Ⅲ-3 時の隔たり

「百八十年か……」


 フェルナンドはつぶやいた。

 作りかけの時計は渡す相手のいない懐中時計だった。入植者には全員あげたはずだし、インディオにも五人ぐらいには渡した。


 インディオは時計が何かということすら理解してくれないので、フェルナンドがこつこつと仕上げた時計も、色がついているだけのただのガラス玉も同列に扱っているふしがある。それに気づいてからは彼らに時計を贈りたくなくなってしまった。


 だからこれは自分の時計になる。そう思ったらなかなか作業が進まず、歯車をひとつ削り出すのも休み休みやってきた。


 終わってしまうことが怖かった。その先にあるのはきっと闇だ。目標がなくなるというのは精神の死だとフェルナンドは感じていた。


 舟の設計図を見る。さっきまでこの工房に響いていたリカルドの快活な声が耳によみがえった。


 この島には船大工がいない、と告げたとき、「私が島に来る前はいたらしいが」という言葉をのみこんだ。それは何年前かと尋ねられたら面倒だと思ったからだ。


 言葉をのみこんだフェルナンドの前で、そうとは気づかない様子のリカルドは思い出話をしてくれた。


 耳を傾けながら遠いスペインの光景を想像したら、言いようのない苦しさが胸を締めつけた。フェルという愛称も懐かしく、むずがゆい。あれからミシェルはどうしたのだろう。数年で戻るつもりで、ついに戻れなかった故郷――この男はそこから来た。


 リカルドがこの島を出て行けるのかどうかはわからない。だがもし出て行けるとしたら、リカルドが自分の手で作った舟に乗るというのが最も可能性が高いだろう。

 フェルナンドと同じように時計の針が進む者の手で作ったなら、しかもそれが外の世界から来た人間であるなら、その舟で出て行けるかもしれない。


 設計図を見つめる。フェルナンドは笑った。眠っていた好奇心が一斉に目覚めて体の隅々まで満ちる。それは全身を暴れ回って、くすぐったくて、ゾクゾクした。高ぶる波にこらえきれず笑った。


 もしリカルドが出て行けなかったらどうなるのか。それも知りたい。繰り返す一年を、繰り返さない記憶で生きていく人物なのか、巻き戻ってしまうのか。

 前者であるならリカルドに説明しないといけないだろう。この島にあったことを包み隠さず。それをあの陽気な若者はどう受け止めるだろう。


 けれど、それまではこの島のことをリカルドに教えない。教えてもリカルドは信じないだろうし、信じたら信じたで平静を保てないだろう。取り乱す彼をなだめる気力はなかった。


「百八十年」


 フェルナンドは笑った。声をあげて笑った。笑いながら涙が出た。どうして自分が泣いているのか、フェルナンドにもわからなかった。




 道具はなんとかする、と言ったフェルナンドが用意できたのは、レベック村を作ったときの置き土産だろうと思しき二人引きの鋸と、小刀だけだった。そこにスサナがコルバイ村で見つけてきた、丸木舟を作るときに使う木槌と石斧が加わった。


 マルティンの協力で木材は用意できたが、そこから必要な数の板と骨組みを切り出し、木釘を作るなどの部材の準備はフェルナンドとリカルドが行った。


 リカルドは楽しい男だった。作業中も冗談を飛ばしながらフェルナンドやスサナに話しかけてくる。打てば響くような会話がフェルナンドには新鮮で、こそばゆく、不愉快だった。


 リカルドはこの島の人間ではない。フェルナンドが知らないことを知っており、フェルナンドが知らない時間を生きてきて、フェルナンドが知らない世界へ戻ろうとしている。できるかどうかは知らないが、本人は戻るつもりでいるのだ。それが、不愉快だった。


 スサナがいないとき、フェルナンドはリカルドに告げた。


「この島の人間は、外のことを知らない」

「ああ、なんかそんな感じだね」


 リカルドは何でもないことのように笑った。フェルナンドは内心でひやりとした。


 リカルドは作業ばかりしているわけじゃない。休憩中は積極的に村に行って、島の住人たちと交流を深めている。人と話をすることが元気の源だとでもいうように。

 そうやって雑談に興じていれば、うまく話が噛み合わないこともあるだろう。なにしろ百八十年だ。その違和感をリカルドがどう受け止めているのか、フェルナンドは気になった。


「ま、船もろくに来ない島じゃしょうがないよ」


 リカルドは軽い調子で笑う。そのお気楽な結論にフェルナンドはほっとした。ほっとしたけれど、物足りないような気分にもなった。


「そう。だからいろんなことを知らないし、勘違いしていることも多い」

「たとえば?」

「それは……それはいいんだ。私が言いたいのは、指摘して彼らを困らせないでほしいということだ」

「なるほど、わかった。フェルがそう言うならよけいなこと言わないようにするよ」

「素直に聞いてくれるんだな」

「フェルは天才だし優しいからな! フェルの言う通りにした方がきっと正しいんだろうって思うよ」


 フェルナンドは眉をひそめた。ずいぶん信頼してくれているようだが、会って間もないのにどうしてそこまで信頼できるのか謎だ。


 天才。それはリカルド以外からも言われたことがあるが、信頼に直結する要素とは思えない。それに、優しい、とは?


「優しい?」

「こんなに親身に手伝ってくれてる人を優しいと言わずしてなんと言おう! 感謝してるよ」

「……ただの暇つぶしだ」

「それでもいいんだよ。俺は助かってる。そこが大事なんだ」


 優しい。


 フェルナンドの中で何かがこみ上げた。

 その言葉を最後に聞いたのはいつだったか。思い返そうとして、見つからない。記憶がぼやけている。少なくともこの島に来てからは一度も聞いていない気がする。百八十年間、フェルナンドはその言葉を誰の口からも聞かなかった。


 この島の時間は止まっている。人々の時間も止まっている。自分だけが進み続けていると思っていたが、そういう自分もまた止まっていたのだ。


 優しい、と言われるようなことを、自分はしてこなかった。スサナに対してさえ。ありがとうとか、面白いとか、変わってるとか言われることはあっても、優しい人だと言われたことはなかった。


 そのことよりも、その言葉を忘れていたことがフェルナンドには衝撃だった。埃だらけのからっぽの器に新しい水が注がれたような驚きだったし、割れた裂け目から水がこぼれ落ちていくのを見るような痛みだった。




 何本もの丸太を板にする作業は重労働だった。工房を増築したときはここまで疲れなかったはずなのだが、どういうわけか相当こたえた。


 一方リカルドは軽快に口も手も動かしている。細かい部材を作るときには不器用ぶりを発揮してフェルナンドをあきれさせたものだが、力仕事は得意のようだった。


 かといってそれを自慢するようなこともなく、リカルドはへとへとになっているフェルナンドをさりげなく気遣ってくる。それもまたフェルナンドには苦痛だった。


 雨は何度も降った。壁がない作業所の屋根は葉っぱを敷き詰めてあるだけだが、今のところ雨漏りとは無縁だ。アナカオナも加わって四人でこしらえた作業所は、海岸にあった。舟ができあがれば目の前の海に浮かべるというわけだ。


 この海岸に来るにはコルバイ村を通る必要がある。フェルナンドはそれが少し嫌だった。


 コルバイ村のインディオたちを見ると、あの惨劇の夜が重なって見えるときがあるのだ。飛び散った血や、火の中に投げ入れられる様や、彼らが怒りの形相で松明を持ち、襲ってくる様が。


 もう百八十年も経っているのに、フェルナンドの中ではまだ色もにおいも鮮明だった。


 フェルナンドは部材の準備に一区切りをつけて海岸から遠のいた。リカルドが島に来てからすでにひと月が過ぎている。


 当分はまっすぐな板を火で長時間あぶって曲げる作業が続くらしい。熱を加えると木が柔らかくなるというのはフェルナンドも知っているから、なんとなく想像がつく。火であぶると言っているが、まさか直に火を当てるわけではないだろう。そんなことをしたって焦げるか燃えるかするだけだ。


 多少の準備がいるだろうが、スサナもいるし、やり方がわかっているなら助言も必要ない。見るにしても手伝うにしても暇な作業だ。


 それに、リカルドとスサナのおしゃべりにつきあうのは疲れる。

 会話の速さについていけないし、リカルドが島の外の話をしていると冷や冷やするのだ。リカルドの話を聞くスサナの楽しげな顔もあまり見たくなかった。


 心身の疲れを取るために、フェルナンドは工房にこもった。

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