幸村の力で秀吉天下を取る

しかるに秀吉ひでよし公の御幸運こううんは実に恐しきもので、幸村ゆきむらを得て軍師ぐんしとなしますます戦勝せんしょうのある所へ、ここに京都きょうと本願寺ほんがんじ顕如けんにょ大上人だいしょうにん殿下でんか御陣ごじん見舞みまいとして参上さんじょう致されました。もっともわざわざ京都きょうとから下向げこう相成あいなりましたのではございません。このほど上人しょうにん肥後ひごの国、菊池郡きくちぐん逗留とうりゅうになっておった。なにゆえ上人しょうにんがこの国へ参られているというと、とし右大臣うだいじん信長のぶながのため石山いしやま本願寺ほんがんじめられた。その節に諸国しょこく末寺まつじ、また檀家だんか農夫のうふ、その他町人ちょうにんに至るまでも宗旨しゅうしのため一命いちめいを捨てて加勢かせいいたしました。その千辛万苦せんしんばんくは例える物なし。時に信長のぶながこう天正てんしょう十年六月二日、光秀みつひでのために滅びたまい、後に天下てんか秀吉ひでよしのものと相成あいなりましてございます。


信長のぶなが滅びてより一向宗いっこうしゅうは大磐石となり、ソコデ顕如けんにょ大上人だいしょうにん京都きょうとの六条へ本山を築き、大寺だいじ建立こんりゅうに及びしゆえ、今は上人しょうにん何不足ふそくなし、よって先年信長のぶながのために滅ぼされたる諸国しょこく末寺まつじまたは檀家だんかをそれぞれ廻り、万霊衆生済度さいどのため国々くにぐにめぐ教化きょうかせんと去ぬる天正てんしょう十二年より国々くにぐにめぐ追々おいおい破損はそん末寺まつじ再建さいけん及びめぐめぐってただ今肥後ひごの国、菊池郡きくちぐん逗留とうりゅうしている。しかるに去る三月、上方の大軍たいぐん、この地へ打ち入り、日々ひび合戦かっせん止む時なく依って上人しょうにん薩摩さつまへ行かず一度、上方へ帰らんとおぼしたるところ、島津しまづ家より内々に使いが上人しょうにんの許に来り、是非ぜひとも回国かいこくを願いたてまつるとの懇望こんもうだ。そこで上人しょうにん薩摩さつまへ行く思召しで道筋みちすじゆえ、殿下でんかへご機嫌を伺ったのだ。身には金襴きんらん二十五絛にじゅうごかじょう袈裟けさをかけたまい、水晶すいしょう数珠じゅずつめぐりに年六十四歳、まゆ毛長く色白いろしろく誠に生きた如来様にょらいさまごと静々しずしず殿下でんか御前ごぜんまかり出て、坐について、


上人しょうにん殿下でんかには、先ずもってご機嫌うるわしく、恐悦きょうえつ至極しごくに存じたてまつる」


秀吉ひでよし「これは顕如けんにょのご坊には何時も健やかで重畳、これより薩摩さつま下向げこうの趣き、ご苦労に存ず。何時ごろ薩摩さつまへ参られそうろうや。心得こころえのため秀吉ひでよしお尋ねもうす」


上人しょうにん「これより直ぐに鹿児島かごしまに赴きます」


秀吉ひでよし「デハご坊に申しかねるが、ご出発の節、余の家来けらい一両人りょうにん共回りに加えられ召し連れ下さるよう、秀吉ひでよしひとえに頼み入る」


上人しょうにんまゆ《まゆ》をひそめて暫く返答へんとうなくやがて、


上人しょうにん愚僧ぐそう五戒ごかいを保つ身、敵国てきこくへお手引てびきの儀、御免ごめんを願いたてまつる」


秀吉ひでよし「アイヤ、ぼう天下てんかの為なり。曲げて承引しょういんありたし」


上人しょうにん「たとえ天下てんかの為とも致せ、祖師そしの教えをそむきます。お断りをちかって申し上げたてまつる」


秀吉ひでよし「アイヤ秀吉ひでよし九州きゅうしゅうに軍を入れたるは、私の戦いにはあらず。上は十善じゅうぜん天子てんし宸襟しんきんを安んたてまつり、下は万民ばんみん塗炭とたんの苦しみを助け、長く世の太平たいへいを開かんがためなり。しからばご坊、手引てびきするとも仏の教えに背くあるべからず。ご坊、万人ばんじん生命いのちが大切か、一人の生命いのちが大切か、仏法ぶっぽう一切いっさい他生たしょうと説き給う。また方便ぼうべんということあり。ことに天の時にしたがわざる義久よしひさばつす余がこの太刀たち弥陀みだ利剣りけんも同様なり。しからば長く仏法ぶっぽう奥義おうぎを施し天皇の御安座あんざ万万歳ばんばんざいを喜ぶべし。例え仏法ぶっぽうの教えに従い五戒ごかいを保ち十戒を守るとも修羅の街を他所に見て八苦の苦しみを助けること能わざれば、なんぞ弥陀仏の喜ぶべきや。しかれば乱国らんごく太平たいへいに治めてこそ、神の喜ぶべし。人も喜ぶべし。されば余も神も仏も広く取らば心はみな一なり。故に臆病おくびょうの民を救い、天下てんか太平たいへいもといを開かんと欲っするその余の頼みをご坊には五戒ごかいを保つ身なれば祖師そしの教えに背くなぞとおおせられるか。それは今日上人しょうにんさといささかの利と秀吉ひでよし心得こころえる。ご坊こそ仏法ぶっぽう奥義おうぎを極めたる弥陀みだ利剣りけんを承知さす誠の顕如けんにょ大上人だいしょうにんと存ずるが、それとも愚人ぐじん小人しょうじんを迷わせる売僧まいす坊主ぼうずでござるか」


こうおおせられたが、上人しょうにん天下てんかを治める政治せいじの道具にはなれないと、ってお断わり申し上げた。この時に幸村ゆきむら上人しょうにんに向って、


幸村ゆきむら拙者せっしゃ今般こんぱん殿下でんか台命たいめいこうむって、軍師ぐんし大役たいやくを命ぜられ、不肖ふしょうながらその大役たいやくを担いそうろう。ただただ早くこの九州きゅうしゅうを治めて一は天皇陛下てんのうへいか宸襟しんきんを安んじ奉らんがため二つには殿下でんかおぼしを遂げしため参らせ、三つには万民ばんみん塗炭とたんの苦しみを救わんがため、余念よねんこれなく然れば上人しょうにん殿下でんかのお頼みに応じ、間者かんじゃ手引てびきをされ早く西をしずめて北国筋ほっこくすじ済度さいどなされては如何、失礼なれど御老年ごろうねんの御身、もし九州きゅうしゅうにて歳を越したまい、あるいは御不慮ごふりょのことなしとも申されず、方々一切いっさい他生たしょうの理をって、早く薩摩さつまを治めるようになしくだされたく」


と、理に理を尽してとうとう幸村ゆきむらがこの上人しょうにんを説き、間者かんじゃ手引てびきに及ばされたは、全く幸村ゆきむらの働きでございます。


それよりして戦えばみな勝利しょうり相成あいなり、尽く幸村ゆきむら方寸ほうすん相当あいあたり、敵の軍師ぐんし本多ほんだ豊後守ぶんごのかみり、情けをってこれを助け、後この幸村ゆきむら鹿児島かごしま本城ほんじょう殿下でんか上使じょうしに立って義久よしひさ父子を説いてトウトウ殿下でんかに下されまして、島津しまづ家が七十七万八百石は残ることになりました。


■■■ 敵将を情けをもって助けるというのは講談速記本では定番の物語。


後に関ヶ原の時、父安房守あわのかみ石田いしだ味方みかたいたしたため一時いちじ民間みんかんに下り、紀州きしゅう九度山くどやまの辺にて隠遁いんとんの身と相成あいなりましたが、年経て秀頼ひでより公のお招きによって大阪おおさか入城致いたし、その器量きりょうを現わして、しばしば関東かんとう大軍たいぐんを破りました。


されども大野おおの道犬どうけんの如き佞奸ねいかんの者あって、幸村ゆきむら軍配ぐんばいを用いられないような事になりましたから、折角せっかく知謀ちぼうほどこす道なく、つい元和げんな元年がんねん五月ごがつ七日なのか大阪おおさか落城らくじょうした。この後に幸村ゆきむらせがれ大助だいすけ秀頼ひでより公のおともいたして秘かに薩摩さつま鹿児島かごしまちたのでございます。


あらかじめ幸村ゆきむらのお話し、これにて止めます。


■■■ 『くどやま』は講談速記本では『くどさん』と読むことが多いため、『くどさん』にしてある。この世界では大阪おおさかの陣の敗因は大野おおの道犬どうけんということになっている。大野おおのがいなければ大阪おおさか方は完璧に勝利しょうりしていた。大野おおのが全て悪い。そういうことになっている。幸村ゆきむら薩摩さつま落ちもこの世界では常識で、もちろん後藤又兵衛も同行している。史実はどうか知らないが、講談速記本の世界ではそうなっているのだから諦めるより他ない。


真田さなだ幸村ゆきむら



明治三十四年二十五日発行 田辺南鶴講口演 石原明倫速記

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時代薄小説 真田幸村 田辺南鶴講演 石原明倫速記 山下泰平 @taiheiyamashita

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