第2話
長門に来て、一週間が経ち、僕は、萩へ行ってみたくなった。萩には、高杉晋作の生家があるらしく、歴史上の人物で最も尊敬している高杉晋作が生まれた場所を肌で感じたいと思った。しかし、一人で行くのは気が引けて、みゆさんを誘ってみたが、物憂げな表情を浮かべるばかりで、乗り気じゃなかった。仕方なく、みゆさんからお金を借りて、一人で行くことにした。
長門市駅のホームに座り、電車を待つのだが、これがなかなか来ない。時刻表を見ておけばよかったと後悔したが、その駅のホームのベンチに座ると、心地いい風が入り込み、悪い気はしなかった。何時間いても飽きず、景色も殺風景だったが、それがかえってよかった。静かで、まるでいつか夢で見た天国がそのまま出てきたような、デジャヴにも似た感覚になった。そのままひょいと上の方へ目をやる。学習塾の看板がもろに陽射しを受けていた。そうか、僕は今、受験生なのだ。真希のために行こうとしていた大学には多分行かない。(事実、行かなかった。)きっと、今頃みんな夏期講習に行ってまじめに勉強をしているか、或いはした気でいると思うと、こうしてのんびりしていていいのだろうか不安になる。でも、やりたいことが見つからないのだから、勉強する意欲も沸かず、こうして現実逃避をするしかないのである。
電車が眼前の景色を横切るようにホームに侵入してきて、驚いた。いや、笑った。1両編成の小さな電車で、車内もまるで、広島市の路面を走る市電に似ている。こんな小さな電車で間に合うほどの田舎を他に知らない。乗ってみると、なかなかの雰囲気で、運転席の窓からの景色は最高だった。トンネルに入る時など、まるでトロッコが炭鉱に入っていくような感覚になり、千葉の遊園地で真希と乗った、緩やかな降下が一回あるだけの舟のアトラクションなんかよりもずっと楽しかった。
僕の隣に座っている女子高生は、景色には目もくれず、ケータイに夢中になっている。きっと、通学の度にこの景色を見せられるのだから仕方がない。もし、この女子高生が僕が乗ってきた山陽本線の景色を見たとしたら、どう思うだろうか。やはり、今のようにケータイをいじるだけなのか、或いは、今の僕のように窓に張り付いて、釘付けになるのか。考えてもわからない。この女子高生には、女子高生の価値観があって、その中に僕は入り込むことも口出しをすることもできないのだ。
萩駅へ着き、そこからは人に道を聞きながら、萩の街を歩いた。松陰神社に行って、吉田松陰が塾頭の松下村塾へ行ったり、吉田松陰の生家や伊藤博文の生家に行ったり、もちろん、高杉晋作の生家に行き、珍しい、髷姿で出家する前の高杉晋作の銅像を写真に撮った。この興奮をいち早く伝えたくなり、僕は、みゆさんに電話をかけた。
「はあ? 高杉晋作の銅像?」
まあ、そんな反応だとは薄々勘づいてはいたが、誰でもいい。この喜びを知ってほしかった、話したかったのだ。
「それより、いつ帰るの? 今日、久しぶりに飲みに行こうよ」
そのみゆさんの言葉に、僕は夢から覚めた。「すぐに帰ります!」と言って、電話を切り、急いで電車に飛び乗った。所詮、高校3年生には、歴史よりお酒である。
「晴くん、バイトしなよ」
みゆさんにそう言われたのは、行きつけの焼き鳥屋でレバーを食べている時だった。なるほど、バイトか。確かに、このままみゆさんにお世話になりっぱなしというのもまずい。高校ではアルバイトは禁止されていたが、まあ、ばれなければいいだろうし、わざわざこんなところまで来てバレることないだろうと思い、バイトを探すことにした。
一応、みゆさんのコンビニも検討したのだが、何よりもみゆさんが嫌がった。「晴くんに働いてるところを見られたくない」という何とも理解し難い理由だったが、女の子はそういうもんなのかと変に納得してしまった。スーパーのテナント辺りでどこかないだろうかと考え、ウロウロしていると、ちょうど定食屋の前を通りかかったとき、バイトを募集している張り紙を見つけた。迷わずそこに決めた。悉皆調査したというわけではないが、ここでいい。ここで5万くらい貯まれば、みゆさんに多少のお礼をして、電車でゆっくり帰ってもおつりがくる。
面接はやけにあっさりと通った。キッチンで皿洗い他雑用をやっていればいいといった具合で、面接の次の日から出勤した。世話役として、同い年の女の子が付いてくれることになった。彼女は森野さんと言った。森野さんにタイムカードの押し方を習った後、着替えて、キッチンの流しに立つ。そこで、食べ終わった食器を軽く濯いだ後、洗浄機にかけ、後は拭いて食器が並んでいる厨房に戻し、後の仕事は追々説明するという端的なものだったが、それでも十分わかりやすかった。
昼時は、スーパーということもあり、客が多かった。うかうかしていると、洗い物がどんどん溜まっていき、洗浄機待ちのかごが2、3個出ることもよくあった。腰が痛く、身に着けた制服は、水しぶきで濡れ、それでも客は待ってくれない。ホールの人が食器を下げてくるのだが、そのホールの人を殺したくなったほどである。もし、この食器をホールの不愛想な女に投げつければ、クビは間違いないところだろう。そんな下衆な会話でさえ、森野さんは嬉しそうに聞いてくれて、やりやすかった。
森野さんは、地元の高校に通っているのだという。普通、高校生のバイトは禁止じゃないのか聞いてみたが、校則が緩いらしい。
「好きな人はいるの?」
調子に乗って聞いてしまったが、森野さんに「椎名さんはいる?」と返され、頭に過ったのは、真希の顔だった。
「物凄く嫌いな奴ならいるよ」
そう言った僕の顔があまりにも悍ましかったのか、森野さんは「私はいたんだけど、振られちゃいました」と明るく言って、場を和ませようとしてくれた。こんなに気立ても人当たりも良い森野さんを振る男がいると思うと、森野さんの周りの女子はさぞ、レベルが高いのだろうなと思う。真希よりも断然、森野さんの方が綺麗である。
バイトを始めてから、みゆさんとの夜は、随分とご無沙汰になった。それどころが、僕がいなくなってから、みゆさんもやる気を出したのか、資格の勉強に没頭しているようであった。「問題だして!」と参考書を渡されることもよくあり、おかげで、憲法の解釈にはかなり強くなった。もし、やりたいことが決まらなかったら、高校を中退して、みゆさんと暮らしながら行政書士を目指すのもいいんじゃないだろうかと思えてきて、いやいや、みゆさんにはみゆさんの生き方があるし、歳も歳で、結婚を考えなければいけない。一生、一緒に暮らし、一生友達なんてのは、ただの縛り付けでしかない。どこの馬の骨かもわからない僕にここまで親切にしてくれたみゆさんには、どうか幸せになってほしいと心から願った。
バイトも慣れ始めた頃、僕にも後輩ができた。こいつがまた生意気そうなチャラチャラした奴で、東と言った。洗い場を一人で任されるようになったばかりのことで、森野さんがしてくれたように、親切に手取り足取り東に仕事を叩きこんだ。叩き込んだ後に気付いたのだが、こいつは仕事ができないタイプだと思った。まるで、僕の教え方が悪いような言い草で、文句を垂れては、すぐにサボる。おまけに休憩時間になると、どこかへ行き、それから戻ってくる。匂いでわかるが、あれは煙草を吸っている。僕でさえ、未成年ということもあり、仕事場では吸わないようにしているにもかかわらずだ。
「森野さん、ダメっすわ」
「東くんのこと?」
賄いのチーズチキンカツ定食を頬張りながら頷く僕に、森野さんは相変わらずのマイペースで、中華そばをちゅるちゅると啜っている。
「僕の教え方が悪いのかね」
こんな時でも、食欲は沸くもので、箸が止まらない。本当に悩んでいるのか森野さんにはわからなかったんじゃないかと思う。それに気づいていながらも箸を止めることができなかった。旨いのだ、ここのチーズチキンカツ定食が。
「でも、初めはみんなそうだよ。私だってそうだったし」
ちゅるちゅる。
「それって、僕も?」
少し意地悪をすると、慌てふためいて「いやいや、椎名さんは本当に呑み込みが早くて、こう、1聞いて10知るタイプっていうか。そんな感じだから、特殊というか……」とフォローをしてくれる。みゆさんといい、森野さんといい、僕の周りは人が好過ぎるほどのお人好しばかりで、長門という田舎の街が好きになりかけていた。
それからは、東には優しくした。何でもないような会話をして、洗い場でホールに聞こえるほど大きな声で笑い合い、あの温厚な森野さんからも「ちょっと静かにしよっか」と怒られたこともあった。東は、僕に気を許したのか、「晴さん、晴さん」と慕ってくれるようになった。仕事こそ、上手くいかないものの、できないことは無理をしないでフォローし合う。これが仕事というものじゃないだろうかとこの時、初めて感じた。
バイト漬けの毎日で、忘れていたことが一つあった。誕生日だ。8月13日は僕の18回目の誕生日で、店長は、僕と同じ誕生日にもかかわらず、この日はバイトを休んでもいいと言ってくれた。みゆさんもその日はバイトを休みにしてくれて、午前中は部屋で二人ダラダラと過ごし、久しぶりに3戦ほどした後、僕自身もすっかり行きつけになった焼き鳥屋で誕生日会と銘打ってはいるものの、いつもと同じ飲み明かすだけの、そんな一夜を過ごした。
焼き鳥屋からの帰り道、みゆさんと近くの公園に立ち寄った。遊具がたくさんある公園で、僕と同い年くらいの若者が座り込んで話している他は誰もいなかった。
「18歳になるってどんな気持ちよ?」
すっかり出来上がってしまっているみゆさんに半ば絡まれる形で聞かれたが、その答えがわからなかった。18歳。世間で言えば、まだまだ子供だが、パチンコもできるし、レンタルDVDショップのいかがわしいコーナーにも堂々と入れる。しかし、そういうことはやってはいけない17歳以下でやるのが楽しいのであって、堂々とできるようになった途端、その熱も冷めてしまうような、そんな気持ちになった。今、こうして煙草を吸いながら、お酒を飲み、酔い覚ましに公園のベンチに座ることなど、20歳になれば、当たり前のことになっていて、警察に怯えることもなくなる。
「なんか、複雑ですね」
酔っぱらったみゆさんに届いたのかどうかはわからないが、そう答えるのが精いっぱいだった。まだまだ子供でいたいと思った。
翌日、二日酔いのままバイト先へ顔を出すと、一瞬、入るところを間違えたのかと思い、扉を閉めたくなった。この日は、午後からの出勤で、大体この時間はゆったりまったりとしている店内なのだが、どういうわけか、昼時ほど大勢の客で犇めき合っている。
「何事です?」
と店長に尋ねてみたが、取り合ってもらえない。それほどキッチンもてんやわんやしていて、その場で私服のまま、狼狽するしかなかった。森野さんに「急いで着替えて!」とやる気を出すスイッチのようなものをぽんと押され、着替えを済まし、洗い場で待つ東の元へ行った。
「晴さん、お盆って死んだ人が帰ってくるなんて言うじゃないですか?」
前掛けの紐を締めながら「うん」と言った。
「でも、実際、帰ってくるのって、長門から都会へ出て行った若い人ばかりなんっすよね……」
東の言うことが妙に的を射ていて、馬鹿なだけかと思っていただけに、驚いた。死んだ人が帰ってくるなんてことは、科学的に有り得ない。つまり、お盆というのは、死んだ人が帰ってくると銘打ってはいるが、実際は、家族みんなで集まるというのが、真の目的なのではないだろうか。どこかの寂しい誰かがそういう嘘をついて、それが広まって、今のこの忙しさがあると思うと、いいもんか、悪いもんか、判別ができない。
「ちなみに、昨日誕生日だったんだけどさ。俺、お盆に生まれてるじゃん? 死んだ人の生き返りかななんてずっと思って生きてきたんだけど、やっぱりただの思い過ごしなのかね?」
そう言った僕の言葉に東は「まじすか? おめでとうございます! あ、今日昼飯、俺おごります!」と言って、後半部分に触れないまま、ジョッキを濯ぎ始めたところを見ると、僕の思い過ごしなのかもしれない。
この日の賄いは、本当に東が奢ってくれた。とは言っても、どの品も社割で300円なのだから、これだと煙草1箱分にも相当しない。やられたと思った。
「けど、18歳っすか。いいっすね」
ざるそばを啜る東を見ながら、ざるそばのざるを洗うのは、結構面倒なのにと仕事のことを考えている自分がいて、まるで社会に洗脳されているような気がした。
「そう言えば、森野さんのこと、晴さんはどう思ってますか?」
急に話題が変わり、しかもその話題が話題なだけに、危うくご飯の入ったお茶碗を落としそうになった。
「どうって、何が?」
「鈍いっすねー。森野さん、絶対晴さんのこと好きですよ、あれ」
東が箸で差す方向にある座席に一人、蕭条たる姿で中華そばを相変わらずのマイペースで食べている森野さんの姿があった。
「そんなわけがないだろ」
と言っておきながら、本当だろうか。そうだったらいいな。という気持ちが頭の中を駆け巡り、ご飯の味がしなくなってきた。僕は自分で言うのも烏滸がましいが、鈍い。鈍くて、何度真希から怒られたことだろうか、指折り数えると、軽く一周してしまうほどで、これでは自分の思い込みは当てにならない。それよりも、若い感性、東のように女遊びもちゃんとしてそうな奴から言われるほうが、まだ信憑性がありそうである。しかし、森野さんも森野さんで、あの人も他人とはちょっと違う、抜けたところがあって、東が遊んでそうな女の子基準で測ってはいけない。1センチと1尺くらいの誤差は想定しておかなければ、辱めを受けるのはこちらである。
「メアドとか知ってんすか?」
首を横に振る。
「俺、聞いてきましょうか?」
席を立った東の腕を引っ張った。
「待て待て。それはまずいだろ」
「何がまずいんすか? あ、まさか、晴さん、彼女いるんすか?」
「彼女」というワードだけで、真希の顔が浮かんだ。この先もずっとこの調子だとすると、もし、他に彼女ができたとき、その彼女に申し訳が立たない。「いないけど……」と言ってしまえば、きっと東は是が非でも聞きに行くだろう。僕は、「いるよ」と答え、食器を下げた。
バイト終わりに休憩室で森野さんと二人っきりになった。東の奴は、早々と帰っていき、昼食の時の会話のこともあって、何となく話しかけづらかった。そのせいで、気まずく思ったのか、森野さんのほうから「どう? バイト馴れた?」と聞いてくれた。
「まあまあかな」
「そっかー。でも、東くんと仲良さそうでよかったね!」
本人はただ純粋にそう言っただけなのだろうが、汚れた人間の僕には、それがどうもヤキモチに思えてならない。本当に汚れている。僕は。
「ところで椎名さん、この後予定ある?」
予定はない。が、時刻はとっくに19時を回っている。
「森野さんの方こそ、予定大丈夫なの?」
自分で聞いておいて何をマヌケたことを言っているんだろうと思い、恥かしくなった。森野さんも「私から誘っておいて、予定があったら、嫌な女よ?」と言ってクスクス笑った。
森野さんに連れられて一件のラーメン屋に入った。当時の僕は、無類のラーメン好きで、何かあるごとにラーメン。寝ても覚めてもラーメンを乞うような、大腸も麺でできているんじゃないかと思うほどのラーメン大好き人間だった。みゆさんを誘ってラーメン屋に行こうとしたこともあったが、「麺より肉!」と言って、いつもの焼き鳥屋に連れて行かれる始末で、長門へ来て初めてのラーメンだった。
「ここのとんこつラーメン美味しいから」
ああ、とんこつラーメンか。どちらかというと、醤油ベースの方が食べたい舌になっていたが、こうして屈託のない笑顔で勧められると、引くに引けず、とんこつラーメンを注文した。
「あとねー、もっちもちの太麺なんだよ!」
ああ、太麺か。うん。細麺でちゅるちゅるといきたかっただけに、まあ仕方がない。
出来上がった太麺のとんこつラーメンが運ばれてきて、ああ、ラーメンよ。お会いしとうございましたと、一礼。割り箸をピシッと割った。上半分が偏って、ブサイクになったがおかまいなしに、蓮華でスープを一口。また、これがものすごくまずい。くどいのである。麺を啜ってみるといよいよまずい。小麦粉に含まれるグルテンを口の中でくちゃくちゃ言わすような、パンを焼く前の生地の味がする。が、美味しそうにちゅるちゅると相変わらずのマイペースで啜る森野さんの手前、食べないわけにもいかず、完食。840円と割高であった。
ラーメン屋からの帰り道、すっかり夜になった高架橋を二人並んで歩いた。月も星も出ていて、気持ち、広島で見る星よりも近くにそれを感じた。何か会話はないものかと、「いつも一人でこんな夜道歩くの?」と聞いてみたが、それには答えず、森野さんは、「先月、花火大会があったんだー」と言って、高架橋の降りる階段の途中、手すりにもたれ掛かって言った。僕も、同じように森野さんの横でもたれてみるが、高架橋の浮いた道路部分が見えるだけで、そこに落書きで「上等」「参上」「やりちん」と書かれていた。
「花火大会?」
「そう、花火大会」
そう言えば、夏の風物詩と呼べるものは、何一つしていない。海へ行くことも、花火をすることも、お祭りに行くことも、そこでかき氷を食べることも。みゆさんの家は、クーラーが付いていて、扇風機もまだ見ていない。ただ、暑いだけで、本当に夏が来たという実感がイマイチ沸かなかった。
「これから花火でもする?」
高架橋道路部分の落書きに飽きてきた頃、森野さんに提案してみた。思いついてからすぐのことである。
「え?」
「この時期ならコンビニにも置いてるだろうし、どこかできそうなところがあればだけど」
「それなら、日本海とかは?」
日本海。そう言えば、生まれて一度も見たことがなかった。海と言えば、生まれたときから瀬戸内海しかしらない僕にとって、日本海や太平洋は、歴史上の物という認識で、実際に存在するのか、どんな波を立てるのか、興味があった。森野さんと一緒に、高架橋を降りたところにあるコンビニで花火を1セット買い、僕はついでに煙草を買おうとしたが、買えなかった。年齢確認をされてしまったのである。
日本海は、高架橋から少し歩いたところから急に左側に現れた。夜の日本海というのも乙なもので、日中晴れた日に見るとさぞかし綺麗だろうなと耳を澄ませた。日本海が僕を歓迎するかのように、ゾーッシャと言った。初めまして、日本海。僕も一礼した。
「良いでしょう?」
得意げに言う彼女の横で僕は頷いた。ああ、素晴らしい。最高だった。
買った花火の存在などすっかり忘れてしまい、二人で並んで座り、目の前は日本海である。なんていいムードを作り出すのだろうか。演出家日本海。やってくれる。
「さっきの話の続きしてもいい?」
さっき? と一瞬首を傾げたが、思い出した。花火大会のことだ。ああ、花火を買っていたんだっけ。それでここへ来たんだっけと思い出した。
「実はあの日、彼氏と行く予定だったんだけど、喧嘩しちゃって。些細なことなのよ。でも、それっきり花火大会に行くこともなく、彼氏とも連絡取ってないんだよねー」
身の上話をこんなどこの馬の骨ともわからない僕などにしていいものなのか、でも、語られる一語一語が赤裸々で、下手な芝居なんかより、ずっともらい泣きしそうになる。それともう一つ、彼女は、僕と境遇が似ていると感じたからだろうか。誰かに聞いてほしいけど、誰もいない。それは、言われた方としては、何と言ってあげればいいかわからないからである。森野さんともあろう人なら、それも重々承知で、しかし、誰かに聞いてもらわなければ、壊れてしまいそうになる、それほどの後悔。僕と同じだと思った。
「今でもその人のことが好き?」
森野さんは一瞬考え、それから「わかんない」と言った。どんな表情をしていたのか、ちょうど月が雲に隠れてわからなかったが、笑っているといい。涙こぼれそうでも、無理矢理にでも、笑っているといいと思った。
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