Ⅲ リカルド・アレナスの章

Ⅲ-1 邂逅

「ちょっと、ねえ、生きてる? 起きてー」


 遠くでぼやけていた声が、しだいに意味のある言葉として聞こえてきた。頬をぺちぺちと叩かれていることもわかった。

 あんまりしつこいので少し不機嫌になったものの、状況を思い出してリカルドは目を開けた。


 整った目鼻立ちの女の子が覆いかぶさるように覗きこんでいる。日に焼けた肌に、浮き上がった鎖骨、頭飾りをつけた長い黒髪、青いワンピースの長袖から伸びる手は繊細で、その指がリカルドの頬に触れている。


「大丈夫?」


 しっかりと目を合わせて尋ねてきた声は、本気で心配している響きがあった。

 リカルドは「ん」と声を出しながら体を起こす。女の子の手が「倒れたら受け止める」と言わんばかりにリカルドの背後で待ち構えた。


 浜辺に打ち上げられたらしい。リカルドの目の前に美しいみどりの海がひろがっている。どこまでも透き通った空はひろびろとして、真っ白い雲が取り残されたように浮かんでいた。


 手についた砂を払いながら、リカルドは女の子を振り返った。


「ありがとう。俺ってどれくらいここで寝てたんだろう」

「さあ……海岸を散歩しようと来たらあなたが倒れてたの。いつからかは、ちょっとわからない」


 首を横に振る彼女の背後に目をやった。椰子の木が群生している。

 喉が鳴った。ひどく渇いていて何か飲みたかった。けれどそんなことはおくびにも出さず、リカルドは古風な頭飾りの女の子を見つめた。


「ここってどこかな」

「カンティガよ」

「カンティガ? 聞いたことない」

「イスパニョーラの近くよ」

「ああ、わかった。あのへんか」

「あのへんって?」

「あのへんは、あのへん」


 首をかしげた女の子と顔を見合わせる。沈黙がなんだか可笑しかった。どちらからともなく吹き出した。


「君が濡れてるのって俺のせい?」


 女の子の髪も肩も水に濡れた形跡があった。ひょっとして自分を助けようとして波をかぶったのではないかとリカルドは勘繰ったのだ。

 女の子は明るく笑った。


「雨が降ったのよ。ここではよく降るわ。急に激しく降ってすぐ止むの。太陽が出てるからすぐ乾くわよ」

「そりゃいいな。もう一回降ってほしい。服も髪も砂だらけだ」

「雨で洗うの?」


 女の子が声をあげて笑う。その笑顔がまぶしくて、リカルドも頬を緩めた。再び訪れた沈黙のなかで、ふたりは見つめあった。


「スサナよ。スサナ・ガルシア。この島の司令官の娘」

「リカルド・アレナス。船乗りだ」

「船乗り? 船がないじゃない。溺れたの?」

「その通り。司令官って? ここは入植者の島なのかな」

「その通り」


 スサナは小さく笑った。立ち上がってリカルドに手を差し出す。ほっそりとした腰から足下までを被う裾がふわりと揺れた。


「砦まで案内するわ。お父さんに相談しましょう」

「君のお父さんか。ちょっと怖いな」

「どうして?」

「怪しい男が来たって追い出されないかと」

「怪しい人なの?」

「そんなつもりはないんだけど」

「じゃあ大丈夫。私にもあなたは怪しい人に見えないわ」

「じゃあ大丈夫だな」


 リカルドはスサナの柔らかい手を握った。






 リカルドという闖入者についてフェルナンドが知ったとき、すでにリカルドが漂着してから三日が過ぎていた。


「島に流れ着いた? 船がひっくり返って?」

「そうなの。お父さんとディマスさんが話し合って、食糧と水を用意したわ。山の向こうに小舟があるでしょ? あれでイスパニョーラまで行くって」


 フェルナンドの口は半開きのまま、瞬きも忘れてスサナを見つめ、作業の手も完全に止まっていた。

 今は一年が開始してひと月が過ぎたあたりだ。島の外から人が来るなど、こんな変化は一度たりとてなかった。どう受け止めればいいのか、どう対処すればいいのかわからない。


「いつだ、いつ出て行くんだ」

「明日の朝よ」


 できるのか?

 フェルナンドは考え込んだ。

 自分が試したときはできなかった。けれど外から来た人間なら出て行けるのだろうか。この島の舟で、この島の外に行く、それが可能なのか。

 まったくわからなかった。わからなかったが、見過ごしてはいけない事件だと思った。


「今すぐその男に会いたい」

「よかったあ」


 嬉しそうなスサナの態度に、フェルナンドは怪訝な顔をした。


「フェルナンドさんの方からそう言ってくれるなんて。実は外にいるの。リカルドがね、フェルナンドさんに会ってみたいって」

「私に?」

「時計を見せたのよ。そしたらすごく驚いてて、興味を持ったみたい」


 スサナに呼ばれて、リカルドが家の中に入ってきた。

 癖の強い黒髪に精悍な顔立ちの、よく日焼けした男だった。スサナと同じくらいの年齢だろうか、と思って、自分も見た目はそう変わらないんだったとフェルナンドは思い直す。


「すげえ! ほんとにここで時計作ってるんだ!」


 リカルドの目が輝いた。組み立て途中の懐中時計を見ている。


「こんなの見たことないなあ、これ持ち帰りたいなあ」

「……そうか、見たことないのか」


 あまりにもリカルドが嬉々として部品を眺めるので、時計職人としての矜持が刺激された。外の世界ではどこまで時計の開発が進んでいるのだろうという興味と、それを知ることで何かが変わってしまうかもしれないという恐怖心が同時に湧き上がる。


「見たことない! この時計ってどれくらい正確かな」

「誤差はほぼないはずだが」


 答えながら不安に駆られた。時間の正確性をどうやって確かめればいいのか。砂時計による計測で懐中時計の精度に自信を持ってきたが、もし外の世界での一時間がこの島に流れる一時間と異なる速度だったらお手上げだ。


 そういう可能性がないとは言い切れないのだとフェルナンドはこの時に気づいた。一年を繰り返すうちに少しずつずれていっているということもあり得るではないか。少しずつ一年が長くなっているとか、あるいは短くなっているとか、そういうこともあるかもしれない。なにしろこの島は「あの日」以降の時間から切り離されているのだから。


 それでもフェルナンドが作る時計は、フェルナンドの手の中では正確に時を刻む。それだけは確かだった。


「あのねフェルナンドさん」


 スサナは首にかけている紐を引っ張って服の中から懐中時計を取り出した。スサナはあちこち歩きまわるし誰の手伝いでも積極的にこなすから、うっかり何かにぶつけたり引っかけたりするのが嫌だと言って服の下に隠しているのだ。


「この時計、動いたんだけど、また動かなくなったの」


 フェルナンドは硬直した。不思議そうな顔のスサナを凝視する。


「リカルドが持ったら歯車が動いたのよ。びっくりしてよく見ようと私が持ったら、全然動かないの。これってどういうことかしら?」

「ああそれ、俺も不思議。何か仕掛けがあったりして」


 リカルドも近寄ってきた。ふたりに囲まれる形になったフェルナンドは曖昧に笑った。


「そう、仕掛けがね、あるんだが、秘密だ」

「おおっと」

「ええ? そんなのあったなんて知らない!」


 リカルドが面白そうに笑い、スサナがフェルナンドを軽く睨む。


「そういえば私、いつフェルナンドさんにこれを貰ったのかよくおぼえてないの。なんだか記憶があやふやで。最初に挨拶した時だったかしら……? 大事なことなのに、ごめんなさい」

「スサナは忘れっぽいからな」


 フェルナンドは軽口を装ってごまかした。すぐさま抗議が飛んできたが、どこか遠慮がちだ。「気にしなくていい」とスサナに告げて、リカルドを見る。


 正面に立ったリカルドは、フェルナンドと目線の高さが同じだった。けれど体つきが全然違う。リカルドはしっかりと筋肉のついた船乗りの体をしている。


 服装はフェルナンドが見知っているどんな服よりすっきりとした形だった。胴着の下に着ているのは生地の薄そうな白い服で、長袖を折り返している。膨らみのない脚衣は膝上で裾を絞っていた。靴下はなく、足下は縄を編んだような靴底を布紐で結わえた突っ掛けを履いている。


 見慣れないと言えば見慣れない格好だが、そこまで奇抜というわけでもないから、どこか知らない田舎の方からやって来たと思えば違和感はない。こういう格好が外の世界では流行っているのだろうか。


「明日の朝に出て行くと聞いた」

「ああ、だからその前に会っておきたかった」


 リカルドの目は力強いが、温かみがあった。その目の中に外の世界の何かが潜んでいやしないかと、フェルナンドは見つめる。


「この島の丸木舟で行くのか」

「ああ」

「乗ったことは?」

「丸木舟じゃないけど、小舟なら何度も乗ってる」


――この男は出て行くのか、ここの住人になるのか、どっちだ。


「今から試し乗りしてみるといい」

「なるほど、それもそうだな」


 リカルドはあっさり承諾し、三人で海岸に向かった。

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