第3節 恋に堕ちた天使と悪魔
八百年ほど昔。
神と魔王の頂上決戦は、理論上どちらかの陣営の魔力が尽きれば
ところが。千年続くはずの戦争はその日、二百年続いた戦争が嘘のように終わりを迎え、世界に平穏が訪れた――。
「――はて、なぜじゃろう?」
長老が突如語り口を止め、疑問を投げかけてきた。
「え……っと……戦うのに飽きた……とか?」
リズは精一杯頭を捻って口にしたが、あっさり首を左右に振られた。
「うむ。確かに二つの世界を
「私そこまで子供じゃないよ……?」
「もし本当に神と魔王が気まぐれであったなら、いつまた戦争が始まってもおかしくはない。じゃが八百年が過ぎた今となっても、
「うーん……分かんない。どうしてなの?」
長老は机の上に身を乗り出し、眉毛の奥の瞳を細め、声を潜めて教えてくれた。
「実はな、両者にとって予期せぬ事態が起こったのじゃ」
「予期せぬ事態……?」
長老は一つ頷くと、語り口に戻った。
神と魔王は善と悪、相反する存在である。
どちらかが存在する以上、もう一方も存在する――『
両者は世の
絶対的存在である主君同様、同じ場所に居合わせれば殺し合いをするのが常だ。
――だがしかし。両者にとっても予期せぬ事態が起きた。
それは、第二次天魔戦争が終結したその日。
決して交わるはずのない白と黒。
その二つの存在――天使と悪魔が恋に
「恋……!?」
「そうじゃ」
「天使と悪魔が!?」
「そうじゃ」
「うそ!?」
「ホントじゃ」
それはすぐさま両陣営に知れ渡った。これに激怒した神と魔王は直ちに休戦し、駆け落ちした裏切り者を始末することに
……だが、それから八百年が経った今も、恋に堕ちた天使と悪魔は見つかっていないという……。
「――これこそが、八百年間続いている平和の真実であると、
長老が物語を結んだタイミングで、リズは机の上に身を乗り出した。
「そんな話、信じられません……! 村にある文献は全部目を通したけど、そんな伝承を綴った一節はどこにもありませんでした!」
「当然じゃ。今初めて話したのじゃからな」
「長老のつくり話ってことですか……?」
「いいや。伝承というものは、何年も昔から、親から子へ、子が親になりまたその子へと語り継いでいくものと相場が決まっておる」
「でた相場」
「それが、今まさにこの瞬間だった、というわけじゃ」
確かにフィッシャドーフには図書館のような大きな施設はない。村の本は廃本ばかり。それらをすべて読破していたとしても、数多ある世界の真理を知り尽くしたとは言えない。
しかし何故、長老はこんな昔話を語り聞かせたのか。
リズは長老の言葉を受けて思考を巡らせているうちに、ある一つの疑問が引っかかった。
「――まさか、彼がそうなのですか……!? 恋に堕ちた天使と悪魔の片割れ……!」
リズの質問に、長老は首を傾けた。
「はて。なぜそう思うのじゃ?」
「だって、悪魔のような髪の彼がフィッシャドーフに流れ着いたタイミングで私に話をしてきたから……てっきりそうかと」
間の抜けた返事に虚を
「……冷静に考えて、八百年も昔の人があんなに若いわけないか。それに魔力量も大したことなさそうだったし、そんなにすごい存在ならこんな
独り言のようにリズが持論を述べると、長老は「ほっほっほ」と笑った。
「どうじゃろう。ワシにはあの少年が何者なのか、判別はできんからのう」
「え……? 長老は知ってるんじゃないんですか? オケアノスの精霊が悪さをしたから髪が黒く見えるだけのただの少年だって……」
「嘘じゃ」
「……えぇぇぇぇ、うそぉおぉぉ――っ!?」
バタンと椅子が倒れた。長老のあまりにも潔い回答に、リズは散々叫んでからハッとして自分で口を塞いだ。
つまり、彼が本物の悪魔である可能性は潰えていないということだ。こんな話が外に漏れたら、間違いなくまた大騒ぎになってしまう。下手をすると今度こそ本当に殺される。
「それくらいしか咄嗟に思いつかんかったのでな。誰も知らなければ、いかにもなことを教えれば納得するじゃろう?」
この長老は見た目以上に腹黒いのかもしれない。だがあの場を鎮めるための嘘ならば、悪くはない策といえる。現にその嘘でリズは救われたのだから。鶴の一声様様である。
「そうですね……その節は、ありがとうございました」
「嘘も方便じゃよ。ほっほっほ」
リズは倒れた椅子を起こして座り直した。
「ときに王都には、誰よりも
「はあ……」
今度は何を言い出すのだろうか、とリズは身構える。
「そこでじゃ」
長老は再び身を乗り出した。
「おぬしに、それを確かめにいってもらいたい」
「はい……――って、えぇぇぇぇっ!?」
椅子が再度倒れた。長老は息を吐きながら椅子にもたれかかる。
長老の突飛な申し出に頭が真っ白になるも、冷静に思考を巡らせるとようやく話の全貌が見えてきた。
全ては
「ち、長老は、私に彼を王都まで連れて行って、その賢者様とやらに会わせて真実を確かめろと……そう仰るのですか?」
確認すると、長老は口の
「さすがじゃのう、リズ。端的に言うなら、そうじゃな」
「無理です!」
即断。リズは左手で机を叩いた。
「さっきも言いましたが、私は……魔法もろくに使えないし、走ることだってできないんです! 長老のおかげで少し楽になりましたケド……それを抜きにしても、魔物が涎を垂らしながら私のような餌を探して徘徊している
二度も負荷をかけたせいか遅れて脚に激痛が走り、リズは苦悶に表情を染めながらも、椅子を起こしてそっと腰を下ろした。
「それとも、長老は彼に私を守れるだけの力があると仰るのですか……?」
声に精一杯の力を込めて、三度問いかける。
「さあ、ワシにもさっぱりじゃ。なんせワシが生まれるよりも七百年も前の話じゃからのう」
ほっほっほ、とあまりにもふざけた返事に反吐が出そうになり、リズはまた頭を抱えた。
「……じゃが、」
机の木目を眺めていると、
「ワシが真実に辿り着けなかったとしても、リズ――お主なら辿り着けると信じておる。伝承や昔話とは、そうやって、後の世に語り継がれていくものじゃ」
「そんなの……」
その先は言葉に出さずに、飲み込んだ。口に出すと、悲しくなりそうだった。
そんな悲しい気持ちを慰めるように、リズの頭の上に何かが乗せられた。
「リズ。お主は、自分が思ってる以上に強い
そう言いながら、長老はリズの頭を優しく撫でた。
「じゃから、これだけは覚えていて欲しい……。運命というのは、人の意思とは関係なく、時に残酷に、強引に、向こうからやってくるものじゃ。じゃが、お主はそれを乗り越えてきた強い娘じゃ。これからも、きっと乗り越えられる……」
長老に頭を撫でてもらっていると、母のことが脳裏に浮かんできてまた涙が溢れてきそうだった。
病気で伏して今にも死にそうな程に弱っていたにも拘らず、自分の前ではいつも前向きだった母。血を吐いて苦しそうに胸を押さえていようとも、絵を見せに行くといつも笑って、頭を撫でながら褒めてくれた。
そっか、私が前向きでいられたのは……。
「さて……ワシはそろそろ行くとするかのう」
ふいに頭の上から手が離れ、長老はコツコツと杖を突いて離れていく。リズは目元を拭って脚に負担をかけないようにゆっくり立ち上がり、長老を見送るために追いかけた。
「……色々とありがとうございました。この靴も……」
「よいよい。ワシからのバースデープレゼントじゃ」
「誕生日はまだ先ですけどね……。でも、ありがとう。――あっ、今日のことは……前向きに考えてみます。彼がいつ目を覚ますかも分からないし……」
長老はリズの言葉を聴くと満足そうに髭を動かして微笑んだ。踵を返して戸口に立つと、何かを思い出したように人差し指を立てながら再度振り返った。
「リズ。お主に神のご加護があらんことを」
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