Ⅱ-8 ミシェルが繋いだもの
真っ暗になった。
星空もないし、椰子の木もないし、フェルナンドもいない。何もない闇だ。
フアンは一気に心細くなった。
さっきまですぐそばにフェルナンドの気配を感じていたのに、むしろ自分がフェルナンドになったかのような感覚だったのに、今は独りだ。
どうすればいいのか、どこに行けるのか。そもそも自分は生きているのか。手足も何も見えないが、体はちゃんとあるのか。
次第に焦りが強くなる。自分以外の何かを見つけたくて必死に闇を窺った。すると、あるのかないのかわからないフアンの耳が、ほんのわずかな変化を捉えた。
波の音が聞こえる。
どこからだろうと意識を傾けた。濃い闇の中で音は定まらず、あっちから聞こえたと思うとこっちから聞こえる。まるで海の中にいるみたいだ、とフアンは思った。
ふいに、感じた。引っ張られたような、かすかな痛みだ。心に糸がついていて、その糸がピンと張った、そんな感じがした。見えない糸を辿って目を凝らす。
――エデルミラ号!
横倒しの船が見えた。闇がうねっている。人が浮いている。みんな顔見知りばかりだ。光を求めるかのような必死さでもがいている。フアンは彼らに近づけなかった。行こうと思っても、距離が縮まらないのだ。
フアンが見ている前で、船もろとも全員が闇の波間に消えていった。うねる闇も眠るように静かになり、見えるものは何もない。
フアンは声にならない声でつぶやいた。
――みんな、沈んだ?
やっぱりという思いと、そうでなければいいという思いがせめぎあう。チリチリと焼けるような心地がする。思わず拳を握りしめた、その感覚のなかに、べつの感触を感じ取った。何だろう、と一点に集中する。
見えないが、感じた。
木彫りの手触り。
素朴な木目と、彫られた数字と、針と、歯車。
見えないが、聞こえた。
カッカッカッ、と時が動いている。
あの時計と一緒にいる。
たったそれだけで、不思議なほど落ち着きを取り戻した。これまでのことを思い返す余裕すら出てきた。
母の時計が光って、闇に放り出されたこと。そしてここにいること。
時計が内側に抱える、時間という途方もない場所に引きずりこまれたのだろうか。夢と呼べるほど曖昧ではなく、色もにおいもあった。けれど現実と呼ぶにはあまりにも信じがたい。
あの島でフアンはフェルナンドだったし、グアティグアナだったし、オラシオだった。他人の体の中に入って、内側から見ているようだった。
やるせない、というのが正直な気持ちだ。
スペインがインディアスの地を見つけて植民地にしたことで、元からいた先住民たちが激減したことは知っていた。
けれどそれは彼らがスペインに負けたからであり、負けた者が勝った側のために労働する過程で、体を壊して数を減らしたのだと思ってきた。
かわいそうだけど、仕方のないことだと思ってきた。負けた側にいたのは彼らの罪でも何でもないが、ただ、運が悪かったね、と。
だけど、それは間違いだった。勝った負けたの話じゃないんだ、違うんだ。だって、神の教えを知らないなら豚以下だって? そうやっていたぶって楽しむ輩のほうが、よっぽど人でなしだ。オラシオの頭の中は吐き気がした。グアティグアナの怒りは遅すぎたくらいだ。フェルナンド、あんたは――
あれ、とフアンは思った。
俺はいつ産まれた?
スサナがフェルナンドから受け取った懐中時計、あれがどうやって父の手に渡ったのか。そもそも、スサナが二百年前の人間だということを父は知っていたのだろうか。
え、じゃあ、俺は?
スサナは二百年前に死んでいる。死んで、生き返った? その人から産まれた?
カッカッカッカッ、と時計の音が大きくなった。さっきは波の音があちこちから聞こえていたが、今は時計の音に囲まれている。頭がおかしくなりそうだった。闇がぐるぐると回転しているような浮遊感がある。
誰かいないか。誰か、誰か――
唐突に闇が晴れた。真っ暗な部屋で、急に扉が開いて光がさしたような感じだ。光は部屋いっぱいに満ちた。
「結婚しよう」
窓からさしこむ朝日を浴びて、ひとりの女性が椅子に腰掛けていた。青い目が驚きに見開かれている。
「お腹が目立つ前に結婚しよう」
女性の両肩に手を添えて話しかけるのはミシェルだ。真剣な面差しだった。
女性の唇が震えている。
「あなたの子じゃないわ……」
「あいつが戻るのを待ってたら遅いんだパウラ、お腹の子は待ってくれないんだぜ」
「ミシェルに迷惑はかけられない」
「ひとりで産む気か? まさか堕ろすのか」
パウラは激しくかぶりを振った。
彼女の家は敬虔なカトリック教徒だ。婚前交渉も堕胎も罪だった。結婚もしていないのに妊娠したことがばれれば家を追い出されるかもしれなかったし、そうなれば幸せな未来など想像できなかった。
新天地に行くから、数年は確実に会えないだろうから、パウラはもっと、ふさわしい人と幸せになってほしい。そう告げるフェルナンドには言えなかった。行かないで、とは言えなかった。彼の気持ちがすでに自分にないことなど知っていた。
フェルナンドが本当に新天地へ行ってしまったあと、「思い詰めた顔してるな」とミシェルが声をかけてくれた。その優しい声に、たまらず相談してしまったのだ。
「だったらおれの子にすればいい。かならず守る。きみも、子供も。おれはフェルじゃない。パウラを置いて海に出たりしない。おれはスペイン人になるよ。ミシェルじゃなくて、ミゲルになる」
フランス語のミシェルではなく、スペイン語のミゲルへ。
「ずっと好きだった。パウラ、きみさえ、よければ」
涙を浮かべたパウラの腕には一年後、赤ん坊が抱かれていた。かたわらには微笑むミゲルがいた。日溜まりの中で赤ん坊はぐずりだし、それをふたりが幸せそうにあやす。
なかなか泣きやまない赤ん坊はエルナンドと名付けられた。
エルナンドは活発に成長し、結婚して子供を育て、フアンよりも歳をとってしまった。
「お父さん、アンヘルを連れてきたわ」
椅子に腰掛けてくつろいでいたエルナンドは、娘の声に振り向いて穏やかに笑った。彼にとってふたりめの孫となる赤ん坊を愛しそうに抱いた。
アンヘルは母方の祖父に似て、世話好きな男へと成長した。
フェリーペ2世が国王として君臨するこの時代、スペインは海の向こうに拡大した植民地のおかげで、領土のどこかでは常に太陽が昇っていた。インディアスの地、メキシコ、フィリピン、そしてポルトガルの併合と同時に獲得したブラジルやアフリカやインド洋。どれほど遠く離れていても、そこはスペインだった。
落日のない帝国、黄金のきらめきを掲げた繁栄。
けれどそれら植民地からの富に頼る一方で、これまでスペインの経済を支えてきたユダヤ人を追放する動きが強まり、プロテスタントを弾圧し、イングランドとの海戦では敗北し、次の国王が即位する頃にはペストの流行などもあって、繁栄には翳りが差していく。
そんな情勢の只中を生きながらアンヘルは人を助け、人に助けられ、極端に暮らしに困ることもなく子を育てた。
聖歌の響く教会で棺を見つめる少年が、歳の離れた姉と手を繋いでいた。
「アンヘルおじいちゃん死んじゃったの?」
「そうよ、ルシオ。人はね、いつか、かならず死ぬの。でも悲しまなくていいの。アンヘルおじいちゃんが遺してくれたものを大事に受け継いでいけば、アンヘルおじいちゃんもずっと私たちと一緒に生きるのよ」
「ふーん」とルシオが姉を見上げる。姉はぎゅっと力をこめて弟の手を握った。
ルシオは二十一歳で結婚し、三男二女の子供をもうけた。
すでにスペインの栄華は過去のものであり、経済も停滞し、戦争では軍事拠点を失った。末っ子のリカルドが生まれたのはそういう時代だった。
リカルドが十八歳で船乗りの道を選ぶと、ルシオは「かならず戻れよ」と最初の航海に送り出した。
リカルドが無事に帰ってきたとき、ルシオは病で亡くなった後だった。
「お父さん、リカルドが帰ってくるのを楽しみにしてたわ」
「自分が選んだ道を途中で投げ出すな、責任を持てって、おまえに遺言」
兄姉の言葉にリカルドはうなずき、涙をこらえて拳を固めた。
リカルドは二十四歳のとき海で遭難した。波に浮かぶ流木につかまったまま気を失い、小さな島で目を覚ました。
島の名前はカンティガといった。
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