第3話

結局、花火をしないで、森野さんを家まで送り、みゆさんのアパートへ帰ってくると、みゆさんは、機嫌が悪いようだった。二日酔いの顔なんてものじゃなく、生理前でもなさそうだ。なぜか不機嫌なのである。


「一杯飲みますか?」


と誘っても、はっきりしない返事が返ってきたり、来なかったりといよいよ変である。僕が何かしただろうか。覚えがなかった。とりあえず、シャワーを浴びようと、Tシャツを脱いだ時、背中目がけて平手打ち一つ。まだまだ夏だというのに、背中の真ん中に紅葉がくっきりと付いてしまって、なぜみゆさんが怒っているのか、シャワーを浴びながら考えるも、思い当たる節がなく、バスタオルで髪の毛を拭きながら、「何かしました?」と聞いてみた。


「別に」


別になんてことはないだろう。こんなにも不機嫌で「別に」なんて言われると、人間性を疑ってしまう。僕の知るみゆさんは、もっと余裕のある大人の女性で、時折見せる笑顔が綺麗で、美しい。まるで、日本海に咲く花のようだ。名前も知らない何かの花だ。今ではその面影すらなかった。般若のようでもあり、烏天狗のようでもあった。


みゆさんの機嫌を取るのは、大変だった。丸2日くらい口を聞いてくれず、出て行った方がいいのかとも考え、荷物の整理を始めると、それを部屋のドアにもたれ、煙草を吸いながら冷めた目で見てくる。「何ですか?」と聞いてもそっぽを向き、本当に女の子の気持ちは理解できない。


この問題を誰かに相談しようにも、それができる人がいない。東の奴にみゆさんと同居しているなどと言えば、後々めんどくさくなりそうだし、森野さんに相談をすれば、不潔だと思われ、軽蔑されそうである。店長に言ってしまえば、クビだろう。僕は、親戚の家から通っていることになっている。


焼き鳥屋のおばさんに頼るしかなかった。その日、初めてカウンターに座り、ビールと枝豆、それから焼き鳥を適当にあしらってくれと頼み、吐き出すようにおばさんにぶつけた。


「晴くんは、本当に鈍い。男がそれでは、みゆちゃんが可哀想だ」


おばさんも一杯付き合ってくれて、砂肝をサービスしてくれた。気前のいい話のわかるおばさんで、そんなおばさんに調理される長州鶏はさぞ幸せなことだろう。


結局、酔いつぶれて千鳥足でアパートへ帰ると、さすがにこんなに酔いつぶれた僕を見たことがないというみゆさんが、介抱してくれた。そんな親切心を無下にするかのように、僕はみゆさんに酒を強要したという。翌朝起きて、割れる頭を押さえながらみゆさんに聞いたことで、覚えがなかった。覚えがないから酔っ払いとはたちが悪いのである。



25日のことだ。初給料が振り込まれた。6万と数千円。おかしいと思った。時給900円で計算しても、1万ほどもらいすぎているのだ。この1万はどこからきたものなのか、通帳は母が持っているので、自分では確認ができない。母に久しぶりに電話をしてみた。


「ああ、1万円。今頃気づいた? 誕生日だから、これで友達とパーティーでもしなさいって意味で入れたんだけど」


その言葉を聞いて、涙が出てきた。母に感謝の気持ちを初めて素直に口に出した。18年目にして初めてのことである。この1万円は大事に使わなければならないと思い、使い道は、お世話になっているみゆさんへの恩返しに使った。飲み代で7000円。それでも3000円余ったので、その3000円を封筒に入れ、水道代にでも使ってくれと渡した。みゆさんはもちろん断ってきたが、そこだけは譲らなかった。みゆさんにとっては、しがないお金でも、高校生にとっての3000円は、高額で、それを赤の他人にもらってほしいほどの恩を感じたのだ。


キリもいいので、広島に戻ることを決意した。みゆさんには、夏休みの間は居てほしいと懇願されたが、そういうわけにもいかない。もうみゆさんからは何ももらえないと思ったのだ。バイト先でも送別会を開いてくれて、短い期間でもここまでしてくれる人の温かさが嬉しかった。森野さんは、受験で広島にある大学を受験するらしく、受験の日には、一緒に飲もうと約束して、連絡先を交換した。それならばと東も広島の大学の受験を希望したが、「焦らずまだまだ2年もあるのだから、たくさん悩めばいい」という旨の言葉を送った。



長門を出る前夜、ベッドの隣で寝息を立てるみゆさんにばれないように、こっそりとアパートを抜け出し、誕生日の夜に行った公園のベンチに座った。そこで、スマホを取り出し、電話をかけた。真希に。


「急にどうしたの?」


と真希の方はびっくりしたようで、それもそうだろう。別れたはずの男から急に予告もなしに電話が来たのだから、びっくりして当然である。僕は、意を決して言った。


「よりを戻さないか?」と。


真希はすぐには返事をしなかった。きっと真希の中ではもう既にデータが上書きされているのだろうと思う。


「ごめん、やっぱり無理だ」


当然の答えだった。僕もきっとそのように言われると想像していただけに、ショックはあまり受けなかった。


「どうしても傍に居たいって言ったら?」粘ってみた。


「ごめん」断られた。


それでいい。真希は真希で、僕は僕で、前に進むのだ。それが運命というやつなのだろう。それでいい。電話を切って、夜空を見上げた。星が、月が、にじんでいるように見えた。急に日本海が見たくなったが、行かなかった。見ると耐えきれなくなり、壊れてしまいそうだった。でも、それでいいと思った。それが定めならそれを受け入れるだけだ。


少し大人に近づいた気がした。





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長門の夏 椎名晴 @hal-seena14

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