第4節 赫月の夜


「賢者様かあ……」


 リズは長老に聞かされた話を思い出しながら、ふと右隣のベッドを見た。リズがいつも使っている寝台の上では、黒い髪の少年が寝息を立てている。

 普段なら何をするでもなくすぐ眠りにつく時間だが、今夜はなかなか寝付けなかった。

 一度に色々なことがあり過ぎて、理解が追いつかない。日常にこれほどまで変化をもたらしたのは、すべて――。


「よく寝てるなあ……」


 リズは上半身を起こし、足を寝台の上で滑らせて床に膝を着けた。寝台の縁に腕をのせ、波乱の展開をもたらした張本人を観察する。

 魔光灯まこうとうの淡い光に照らされた漆黒の髪は、浜辺に居たときよりもハッキリと、やはり見事なまでに黒い。想像していた黒よりも黒い、完璧な純黒じゅんこく

 ぼーっと眺めていると、ふいに長らく忘れかけていた衝動が込み上げてくる。

 リズは床に置いてあった魔法靴に手を伸ばした。いつもならこのタイミングで歩行補助の術式を組まなければならないが、長老が術式をブーツに直接編み込んでくれたおかげでその手間は省ける。

 リズは右脚にだけ靴を履くと立ち上がり、真っ暗なダイニングに出た。右と左で床を踏む高さが異なるのが気になるが、「少しの間だけだからね……」と言い訳をぼやく。

 リズは寝室から漏れる光だけを頼りに、暖炉の傍に置いてあるボロ布であしらった鞄を手に取って寝室へと戻ると、寝ている少年の傍らでかつては常時持ち歩いていた画材道具を広げていった。最近は使うことは無くなっていたものたちだ。


「よしっ――」


 意気込み、三色の光源が入った瓶に手を伸ばす。


 ――ドンドン。


 突然玄関の戸が叩かれた。来客だ。


「リズちゃん? 私よ、イブハムよぉ!」


 リズが返事をするより早く、扉の向こうから声が聞こえてきた。


「イブハムさん。こんな時間にどうしたんですか……?」


 玄関の戸を開けると、孤児院でよく顔を合わせる老齢の女性、イブハム夫人が外に立っていた。その手には布を被せたバスケットを持っている。


「あのぉ……さっきはごめんねぇ。謝りたくって来たのよぉ。リズちゃんが魔女とか悪魔だなんて、違うって知ってるのに、私リズちゃんの味方が出来なかったじゃないぃ?」


 イブハム夫人は右手でリズの手に触れながら、必死にゆるしを請うてきた。彼女は村で何か問題が起きるたびにこうしてリズのもとへ訪れるのだが、リズは彼女を恨んだことは一度もない。

 孤児院の子供たちを相手にする際はいつもイブハム夫妻と顔を合わせるが、夫妻はリズに対して村の大人たちのような偏見はもたず、他の子供たち同様優しく接してくれた。リズは夫妻宅で何度も昼食を御馳走になっている。

 リズが大人たちからの嫌がらせに耐えられたのは、子供たちとイブハム夫妻の存在が何よりも大きかった。

 ヴィラーもそのうちの一人ではあったが――。

 リズは嫌なことを思いだしそうになり、無理やり思考を中断して夫人に微笑んだ。


「いえ、そんなお気になさらなくても大丈夫ですよ。イブハムさんにはいつもお世話になっていますから」

「でもぉ……」

「あ、この前のボースストロガノフ、とっても美味しかったですっ! すごく烏滸おこがましいんですけど……良かったらまた、御馳走になってもいいですか?」

「リズちゃん……ええ、ええ、もちろんよぉ! 子供たちも喜ぶから、いつでも孤児院にいらっしゃいねぇっ? あ、これは主人が焼いたパンの余りなのっ! ふふふっ、売れ残りで悪いのだけどぉ、主人は自信作だって言ってたから。リズちゃんが感想くれたら主人も喜ぶわよぉ、うふふっ」


 リズはイブハムから受け取ったバスケットの中身を確認した。余りものだと言っていたが、触った感じからすると焼きたてだった。リズの家を訪れる口実として、わざわざオーブンを加熱し焼いてくれたのだろう。


「わぁっ、すごい……良い匂い! いつもありがとう……! 旦那様にもよろしくお伝えください」

「ええ、わかったわぁ。それじゃあ、おやすみなさいねぇ」

「おやすみなさい。夜道にお気をつけて!」


 戸口でイブハム夫人を見送り、イブハム夫妻の心尽くしに笑みを零しつつ、戸を閉めながら一口ちぎって食べてみる。


「うん……おいひい……っ!」


 咀嚼する度にサクサクと心地よい音を奏でるパンを味わいながら、リズはバスケットを机の上に置いた。寝る前にどれか一つだけ食べて、残りは明日の朝食にしよう。

 そんなことを考えていると、ふいにこちらを覗く視線を感じて、リズは首を巡らせた。家の中に誰かが侵入してきた形跡はない。リズは足と口を止め、気配を探った。


「…………?」


 暗がりに、何か妙な違和感を覚えた。其処には何も居ないはずなのに、何かが居るような気がする。リズは口の中のパンを飲み下した。

 じっと目を凝らしていると、寝室の魔光灯の光が明滅しはじめる。


「え、なんで……?」


 魔光灯はマナが発光して輝く照明器具だ。輝度を安定させるためにガラスで覆っており、家の中に突風でも吹いてマナが乱れるか、意図的に消さない限りその灯が消えることはまずない。

 やがて明滅が止み、寝室から漏れていた光が――消えた。


「“光よル-クス”。あれ……? “光よルークス”!」


 リズはダイニングの天井付近に掛かっている魔光灯に火を灯そうと試みるも、何度呪文を唱えても光は点かなかった。

 幸い窓から月明りが差し込んでいるため、完全な暗闇に支配されたわけではない。ただ、闇に潜む気配が気掛かりでリズは迂闊にその場から動くことが出来なかった。

 自らの鼓動が響いて聞こえるほどの静謐な空気の中、リズはひた部屋の隅、暗闇の中一点を見つめ、闇に眼が慣れるのを待った。

 徐々に徐々に、その暗き闇の中に、あるひとつの形を成した影が浮かび上がってきた。

 刹那――。


「どうしてわかったノ?」


 突如として、視線の先から少女の声がした。


「だれっ!?」


 リズは虚空へ問いかける。相手の姿はハッキリとは見えない。

 だが、リズの言葉に応えるように、闇の中からゆっくりと影が溶け出してきた。おもむろにその輪郭が浮かび上がってくる。

 それは光によって出来た影などではない。闇の中にそれ以上に深い闇をとすように、闇を抉るように闇のうつつに具現していくもう一つの闇黒あんこく

 筆舌に尽くし難いおぞましい光景に、リズは全身の毛が逆立つのを感じた。得も言えぬ恐怖が押し寄せる。

 逃げろ。

 全身が叫んでいた。しかしメデューサの魔眼と見つめ合ったかの如く、ぴくりとも体が動かない。

 つぎの瞬間、リズは目の前の恐怖を理解した。

 闇夜の中に闇を纏いて佇む、圧倒的な存在。肌にピリピリと伝わってくるような、高濃度マナの波動オーラ。そんな力を纏う存在等、リズの知る限り一つしかない。


「悪魔……ッ!」

「うん、せいかい。よく分かったネ。魔力まりょくは抑えてるつもりダケド……もっと抑えなきゃだめカナ? どう思う? ……うん、そうだネ。見つかると厄介だし、もっと調整しないとだネ……フフフ♪」


 闇の中に居るソレは、無垢な少女の声でそう告げるなり、笑った。

 次第にソレは人の姿を成していき、やがて木の床に足を着けた。影が落ちた床からはメキメキと音が聴こえてきた。暗くて何が起こっているのかは分からない。だが、周囲の物質マテリアルに干渉を及ぼしているという事実だけは理解した。

 それは同時に、悪魔が人界オルビスに降臨したことを意味していた。


(悪魔が現界げんかいした……!? どうして何もないところに現界できるの――!?)


 月明りが射しているはずが、闇の中の少女の姿はリズの目に映らなかった。光が射すことを、影が拒めるとでもいうのか、ソレは完全に闇の中に融けている。否、全身に闇を纏っているのかもしれない。

 それはまるで、ソレが光に照らされることを闇そのものが拒否しているかのように――。


「…………っ!?」


 ただの悪魔ではない。目の前の存在は、世界のことわりすらも覆してしまうような力を持っている、ただならぬ存在。

 悪魔という言葉すら霞んでしまう邪悪なる存在。マリゲニー? クリミナトレス? まさか、それ以上か――?


「……面白いネ。言葉を交えても倒れないヒトもいるんだァ……じゃあ、これならどうカナ……?」


 ソレは含み笑いをしたようだった。何かを始める気だというのは分かったが、リズは視線を逸らすことさえ許されない。


(いったいどうなってるの……これも何かの魔法……っ?)


 そしてリズが見つめる視線の先――闇の中に、ぽつりと色が浮かび上がった。赤々とした、血が滾るようなあかい色が闇の中に二つ。それは、闇の少女のあかい双眸だった。


「わァ、すごいネ! ボクの視線を見て正気を保っていられるなんてェ……あははっ! ねェ、にらめっこしてみてもいーイ?」


 心底楽しそうに、赫い双眸が細くなった。ソレは笑っているようだった。

 だが対峙していたリズはそれどころではない。少女が一言声を発する度に激しい頭痛が襲ってきて、鼻の下には暖かい雫が垂れてきているのが分かった。くわえて体中から汗が噴き出てきて、体中に針を刺されるような痛みが走る。

 痛い……暑い……痛い……苦しい……!

 ゆっくり、ゆっくりと、獄炎ごくえんあぶられ、なぶり殺されていくような気分だった。打擲ちょうちゃくされているわけでも、斬り刻まれているわけでもない。外傷を負わせずに、体の内から音もたてずに時間をかけて壊されていくような感覚。

 これが――悪魔。人が恐れる、絶対的な存在。

 リズは目の当たりにして初めて痛感した。やはり大人たちは間違っていた。

 寝室で寝ている彼など、あれだけ騒がれていた割に全然大したことない。彼が本当の悪魔だったとしたら、見た瞬間に死んでいたことだろう。今まさにリズの身に起きている異変が、あの場に居た全員に起きていたことだろう。

 本物の前では、問答など不要なのだ。存在を目の当たりにした瞬間に、人は為すすべなく死を受け入れなければならない。

 ――そうだ……私、死ぬんだ……。


「い……だ……し……くな……た……け……」


 自由を縛る謎の力に抗おうとするも、喉の奥から掠れた音を漏らすのが精いっぱいだった。

 このままでは本当に死んでしまう。あの日から三年、もう自分はどうなっても構わないとさえ思っていた。しかし絶対的な恐怖、死を直前にして初めて、リズはまだ死にたくないと思った。

 目の奥がじんじんしてきた。喉の奥から暖かいものが込み上げてくる。

 これはなんだ――?


「あ、やっぱダメだねェ。まだ全然制御しきれてないみたいだァ……実験に付き合ってくれたお礼に、いいこと教えてあげル。今日はだかラ、大変な夜になるヨ。頑張って生きてネ? フフフ――」


 ディエス・カエディス……?

 闇の中の少女は笑い声を残し、ゆっくりとその瞳を閉ざした。

 ふっ――と。

 瞬きをするような束の間。

 リズの家の中に完全な闇が戻ってくる。その刹那、リズは意識の糸が切れたように気を失った。


 ♪


 眼前で木がパチパチと音を立てて燃えるのを眺めながら、少女が溜息を吐いた。

 少女の両隣には全身鎧フルプレートに身を包んだ兵士がまるで置物のように待機しており、少女が手を動かすたびに頭部がガチャリと音を立てて動き、少女の機微を少しも見逃すまいと監視している。ならばと、少女が彼らの死角で指を動かし、魔法でこっそりと小石を飛ばしてみても見向きはしないが、足を動かしたときに地面の小石がジャリと音を立てると、即座に両隣からガチャリと音がした。

 少女は抜け目ない監視に唇を尖らせた。ついに退屈になり視線を彷徨わせる。

 少女の前を全身鎧フルプレートの兵士が何人も右往左往している。彼らは重そうな鎧姿で忙しなく動き回り、唯一全身鎧フルプレートを着込んでいない金色の髪の青年に逐一何かを報告していた。その人物は兵士たちに指示を与えるのに忙しいのだろう、少女がじーっと視線を投げ続けても、これっぽっちも返してはくれない。

 少女は諦めて小枝を拾い、焚火の中にポイっと投げ入れた。


「これだったら、お城に居た時の方がマシだったわ……」


 ぼやいて、少女は瞳を紅く光らせた。その瞳の輝きに呼応するように、目の前で揺らめく炎から小さなドラゴンが生まれ、少女はそれに頭上を自由に飛び回らせて遊んだ。

 ほどなくして土を踏む音が近付いてきた。


「申し訳ありません、やはり今日は野営になります」


 声をかけられた瞬間に少女の瞳の輝きが失せ、同時に頭上のドラゴンも弾けて消えた。少女は大人しく待っていなかったことを悟られぬよう、素知らぬ顔で応じる。


「そ、そう。それは残念だわっ」

「本当にそうお思いですか? ……姫様も、カルケルについては御存知でしょう?」


 青年は少女に訝しみの目を向けながらも、その隣に腰を下ろした。


「ま、まあ、一応は……?」


 少女のその反応に、青年はくすりと笑みを零した。


「姫様、私にはそう虚栄を張らないでくださいませ。私と姫様の仲ではございませんか」

「そうよね……ごめんなさい、嘘を吐いたわ……。わたしのこと、嫌いにならないで……?」


 願いを請う青年に、少女は目元に涙をにじませなが詰め寄った。


「大丈夫ですよ。私は絶対に、姫様のことを嫌いになったりはしません」

「本当に……?」

「ええ、本当ですとも」

「本当の本当に……?」

「ええ。ガブリエルにもラファエルにもアナエルにもミカエルにもカマエルにもサキエルにもカフィエルにも誓いましょう」

「そ、そう……それなら信じてもよさそうね……」


 ようやく焚火に視線を落とした少女の頭を、青年は優しく撫でた。

 少女の頭は魔導装束のフードで覆われていて、穴が二つ空いている。そこから少女の赤い髪が二本、触手のように飛び出ており、青年が少女の頭を撫でる際にそれを寝かせても、少女の触手ならぬ触髪しょくはつはすぐに屹立した。

 青年は話を続けた。


「カルケルで宿泊してもよろしいのですが、あそこは少々厄介な場所です。姫様を連れて入ることは出来ません」

「宿に泊まるだけなのに?」

「はい。姫様は、魔物よりも恐ろしい存在はなんだと思いますか?」


 青年からの突然の出題に、少女は首を傾けながら思考を巡らせた。


「神話に出てくるような神々様や、悪魔たちかしら」

「それはどうしてですか?」

「神々様は、乱暴者だもの。家族なのに、平気でお父様やお母様、兄弟を殺すもの。きっと彼らには人の心はないんだわ! 私だったら、絶対そんなことはしないもの!」

「なるほど」

「悪魔は、人に悪さをするでしょう? 操ったり、奪ったり……ぐええ。とにかく、色々よ。だからとっても恐ろしいわ……」

「姫様、その仕草はどこでお覚えに?」

「ぐええ――のこと? ルルディは知らないの? もう一度見せてあげよっかっ?」


 ルルディと呼ばれた金色の髪の青年は片手を挙げて少女の言動をいさめた。


「あ、いえ。できれば姫様の可愛いらしいお顔が崩れてしまうので、あまりやらない方がよろしいかと」

「そう……。ルルディが言うなら、やめておくわ」

「ワガママを聴いていただき、ありがとうございます」

「いいのよ。ルルディと私の仲だもの♪ それで、さっきのお話の続きは?」

「そうでした。姫様の答えは、ほぼ満点です」

「ほぼ? ほかにもあるというの?」

「ええ。魔物よりも恐ろしい存在として忘れてはならないのが――人です」

「人……?」

「はい」

「それは有り得ないわ。だって、人はみんな良い人よ。魔物より恐ろしいなんて……とてもじゃないけど信じられないわ」

「そうですね……まだ小さな姫様には難しいお話になりますが、この世界に暮らしている人は、皆が姫様の周りに居るような人ばかりではありません。人を人と思わぬような、人の皮を被った魔物のような輩もいるのです」

「そうなの……?」

「はい。カルケルという街には、そういった不逞な輩がたくさんいるのです」

「それは……怖いわね……」

「はい。ですから、今日はカルケルには寄らずに、ここで野営を致します。他ならぬ、姫様の安全のために」

「ええ、分かったわ……。ルルディの言うことなら、仕方ないわ……」


 少女の語気が弱くなったことに気付き、ルルディはすかさず少女の肩に手を置いた。


「姫様のことは私がお守りしますので、ご安心してお眠りください」

「ありがとう、ルルディ。でも違うの……私が不安なのは、そういうことじゃないの……」

「では、どうされましたか?」

「……ルルディのさっきの話よ。もし魔物が人の皮を被っているのなら、どうやって見分ければいいの……? 黒い髪をしているのなら悪魔だと解るけれど、人の皮を被った魔物は、見ただけでは分からないのよね……?」


 少女の真剣な瞳を前に、ルルディは燃え盛る炎を見つめ、考えた。

 それから、静かに口を開く。


「……お恥ずかしい話ですが、私では姫様にお教えできる方法は見つかりません」

「そんな……! それじゃあ、その人が鎧を着込んでいても分からないわ……」


 少女は周りに居る兵士たちを順番に眺めた。その行動で少女が暗に言わんとしていることを理解したルルディは、「この中にはいませんよ」と言おうとしたが、途中で口を噤んだ。


「ルルディ……?」


 少女に顔を覗き込まれ、ルルディは苦笑した。


「王国騎士団に身を置きながら、断言できないとは……申し訳ございません。まだまだ修業が足らぬようです……」

「……?」

「いえ、人の色を……私が決めていいものかと思いまして……」

「色……」

「不逞な輩は、たしかに存在します。ですが、すべてのものが醜悪な色の持ち主ではありません。その者がどのような色の心の持ち主かなどと、一兵士である私では決められないのです」

「心の色……」

「しかし、姫様は違います。私たちは姫様に仕える身。……ですので、姫様はご自身の御心を信じれば良いのです。さすれば、おのずと答えは見えてきましょう」

「……じゃあ、私はルルディを信じる!」

「え……?」

「私はルルディを信じる! だからルルディに仕える兵士たちも信じるわっ!」


 少女の半ば強引な持論に、ルルディは眉を曇らせた。


「なかなかプレッシャーが強いお言葉ですね」

「私、ルルディが大好きだもん!」


 少女の真っ直ぐな想いに、青年は思わず顔を背けた。


「……そのような勿体なきお言葉、私には――」

「本当よ! ルルディがもしウィルゴーの民じゃなかったら、私――」

「隊長! 大変です!」


 少女とルルディのもとへ兵士が駆け込んできた。ただならぬ気配にルルディは即座に立ち上がる。


「どうした?」

「それが、周囲を警戒していた早馬からの情報で……」

「……大気中のマナが乱れてる」


 兵士が報告しようとした矢先、言葉の先を継いだのはルルディの足元に座っていた少女だった。少女のフードから飛び出ている二本の髪がぴょこぴょこと上下し、少女は続けた。


「半径数十キロ圏内に、多数の魔力反応を感知っ! 十……ううん、百以上っ!」

「なにっ!? それは本当ですか、姫様!」

「間違いないわ……! こちらに向かって走ってきてる……人? いえ、違う……これは――」


「魔物の襲来だー!!」

「姫様、馬車の中へ!!」


 どこからともなく兵士の叫び声が響いた。その途端、ルルディは真っ先に少女を立ち上がらせた。


「お前たちは馬車を結界で守れ!! 何があっても姫様には近付けるな!!」

「はい!!」


 ルルディが血相を変えて指示する。少女は背後にある馬車の中へ駆け込み、扉を閉める直前に振り返った。


「ルルディ!! ……気を付けてね……っ!」


 少女の言葉に、ルルディは剣を鞘から抜き放ち、左の胸の前で立てて構えて見せる――誓いの構えを見た少女は馬車の中に入り扉を閉めると、両の手を合わせて縮こまった。


「ヤオエル様……ルルディたちを守って……」


 少女は震えながらもひた願う。

 しかし、窓から差し込む光は徐々に赤く不気味なものへと変わっていった。

 赫き月の夜の到来を告げるかのように――


 ♪


 生者は眠りにつき、辺りに完全な静寂が訪れたころ。

 壁に掛けられたガラスの中のあかりがジジジと明滅を繰り返す音の中で、黒髪の少年は目を覚ました。


 意識がぼんやりする。体を起こそうとしてひどい頭痛に苛まれ、ゆっくりと上半身を起こし、痛みで閉じた瞼をこじ開けて視覚情報を取り込もうと辺りを見渡す。

 そこは狭い木箱の中のようだった。ベッドやクローゼット、机などの調度品はすべて真新しさのかけらもない古木で出来ており、意識を失う前に見た建造物とは程遠いつくりをしていた。心なしか、以前よりも暖かい気候だ。

 正面の壁、上部には見たこともない意匠の電灯が吊り下げられており、静かな部屋の中で唯一音を発しながら、不規則に明滅を繰り返していた。


「んぅ……」


 扉の向こうから声がした。少年は床に足を下ろすと立ち上がり、半開きになった扉を開けて部屋を出た。

 出てすぐの壁をいくら手繰っても灯りを点けるスイッチのようなものはない。諦めて、月明りと、部屋から漏れる明滅する光だけを頼りに慎重に足元を手繰りながら進んだ。

 ふと、つま先が何かにぶつかった。やがて暗闇にも目が慣れてきて、机の陰に人が倒れているのを発見した。声を発したのはこの人だろうか。それにしてもなぜこんなところで寝ているのか。


「………………――っ!?」


 大丈夫ですか。そう声をかけようとして、声が出ないことに気付いた。息が声帯を通っている感覚はあるが、いくら踏ん張っても音となって出てくることは無い。

 どうして……? 頭の中に疑問ばかりが渦巻き、焦りを感じていたときだった。


「にゃーぁ」


 猫の鳴き声がした。その声はすぐ近く、少年の足元からだった。目を向けると、闇に融けるような黒い毛並みの猫が、満月のような丸い双眸を少年に向けている。


「………………」


 お前、いつからそこに……?

 少年はそう問いかけようとして、声が出ないことを改めて思い知らされる。ところが、黒い猫はそれに応えるように「にゃー」ともう一度鳴くと、ピョンっと跳んで机の上に乗っかった。

 目で黒い猫を追いかけると、その先に少女が居ることに気付く。

 月明りだけが窓から差し込む中、ぼうっと浮かび上がるような不思議な雰囲気の少女が椅子に座りながら、近くに寄ってきた黒猫の頭を撫でていた。


「やぁ、元気にしてた?」


 少女は手を動かしながら、言葉を投げかけてきた。少女の台詞は、あまりにも自然な口調だった。まるで友達と話すときのような気軽さと、純粋にこちらの体調を気遣うような優しさがこもっている。初対面で、しかもこの状況でかける言葉としてはあまりにも不適切だ。


「私もね、言いたいことは色々あるけど……今はまだ、じゃないんだ」


 少女は眼下の猫に目を向けたまま、独り言のように語った。


「本当はこんなことしてる場合でもないんだけど……どうしても、キミに会いたくて……」


 言って、伏せていた目を少年へ向ける。月明りを受けて輝く少女の瞳は、鮮血が如く赤々と輝いていた。

 少女のその瞳と目が合った瞬間、胸の奥がざわつき、動悸が激しくなる。少年は思わず胸を押さえて床の上にうずくまった。

 それを見た少女が、至極残念そうにつぶやく。


「やっぱり……まだ早いみたいね」

「にゃー」

「解ってる。もうそろそろ行かないとだよね」


 少女は猫に向かって告げると立ち上がり、月明りの届かない暗がりへ移動してから、


「死なないでね」


 それだけ告げて、闇に融けるように少年の前から姿を消した。

 少年は少女を追いかけるように――外へ飛び出した。

 まさに、その瞬間だった。


 ドーン――!!


 ♪


 爆発のような、地割れのような地を揺らす重厚な地響きの音で、リズは意識を取り戻した。

 ふいに、遠くで悲鳴のような叫び声が聞こえる。


「なに……っ?」


 事の異常性はすぐに理解した。平和だけが取り柄のこのフィッシャドーフ村に、狂気の叫び声が飛び交うことなど有り得ない。魔物か、本物の悪魔が現れたのか……いずれにせよ、それだけ緊急事態だということだ。


「にげないと……ぐっ――きゃっ!?」


 立ち上がろうと脚に力を入れるも、脚に上手く力が入らないせいでリズは床に崩れた。足元を見ると、右脚の靴が脱げていた。這いずり、手を伸ばして魔法靴を手に取り、慌てて足を通す。椅子を支えに立ち上がり、外へ出るために玄関の戸を開けた。

 外は深夜とは思えないほどの喧騒に包まれていた。視界奥の家屋からは火の手が上がり、黒煙とともに隣接している家々が倒壊する瞬間がはっきりと見えた。ただの火事……という訳ではなさそうだ。まだこの混乱が何によって引き起こされているのか判然としていないが、平和だったはずの村に恐怖が渦巻く様子は、地獄絵図と呼ぶに相応しい光景だった。

 視界の端で赤い宝玉が光り、リズは慌てて叫んだ。


「長老!」

「リズ、まだここにおったのか……?」


 リズの声を聴いて、長老は早足にリズのもとへ寄ってきた。


「いったい何が起こったんですか……?」

「魔物じゃ。魔物が大挙して来おった」

「魔物……!」

「そうじゃ。村の結界が破られたのじゃ。兵士が逃げる時間を稼いでくれているが、そう長くはもたないじゃろう……。この村を捨てなければならん……!」

「そんな……! 私ははどうすれば……?」

「よいか、リズ」


 長老は震えるリズの手を握り、身に纏ったローブとその体でリズの視界――火の手に包まれていく人と家屋の様子を隠した。


「森の中へ逃げなさい。そして森を抜けた先にある、精霊樹の下へ行くのじゃ。決して街道へ行ってはならん。街道へ出れば四方八方から魔物が襲ってくるからの」


 長老は子供をあやすように優しく告げる。そして視線で森の方へ続く道を指し示した。


「よいな?」


 皺だらけの掌がリズの頬に触れた。リズはその温もりを離さないように右手で押さえつける。


「長老は……? 一緒に逃げよう……?」

「ワシはやらねばならぬことがある。お主が逃げるだけの時間は稼ぐつもりじゃ」

「嫌だよ……そんなこと言わないでよ長老……っ!」

「なぁに、ワシは死なん。お主が生き続ける限り、ワシは死なないという契約を交わしたのじゃ」

「ホントに……?」

「ホントじゃ。後から向かうわい、先に行って待っていておくれ」

「…………はい、分かりましたっ」


 リズが涙ながらに力強く頷くのを見て、長老は己が役目を全うするために災禍さいかの中心、悲鳴のした方へと走っていった。

 長老ならば魔物相手でも魔法で対抗できる。長老は強い。大丈夫、心配はいらない。リズは自分にそう言い聞かせ、森の方へ脚を向けた。

 そこでハッとなり、リズの脚が止まった。目の前に広がるのは闇だ。意識を失う前に見た闇の中にいた悪魔のことを思いだし、脚が動いてくれなくなった。リズの脚では今すぐにでも逃げないと、見つかった瞬間魔物に食い殺されてしまう。

 早く逃げないと……走らなきゃ……!

 焦るばかりで一向に脚が進まない。家がメキメキと音を立てながら倒壊する音がした。またどこかで悲鳴があがる。

 ひとりで立ち向かうには、目の前の恐怖はあまりにも大き過ぎる。


「あっ――!」


 そのとき寝室で寝ていた少年のことを思いだした。逃げる時に寝室を確かめてこなかった。まだ彼は寝室で寝ているかもしれない。

 リズは迷うことなく家の中に引き返した。

 家の中は異様に赤かった。火事で外が燃えているからではない。窓から射す月の光が赤かった。

 赤い光が、自分の家をまるで別世界のものと錯覚させる。


「ディエス・カエディス……」


 悪魔の少女が口にしていたその単語を思い出し、ぼそりと呟く。その言葉の意味は分からないが、まるで予言するような物言いから察するに、魔物たちが襲来してきたことと関係があるのかもしれない。

 リズは寝室へ向かった。開け放たれた扉を押し開き、中を覗く。しかし寝台の上に彼の姿はなかった。


「うそ……!?」


 念のために寝台の陰も確認してみるが見当たらない。どうやらリズより先に目を覚まして逃げたようだ。

 安心したのも束の間。


「きゃっ!?」


 いきなり寝室の壁がぶち破られ、何かがリズの眼前を通り過ぎたかと思うと、それは反対側の壁に生々しい音をたてて打ち付けられ、血飛沫が飛び散った。


「ひ――っ!?」


 リズの顔に生暖かい水滴が浴びせられる。顔を拭ってから飛来物を確かめると、それは見覚えのある村の老人の上半身だった。半分から下は無残に引き裂かれ、顎も魔物にかみ砕かれたのか、半分しか残っていない。視ていたくはないが、鮮烈に網膜に焼き付けられるグロテスクな光景に、喉の奥から何かが込み上げてきそうになる。咄嗟に口を手で覆う際に、手に付着している液体が血であることに気付き、全身の血が凍り付くのを感じた。

 体が震える。腰が抜けていて立ち上がることもできない。逃げたい。でも逃げられない。

 このままでは自分があの老人のように殺されてしまうと解っていても、思う様に体が動いてくれなかった。


「リズ!!」


 ヴィラーの声がした。顔をあげると、いつのまにかヴィラーが家の中に入ってきていた。


「ヴィラー! どうしてここに……!?」

「それはこっちの台詞だ! まだこんなところにいたのか……立てるか……?」


 リズはヴィラーの力を借りてなんとか立ち上がることが出来た。若干足元が覚束ない。ヴィラーは片方だけ地面に転がっている靴を見つけて、リズの足元へ置いた。


「早く村の外へ逃げよう。今なら魔物の目を盗んで村の外へ逃げられる……!」

「うん……ありがとう……ヴィラー」

「お礼はいい、いくぞ……!」


 リズが靴を履き終えるとヴィラーはリズの背中に腕を回し、支えながら家の外へと出た。それから森とは逆の方へリズを誘導しようと歩き出す。


「待って……だめ、だめだめっ! ちょっと待ってヴィラー! そっちはダメ……!」


 リズはヴィラーの力に抗い、腕の中から抜けた。


「おいなに言ってるんだ。入口から街道へ逃げるぞ! 行商で使ってる馬車がまだ残ってる、近くの街まで避難するんだ、いまならまだ間に合う、さあ来い!」

「出来ないよ……っ!」


 長老と言っていることが真逆だから。長老は街道は危ないと忠告してくれた。


「街道は危ないんだよ……森を抜けた先の精霊樹のところまで逃げるように言われたの! ヴィラーも一緒に逃げよう!?」


 リズはヴィラーの手を握って、ヴィラーとは反対の方向へ脚を進めようとするが、ヴィラーが動く気配はなかった。


「なんでだよ、あそこは行き止まりだろ!? あんな所に行ったら袋のムースじゃないか! なあリズ、俺と一緒に逃げよう。今魔物ヤツらは浜辺の方に逃げたジジイたちを追ってるさっき森へも何体か入っていくのが見えた、だから! 森は危険なんだ俺と一緒に来い!」


 ヴィラーに腕を掴まれ、強引に連れて行かれそうになるリズ。


「ダメ……離して! そっちにはいきたくない……離し……――きゃっ!?」


 それでも抵抗しようとするリズの頬に、ヴィラーの平手がぶつけられる。


「黙って俺についてこいッッ!!」


 そしてヴィラーが叫んだ。次の瞬間だった。


「うぉああ!?」

「きゃっ!?」


 突如飛びかかってきた魔物にヴィラーが襲われ、リズの手元から引き剥がされた。

 狼のような姿をした魔物はその体躯に黒い炎のような体毛を揺らめかせ、その双眸と体中に浴びた返り血を不気味に輝かせている。

 魔物はヴィラーの腕に噛みついたまま突進し、ヴィラーを引きずって何度も木柵に打ち付けた。打ち付けられた木柵が壊れ、また次も壊れ、それでも抵抗するヴィラーを弱らせるために顎を左右に捻ろうとするが、ヴィラーが必死に足掻き、魔物は首をプルプルと震わせていた。


「ぐぁぁぁぁぁっ!! このっ……クソっ! クソォッ! クソったれェッ!!」


 リズの手足ならばすぐに噛み砕かれてしまいそうな程、鋭い牙と大きな顎をもっていたが、ヴィラーの剛腕はすぐには食い千切れなかったらしい。ヴィラーは腕に噛みついている魔物に何度も拳を食らわせていた。赤い血潮を顔に浴びたせいで、ヴィラーは片目を細めながら戦っていた。

 一方で、先ほどの反動で倒れていたリズは打ち付けた後頭部を抑えながら体を起こした。


「ヴィラー……?」

「に、逃げろリズ……ぐっ、この……野郎ォ!! リズ、俺に構うなぁ!!」


 ヴィラーは自分の体躯と同等のサイズはあろう魔物を投げ飛ばし、血相を変えて叫んだ。自らの血で赤く染まった口許を、精一杯繕って見せる。


「俺が時間を稼ぐ……ぐふぅっ!? クソぉ……っ!」


 しかし一度は倒れた魔物はまたすぐにヴィラーへと襲い掛かってきた。ヴィラーは飛びかかってきた魔物と地面を転がり、やがてマウントをとられ首元へ噛みつこうとして来る魔物の顎を目と鼻の先でかろうじて押さえ、なんとか制止させていた。鋭い牙に手を貫通させることも厭わず、痛みに耐えながら。既に血を大量に流しているヴィラーが食い殺されるのも、もはや時間の問題だった。

 またどこかで男性の叫び声があがる。たまに辺り一帯が光るのは、村長が攻撃魔法を発動させたときの光かもしれない。

 皆戦っているんだ。一人だけ、逃げてばかりはいられない……!

 リズは一瞬の逡巡ののち、再度家の中へと駆け戻った。そして寝室に転がっていた画材道具が入った布鞄を手に取り、その中から立方体クーベとペンを取り出した。急いで外に出て、ヴィラーのもとへ駆け寄る。


「……リズ……っ!?」

「なんとか耐えて!」


 リズはヴィラーの傍で屈むと、ヴィラーに噛みつこうとしている魔物の顎の隙間に立方体クーベをねじ込むと、ペンの柄でそれをコンコンと叩いた。

 そして、唱える――


成長せよプログレッシォ!!」


 すると一瞬、立方体クーベの表面に幾何学的な模様が浮かび上がった。

 その後立方体クーベは形を変化させ、めきめきと音を立てながら細い棒状の枝を魔物の喉の奥へと伸ばしていく。それはあらかじめ定められた形をかたどるように規則的に枝を分かち、魔物の口腔内で成長を続けていった。ほどなくして枝は複雑に折れ曲がり、魔物の顎を可動域の外へと押し開き始めた。もはやヴィラーが顎を押さえていなくとも閉じることができなくなり、ヴィラーはその隙に魔物の下から転がり出た。

「グォォォ――!!」


 唸りながら魔物がのた打ち回る。その間もバキバキと体内を引き裂く音が耳をつんざき、やがて胴体部分から木の枝が皮膚を突き破って出てくると、地面に突き刺さり徐々に太い幹へと成長していく。

 魔物が完全に動けなくなる頃には、そこには床に根を生やして固定された、リズ愛用の画架がかが完成していた。


「趣味の悪い芸術アートだな」

「私の作品じゃないから、走ろう!」


 リズはヴィラーの腕をとって走り出した。背後では、魔物のうめき声とともに、肉片が裂けるような生々しい音が未だに響いていた。


「あれ、まだ生きてるのかな……」

「分からん……普通なら死ぬが、普通が通用しないのが、異形の存在だからな……」


 ヴィラーは片目をつぶり、痛みに堪えながら脚を動かしていた。足元も覚束ない。

 さっきとは逆だ。今ではリズがヴィラーを先導する形で走っていた。

 血を流してから大分経ってしまっている。ヴィラーは果たしてどのくらい持つだろうか……。


「ごめん治癒魔法使えなくて……。精霊樹の下まで行けば誰かいるかもしれない。そこまで頑張って……!」

「…………」


 走ることに精一杯なのか、ヴィラーから返事はなかった。リズは今にも倒れそうなヴィラーに向かって、励ましの言葉を投げかけ続けた。



 通い慣れた木々の間の道をひた走り、途中森の奥に建てられている長老の家の前に出たが、そこは既に瓦礫の山となっていた。森に魔物が入っていったというヴィラーの言葉は本当らしい。だとしたらいつ襲ってくるかも分からない。今となっては、長老の言葉を信じて走るしかない。


「くっ!!」

「うっ……きゃあっ!?」


 ヴィラーが地面の凹凸おうとつに脚をつまずかせて地面に手を突き、つられてリズも転んだ。


「大丈夫……? しっかり……っ!」


 リズはヴィラーの腕の下に肩を入れ、下から持ち上げようとするがひと回りも大きいヴィラーの体重を支えることは出来なかった。おまけに脚を止めたせいか、脚の神経が悲鳴を上げ始める。


「ぐぅ……ッ!!」


 こんなに長時間走ったことはない。当然といえば当然だが、リズの脚は予想以上に早く限界がすぐそこまで来ていることが分かった。

 自分の体重だけならまだしも、ヴィラーの体重は耐え切れない。


「おい……よせ……」

「だめっ!! ……はぁ、はぁ……もう一度やってみるから……」

「なあ……おい、リズ! どけ、お前が邪魔で立ち上がれねえ!」


 ヴィラーが怒鳴った。


「う、うん……ごめん」


 リズはすぐにヴィラーのそばを離れた。だが、ヴィラーは一向に立ち上がろうとはしない。


「ヴィラー……どうしたの……? 早く立ってよ……」

「俺はもうダメだ……」

「そんな……弱気になっちゃだめだよ! ヴィラーしっかりし――」

「これを見ろ!」


 再び力を貸そうとするリズに、ヴィラーは変色した腕を見せた。それは先ほど魔物に噛みつかれて負傷した部分だ。今は黒く変色し、壊死しているように見えた。

 よく観察すると、傷周辺の皮膚は黒く、そこから腕全体に広がるように血脈が浮かび上がり、赤黒い何かが大きく脈打っていた。ヴィラーの体の中には、魔物とでもいうべき別の何かが寄生してしまっている状態だった。

 それは実際に見るのは初めてだが、リズは過去に本で読んだことがある。


「転化……!」


 転化――それは生物が保有しているマナに、外的要因によって何らかの影響が及ぼされた際に別の存在へと変化してしまう症状のこと。本来この症状は死者が冥界送りされないまま地上に放置され、その魂が魔物に食われるなどした際に起きる突然変異のことを指す。しかし生者にそのような症状が発症するなど聞いたことがなかった。

 このままだとヴィラーは確実に生命を落とすだけでなく、リズに襲い掛かる魔物と成り果てるだろう。

 ヴィラーは己に迫る死を悟ったのか、静かに首を振った。


「なあ、リズ。さっきは無理矢理連れて行こうとして悪かったな……」

「……なによ、いまさらなんでそんなこと言うの……?」

「今だから、だ。伝えられるのは……今しかない。だから、言わせてくれ――俺を見捨てて逃げることも出来たのに、お前はそうしなかった。……リズ、キミは小さいころから変わっていない。とても心の優しい、女の子だ。お前は悪魔なんかじゃない。俺にとっては、天使だ……自信を持て。そして――」


 リズは何も言えず、何をすることもできない。ただ涙を流しながら、黙ってヴィラーの言葉を聴くことしか。

 彼が最後に伝えたいという、その気持ちに応えるために、ヴィラーの言葉の続きを待った。


「生きてくれ……ぐっ、おおおおおおおおお――ッッ!!」


 その言葉を最後に、ヴィラーは最後の力を振り絞るように雄叫びを上げながら立ち上がった。息も絶え絶えに、今にも倒れそうなほどに衰弱しきっていた。

 だがそれでも、ヴィラーは倒れなかった。そして、


「じゃあな……」


 振り返ることなく、ヴィラーはよろよろと歩き去っていった。


「なによ……バカぁ……!」


 ヴィラーがリズを置いていく形で去ったのは、彼の優しさ故だ。「置いて行け」と言えば、リズに罪悪感を持たせてしまうから。そう考え、自ら引き返すという選択肢を選んだ。ヴィラーはそういう男だ。

 だからこそ、逆に悔しかった。

 待って、と言えない自分が。だいじょうぶだよ、と言えなかった自分が。

 最後まで彼の優しさに甘える形で別れてしまったのが――悲しかった。

 これもすべて、己の無力さが招いた結果だ。せめて治癒魔法が使えたなら、延命できたかもしれないのに……。


「逃げなきゃ……」


 いつまでも立ち止まってはいられない。ヴィラーの言葉通り、なんとしても生きなければならない。生きて、生きて、生き延びる。彼の想いに応えるためには、それしかない――。


「逃げるの……!! 生きて……生きてやるッ!」


 リズは自分を鼓舞しながら、ヴィラーとは反対の方向へ走り出した。



 脚の神経痛に耐えながら走ること数分。やっとのことで崖の上にそびえ立つ精霊樹の下に辿り着いた。

 その瞬間にリズは脚で体重を支えられなくなり地面に崩れた。草の地面がクッションになり大した痛みはなかったが、得も言えぬ疲労感が全身に付き纏い、もう一ミリも動ける気がしなかった。

 精霊樹の生えた崖の上は、夜になると夜光虫ステラーと呼ばれる小さな精霊が辺りを飛び交い始める。青白い光が夜空に浮かぶ星のように輝く幻想的な光景は、癒しのスポットとしてリズのお気に入りの場所だった。今日の昼にお昼寝しに来ていたのが、遠い昔のように思えた。この半日で色々なことがあり過ぎた。


「ここまでくれば……」


 先ほどの惨事が夢であったかのように、辺りは夜の静けさに包まれている。危険はなさそうだ。

 ガサッ。と音がした。顔をあげる力は残っていない。魔物かもしれない。


「リズ……」


 それは聞き覚えのある声だった。なんとか手を突いて顔をあげると、精霊樹の陰から、顔を覗かせるファナの顔が見えた。


「なぁんだ……ファナ、無事だったんだね……!」


 リズは安堵して寝転がり、仰向けになった。ファナは静かに歩いてリズの隣まで来ると、ワンピースの裾を折って腰を下ろした。月と夜光虫ステラーの光を受けて、ファナの碧眼が神秘的に輝く。


「……ここに来れば、リズに会えるって……じいが言ってた」

「ファナ、長老じいに会ったの?」


 碧眼の少女は、こくんと頷いた。


「他の子たちは?」


 首を左右に振る。


「イブハムおばさんは……?」


 再度首を振る。


「……おばさんたちも、みんなも、大人たちがいる方へ逃げていった。わしは無理矢理連れていかれそうだったけど、隙を見て逃げてきた。じいを信じたかったから」


 ファナは頭の切れる子ではあったが、皆をここへ連れて来ることは出来なかったようだ。そもそもファナを拾ってこの村に連れてきたのは長老であるため、彼女自身が真っ先に長老を尋ねて判断を仰いだのだろう。

 それにしても一人でここまで逃げてくるとは……大したものだ。


「……ファナ、いい? もし魔物が来たら、私を置いて逃げるのよ……分かった?」

「……どうして?」

「私はもう走れそうにないから……ファナが逃げるだけの時間は稼げると思う抵抗は出来ないけど……餌としてなら」


 ファナは首を振った。


「リズを置いては逃げない」

「ファナ、ダメよ……あなたまで襲われちゃう……!」

「逃げない。私が守る!」


 ファナの意思は頑なだった。ファナはそういって、リズに抱き付いてきた。リズは自分を見捨てないというファナの気持ちが愛おしくて、ファナの身体を抱きしめた。


「………………ありがとう」


 リズの声は震えていた。涙が次々と零れてくる。まだ決して危機が去ったと決まったわけではないが、どうかこの子だけでも助けられたら……と切に願う。

 きっとファナだって怖いだろうに、そんな様子は微塵も感じさせずに、ずっと年上である自分のことを想ってくれている小さな勇気が頼もしかった。

 自分は弱い。こんな小さな子供にまで気遣われて、勇気をもらっている。


「……ファナ、怖くない?」

「リズが居るから怖くない」

「私も、ファナがいれば怖くないよ……」


 大人ぶろうと思ったが、失敗した。まだちょっと手が震えていて、思わずファナを抱きしめる腕に力を込めた。


「人」


 と、胸元でファナが呟いた。リズは体を起こして前方を見据える。暗闇でよく見えないが、ファナは立ち上がり茂みの方をじっと見据えている。

 ファナは人だと言ったが、魔物かもしれない。そもそもなぜ姿を現す前から分かったのだろうか……?

 そんなことを考えていると、やがて鎧を鳴らす音が聞こえてきた。派遣士たちだ。先頭にいるのは隊長の――


「エジルさん!」


 リズが叫ぶと、肩に派遣士を担いでいたエジルが声を張り上げた。


「リズ! 無事だったか……!」


 安堵の色を浮かべて微笑むエジルだったが、


「……来るッ」


 というファナの言葉が聞こえた次の瞬間。


「うぉっ!?」

「――っ!?」


 森の方から一本の大木が、横に寝た状態で飛んできた。リズとファナは咄嗟に倒れて躱す。大木がリズたちの頭上を越えて崖下へと落ちていった。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁ――!!」

「レシオお!?」


 次の瞬間には、悲痛な叫びが辺りに響き渡った。リズは再度体を起こし、何事かとエジルの方へ視線を向けた。

 エジルが肩に担いでいた派遣士が宙に持ち上げられた状態で腹部を鋭い爪で貫かれていた。エジルが見上げるその奥には――


「嘘でしょ……――ヴィラー……ッ!?」


 それは見紛うことなき、ヴィラーの姿をしていた。だが彼はもう人の姿を留めていなかった。身長は2メートルを優に超え、手や脚が異常なまでに伸びていた。腹部は肥大化し、何かが中で蠢くように時折ドクドクと脈打っている。黒く揺らめいている肌の周りには赤黒いマナの波動オーラが漂い、翡翠色だった彼の瞳は白眼など残らないほどに黒く染まっていた。衣服は血で紅く染まり、肌は至るところが腐敗し、顎は大きく外れ、口許からは人とは思えないほど鋭く尖った犬歯が覗いていた。ヴィラーが先ほど着ていた服を魔物が身に着けていなかったら、とてもじゃないがヴィラーだとは気付けなかっただろう。それほどまでにヴィラーは恐ろしく、禍々しい醜悪な姿に変貌していた。

 そして、ギロリ、とヴィラーの肩には今までなかったはずの人間の瞳を模した大きな瞳が生成され、前方で剣を構えているエジルを睥睨した。


「捕食して成長、変態してる……」


 隣で観察していたファナが呟いた。


「うそ……まだまだ強くなるってこと……?」

「――うっ、うおああああ、ああああああああああああああああ!?」


 自らの腹を貫かれたレシオは痛みで意識を取り戻したのか、沈痛な叫び声をあげながら、ヴィラーの異様に伸びた手で空へと高く掲げられていった。


「ウグォォォォォォォォォォォォォォ――!」


 ヴィラーが大きく空気を震わせながら咆哮した。空いている左手の先、鋭い爪の生えた指を揃えると、鎧ごと彼の身体を貫き――。


「ッ!?」


 リズはすぐにファナを抱き寄せ、視界を塞いだ。すぐにレシオの悲鳴は聞こえなくなり、代わりに肉体を引き裂くような、聞くに堪えない音が鼓膜に張り付いてくる。それから立て続けに骨を噛み砕くような音が聴こえてきた。


「うそよ……うそ、ヴィラー……ダメ、聞いちゃダメ、ファナ、私の声だけを聴いて、いい?」


 なんでもいいから別の音を聞いていないと気がおかしくなりそうだった。リズは念じるように言葉を呟き、ファナの感触を手で確かめながら気を紛らわせた。


「……あれはヴィラーじゃない」


 耳元でファナがリズの言葉を訂正した。


「え……?」

「あれは魔物。正確に言えば、転化したヴィラーだけれど」

「ファナ……どうしてそれを……?」

「本で読んだ。でも、起こり得るかどうかは、実際に見るまで判別できなかった。でも、これで本の記述は正しいと証明された」


 ファナは知っていることを、ただ淡々とリズに説明した。前々から頭のキレる子だと思っていたが、やはり他の子供とは違う。そして、あの惨状を見ても一切動揺していない。

 なんて――


「ファナは、どうしてそんなに――」

「お前らぁ! 生きてるかぁ!?」


 エジルの声がした。見ると、エジルたちは三人がかりで豹変したヴィラーと剣を交えて戦っていた。


「エジルさん!! 倒せそう……?」

「無理だ! ぐッ……なあ、コイツ、とんでもなく強い……! 攻撃を受けきるのがせいいっぱ――ぐぉあっ!?」


 言葉の途中でエジルはヴィラーの薙ぎ払い攻撃によって視界左へ大きく弾き飛ばされてしまった。ヴィラーは攻撃を畳みかけようと、エジルへ追撃を仕掛けに行く。


「隊長!! やらせるか――ぎぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――!!」


 ヴィラーの行く手を阻み、剣を振りかざした派遣士の斬り付けをいとも容易く受け止めると、そのまま腹部にできた腹が派遣士に噛みついた。


「あぁぁ……はぁぁ……ははは、はは……」


 彼の腕はパンを食い千切るように切断され、魔物の腹の前でヘタレ込んでしまった。


「おい、バカ、早く逃げろォ!」


 エジルの叫び声虚しく、彼は、大口を開けたヴィラーの腹の口に飲み込まれてしまう。まさに弱肉強食。強者が弱者を蹂躙する光景。食物連鎖の上位者を目撃し、恐怖のあまり戦意を喪失していたもう一人の派遣士は、ついに剣を放り捨てて逃げ出した。


「うっ……うわぁあああああああああっ!! 俺は王都に帰るッ、帰るんだぁぁぁぁ!」


 が、ヴィラーがそれを赦すはずはなかった。


「あぐぉぉっ!? あぁぁぁぁ……いやだっ……放してくれぇっ! 放せぇ……はな――ごばぁっ!?」


 ヴィラーの伸びた腕が彼の両脚を切断し、痛みに悶絶する暇もなく頭を鋭い爪で穿たれた。

 リズは咄嗟に目を背けた。いずれ自分もああなってしまうのか。

 そんな想像をしているリズの傍らで、草を踏みしめる音がする。


「ちょ、ちょっとファナ……? どこいくの……?」


 いつのまにリズの腕の中から抜け出たファナは、ゆっくりとリズの前へと歩み出た。


「ファナ!? くっ――」


 リズは立ち上がろうと力を振り絞るも、すぐに地に伏した。


「ファナぁ――!!」


 リズは叫んだ。ファナはエジルを助けようとしている……? あの小さな体躯で、武器も持たずにあの魔物と化したヴィラーに挑むなんて、無謀過ぎる――!

 だが自分にはもう力は残されていない。ファナが先に死ぬなんて……そんなの、見たくない……。

 リズは現実から目を背けるために、俯いた。もはやじっと死を待つしかないのか……。


「……どうして、じいがここへ来るように言ったのか。リズは分かる?」


 ふいに、すぐ近くにはいないはずのファナの声が、耳元でハッキリと聞こえてきた。

 リズは顔を上げる。目の前にはファナの小さな背中が見えた。身体は正面に向けたまま、肩越しにこちらを向いて立っている。そして彼女の唇が動くと、その唇の動きに合わせて彼女の声が耳元で響いてきた。


「……ここはマナ濃度が他よりも高くて、子供の私でも魔法が使えるからなんだよ」


 それだけ言って、ファナは前方でエジルに攻撃を仕掛けているヴィラーを見据え、手を宙へかざした。

 そして、告げる――


「集え――」


 刹那、まるでファナの命令を聞き入れるが如く、周囲を飛び交っていた夜光虫ステラーがファナの周辺に次々と集まっていき、無数に集う光たちが徐々にファナの体を光り輝かせていく。


「魔法…………!?」


 光が収束し、凝縮されていく最中さなか、ファナの周囲ではマナの流動による空気の流れが発生し、森の木々を、草原の草花を揺らし始めた。とてつもないほどの魔力量を蓄えていることが離れていても感じることが出来る。

 ファナは目を閉じ、精神を研ぎ澄ましていく。


「やれェェェ!! 俺事ぶっ飛ばす気でいけェェ!!」

 

 大気の異変を察知したエジルが叫んだ。エジルは今もなお、前方で囮役としてヴィラーの攻撃を耐え凌いでいた。


「エジルさん、早く逃げてっ!」

「俺は発動の瞬間に何とか離脱する! もしダメでも、全員くたばるよりはマシだ! うぉっ!?」


 ヴィラーが突進攻撃を繰り出し、ファナのかざした手の先――有効射程から逃れた。エジルは咄嗟に交わしたが、立ち位置を調整してヴィラーを再度射程圏内へとおびき出す作戦に出る。


「おらどうした! こっちに来いよヴィラー。悪魔だって恐れてた存在になっちまった気分はどうだぁ!? こっちに来て聞かせてみろぉ!」


 魔物に対して煽りなど通用するのか。

 だがリズの心配は杞憂に終わった。ヴィラーは肩の目に血を走らせ、エジルを睥睨した。


「おっかねぇなぁ、おい……。離脱のタイミングはリズ、お前に任せる!!」

「……うん、分かった!」


 咄嗟に返事はしたが、ファナが何節のどの程度の威力の魔法を唱えようとしているのかが不明だ。そこはもう空気マナを読むしかない。リズも意識を集中させ、ファナの声に耳を傾けた。

 辺りを震わす大気のざわめきとは異なり、静謐なまでに研ぎ澄まされたファナの――大詠唱が始まる。


『オケアノスの深淵しんえんに眠りしあお眷属けんぞくよ、

 我が呼び声に応え降臨せよ――』


 詠唱がファナによって紡がれていく。あとは唱え終わるまでエジルがヴィラーを足止めできればいい。

 ――いや、待て。

 ファナが唱えようとしている魔法は明らかに上級以上の魔法だ。正確な位階はリズでは判別出来ないが、空気のざわめきや肌がぴりぴりとする感覚から、未だかつて類を見ない規模の魔法が顕現けんげんされようとしていることが解る。

 そして呪文には様々な文言や切り口があるが、大洋であるオケアノスの眷属の名を用いる詠唱はそう多くはない。魔法の威力は、呪文の長さ、及び用いる言葉、その対象の存在の大きさに比例すると言われている。

 ――とすると、下手すればファナの前方、広範囲に存在する生命が死に絶えるほどの威力を誇る魔法が顕現してもおかしくはないということだ。そうなっては、詠唱者の後方に居なければ決して安地とは言えない。

 エジルのような王国の騎士であれば、戦争で広範囲を屠る火力を持つ魔法の威力を想像することなど容易なはずだ。


「エジルさんっ……!! ファナが唱えている魔法は広範囲魔法みたいっ!! 前方に居たら危ない!!」


 リズは早々に叫んだ。しかしエジルは、なおも離れようとはしなかった。ヴィラーから目を背けることなく、その場から動かずに剣技だけでヴィラーの攻撃をいなしている。


「エジルさん――!!」


 ファナの詠唱は続く――


『フィーニス・アエテルナム――顕現けんげんせし氷獄ひょうごく雪塵せつじん

 の地の平穏を乱さんとあだする敵に、

 永久とこしえ終焉しゅうえんを与え給え――!!』


「エジルさんっ!!」

「うおおおぉぉぉぉお!!」


 ファナの詠唱が終わりを告げようとしていたまさにそのとき、今まで防御に徹してきたエジルが一気に攻勢に出た。



「うおぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 エジルが雄叫びをあげた。魔物が繰り出す鉤爪の振り下ろし攻撃をパリィ。そこから一瞬の隙を突いて懐に飛び込み、肩の目玉に自身の魔力で威力を高めた剣戟――地を這う龍が如く対象を突き刺す一撃を放つ。


臥龍衝破斬がりゅうしょうはざんッッ!!」

「グァァァァァァ!!」


 エジルの一撃を食らった瞬間、魔物の肩にあった眼球が鈍い音を立てて爆散し、魔物は悲鳴を上げて大きく退いた。確実に有効打となったらしい。


「あばよヴィラー! お前のことは忘れないぜ……!」


 暴れるヴィラーを尻目に、エジルは走り出した。これであとは、ファナが高火力魔法でとどめを刺すだけでいい。

 ――そのはずだった。


「エジルさん、うしろっ!!」


 リズの声が聞こえた。次の瞬間には、魔物の背中から無数の触手が伸びてきて、逃げようとしていたエジルの脚に絡みついてきた。


「ちィっ!?」

「エジルさん――!!」


 エジルは一度は触手を斬り捨てたものの、続く二本目、三本目をいなし切れずに足を掴まれ、ファナの眼前で地に伏した。

 ファナの詠唱はもう終わる。

 もう間に合わない。


「リズ!! これを家族に……!!」


 エジルは懐からペンダントを取り出すと、リズがいる方へ向かって投げた。その瞬間、ヴィラーがエジルを自分のもとへと引き寄せていく。

 ああ……俺はトンだ貧乏くじを引いちまったらしい……。

 王都に居る家族を残して遠方で崎守さきもりの任に就かなければならないというだけで、とんだ不幸者だと思った。あまつさえ何度も杯を交わした自分の部下を目の前で魔物に食い殺され、終いには家族にもう一度会いたいという願いさえも叶わなくなってしまうなんて――。

 不思議と、悔いはなかった。騎士団を志したときから、国民を守ると決めていたから。最後に、二人も救ってやれるのなら……。

 ただで食われるわけにはいかない――


「クタバレこの悪魔やろぉぉぉぉ!!」


 エジルは剣を引き寄せられる勢いに乗じ、再度剣をヴィラーの腹部に突き刺した。しかしヴィラーは今度は怯まずに、鉤爪を高く掲げる。

 その瞬間だった。

 魔法を発動するための絶対条件となる魔法の名を、ファナが叫んだ――。


「ちくしょう……っ」


 ♪


絶対零度ゼルム・アブソリュートゥム――ッッ!!』


 それは一瞬――。

 空間が大きく歪むような衝撃波が走った。空間に裂け目でもできたのかと錯覚するような時空の波が甲高い音と共にファナの前方を走り抜け、ファナが立っていた場所から前方、扇状に視認できるすべて――森の木々や草花、宙を漂っていた夜光虫ステラーなど、あらゆる物体の時間を一瞬にして静止させた。

 それは――そこに存在するありとあらゆるものが動くことを禁じ、息をすることも許さない絶対凍土ニヴルヘイム氷獄ひょうごくの具現。

 その衝撃は反動でファナの小さな体を後方に大きく吹き飛ばし、背後にいたリズを巻き込んだ。リズはなんとかファナを受け止めるも、精霊樹に背中から衝突する。

 背中の激しい痛みを感じたが、なんとか堪えたリズが徐々に目を開けると、目の前には温暖な気候であるはずのフィッシャドーフでは滅多に見ることのできない、北大陸ノルデ特有の気候として有名な、雪と氷による白銀の世界が広がっていた。


「………………っ」


 リズは言葉を失い、ただただ唖然とした。先ほどまで惨劇が起こっていた場所とは到底思えないような、星の瞬きが如き煌びやかな光の粒子が、夜光虫ステラーの青白い光を受けて輝いている。その中には、口許を引き結び死を覚悟したエジルと、異形の存在と成り果てたヴィラーは醜悪な姿のまま凍結し、氷のオブジェとなっていた。

 凍り付いた地面が白い月明りを反射しているためか、夜とは思えないほどに鮮明に見渡すことが出来る。しかしそこは、リズがよく知るいつもの草原。ただ今このときばかりは、季節が入り混じったような不思議な光景だったが、静けさといい、凍り付いた空気のにおいといい、風に揺れる精霊樹の葉擦りの音が、赫い月の夜の終焉を物語っている。


「ファナ……ファナ、大丈夫……?」


 リズは自分の胸の中で意識を失っているファナに呼びかけた。ファナの氷属性の魔法によって周囲の気温が一気に下がり、吐いた息が白くなって出てきた。


「……なんとかおっけー」


 先ほどまでの静謐な声の響きはどこへやら、なんとも気の抜けたファナの返事に、思わずリズの気も緩んでしまう。


「……眠い」


 絶大な威力の魔法を使用し、体内のマナが放出されたことによる反動だ。いくら周囲のマナ濃度が高いとはいえ、僅か10歳で環境干渉レベルの魔法を使えるとは……将来は自分よりもずっとずっと優秀な魔法使いになるに違いない。


「頑張ったね……。ゆっくりお休み……」


 ファナの頭を撫でてやるとファナは目を細め、次第に寝息を立て始めた。かくいうリズも、限界が来た。まるでファナの眠りに誘引されるように。リズもそのまま、深い深い眠りの中に落ちた。

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