第2節 少女と老人の語らい


 悪魔のような漆黒の髪をもつ少年を乗せた魔法陣は寝台の上まで移動を終えると、構成していた光の粒子を空気中に霧散させ、やがて完全に消失した。少年は寝台の上で寝息を立てている。それを見た長老は、手で空気を撫でた。するとその動きに呼応するように彼に布が被せられる。


「あ、ちょっ、長老! 服とか着替えさせないとっ! さっきまでびしょ濡れだったのに……って、あれ?」


 急いで布を剥がし、海水でぐっしょり濡れていたはずの彼の衣服に指で触れてみるも、先ほど浜辺で触れた水気の感触が嘘のように、彼の衣服は見事に乾ききっていた。大量にひっついていた砂やら海藻やらもいつの間にか消え失せており、少年は水浴びをした後のように清潔な状態になっている。


「魔法って便利……」


 つくづく長老には驚かされっぱなしだ。リズは布を元通りに被せてから長老の影を追った。

 長老は他人様ひとさまの家だというのに調理場の戸棚の中や引き出しの中、暖炉や家具の隅々まで、埃でも探すようにあちこちを見て回っていた。とはいっても二部屋しかない小さな家だ。長老の家のように本棚がびっしり並んでいるわけでもなく、調度品も質素なものばかり。見ていてそんなに珍しいものはないはずだが……。

 リズはあまり他人を家に招き入れたことがないせいか、どうにも落ち着かなかった。


「庶民の家がそんなに珍しいのかな……」


 呟きながら長老の動向を見守っていると、ふいに長老の視線が壁の一ヶ所で止まった。


「あ、それ、私が描いた絵です」


 リズは長老のもとへ歩み寄り、説明した。

 しばらく静観していた長老だったが、とくに感想を述べるでもなくすぐに興味の矛先を他所へと移した。歩幅は小さく、じれったく思うほどゆったりとしたペースだが、首は忙しない。そして再び何かを見つけるとぴたっと首の動きが止まり、その代わりに足を動し始める。


「それも、私が描きました」


 長老はリズが描いたもう一つの絵画の前で足を止めた。

 かつてリズの絵は家の壁に隙間なく飾られていたが、今ではほとんど処分してしまった。残っているのは、長老が見つけた二枚だけ。

 ひとつは、仄暗い梢の中に光が射し、その中に力強く生えている大樹とその下で草を食べている名も知らぬ草食動物の親子を描いたもの。母のお気に入りだったものだ。家に入ってすぐに見える南側の壁に掛けられている。絵を描く楽しさを知ったリズが、一番最初に描いた作品だ。

 そしてもうひとつは、今長老が眺めている方。沈んでいく太陽ソルの輝きを受けて赤々と燃えるマーテルマレ大洋と、夜を迎える空とのコントラストが特徴的な作品。これには光と闇の対比が描かれている。絵の中心は明るく、端へ行くにつれて徐々に色が暗くなっていく。本当は悪魔のような黒を用いて完全なる闇を創り出すつもりだったが、それに近い色を創ろうとして失敗し、汚くくすんだ茶色になってしまった。ぱっと見は綺麗に仕上がっているが、ありのままの自然の美しさを見ても、決して癒えることのなかった悲歎ひたんの心情で描いたため、後半は半ばやけくそに、妥協して諦めた箇所が見受けられる、なんともお粗末なものだ。あまり良い出来栄えとは言えないが、なんとなく捨てられずに残していた。

 母が亡くなった日に描いていた作品でなければ、とっくの昔に捨てていただろう。この作品を最後に、リズは一枚絵は描いていない。

 このアトリエには、リズにとっての始まりと終わりが飾ってある。


「ほぉ」


 壁に飾っていた絵を見ていたはずの長老は、いつの間にやら机の上に乗っていた絵本を手に取って開いていた。


「あっ、それは……!」


 リズの制止の声には一切耳を傾けず、長老は黙々と絵本のページをめくり読み進めていく。

 もう用は済んだはずなのに、いったい何をしているのやら。


「……あの、それよりずっと気になっていたんですけど……さっき言っていたことって、本当ですか? オケアノスの精霊が悪戯したからあの悪魔――彼の髪が黒いって」


 リズは居心地の悪さを覚え、咄嗟に気になっていたことを尋ねてみる。


「オケアノスの精霊は、水を司る精霊ばかりです。それに、ただの少年に精霊たちが手を加えるとは思いません……!」

「脚の術式は、リサに教わったのか?」


 リズが持論を展開していると、まったく関係ない質問で遮られた。長老の視線はあくまで絵本に落ちたまま。耳が遠くて聞こえていないのだろうか。


「……いえ、すべて独学です」


 リズは目を伏せながら応えた。相変わらず長老に聞こえているのかいないのかは判別がつかない。


「お母さんから教えてもらう約束だったけど、その前に倒れちゃったから……」


 王都へ行くまでに一通り魔術を教わる予定だったが、それは病によって終ぞ叶わなかった。リズの母もまさか娘が自分と同じ病魔に冒されるとは思っていなかっただろう。そのためリズの知識のほとんどは、村に流れ着いてくる古本から得たものだ。

 この国では本――特に魔術書の類は高級品であるため、フィッシャドーフ村の経済状況では買い揃えることはできないのだが、村の行商人が街から戻るときに捨てられている古本を見つけては拾い、長老の家の本棚に並べていくという習慣があった。長老の家は普段は立ち入り禁止だが、リズは隙あらば侵入し長老の家にある書物に片っ端から目を通していた。

 とはいったものの、さすがに魔術・魔法関連の書物は村長の家にはほとんど置かれていなかった。あったのは『魔術教本基礎編』一冊のみ。魔術の基礎を学ぼうとするのは、よほど魔力を持たない者しかいない。要するに有色家庭の幼児向けの書物ということだ。捨てられてフィッシャドーフに流れ着いたのも頷ける。

 リズの脚の歩行補助術式は、基礎だけを頼りに何度も挑戦し、失敗を重ねた結果出来た拙作に過ぎない。

 魔法師という称号を贈られる長老様はすぐにそれを見抜いたのだろう。なんともお恥ずかしい。

 長老は近くにあった椅子を、指先をくいっと曲げただけで引き寄せ、腰を落ち着けた。予想以上に読み耽っている。そんなに文字数も多くないし、孤児院の子供でも十分かそこらで読み終えるのだが……。

 リズはため息を吐いてから、調理台の上の戸棚を開けて長老に出すハーブティーの用意を始めた。

 もともと長老の家に忍び込んだのは、魔術を教えてもらいたかったからである。だが今となっては、もう教わる気にもなれなかった。


「……あの、どうして彼を私の家に運んだんですか? の家でも良かったと思うんだけど……ウィーラーさんとか、イムベルトさんとか。ヴィラーの家ならもっと良かった」


 咄嗟に皮肉が零れた。自分の性格の悪さに顔が歪む。

 リズの家は村の外れにある。浜辺からは大分離れているため、ここに来るまでに何件か家を通り過ぎたのだが、長老は見向きもしなかった。


「その方が何かと都合がいいからじゃよ」


 愚痴のような小さな声だったが、これは聴こえたらしい。回答は簡潔で、いまいち納得のいくものではなかったが。

 リズは再度ため息をこぼした。

 べつに長老が家に居座ろうが、少年を一人家に泊めようが困りはしない。どうせ家には誰もいない。それはべつにいい。でも――


「どうして私のベッドなの……っ」


 リズは愚痴を零しながらも、茶葉として使われる薬草を丁寧に磨り潰した。




「いい茶じゃ」


 振る舞ったハーブティーをうんうんと何度も首を縦に振りながら味わっている長老を見て、リズは思わず安堵の息を漏らした。

 他人をもてなしたのも三年ぶりくらいだ。母にはよく出していたが、リズは基本的に水しか飲まない。

 それもそのはず、無色レクサスの人は、熱い茶を出すだけでも一苦労だからである。魔法が使えれば終始魔法で解決できるが、水汲み、火おこし、湯沸かしをすべて原始的に行わなければならない。

 リズは一仕事終えた気分で椅子に座り、自分の分のハーブティーをすすりながら長老が絵本を読み終えるのを待った。

 長老の顔は毛むくじゃらだ。ふさふさの青灰色の毛で目元が隠れてぴくりとも動かなくなるため、時々眠っているのかと勘違いしそうになるくらいに長老は集中していた。おかげ様で静寂と退屈に支配される。

 リズは長老のことをぼーっと眺めながら思考を巡らせた。

 長老は偉大な魔法師と呼ばれているが、今では歳のせいか、髪や髭、瞳などに宿していたであろう色は褪せてしまっている。微かに青みが残っていることから、さぞ綺麗な青の色を持っていたに違いない。

 長老の色は、遠目からは白く見える。昔から知っているためリズは長老を天使と見紛うことはないが、知らない人や、色に疎い人が見たら長老は天使だと思うのかもしれない。

 それとも天使の白というのは、それこそ一目見ただけで分かるものなのだろうか。漆黒の髪を持つ彼を初めて見た時のように、胸が高鳴るような色の輝きがあるのだろうか。

 リズは少年の様子を見に行こうと右脚に手をかざした。


「む。いいところで終わるのう。続きは描かんのか?」


 そのとき、向かい側に座っている長老が唸った。リズは顔をあげ、頷く。


「はい。あ、いえ……続きは想像にお任せします、っていう感じで……」

「なるほどのう。どれ……こっちへ来なさい」

「え? あ……どうしてですか……?」


 長老は絵本を机の上に置くと、リズを手招きした。突然のことにリズはいぶかしむ。


「安心しなさい。術式を見るだけじゃ」

「あ……はい……そうですよね……」


 身構えていたリズは緊張を解き、右脚に術式を発生させてから立ち上がり、長老の前へ移動する。

術式を見せるということは、履物を脱がなければならない。歩行補助の術式は包帯のように地肌に直接組み込んでいるからだ。何も下着姿になるわけではないし、長老にその気はないとは思うのだが、無性に恥ずかしさが込み上げ、リズは顔を赤くしながら右脚の履物を脱いだ。

 リズの脚には、膝下からくるぶしにかけて、光の紋様――リズが自ら組み上げた歩行補助の術式が刻まれている。これがあるおかげで、本来は歩くことができないリズでも短時間であれば歩行することが可能となっていた。

 しかし、決して万能な魔術ではない。あくまで補助するだけなので、脚にかかる負担も痛みもほぼほぼ緩和されていない。そのため、歩く速さは老人のそれと同等かそれ以下だ。おまけに体重をかける度に神経に激痛が走るという地雷つき。だいぶ慣れたとはいえ、長時間歩くと激痛でしばらく動けなくなるほどだ。

 髭や眉毛がふさふさ生えているためイマイチ判然としないが、長老はしばし脚の術式を眺めてから、口を開いた。


「後ろを向きなさい」

「は、はい……っ」


 リズは無意識のうちに両手で臀部でんぶを庇うようにして隠し、長老に背中を向けた。長老は何をするつもりなのかという疑問はますます募る。

 嫌な記憶が頭によぎりそうになったとき、長老が声をあげた。


「もう大丈夫じゃ」


 長老は杖を突いて立ち上がった。


「え、もういいんですか? 見てただけですけど……」


 リズの問いには答えず、長老は寝室へと入っていった。慌ててリズも続く。

 寝台の上で寝ている彼……に何か用があるわけではなく、長老は寝室の奥にある衣装棚の扉を開けた。


「なっ、何やってるんですかっ!?」


 その中にはリズの私服がいくつか掛けられている。許可なく探られるとさすがの長老でも平手打ちをお見舞いしたくなるが、ぐっと堪える。

 そんなリズの動揺は露知らず、長老は堂々と中を物色して何点か選んで取り出した。


「そ、それは……っ!」


 長老が空いたベッドの上に広げていったのは、成人祝いの晴れ着として母からプレゼントされた衣装一式だった。いったいどこにそんなお金を隠し持っていたのか、どれも品質の良いものばかり。魔法使いが身に着けるような魔導装束を華やかな天使のローブ風にアレンジしたものと、白の牛皮に桃色のラインが引かれている魔法靴マジック・ブーツ。まさしく一張羅と呼ぶに相応しい衣装だ。自分で言うのもなんだが、それを着れば今の村娘スタイルと違い、そこそこ良いとこ出のお嬢様に見えなくもない。馬子にも衣裳とはこのこと。

 村から離れる機会を失った以上、もう取り出すことはないと思っていたものたちをなぜ、長老は取り出したのか。


「まあ、見ておれ」


 長老は一度リズの方を見ると、床に置いたブーツに手をかざした。

 すぐさままばゆい輝きが放たれたかと思うと、ブーツに幾つもの細い光の線が刻まれていった。そして機織りの糸のように複雑かつ幾何学的に絡まり合い、徐々に太く、ハッキリとした模様が浮かびあがってくる。長老が今まさに組み上げている術式は、どこか見覚えがあった。リズの歩行補助の術式に似ている。しかしリズとは全く異なる方法で編み込まれていく。

 基礎しか知らないリズは、完成形に近付けるために幾つかの工程を省いて直接組み上げることしか出来なかったが、長老はそれらの工程を幾つにも細分化し、より緻密に、繊細に、綺麗に、糸を一本一本手繰り、丁寧に編み上げていく。

 光の演舞は、一瞬だった。

 やがて術式が完成すると、シンプルなデザインだったブーツには、一見複雑だが芸術的なまでに規則正しく配列された美しい模様が刻み込まれていた。光が消えても模様はブーツに定着したまま、消えることはない。


「すごい……これって、まさか……!」

「そうじゃ。お主の術式を靴に応用したものじゃ。術式をいちいち組み上げなくとも、この靴を履けばお主の支えとなるじゃろう」


 なんてことか。今まさに、人生に革命が起こった。それも今までの暮らしを揺るがすほどの画期的なもの。まさに可能性が広がる一歩。世紀の大発明。

 このブーツがあれば、今まで出来なかったことが出来るようになる。新しい脚を授かったも同然だ。


「ありがとう……。長老、ありがとうございます……っ!」


 リズは感謝の気持ちを一心にぶつけた。嬉しさのあまり涙が止まらない。長老には返しきれない恩が出来てしまった。

 思い返せば、浜辺でも命を救ってくれたのは長老だ。一度ならず二度までも助けてもらったことになる。


「なあに、お安い御用じゃ。魔法は正しく理解し、使うことで最大限の恩恵を賜ることが出来るのじゃよ。これはその技術の一つに過ぎん。これからのお主に役立てば良いのじゃが……」

「さっそく履いてみてもいいですか!?」

「もちろんじゃ」

「やった!」


 リズはベッドの縁に座り、右脚の術式が解けたのを確認してからブーツを履いた。履いただけでは特別変化はない。リズは恐る恐る右脚に力を入れて立ち上がる。


「よっ――わぁ……っ!」


 見事に痛みを感じない。その場で足踏み、足踏み。とても自然だ。地面を踏みしめる度に感じていた神経痛も襲ってこない。正確に言えば和らいでいるだけだが、もうほとんど感じないと言ってもいい。

 小技とバカにしてきた魔術でも、使い方次第でこんなにも変わるのかと、リズは深い感銘を受けた。


「すごい……長老すごいよ――痛っ!」


 小躍りしながら家の中を走り回っていると、突然右脚に激痛が走った。


「あくまで補助の領域は出ておらん。じゃから調子には乗らんほうがええぞ」


 ぼさぼさに生えた眉毛の奥にある円らな瞳がお茶目にウインクしてみせた。今まで堅物だった長老が一気に物腰柔らかキューティおじじに格上げされた瞬間だった。

 さすがに全速力で走ったり、長時間走るのは難しそうだが、立ったり座ったり歩いたりするだけなら何も問題はない。村の大人たちの目を気にすることもなくなる。まさに翼を得たような感覚だった。


「ふふっ……外の世界には、こんなすごい魔法がたくさんあるんだね……っ!」

「ほっほっほ、そうじゃよ」

「空を飛ぶことも出来るの?」

「もちろんじゃ」

「ホントっ!? あ、あの男の子に使った魔法が空を飛ぶ魔法なの?」

「あれは飛ばせたわけではないが……応用次第では出来るじゃろうな」

「すごいすごいっ! 長老みたいな魔法使いはいっぱいいるの? ひょっとして誰でも出来るようになるの?」

「誰でも、とはいかぬじゃろうが、きちんと修行をすれば、リズでも出来るようになるやもしれん。それにワシが霞んでしまうほど絶大な力を持った魔法使いなぞ、たくさんおるわい」


 謙遜ではなく、それが世界の真実なのじゃ、と長老は言葉を付け加えた。杖をいつのまにか手元に召喚し、床をこつんと叩くといつのまにか椅子に座っていた。


「世界は魔法で溢れておる。それこそワシが知らない魔法も存在するくらいじゃ。同様に、ワシが使えない魔法も数え切れないほどにな。……世界から見れば、ワシなぞ魔法使いの端くれに過ぎん。なぜならワシよりもさかしく、魔法に秀でた者はごまんとおる」

「とてもじゃないけど信じられないよ。ブーツの術式もそうだけど、浜辺での時間停止魔法……? を見せられた後だと、あれ以上を想像するのは難しい……」

「そうじゃな。この村に留まっていては、それも叶わんじゃろう」


 まるでリズの心中を見透かしたような一言だった。ズキリと、胸が痛む。


「はい……そう、ですよね……」

「ワシはもう随分歳をとった。そしてこの村の行く末を見届ける役目を担ってしまったがために、ここを離れることはできん。――じゃがリズ、おぬしは違う」


 長老は立ち上がり、リズの肩に手を置くと、彼女の名前を呼んだ。


「リズ。おぬしは、この村に留まるべきではない。未だ知らぬ世界を……魔法を知らなければならない」

「ですが……」


 リズは己の右脚を見た。村長が仕立て上げた魔法の靴があっても不安は胸中に残ったままだ。この脚では満足に走り回れない。せめて走ることができたら、激しい運動に耐えられる脚があったなら、剣を握ることができたなら、剣の腕があったなら、魔物を討伐できるだけの魔力量を備えていたら――。

 魔物を討伐してお金を稼ぐことだってできたかもしれない。どこへだって行けたかもしれない。それこそ、世界を巡る冒険だって出来たかもしれない。

 でも病気だから――。

 でも無色レクサスだから――。

 脆弱で無才で無力な自分が外の世界で生きていくことなど、どう考えてもできるとは思えない。

 あの日、床の上で倒れていた母を見つけてもすぐに立ち上がれず、助けを呼びに行けなかったように――。


――母が死んだのは、私のせい。この右脚のせいなんだ。


 そう思うようになってから、どんどん卑屈になっていった。

 どうしようもない。

 何もできないから、何も変えられない。何もしようとしないから――。

 この三年間、本当に平和だった。憎たらしいほどに、平和な毎日が続いた。

 ただ訪れる毎日を過ごすことしか自分には出来ないから。

 大人たちと同じく、平和をのうのうと満喫していた。


 ――違う。

 ――私はこんな人生を臨んだんじゃない。

 でも――。


 リズの頭にそっと長老の手が置かれた。

 

「ワシも、昔はおぬしと同じじゃった」

「え……長老が?」

「ワシは、もともと無色レクサスだったんじゃよ。じゃが、必死に足掻いて修行を重ねるうちに、純色したのじゃ」

「純色……」


 純色とは、人が本来神から授かった色に染まること。変色ともいうが、厳密には意味が異なる。

 もともと無色レクサスというのは、神から授かった色ではない。

 人は精霊や天使、悪魔などとは異なり、体内で魔力を培養させることができる生き物だ。消費と発散を繰り返すことでより鮮度の高いマナを吸収し、体内で循環させることで身体機能を向上させ、同様に自身が体内で生成するマナの鮮度を高めていく。そうすることで体の組織が順応し、髪や瞳が別の色に染まっていくといわれていた。

 しかし、それはあくまで理論上の話であり、当然だが純色する時期には個人差がある。生まれてきてすぐに純色している人もいるし、いつまでたっても純色しない人もいる。

 フィッシャドーフにいる大人たちは、後者の集まりだった。昔は希望をもって生きていたかもしれないが、今は皆諦観している者たちばかり。

 村の大人たちは皆、希望を持って生きるよりもここで平和に暮らす方が楽だと考えている。

 その中に埋もれて暮らしていた、リズ自身も――。

 されど長老は言うのだ。諦めなければ出来るのだと。


「じゃからリズ、お主にもできる。可能性を捨てなければの話じゃが」

「どうして私に言うんですか……? この村には染まり切れていない人はいっぱいいるのに……」

「リサがそう望んだからじゃ」

「お母さんが……?」

「リサは、お主がこの村で一生を終えることは望んでおらん。ワシがいわんでも、それはお主が一番解っているじゃろうがな」


 そうかもしれない。だが、そうは思えなかった。

 あの日、自分がちゃんと立ち上がって早めに助けを呼べていたら、母は助かっていたかもしれない。いつまで経っても、あの日の光景が頭から離れない。目の前で息絶えていく母の顔が。いつまで経っても、あの時の後悔が拭えないまま、脚の痛みはどんどん強くなり、時間だけが過ぎていった。


「全部……私のせいなのに……お母さんを見捨てた私が……そんなこと許されるはずが……」


 リズは大粒の涙を机の上に落とした。ぽとり、ぽとりと絶え間なく雫が落ちていく。


「リサの死は、おぬしのせいではない。おぬしにも、ワシにもどうしようもなかったのじゃ」

「でも……っ。私があの時、もっと早く助けを呼べたら……っ」

「アイ」


 母が呼んでいた呼び名に、リズは思わず顔を上げた。


「これからきっと、自分ではどうにもできない悲しい出来事がお主のもとに降りかかるやもしれん。おぬしは優しい娘じゃから、その度に自分を責めるやもしれん。じゃが……それらは起きるべくして起きるものなのじゃ」

「お母さんが死んだのも……っ?」

「そうじゃ。人はそれを神の思し召しと呼ぶが……要するに、神様のせいじゃな」

「そんなこと言っていいの……罰があたっちゃうよ……?」

「ひとりで悩むには、大きすぎる問題じゃからのう。抱えきれないときは、神様のせいにしてもいいんじゃ。もちろん、ワシが言ったことは神様には内緒じゃよ?」


 天使や信者の前であったなら即刻不敬罪として架刑に処されるだろう長老のお茶目な発言に、リズは思わず噴き出した。


「うん、約束する……」

「約束じゃ。じゃから己の限界を、自分で決めないことじゃ。アイ、おぬしなら、きっと綺麗な色に染まれるじゃろうて」


 それは母がリズによく言いかけていた言葉だった。母も長老も、何を根拠にそんなことを言うのか分からない。

 母と同じ病魔に冒されている以上、結末は見えているも同然だというのに……。

 でも、少しだけ。

 リズの心の奥底にあったくさびが解けたような安心感が、胸の中にあった。

 今の自分は信じられなくても、生前の母が信じた自分を信じることなら――。


(もう一度、出来るかもしれない……)


 せめて母の気持ちに報いるために。

 何もしてくれない神様や天使に報いることは出来なくても、それなら――。


「どれ、ちょいとぉ……昔話をしようかのう」


 いきなり何を思ったのか、長老は近くにあった壊れかけの揺り椅子を引き寄せた。脚部の一つに亀裂が入っていて、座れば折れてしまうためずっと放置していたものだ。


「あ、それ壊れてる……」


 長老に先ほど座っていた椅子を差し出そうとテーブルの反対側へ回ったが、リズが向き直った時には既に、素知らぬ顔で座っていた。


「ワシは歳相応に、オンボロの椅子で十分じゃよ。それに、昔話はろっきんぐちぇあでと相場が決まっておるのじゃ」


 笑っていいのかどうか分からない皮肉に、リズは苦笑するしかなかった。


「さて、昔々のお話じゃ――」


 長老がおもむろに語り始めたので、リズも対面の椅子に腰かけ聞く姿勢をとった。

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