第3節 恋に堕ちた天使と悪魔


 八百年ほど昔。人界オルビスは、ヒトならざる者たちの手によって破滅を迎えようとしていた――。

 天界アストゥルムの主である絶対神ゼウスに対し悪魔たちを統べる魔界インフェルナムの覇者、魔王サタンが神を天から地へとさんと二度目の総攻撃を仕掛けた日から数えて二百年が経過し、第二次だいにじ天魔戦争てんませんそうは激化の一途を辿っていた。

 御名グローリアを冠する最高位天使――熾天使セラフィムを筆頭とする神の軍勢も、魔王サタン名代みょうだいとも称される最高位の悪魔――偽神プセウドテイ率いる魔王軍、どちらの軍勢もすたおとろえることはなく、絶対的存在を賭けた両者による直接対決も毎日のように行われていた時代。

 の地で行われていた神と魔王の戦いの衝撃は、我々人類が暮らしているこの世界――人界オルビスにも絶大な影響を及ぼしていた。地殻変動、火山噴火、雷雨、津波などの天災が毎日のようにの地を襲った。見上げる空は歪み、大気中のマナは乱れに乱れ、多くの精霊が死に絶え、大気は日に日に汚染されていった。生命いのちの安らぐときなど何処にも無く、人類は皆二度目の神々の黄昏ラグナロクが訪れたのだと悟った……。

 神と魔王の頂上決戦は、理論上どちらかの陣営の魔力が尽きれば終焉しゅうえんを迎えるとわれていた。その事実は一度目の決戦の歴史から裏付けられていたが、天魔てんまの覇者による戦争は数千年単位で続くことが前提とされていた。千年戦争せんねんせんそうと称される所以ゆえんでもある一度目の歴史を知るが故に、人はこの地獄の日々が後八百年は続くだろうと絶望していた――。

 ところが。千年続くはずの戦争はその日、二百年続いた戦争が嘘のように終わりを迎え、世界に平穏が訪れた――。



「――はて、なぜじゃろう?」


 長老が突如語り口を止め、疑問を投げかけてきた。

 

「え……っと……戦うのに飽きた……とか?」


 リズは精一杯頭を捻って口にしたが、あっさり首を左右に振られた。


「うむ。確かに二つの世界をべるあるじたちの気分次第では、すぐに戦争が終わるじゃろう。じゃがかみ魔王まおうも、その日の天気次第で気分が左右されるリズのように純粋な心の持ち主ではない」

「私そこまで子供じゃないよ……?」

「もし本当に神と魔王が気まぐれであったなら、いつまた戦争が始まってもおかしくはない。じゃが八百年が過ぎた今となっても、天魔てんまの覇者は停戦状態のまま均衡を保っておる。……それは何故じゃと思う?」

「うーん……分かんない。どうしてなの?」


 長老は机の上に身を乗り出し、眉毛の奥の瞳を細め、声を潜めて教えてくれた。


「実はな、両者にとって予期せぬ事態が起こったのじゃ」

「予期せぬ事態……?」


 長老は一つ頷くと、語り口に戻った。



 神と魔王は善と悪、相反する存在である。

 どちらかが存在する以上、もう一方も存在する――『二元論デュアリズムス』の代名詞と呼ぶに相応しい存在として何世紀にも渡って語り継がれてきたほどに、両者の力は拮抗していた。互いにその存在を忌み嫌い、決して相容れない関係であるが故に、いにしえより住む世界を分かち、今も来るべき宿敵をほふる日のために力を蓄えている。

 両者は世のことわりそのものであるが故に、不変である。無論、主君に付き従う天使と悪魔も。

 絶対的存在である主君同様、同じ場所に居合わせれば殺し合いをするのが常だ。

 ――だがしかし。両者にとっても予期せぬ事態が起きた。

 それは、第二次天魔戦争が終結したその日。

 決して交わるはずのない白と黒。

 その二つの存在――天使と悪魔が恋にちた。



「恋……!?」

「そうじゃ」

「天使と悪魔が!?」

「そうじゃ」

「うそ!?」

「ホントじゃ」



 それはすぐさま両陣営に知れ渡った。これに激怒した神と魔王は直ちに休戦し、駆け落ちした裏切り者を始末することに躍起やっきになった。どちらも己の意に叛逆はんぎゃくしたとして、その者らの罪をゆるすことはなかった。

 ……だが、それから八百年が経った今も、恋に堕ちた天使と悪魔は見つかっていないという……。



「――これこそが、八百年間続いている平和の真実であると、今日日きょうび語り継がれている伝承なのじゃ」


 長老が物語を結んだタイミングで、リズは机の上に身を乗り出した。


「そんな話、信じられません……! 村にある文献は全部目を通したけど、そんな伝承を綴った一節はどこにもありませんでした!」

「当然じゃ。今初めて話したのじゃからな」

「長老のつくり話ってことですか……?」

「いいや。伝承というものは、何年も昔から、親から子へ、子が親になりまたその子へと語り継いでいくものと相場が決まっておる」

「でた相場」

「それが、今まさにこの瞬間だった、というわけじゃ」


 確かにフィッシャドーフには図書館のような大きな施設はない。村の本は廃本ばかり。それらをすべて読破していたとしても、数多ある世界の真理を知り尽くしたとは言えない。

 しかし何故、長老はこんな昔話を語り聞かせたのか。

 リズは長老の言葉を受けて思考を巡らせているうちに、ある一つの疑問が引っかかった。


「――まさか、彼がそうなのですか……!? 恋に堕ちた天使と悪魔の片割れ……!」


 リズの質問に、長老は首を傾けた。


「はて。なぜそう思うのじゃ?」

「だって、悪魔のような髪の彼がフィッシャドーフに流れ着いたタイミングで私に話をしてきたから……てっきりそうかと」


 間の抜けた返事に虚をかれ、リズは言葉の勢いを失くしていった。しまいには嘆息して椅子の背に体重を預けて座り直す。


「……冷静に考えて、八百年も昔の人があんなに若いわけないか。それに魔力量も大したことなさそうだったし、そんなにすごい存在ならこんな辺鄙へんぴな村に来るよりも先に、人より何倍も感知能力の高い天使と悪魔に見つかって大変なことになってるよね……」


 独り言のようにリズが持論を述べると、長老は「ほっほっほ」と笑った。


「どうじゃろう。ワシにはあの少年が何者なのか、判別はできんからのう」

「え……? 長老は知ってるんじゃないんですか? オケアノスの精霊が悪さをしたから髪が黒く見えるだけのただの少年だって……」

「嘘じゃ」

「……えぇぇぇぇ、うそぉおぉぉ――っ!?」


 バタンと椅子が倒れた。長老のあまりにも潔い回答に、リズは散々叫んでからハッとして自分で口を塞いだ。

 つまり、彼が本物の悪魔である可能性は潰えていないということだ。こんな話が外に漏れたら、間違いなくまた大騒ぎになってしまう。下手をすると今度こそ本当に殺される。


「それくらいしか咄嗟に思いつかんかったのでな。誰も知らなければ、いかにもなことを教えれば納得するじゃろう?」


 この長老は見た目以上に腹黒いのかもしれない。だがあの場を鎮めるための嘘ならば、悪くはない策といえる。現にその嘘でリズは救われたのだから。鶴の一声様様である。


「そうですね……その節は、ありがとうございました」

「嘘も方便じゃよ。ほっほっほ」


 リズは倒れた椅子を起こして座り直した。


「ときに王都には、誰よりもさかしく知恵に富み、その者の知識の及ばぬところなし、まさに可想界の覇者ソフィアとまで称される賢者殿にお伺いを立てれば、まったく違う答えが返ってくるじゃろう」

「はあ……」


 今度は何を言い出すのだろうか、とリズは身構える。


「そこでじゃ」


 長老は再び身を乗り出した。


「おぬしに、それを確かめにいってもらいたい」

「はい……――って、えぇぇぇぇっ!?」


 椅子が再度倒れた。長老は息を吐きながら椅子にもたれかかる。

 長老の突飛な申し出に頭が真っ白になるも、冷静に思考を巡らせるとようやく話の全貌が見えてきた。

 全ては悪魔かれを王都へ連れていくためのお膳立てだ。長老が彼をこの家に運んだのも、ブーツに歩行補助術式を編み込んでくれたのも、天使と悪魔のラブストーリーを語ったのも、リズに彼と供に王都へ行ってもらうための布石を打っていたのだ。


「ち、長老は、私に彼を王都まで連れて行って、その賢者様とやらに会わせて真実を確かめろと……そう仰るのですか?」


 確認すると、長老は口の吊り上げた。


「さすがじゃのう、リズ。端的に言うなら、そうじゃな」

「無理です!」


 即断。リズは左手で机を叩いた。


「さっきも言いましたが、私は……魔法もろくに使えないし、走ることだってできないんです! 長老のおかげで少し楽になりましたケド……それを抜きにしても、魔物が涎を垂らしながら私のような餌を探して徘徊している街道かいどうを、同じくどこからどう見ても魔法が使えない彼と一緒に王都に無事に辿り着くなんて……本気でできるとお思いですか……?」


 二度も負荷をかけたせいか遅れて脚に激痛が走り、リズは苦悶に表情を染めながらも、椅子を起こしてそっと腰を下ろした。


「それとも、長老は彼に私を守れるだけの力があると仰るのですか……?」


 声に精一杯の力を込めて、三度問いかける。大詠唱だいえいしょうのように立て続けに言葉をまくし立てたせいですっかり息があがったリズとは対照的に、長老は相変わらず気の抜けた調子で言葉を返してくる。


「さあ、ワシにもさっぱりじゃ。なんせワシが生まれるよりも七百年も前の話じゃからのう」


 ほっほっほ、とあまりにもふざけた返事に反吐が出そうになり、リズはまた頭を抱えた。


「……じゃが、」


 机の木目を眺めていると、しゃがれ声が頭上から振ってきた。


「ワシが真実に辿り着けなかったとしても、リズ――お主なら辿り着けると信じておる。伝承や昔話とは、そうやって、後の世に語り継がれていくものじゃ」

「そんなの……」


 その先は言葉に出さずに、飲み込んだ。口に出すと、悲しくなりそうだった。

 そんな悲しい気持ちを慰めるように、リズの頭の上に何かが乗せられた。


「リズ。お主は、自分が思ってる以上に強いじゃ」


 そう言いながら、長老はリズの頭を優しく撫でた。


「じゃから、これだけは覚えていて欲しい……。運命というのは、人の意思とは関係なく、時に残酷に、強引に、向こうからやってくるものじゃ。じゃが、お主はそれを乗り越えてきた強い娘じゃ。これからも、きっと乗り越えられる……」


 長老に頭を撫でてもらっていると、母のことが脳裏に浮かんできてまた涙が溢れてきそうだった。

 病気で伏して今にも死にそうな程に弱っていたにも拘らず、自分の前ではいつも前向きだった母。血を吐いて苦しそうに胸を押さえていようとも、絵を見せに行くといつも笑って、頭を撫でながら褒めてくれた。

 そっか、私が前向きでいられたのは……。


「さて……ワシはそろそろ行くとするかのう」


 ふいに頭の上から手が離れ、長老はコツコツと杖を突いて離れていく。リズは目元を拭って脚に負担をかけないようにゆっくり立ち上がり、長老を見送るために追いかけた。


「……色々とありがとうございました。この靴も……」

「よいよい。ワシからのバースデープレゼントじゃ」

「誕生日はまだ先ですけどね……。でも、ありがとう。――あっ、今日のことは……考えてみます。彼がいつ目を覚ますかも分からないし……」


 長老はリズの言葉を聴くと満足そうに髭を動かして微笑んだ。踵を返して戸口に立つと、何かを思い出したように人差し指を立てながら再度振り返った。


「リズ。お主に神のご加護があらんことを」

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