Ⅲ-8 あの子の唄

 これまでのアナカオナは、自分に何かを言ってくるスペイン人の意図を、声の強さや表情、態度などから読み取ってきた。そこからいくつかの言葉を聞き取ることもできるようになっていた。

 けれどそれだけでは足りない。


 もっと言葉をおぼえたい、と身振りで伝えたら、そのスペイン人は笑った。

 そんなにおもしろいのだろうか、知らない言葉を知ろうとするのは。


 スペイン人は笑っていたが、それでも言葉を教えてくれた。彼はすぐ島を去ってしまったけれど、アナカオナは耳をそばだてて必死に言語を盗んだ。

 だんだん、彼らの会話がわかるようになった。おぼえた言葉は父にも教えた。


 スペイン人は島にやってきて、アナカオナたちを働かせて、島から去る。そうしてまた新しいスペイン人がやってくる。


 フェルナンドというスペイン人は、これまでのスペイン人とは違った。やってきてすぐ家を大きくし、新しく作った部屋にこもって木に細工している。そんなことをするスペイン人はいままでいなかった。


 フェルナンドは倒れたアナカオナを介抱してくれたこともある。それを喜んでいいのかどうか、もうアナカオナにはわからなかった。喜んだあとにひどいことをされるのではないかと身構えてしまった。

 けれどフェルナンドはアナカオナと少し話をしただけで、ひどいことはしてこなかった。


 フェルナンドは長いひとりごとを言った。それが神の教えを読んでいたのだと知ったのは、スサナと話すようになってからだ。


 スサナとはじめて会ったとき、なんて綺麗な人だろうと思った。朝日にきらめく海のように、スサナの笑顔はとても綺麗だったのだ。唇だけでなく、細めた目の、その奥の輝きまでちゃんと笑っていた。


 けれどアナカオナは困った。

 こんなに綺麗な人も、みんなの指を一本ずつ切り落としていくようなことをするのだろうか。それともこの人こそ、本当に天から来た人なのか。

 わからないから、やっぱり少し身構えた。


 フェルナンドの家ではじめてスサナと会った日の帰り道、通りがかったスペイン人に蹴られた。理由はよくわからなかった。でもそういうことはよくあったから、アナカオナは背を丸めて耐えていた。


 その時だ。スサナが遠くから走ってきてその男を怒鳴りつけた。そしてアナカオナを抱き起こしてこう言った。


「まっすぐ目を上げて私を見て。そうすれば私たちは友達アミーガよ」


 スサナの目は綺麗だった。まるで、そう、姉のようないたわりと、母のようなあたたかさがあった。そして強いきらめきを宿していた。


 スサナが来てから島の暮らしが変わった。男たちはスペイン人を乗せて歩かなくてよくなったし、女たちが傷つけられることも減った。血を流す人がいなくなったのだ。


 スサナといると、何かを失敗しても折檻されなかった。スサナはもちろん、ほかの誰もアナカオナを傷つけてこなくなった。


 スサナはたくさん話しかけてくれた。おかげでアナカオナのスペイン語は飛躍的に伸びた。

 スサナが言葉を教えてくれるときは、同時にスペインという場所についても教えてくれる。海のむこうにあること、国というもの。スサナが身につけている飾り物についてや、文字について。


 やっぱりスサナも天から来たわけじゃなかった。スペイン、という国から来たのだ。スペインはとても遠い場所にあるけれど、けっして天ではない。


 アナカオナはどんなことでもおぼえようとした。読み書きは難しくてできなかったし、島から出たこともないけれど、言葉を紙に書くのだということは知ったし、頭の中では海を越えていた。


 それは不思議な感覚だった。海のむこう、そこにスサナみたいな人がいっぱいいるのだ。自分の胸にもうひとつ目があったことをアナカオナは知った。ずっと閉じていたその目がスサナの話を聞くことで開いたのだ。それほどに、まぶしい心地がした。


「どうして体に色を塗ってるの?」

「これは、名前。みんな、いろいろです。村、父、母、もっといろんな名前」

「わかった。それがアナカオナたちの、文字なのね」


 スサナはアナカオナのことを理解しようとしてくれた。いつも見てくれていた。だからアナカオナはスサナを好きになった。スサナの心を信じた。その信頼を裏切られたことはいちどだってない。スサナとは楽しくおしゃべりできたし、遠慮なく笑うことができた。


 だから知っている。スサナが誰と一緒にいるときいちばん嬉しそうに笑うのかを。


 リカルドはスペイン人の男だ。だからアナカオナはリカルドを警戒していた。

 でもリカルドは、スサナに話しかけるときと同じようにアナカオナに話しかけてくれた。最初からそうだったし、時がたってもリカルドは変わらなかった。いつも明るく笑っていて、親しげな光を目に浮かべていて、元気な声で話しかけてくれる。


 舟作りの最中にスサナと踊り始めたときも、アナカオナを輪の中に入れてくれた。楽しかった。わくわくした。ひさしぶりに、本当にひさしぶりに思いっきり笑った。


 アナカオナもリカルドを好きになった。


 だからスサナがいなくなって元気がないリカルドを見るのはつらかった。スサナのことを訊かれたとき、「知らない」と言い張ることが苦しくて、それでもスサナとの約束は守りたくて、悩んだ末に、ずるい答え方をした。


 どうかリカルドがスサナを嫌いになりませんように。

 そう思うけれど、本当のことをすべて打ち明けることはできなかった。


「リカルドが、スサナに言いたいって。本当に一緒に帰りたかった、いまでもそう思ってる、って」


 リカルドの言葉を伝えたら、スサナは泣き崩れた。

 やっぱり本当は会いたいんだろうとアナカオナは思う。スサナはリカルドに会いたがってる。それでも会わないと決めたんだ。お腹の子のために。


 アナカオナは弟が生まれるときに出産を手伝った。まだ十歳だったし、言われたことに従っていただけだけれど、いまも忘れていない。どうしてもわからないことは経験豊富な婆にそれとなく尋ねた。そうして必要なものを揃えていった。


 だいじょうぶだ、ちゃんとできる。

 赤ちゃん、助けられる。


 アナカオナは何度も自分に言い聞かせた。

 不安でいっぱいだったけれど、いちばん不安なのはスサナだ。そう思うからスサナといるときはいつも笑顔を浮かべた。


「ごめんね」


 スサナが泣きそうな声で言った。アナカオナの腕にできた痣を優しい指がなでる。

 司令官はいまもたまにアナカオナを蹴ってくる。スサナは海で溺れ死んだ、そんな噂が島に流れているのが気に食わないと言う。


「私のせいで、痛い思いしてるんだよね。ごめんね」

「だいじょうぶ。ぜんぜん、痛くない」

「ありがとう……」


 雨が降ってきた。洞穴の外でまっすぐ降る白い筋が見える。


 この洞穴がいつからあるのかは知らない。大昔、ご先祖たちがはじめてこの島に来たときにはすでにあったという。


 ふたりも入ると狭いし、入り口は小さいし、お腹の大きいスサナは出入りも楽ではなさそうだった。それでもスペイン人たちが黄金ナカイをとらせるために作った道ではまず辿り着けない場所にあるから、隠れるにはここしかないと思った。


 洞穴の奥にはわずかな食べ物をお供えしている。

 アナカオナは毎日、スサナの食事と一緒にお供え物も持ってくる。スサナをここに連れてくる前にもアナカオナはひとりで訪れ、お供え物をして、ここをお借りしますと地面に額をつけた。


 ここは、あの子の寝床だ。


 村がまだ三つあった頃、島の人間は誰かが生まれたり死んだりするたびにここに来た。お供え物をして、「こっちに新しい同胞がやってきたので仲良くしてください」とか「同胞がひとり、そっちに行ったから仲良くしてやってください」とかいう挨拶をするのだ。


 どの村にもある習わしだった。いまでは人がたくさん死にすぎて、やらなきゃいけないこともたくさんあるせいで、ここに来る人はいなくなってしまったけれど。


 ここに来なくても、あの子はどこにでもいるから、島で何が起きているのかも見ているはずだ。あの子に会ったことはないけれど、村人の中にはあの子の声を聴いている人もいる。


 あの子はみんなに笑っていてほしいんだよ、とその人は言った。朝日に顔を向けて、海に涙を預けて、土に笑い声を落としてほしいんだよ、と。そうすればいつだってあの子も笑っていられるからね、と。


 家にいることが減った理由を父に尋ねられ、曖昧な嘘をついたら「好きな男ができたのか」と誤解してくれた。


「こんなふうになってしまって、おまえには結婚なんてさせてやれないかと思ってたからな、そんなに会いたい人がいるなら止めないよ」と、微笑んでくれた。そんなふうに言ってもらえると思わなかったから、嬉しくて、でも胸が痛かった。


「私ね、いちど、死んでるの」


 雨音にかき消されそうな声がスサナの唇からもれた。微笑んではいたが、目は遠くを見ていた。


「喧嘩になっちゃって。悪いのは私たちで、相手を怒らせちゃうの。ひとりが、剣を奪って父に向けたわ。それで私、父を、かばったの」


 スサナの手が膨らんだお腹をさする。細められた目の輝きは、涙をこらえるように揺れていた。


「意見が合わないことばっかりだし、嫌いだって思うこともあるけど、それでも父は、父だから。危ないって思ったら体が勝手に動いて、かばってた。それでよかったと思ってるわ。父を守れて、私よかった」


 アナカオナにはよく理解できない話だった。

 スサナがつらそうに微笑んでアナカオナを見つめる。そっと腕を伸ばしてアナカオナを抱きしめた。


「――ごめんね」


 その声があまりに悲しげだったので、アナカオナは無性に泣きたくなった。泣きたくなるほどスサナを助けたいと思った。




 ある日の夜、食事を終えてむしろに横たわったあと、スサナが言った。お腹がだいぶ大きい。もうそろそろかもしれないとアナカオナは思っていた。


「ねえアナカオナ、何か歌って」

「うた。島のうた」

「うん。歌って」


 アナカオナは最近、よく弟を思い出す。母の大きいお腹をなでながら、生まれたら子守唄を聴かせるんだと言ったことがあった。その楽しみが奪われてしまったことを思い出す。


 アナカオナは歌った。それは島に伝わる子守唄だ。島の唄だ。



  海を渡って誰か来る

  客ならば もてなそう

  あの子が笑うから

  敵ならば 追い出そう

  あの子が泣くから


  ビエウ


  天の恵みも 地の恵みも

  あの子が喜び 笑うから 


  歌ってみせよう あの子も歌う

  踊ってみせよう あの子も踊る


  わたしの真似をして育つ愛しい子

  いつかわたしより上手に歌い踊る


  おまえのために わたしは生きよう

  おまえのために わたしは死のう



 歌いながらアナカオナは思い出す。まだスペイン人たちがやってくる前の島のことを。母の声、姉の背中、弟の柔らかい体、消えてしまった人たちと笑いあった日々を。

 もう取り戻せないけれど、それでもアナカオナは、いま、微笑むことができた。

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