福島の謝罪

さてここで福島ふくしま正則まさのり面目次第しだいもない。呆然として一言いちごんの言葉も発っせず控えておる。幸村ゆきむらこの時に正則まさのりに向って、


幸村ゆきむら福島ふくしま氏、武士に二言はない。御身も豊臣とよとみ家開国かいこく勇臣ゆうしん昨日殿下でんか御前ごぜんにおいて申せし通り久開山きゅうかいざん石城せきじょう落城らくじょうに及びしゆえに切腹を致せ。腹を切ってその方の首をこの幸村ゆきむらに相渡せ」


正則まさのり鬱然として言葉なし。幸村ゆきむらは再び、


幸村ゆきむら如何いかにや正則まさのり、君命を背かんといたしたその方、殿下でんかのお沙汰にそむきし汝、死罪に行なっても然るべきなれども、死罪を免じて切腹を命ずるのだ。軍令ぐんれいというものは重く致さなければ相成あいならんワ」


ご存知の通り、今でも軍令ぐんれいというものは至って難しい。たとえ兵士でも一枚上のお方の命令はどうしても背けません。軍律を犯すときは軍法会議にかかります。昔も今も別に軍令ぐんれいに違いはないもの、ここで幸村ゆきむら軍令ぐんれいを厳重にいたすには、正則まさのりの油を絞らなければならないから、それゆえ切腹を致せと正則まさのりに迫った。



■■■ 軍令ぐんれいが重要というのは当時の常識である。軍令ぐんれいに限った話でもなく、衛生の知識や教育制度などが、物語経由で常識が広まっていったという側面がある。


正則まさのりもこの時は青くなった。豊臣とよとみ家開国かいこく勇士ゆうし諸処しょしょ戦場せんじょうに功があって漸く播州三ヶ月において七万石まで稼ぎ出して一天下てんか諸侯しょこうとなったが、つまらない賭をしていよいよ切腹とは情け無い。誰か命乞いをしてくれる者がありそうなものだと第一兄弟きょうだい同様の加藤かとう清正きよまさへ目をつけた。彼とは竹馬の友、第一に清正きよまさが命乞いをしてくれそうなものだ、と清正きよまさの顔を恨めしそうに見る。清正きよまさも気の毒に心得こころえて下を向いちまった。正則まさのりこれには力を落した。


正則まさのり清正きよまさめ、下も向いちまいやァがった」


と、諸将しょしょうの顔を見るとみなが下を向いたり他を向いたりしております。みな気の毒に思っている。仕方がない。正則まさのり殿下でんかが命乞いをしてくれそうなものだと顔を見あげると、殿下でんか幸村ゆきむらの顔ばかり見つめていらしゃる。幸村ゆきむら正則まさのりに向って、


幸村ゆきむら「有余をするな。御身も勇将だ。潔く切腹を致せ」


人の腹だと思って無闇に切れ切れと云いやァがる。忌々しい奴だ。十銭の自腹でも切るのは辛いものだ。しかし正則まさのり、今さら仕方なく豆のような涙をボロボロ流し、アワヤ双肌押し抜いで、切腹致いたさんとその覚悟をいたした時、幸村ゆきむら殿下でんかのお顔へ目くばせをいたし、命乞いを殿下でんかより願うと知らした。目も口ほどの用を足すとはこのことでございます。秀吉ひでよしは会得あって、


秀吉ひでよし正則まさのりしばらく待て」


正則まさのりは泣きながら負け惜しみ、


正則まさのり殿下でんか、お捨て置きを願う。正則まさのり切腹を仕る」


それを殿下でんかがお止めあそばされて、幸村ゆきむらに向って命乞いをなされた。幸村ゆきむらこれを聞いて、


幸村ゆきむら軍令ぐんれいに背かんとした正則まさのりゆえ、許し難き者にはそうろえども、殿下でんか御上意じょうい、かつ正則まさのりの忠勤は殿下でんかへ対して莫大ばくだいのものゆえ、殿下でんか御沙汰ごさたとこれまでの忠勤を愛でてこの度は許しとらせる。以来は軍師ぐんしの命令を殿下でんかの沙汰と心得こころえて難く相守り、軍令ぐんれいを軽しめず重く相心得こころえるよう」


と言い渡した。これ一戦勝せんしょうしょうり、諸隊一致、肝要なるもの一人でも軍師ぐんしの命令に背く時には味方みかた勝利しょうりなきものなり、よって幸村ゆきむら軍令ぐんれいを重くいたさんがために、その地固めを正則まさのりより取って押えて殿下でんか軍師ぐんし相成あいなりました。これより即ち真田さなだ左衛門佐さざえもんざ幸村ゆきむら采配さいはい大器量だいきりょう《きりょう》のいたすところでございます。

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