナが人界聖書オルビス・サクラ・ビブリアの一節をそらんじた。

 リズは無宗教であったがその言葉を聴いて、少しだけ重い荷が解かれた気がした。


「またいつか、きっと……」


 どこかで巡り合えることを信じて。

 リズはファナの手を最後まで離さずに、空へとかえっていくエジルとヴィラーを見届けた。




「……誰かいる」


 リズが儀式リートゥスの余韻に浸っていると、突如ファナがぼやいた。


「え? また――っ!?」


 咄嗟に身構えるリズ。しかし隣のファナは特に慌てる様子はなく、枯れた森に立つひとつの木の陰を指さした。


「あれ」

「あっ!」


 木の陰からこちらを覗いていたのは、昨日村に流れ着き悪魔と騒がれた黒い髪の少年だった。

 視線を向けたリズと目が合うと、ヴィラーがやっていたように両手を挙げて降参のジェスチャーをしつつ、へらへらと笑いながら姿を現した。

 少年は相変わらず鮮やかなまでの漆黒の髪に、漆黒の瞳をしていた。背はヴィラーと同じくらい高いが、彼とは対照的に体格は細い。反面顔立ちは整っており、中性的で精悍な顔つきはむしろ親しみやすさを抱かせるほどだ。彼から好戦的で暴力的な雰囲気は感じられない。

 黒髪の少年はこちらに歩み寄りながら口元を動かしているようだが、肝心の声がまるで聞こえてこなかった。


「さっきから何してるの……?」


 リズが尋ねると、少年は素っ頓狂な顔をした後、わざと大口を開けて自分の口を指さした。


「ちゃんと話しなさいよ……!」


 未だに警戒心を解かないリズを見て、少年は頭をポリポリと掻いた。そして掌を打った後、手と身体を大きく使って何かを訴え出した。ファナがそれに抑揚を一切付けずに声を宛てる。


『……実は、俺は、分身? した。違う違う、分裂……いいや、それは置いといて、突然、戦争になり、女を、誘拐して? 捕まっていたところから、必死で、逃げ出した。そこで、戦い? になり、お昼寝、していたら、いつの間にか、ここにいた』

「うっそ、誘拐? あなたもしかして……」

『ちゃうわーい! う~ん……』


 少年は剣を薙ぎ払うように手を振った後、腕を組んで考え込む仕草を見せた。


「ちゃうわーい、って何……? ちょっとファナ、適当なこと言わないでよっ」

「でも、実際にそう言ってた」

「え、うそっ!? ファナには聞こえるの?」

「ううん。でも――」


 ファナとリズが話をしている傍らで、少年は手をこまねいて二人の注意を惹き付けた。それを見たファナは少し少年に寄った。

 少年もどうやらファナの通訳を好意的に受け止めているらしい。ファナとアイコンタクトを取ってから、再び大袈裟に手を動かし始める。

 少年は五本の指を立てた後、指でマルを作り、もう一度指を五本立てた後、両手を使ってバツをつくった。

 それを見たファナは何故か何も言わずに、リズに視線を投げてきた。「今のはなんて言ったか分かる?」と言いたげな目をしている。

(私が聞いたのはそういうことじゃないんだけどな……)

 リズは思案し、少年の意図を推測する。


「半分正解だけど、半分不正解ってこと?」

『いえすいえす。ぐっじょぶぐっじょぶ。お前、やればできるな!』

「なんか腹立つわねその言い方……」

『俺じゃなくて、この幼女が言ったんだろ?』


 少年の言う通りだ。だが、ファナはリズとは違って語感まで正確に読み取っている節がある。感知能力が高いから、というのであれば納得だが。

 つくづく無色レクサス御名色みないろの差を思い知らされている気がして、リズは溜息を吐いた。

 

『そんなに怒るなよ。可愛い顔が台無しだぜ?』

「えっ……?」


 突如自分に向けられた甘い言葉に、リズは後退した。


「はっ!? へっ……ちょ、はっ!?」


 体が熱い。何を平然とこの男は――いや、今のはファナか?


「ちょっとファナっ!! ホントに冗談は辞めてってばっ!?」


 しかしファナは首を左右に振り、少年の方を指し示した。


「え……うそっ……だよね?」


 リズは少年の顔をまじまじと見つめる。しかし張本人であるはずの少年は、リズの動揺した顔を見ても無頓着な態度で首を傾げていた。


『俺、何か悪いこといった?』

「いや、悪くはない。でも、その態度は悪意ある」

『えー、んなこと言われてもなー』

「リズは純粋だから、あまり揶揄からかわないで?」

『いや、本心だけど』

「もー、二人で話してるとややこしいっ!! もういい、この話は終わりっ!」


 ファナと少年の会話――リズからすればファナの一人芝居にしか聞こえないのだが、居心地の悪さを晴らすことも兼ねて、リズは声を大にして流れをぶった切った。


「とにかく、あなたは悪い人ではなさそうだし……? まだ村の様子が分からない以上、まとまって行動した方がいいだろうし……と、とりあえずあなたのことは信用してあげるっ」

「リズ、ちょろすぎ」


 リズは目線で少年を殺す勢いで睨んだ。それに対し、少年は折れんばかりの勢いで首を左右に振って否定する。

 さすがに嘘ではなさそうなので、リズはファナに泣き付いた。


「ファナぁぁ……っ!」

「事実。リズは悪い男に引っかかりそうでわしは心配……。でも、リズの判断は間違ってない……と思う。わしも彼は無害だと思うから。色々と引っかかる点はあるけれど……」


 ファナは少年を見定めるようにじっと見つめた。ファナもリズと同じことを感じ取ったらしい。

 昨日はマナ循環が停止していたからという理由で半ば無理やり納得しようとしたが、これだけ近くに立っている少年のマナの気配は今でもまったくと言っていいほど感じられない。彼が生きているのが不思議なくらいだった。

 そのことも含め色々と気掛かりだが、まずは村がどうなったのか確かめる必要がある。精霊樹がそびえるこの草原に終ぞ村長が現れなかったことから察するに、最悪の展開を想像しがちだが、それでもこの目で確認するまでは分からない。


「とりあえず、村に行こう! まだ魔物がいるかもしれないけど……それで良い?」


 リズの問いに、ファナと少年は頷いた。

 それから何も言わずにファナが先だって歩き出す。右手で少年の手を握り、少年を引っ張った。


「リズは私が守らないといけない。でもおぬしの通訳もしなければならない。だからこそ、手を繋いだ。変なことしたら殺す。文句ある……?」


 歩きながら、ファナが少年に釘を刺していた。あまり威圧感は感じられない可愛らしいものだが、昨日の魔法を見せられた後だと本気に感じてしまう。

 少年はファナの恐ろしさを知ってか知らずか、大人しく手を繋いで歩いていた。

 リズの目には、太陽ソルの光に映える黒と青のコントラストが映えていた。

 そこで、ふとあるひとつの変化に気付く。


「あれ……ファナの髪、あんなに青かったっけ……?」


 暗青色だった彼女の髪は、いつのまに青みが増していた。色とずっと向かい合ってきたリズにこそ解る程度の些細な変化でしかないが、以前よりも蒼くなっているのは確かだ。

 変化は、気付かないだけで少しずつ訪れているのかもしれない。

 それは、リズの日常も。リズがいつも見てきた、この崖の上の景色も。

 臨んだ形ではなかったにせよ、少しずつ変わり始めている。

 それならば、いつか母が言ったように――。

 もしかしたら、自分も変われるかもしれない。

 立派な御名色に染まれるかもしれない。

 リズはそんな日が来ることを願いながら、枯れた精霊樹の草原を後にした。

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