Ⅲ-6 失踪
スサナがいなくなった。前触れもなく、姿を消した。
しばらく体調不良で休んでいたスサナは、「もう大丈夫」と言って再びリカルドを手伝ってくれていた。
舟作りは板の曲げの角度がバラバラで微調整したり、板を繋げる木釘が全然足りないことが判明したりと、あまり順調とは言えなかった。
うまくいかなくてもリカルドは笑い飛ばしたし、スサナも楽しんでいるように見えた。フェルナンドだけが不機嫌そうにしていたが、それでもリカルドが頼めば手伝ってくれた。
雨の強さに耐えきれなかったのか、作業所が壊れるというトラブルもあった。建て直さなくていいかとも思ったが、日陰で作業したかったからやっぱり建て直した。
ある時、スサナがリカルドに問いかけた。
「海は危険がいっぱいでしょ? 怖くない?」
「そうだな、命がけだよ。現に俺だって死にかけたし」
リカルドは軽い調子で笑い声をたてた。態度には出さなかったが、一緒の船に乗っていた仲間は今頃どうしているかと頭をよぎった。
「でもさ、好きなんだよ、海が。遠い場所に行くことが。海の向こうでも人が生きてるってのを実感するのが。どこでも生きられる、どこにでも行けるって気持ちになる。それにね」
遠い目をしてリカルドは記憶を見つめる。
「何にもないように見えるだだっ広い海の真ん中でね、クジラとかイルカとかの群れを見ると楽しくなる。虹を見たときなんか感動したなあ。本当に見とれたよ」
ああいうものに妙に感動してしまうのは、死と隣り合わせだからかもしれない。思いがけない虹やイルカとの出会いも、朝焼けの美しさに目がくらむのも、生きているからこそだ。
「死にたくないけど、死ぬかもってのはいつも頭にあるよ。むしろ死なないためにいつも考えてるって感じかな。だけどさ、自分で選んだ道だから、もしそれで危ない目に遭ってもね、やめときゃよかったなんて俺は絶対思わない。会えなくなっちゃう人たちには申し訳ないし俺もつらいけど、仕方ない」
リカルドは溜め息と一緒に微笑んだ。
海というのは手厳しい相手だが、世界を繋ぐ懐は深い。そこに憧れるのだ。危ない目には遭いたくないけれど、危険と引き替えにしてでも海を渡りたい。この矛盾をうまく説明しきれたか自信がなかった。
スサナは神妙な顔でうなずいてくれた。
「そうね。好きだから、仕方ないわね」
その笑顔がどことなく寂しげだったから、「
小舟作りは失敗を繰り返しながらも少しずつ形になっていった。半分ほどできあがったところで「そろそろ雨期が終わる」とフェルナンドが言った。
それなら何かお祭りでもしないか、とリカルドは提案したが、「そんなことはしてないし、食べ物の余裕もない」とフェルナンドもディマスも却下してきた。集まってワイワイやるだけでいんだ、とリカルドは粘ったし、乗り気になった人たちもいたのだが、結局実現しなかった。
この騒ぎの最中にスサナが消えた。
昼食の時間なのに食堂に現れないから様子を見に行ったら、寝室にいなかったのだ。
一日の食事は昼と夜の二回だ。昨夜の食事の時にはいた。その後は誰も姿を見ていない。作業所にもフェルナンドの家にも、カシケの家にも現れないまま、砦に戻ってくることもなく、スサナはどこかに消えてしまった。
司令官は真っ先にリカルドを疑った。スサナはどこにいる、と詰問してきた。
「俺も知りたいです」
「お前が娘に何かしたんだろう!」
「それは……」
「どこに隠している!」
「隠すって……そんなことしません。正直に言うと、俺はお嬢さんと一緒にスペインに帰ろうと思ってました。彼女がどこにいるのか知りたくてたまらないのは俺も同じです」
司令官は目を吊り上げてリカルドを殴った。口の中を切って血が出たが、リカルドは黙って痛みを受け入れた。
司令官は島の人間すべてにスサナの居場所を問い質した。けれど手掛かりはまったくつかめなかった。
詰問の対象はアナカオナにも及んだ。あれだけしょっちゅう一緒にいたのだから何か知っているだろうと責めたてた。
アナカオナが「知らないです」と答えると、司令官はアナカオナを殴って同じ質問を繰り返した。それでもアナカオナは「知らない」と答えた。
さらに痛めつけようとする司令官を見て、リカルドはアナカオナの盾になった。かわりに殴られたが、怒りは沸かなかった。
本当のことを知りたい。スサナのことで頭がいっぱいだった。
「アナカオナ、本当のことを教えてほしい」
司令官が立ち去った後、リカルドは倒れているアナカオナを助け起こした。アナカオナが殴られたのは頬骨のあたりで、赤くなっている。「すぐに立たない方がいい」とその場に座らせたまま、目を見て話しかけた。
「スサナは……」
どこにいるか知っているか、と訊こうとして、リカルドは少し考えた。こんな訊ね方をしてもアナカオナは「知らない」としか答えないんじゃないか。
スサナが消えたことについて、アナカオナは何かを知っているだろうと思う。たぶんこの島で誰よりも長くスサナのそばにいたのはアナカオナなのだから。知っていて隠している。それならもっと、アナカオナが答えやすい訊ね方はないか。
「スサナは、元気か?」
アナカオナはしばらく黙っていた。リカルドの目を見つめ返し、逡巡するような間を置いてから、口を開いた。
「はい」
リカルドは内臓が焼けるような心地がした。
――スサナの居場所をアナカオナは知っている!
その事実に安堵し、焦り、立て続けに質問したくなった。けれどグッとこらえて質問の言葉を考える。
「スサナは、俺に会いたいと言っているか?」
「……いいえ」
息をのんだ。
いいえ、だって?
それは、つまり、どういう意味だ。
「スサナは俺に会いたくないと言ってるのか?」
「はい」
船が岩礁にぶつかったような衝撃が走った。
リカルドは食い入るようにアナカオナを見つめ、少しかすれた声で訊ねる。
「スサナが、俺に会いたくないと言ってるんだね?」
「はい」
アナカオナは苦しそうな顔をしていた。声も小さかった。けれど目をそらさずにはっきりと答えた。
「そうか……わかった」
何が原因かはわからないけど、スサナは俺に会いたくないんだ。
納得しきれなかったが、スサナが自分を遠ざけたのだという事実を受け止めなければいけない。
「スサナに伝えてほしい。俺は本当に君と一緒に帰りたかった。今でもそう思ってると」
無理やり微笑んでリカルドは告げた。アナカオナはさっきよりもほんの少し大きい声で「はい」と答えた。
何が起こっている?
フェルナンドは落ち着きなく歩きまわった。時計作りを放置して部屋の中をぐるぐると歩き、外に出ては山の中をうろついた。
スサナがいない。どこにもいない。
スサナにすべてを話したとき、とても混乱しているようだった。フェルナンドだって混乱した。これから何がどうなるのか予測がつかなくて不安に駆られた。
けれど久しぶりに会ったスサナはスッキリした顔をしていた。「もう大丈夫」と笑っていた。
「受け入れるのに時間がかかったけど、もう平気。どうして急に思い出したのかはわからないわ。でも、今まであなたはずっとひとりでこの秘密を抱えてきたのよね。そう思ったら、大丈夫って思えたの」
それを聞いたとき、フェルナンドは不覚にも泣きそうになった。胸の奥の、今まで誰にも触られたことのない冷たく強張った傷口が、温かい指でそっと慰められたような心地がした。
「そうか。それじゃあ次の一年も、その次の一年も、これからはスサナと新しい会話で始められるってことか」
その可能性に気づいてフェルナンドは胸が高鳴った。舟を作ることになった時も昂ぶったが、それとはまた別の嬉しさがあった。
けれどスサナは悲しそうに微笑んだのだ。
「ねえ、フェル。私は前に進みたいわ」
「どういう意味だ」
「同じことの繰り返しなんて、時計が止まってるなんて、だめ」
「スサナは知らないんだ、私の苦しみなんて。何もできなかったんだよ」
「今まではね。でも、今は違う」
「リカルドのことを言ってるのか」
「きっかけにはなる。フェル、時計を動かして。島の時計を」
「島の時計?」
「あの日を越えるのよ」
「ばかな。何を言ってるんだ」
フェルナンドは戦慄した。
あの惨劇の日を再び迎えろと言っているのか?
「前に進まなくちゃ。時間は前に進むものなのよ。どんなに悲しくても、避けたくても、それでも進まなくちゃ」
「おまえは死にたいのか」
スサナは首を横に振った。とても悲しそうに、あるいは諦めたように微笑んで答えた。
「まさか」
「それならどうしてそんなことを言う? あの日を越えるだなんて、それは死ぬことと同じだ」
「違うわ。思い出すのも苦しい出来事だけど、だけど、今の私たちならその先に行けるはずなの。時間は進んでいる。リカルドが帰る場所は、悲しい出来事の上に築かれた世界かもしれない。だけど、そこには命があるわ。でもここはどうかしら」
「どうにかしたくてもできなかったんだと言ったろう!」
スサナがびくっと肩を震わせた。フェルナンドは意に介さなかった。わけのわからないことをごちゃごちゃと言うスサナに苛立っていた。
スサナは知らないのだ。自分がどんな思いで百八十年を過ごしてきたかを。この島の繰り返す時間をどんな思いで受け入れたかを。
「ここは楽園だ。そうだろう? 飢えもしないし老いもしない! 誰かが泣いたとしても一年がまわれば忘れる! すべて元通り、何度でもやり直せる! ここにいれば誰も死なないし、何の心配もいらないんだ!」
「行き止まりの時間が幸せ? フェルは進みたいと思わないの?」
「できないことだ。できたとしてもその先には死体しかない」
「もしそうじゃなかったら? あの日を越えて、生きてここを出る人がいるとしたら?」
フェルナンドはまじまじとスサナを見つめた。
見慣れた顔、だが顔つきが違う。少し太ったのだろうか? 細い腰の線が出る服をいつも着ていたが、今はゆったりした
目が合った。その瞳に宿る輝きをはじめて見る気がして、得体の知れない不気味なものをフェルナンドは感じた。
これはスサナか? スサナの皮をかぶった別人か?
「おまえは何の話をしている? 誰のことを言っている?」
「もしもの話よ。この時間がずっと続くとは限らないでしょう? 私みたいに記憶が戻る人がほかにも現れて、この島の時間を動かす方法がわかって、繰り返しの行き止まりから出て行けるってなったら、フェルはどうするの?」
フェルナンドは唇をゆがめて笑った。
そんなことがもし起きたら、それは腹立たしい事態だ。おまえたちは人形のように決まった行動をして無知のまま生きてきたが、自分は違う。
時計を作り、すべてを記憶してきた。そういう私の時間を無にする事態だ。私の百八十年を無意味なものにしてしまう、恐ろしい事態だ。
ここが無くなるなど、私の苦悩と諦観の日々を軽々しく捨て去って外の世界へ行くなど、認めない。この島は私の島だ。私の時間でできているのだ。
フェルナンドはゆがんだ笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。言葉が頭の中にあふれて収拾がつかなかった。ただ、誰が記憶を取り戻したとしても、誰ひとりこの島から出て行ってほしくないと感じていた。
道連れ。
そんな言葉が浮かんだ。
監獄。
そんなふうにも思った。
同罪。
そう、それが歯車の意味だとしたら。
そんなフェルナンドの表情から何を感じ取ったのか、スサナは困ったように微笑んで、口を閉ざした。
その日からスサナは島の時間について一切話題に出さなくなった。フェルナンドが持ちかけても、もう反論することなく微笑を返すだけになった。
そしてある日突然、スサナは消えた。
誰も行方を知らなかった。司令官が血眼になって捜しているが、ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても見つからなかった。やがてスサナは海で溺れて死んだのではないかという噂がディマスたちの口に上るようになった。
次の一年になってみればわかる。
フェルナンドは呪文のようにその言葉を頭の中で繰り返した。
次の一年になれば元通りだ。元通りにするために島の異物は排除しよう。
リカルドのもとに通い、小舟作りを手伝った。さっさと完成させて出て行ってほしかった。それなのにリカルドの作業は遅々として進まない。スサナがいなくなったことで意気消沈しているのは明らかだった。
ひょっとしたらこの男がすべての元凶ではと思うと殺意が沸いた。
けれどリカルドは、手伝うフェルナンドに素直に感謝を伝えてくる。そのたびに恨む気持ちが粘土のように形崩れを起こして、なおさらフェルナンドは苛立った。
スサナを欠いたまま、月日は重苦しく過ぎていく。
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