二十時
あの、すみません。
甲高い呼び鈴が部屋にぼうんと反響する。
こつんこつん。玄関扉がそっと叩かれ、細い女性の声が遠慮がちに滑り込む。
壁掛け時計に目を向ける。現在時刻は二十時。
読んでいた雑誌をゆっくりと伏せ、立ち上がる。
カーテンをそうっとずらして覗く。窓は外廊下に面している。玄関扉は窓から見て右手側。じっと佇むひとの影が、型板ガラス越しに見える。
背筋はぴんと真っ直ぐで、髪を高めの位置で結っている影。
……あの。こんばんは。
こつんこつん。
五月も終わりのそろそろ夏の足音が聞こえる時期。日没は確かに遅くなっているが、この時間ともなればさすがに暗い。
訪う女性に心当たりはない。
あの……。
くるりと、女性の影が動いた。
黒い影の中に、ぽかりとあたたかな色をした卵形が揺れる。
影の中からゆらりと動くものが伸び、見る間に細い指先を形作った。
かつんかつん。
面格子の狭い隙間から指が差し入れられ、爪が遠慮がちにガラスを叩く。
かつんかつん。かつん。かつん。
ため息をひとつ。
仕方なしに玄関へと向かう。
どなたですか。
…………隣の。
……ご用向は。
お裾分けに。
ドアスコープを覗けば、丸く切り取られた視界の中に俯いた女性の旋毛が見える。
白い腕がすぅと伸び上がる。こつんこつん。開けては頂けませんか。
応えてしまったのだから、開けぬわけにもいかないだろう。
がちり。開錠の音は思いの外大きく響いた。
玄関先の薄暗がりが白く切り取られる。
女性がぱっと顔を上げた。
穏やかな顔つきをした女性だ。頬の産毛がちりちりと光り、まろい頬の輪郭を縁取る。
冷たく、甘い匂いがした。
こんばんは。
こんばんは。あの、これを。
言って女性が差し出すのは口をきっちりと閉じた白いビニール袋。
受け取ってみればずしりと重い。
これは。
にこりと女性が微笑む。
なにかと、問う言葉は空気を震わせぬままにその微笑みに吸い込まれる。
では確かに。夜分に失礼致しました。
綺麗な角度でお辞儀をして女性は足早に去る。引き止める間はない。まるで白昼夢のような女性だった。
残されたビニール袋はしんとした存在感を放って沈黙している。
そっと口を解いて開けば、ごろりと詰め込まれた橙色の果実が覗く。袋の中に溜まった薄暗がりに、ぽかりと浮かぶあたたかな色をした、枇杷。
瑞々しく冷えた、甘い匂い。
不意に、ちか、ちかと。視界の端に瞬くものが飛び込んだ。
ちか、ちか。枇杷の間から瞬くそれをそうっとつまんで引き出す。
ころりと薄べったいそれは、あたたかな色をした卵形のもの。
薬指の先に乗せれば、少しばかり小さいが行儀よくちょこんと収まる。
女性らしく整えられた爪。
女性が去った曲がり角に目を向ける。
隣室は今日も入居者募集中だ。
薄暗がりに息づくもの 九十 @kokonotari
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