Ⅲ-7 少女のまなざし
アナカオナは闘っていた。
たったひとりで大切な友のために闘っていた。
スサナから妊娠を告げられたとき、アナカオナは喜んだ。赤ちゃんが生まれてくるのはおめでたいことだ。楽しみなことだ。
けれどスサナは言ったのだ。
「誰にも知られないようにしたいの。父にも、フェルナンドさんにも、リカルドにも」
噛んで含めるようにスサナはゆっくり説明した。
「この子は、生まれたら殺されるかもしれないの。だからそうならないようにしたい。この子を守りたい。だから私のお腹に子供がいることを誰にも知られないようにしたいの。特にフェルナンドさんに」
理解するのに手間取った。
殺されるって、死んじゃうって、どうして? だってスサナの子供はスペイン人の子供なのに。
お腹の子のお父さんが誰なのかをスサナは言わなかったけれど、なんとなくアナカオナにはわかった。
その推測が合っているにしろ間違っているにしろ、スサナが産む以上はスサナの子で、つまりスペイン人の子だ。それなのにどうして殺されるんだろう。
「もし父に知られたら、父の行動でフェルナンドさんも知るわ。リカルドに教えたら、やっぱり隠しきれなくてフェルナンドさんが知るわ。それはだめなの。だから誰にも教えないで。カシケにもよ。わかった?」
「はい」
「アナカオナ、今の私にとって、頼ることができる人はあなただけ。だからお願い。協力してほしいの」
こんなに困った様子のスサナを見るのは、はじめてだった。とても思いつめていて、不安そうで、でも絶対に負けないという強い光が目の奥にあって、ああこの人はわたしを信じてくれているんだなとアナカオナは感じた。だから握りしめてくるスサナの手をぎゅっと包みこんだのだ。
周囲に気取られる前に姿を消す。スサナは最初からそう決めていた。人目につかない山にこもって産むのだ。
そのための準備をアナカオナは手伝ってきた。山のことならスサナよりずっと詳しい。隠れ住むのにふさわしい場所も知っていた。
お腹が目立ちはじめた頃、スサナは決行の日を伝えてきた。
もう準備はできている。アナカオナは夜中に家を抜け出して山の入り口で待った。空に月はなかった。砦を抜け出してきたスサナを連れて、山の上へ上へと歩いた。
スサナがいなくなった。それはあっという間に知れ渡った。
アナカオナは司令官に疑われた。「スサナの居場所を教えろ」と痛めつけられた。リカルドが居合わせれば、かばってくれた。けれどそうじゃないときのほうが多かった。
どれだけひどい仕打ちにあおうと、アナカオナは決して口を割らなかった。痣や腫れが無数にできたけれど、腹も立たなかったし、涙も出なかった。これがスサナのためになるなら、痛いのなんてどうってことなかった。
スサナは
スペインの女はみんな、きっとスサナのように笑う。スペインの男のように見せかけの笑顔でだましたりしない。
ある日突然やってきたスペインの男たち。見たことも聞いたこともない物をたくさん持っていた。いまなら言える。色のついたガラス玉、ブリキの指輪、音が鳴る鈴、顎紐のついた帽子。でもあの頃はそれが何なのかわからなかった。
この人たちはいったい何なんだろう。
正体がつかめず遠巻きにするアナカオナたちに、スペイン人はそうした珍しい物を渡してくれた。その瞬間、アナカオナたちは彼らをお客さまだと理解した。
あの頃、島には山を囲むように村が三つあった。それぞれには
スペイン人は出会ってすぐに物をくれた。それならお客さまだ。けれどただのお客さまじゃない。こんなに姿も言葉も違う、乗っている船もあんなに大きいなら、きっと天から来た人たちだ。
アナカオナたちは綿の糸玉や槍、食べ物や樽いっぱいの水、そして
するとスペイン人はまた物をくれた。たとえそれが欠けて使えないお椀だとしても、何の役にも立たない折れた針先だとしても、もらったガラスのかけらで指を切ってしまうことがあっても、贈り物をしてくれたことにアナカオナたちは喜んだ。
もらった物の正体なんて知らない。彼らが彼らの物を分かち合ってくれた、それが嬉しくて、また彼らに贈り物をした。歓迎の唄を歌い、島の唄を歌って喜びを伝えた。
スペイン人は三つの村に順にやってきた。どの村でも彼らを歓迎した。贈り物をして、贈り物をされて、誰もが笑顔だった。だから思いもしなかったのだ。スペイン人が村を焼くなんて。
最初にやってきたスペイン人はその日のうちに船で去っていった。それからしばらくのあいだ、何事もなかった。
その夜、アナカオナは姉とふたりで家の中にいた。アナカオナはまだ十歳で、四つ上の姉と手を繋いで眠っていた。
鳥と虫の声しかないはずの闇が、ざわついた。アナカオナと姉は目をさまして、外に出た。すでに父も
森のむこうには村がある。いちばん大きい村だ。その村のほうからただごとではない気配が押し寄せてきた。何かがいる。いつもとは違う何かが。カリブ族かもしれない。でもこんな夜中に? 嫌な予感が足下から這い上がった。
目をさました人たちが増えて、何事だろうとささやきあった。武器を手にする男たちもいた。アナカオナの父もそのひとりだった。
たたかうの?
アナカオナは父にそう声をかけた。夜の風がふるえている。父の背中がいつもより恐ろしく見えて、何かとても悪いことが起きそうで、アナカオナは心細かった。
父が振り向いて口を開きかける。その時、森の中から声が聞こえた。声はどんどん近づいてきて、しだいに何を言っているのかはっきり聞き取れるようになった。
逃げろ、と叫んでいた。逃げろ、殺される。
アナカオナの父は声の主を出迎えた。叫びながら走ってきた彼の肌は濡れているようだった。よく見ると、ただれて、赤い肉が闇に光った。火傷をしていたのだ。
彼は伝えてくれた。「天から来た人たちが、家を焼いてる」と。「いますぐ逃げろ」と。その人はやがて横たわり、静かになった。
家族を起こして慌てて海にむかう人もいたし、どうすればいいか決められずに立ち尽くす人もいたし、様子を見てくると言って森のむこうへ走る人もいた。
父は投げ槍を手に取り、森の中に入っていった。
母と姉たちは家にこもった。アナカオナは父が心配だったから、外に立っていた。
星が綺麗な夜だった。こんなに星は綺麗なのに、島に響くのは恐ろしい悲鳴だった。
スペイン人が森を抜けてアナカオナたちの村にやってきた。大きな動物、馬を見たのはこの時がはじめてだ。スペイン人は大声で何かを言い、叫び終わると村を取り囲んだ。逃げようとした人は槍で貫かれた。
スペイン人の槍は、棒に魚の歯をつけたものとは違う。鋭く尖った、鉄というものでできている。アナカオナたちは鉄を知らなかった。人の体を貫くほどの武器を知らなかった。
轟音がした。アナカオナは耳をふさいだ。まるで雷が木を裂いたような恐ろしい音だ。誰もが頭を抱えてうずくまった。生まれてはじめて聞く銃の声だった。スペイン人が空にむかって撃ったのだ。
夜が明けた。
スペイン人は村をひとつ消した。いちばん大きな村だった。二千人ほどいた村の人たちはほとんど死んでしまった。焼けただれた赤い肉を光らせて、貫かれた傷口から血をあふれさせて、動かなくなっていた。
戻ってきた父はいままで見たことがないほどの悲しい顔をしていた。握りしめた槍は折れていて、腕に火傷を負っていた。
アナカオナたちの村が燃やされることはなかったから、大きい村の誰かを助けようとしたんだなと思った。そういう父をアナカオナは誇りに思った。迷うことなく仲間を助けに行って、生きて戻ってきてくれる父でよかった。
スペイン人に捕まる前に
逃げられなかったアナカオナたちには、それこそ死にたくなるような毎日が待っていた。
スペイン人は
アナカオナたちは持っている
丸太を運ばされて、木と木のあいだに渡した。ふたりの
姉がアナカオナの視界をふさぐように抱きしめたけれど、あの嫌なにおいはその後もずっと――スサナに会ってからも、アナカオナの記憶から薄れることはなかった。
三人の
男たちは山に行かされた。
スペイン人は
女たちはスペイン人の指示で土を耕した。もともとアナカオナたちはユカ芋を栽培していたが、それ以外は自生のもので済ませていた。
そこにきて綿やトウモロコシも栽培することになったのだ。アナカオナたちにとっては大変な労働だった。
おまけにスペイン人はよく食べる。彼らの求めに応じて自分が食べる分までも差し出したアナカオナたちは、みるみる痩せていった。
耕作し、魚や
獲物を捕るのはいつも男の役目だったから、アナカオナたちにはうまくできなかった。それでもやらなければならなかった。勝手に休めば耳をそぎ落とされることがあった。ひどく殴られて、命を落とすこともあった。
遊びたいときに遊び、食べたいときに食べ、休みたいときに休むという暮らしをしてきたアナカオナたちには、耐えがたい毎日だった。アナカオナの母は乳が出なくなった。
泣き声がうるさかったのだろうとアナカオナは思う。
畑仕事の手を止めて慌てて母が家に戻ったとき、弟はスペイン人に足をつかまれて
弟は力任せに地面に叩きつけられた。スペイン人は笑った。笑ったのだ。母は泣いて、血が止まらなくて、その日のうちに息を引き取った。
姉はあるスペイン人の世話を住み込みでするようになった。けれど彼が島から去っても姉は戻らなかった。
その少し前、スペイン人が連れていた大きな犬が、アナカオナにはよく見慣れた文様の腕をくわえていた。姉の姿はその後いちども見ていない。
前の司令官が島を去り、いまの司令官がやってきてから、山にこもらされていた男たちがやっと戻ってきた。数が大きく減っていた。
アナカオナと父親は再会を喜んで抱きあった。骨の浮き出た体はお互い頼りなかったけれど、そのぬくもりが嬉しかった。
父の話では、もう
欲しい人に欲しい物を渡す、足りない人に足りている人が渡す。アナカオナたちにとってはそれがあたりまえで、だから
けれど、彼らはどうしてあんなにたくさんの
村はひとつだけになった。三つの村の生き残りがすべて集まっているのに、むしろ前より広く感じる。
もともと
スペイン人に対するこの感情をなんて呼べばいいのか、アナカオナにはわからない。悲しくて恐ろしくて、それだけではない感情。いままで知らなかったそれが胸をふさいで息苦しい。
どうしてそんなに
だって
インディオ、それは何?
わたしたちはそんな名前じゃないのに。なぜそんなふうにわたしたちを呼んで、そんな目で見るの。
スペイン人のことを知りたかった。天から来た人たちであるわけがない。本当はどういうところから来たのだろう。アナカオナの知らない言葉でいつも何を言っているのだろう。
知りたかった。だからアナカオナは決めた。
簡単なことだ。言葉をおぼえればいい。
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