Ⅱ-7 空転する歯車

 懐中時計がひとつ完成した。


 小気味いい音に耳を澄ませながら、こみ上げる達成感に笑った。笑いながら涙が出た。

 何年かかったのかはわからない。島が時を繰り返すようになってからどれぐらい経ったのか、とっくに数えるのを止めてしまった。振り子時計の針は一周した後、十時に戻してそれっきりだ。


 訪ねてきたスサナに懐中時計を見せた。スサナは目を丸くして「すごい」と時計をめつすがめつ眺めまわした。そしてフェルナンドの背筋を冷やすひと言を告げた。


「でもこれ、動いてないのね」


 そんなはずはない。

 フェルナンドはスサナから時計をひったくってゼンマイを巻いた。すぐに音をたてて歯車が回転し、分針も動いた。


「動くじゃないか」

「そう?」


 再びスサナに時計を渡した。フェルナンドも隣に立って針を見つめる。


「やっぱり動かないじゃない」


 スサナの手の中の時計は、死んだように沈黙していた。いくら待っても歯車は動かなかった。けれどフェルナンドが持つと息を吹き返した。


「フェルナンドさんが持つと動くの? どういう仕組み?」


 不思議そうにしながらも、楽しげにスサナは笑った。


「今度は私が持つと動く時計を作って。自分だけの時計って特別で素敵」

「ああ……そのうち」


 フェルナンドはかろうじて微笑み、スサナを家から帰した。突きつけられた事実に震えた。


 時計は知っているのだ。誰の時間が動いていて、誰の時間が止まっているのかを。




 次の一年、「はじめまして、時計を見せて」とやって来たスサナを、フェルナンドは工房に通した。珍しそうに懐中時計を観察するスサナに告げる。


「受け取ってください、それ」

「え? この時計を?」

「そう、あなたに」


 スサナは困惑したように笑った。


「ありがとう、でもどうして?」

「嬉しいですか?」

「ええ、嬉しいわ」

「じゃあ、あげる」


 スサナは面食らったように黙りこみ、そして笑った。はにかんでいた。


「ただし動かない」

「失敗作なの?」

「動かないのが正しいんだ」

「どういうこと? あ、わかった。これ飾りね? 時計の形だけ先に作ってみた、ってことでしょう?」

「ご想像にお任せします」


 肩をすくめてフェルナンドは微笑んだ。スサナが面白そうに声をあげて笑う。


「ありがとう。大事にするわ」


 完成した時計は職人のもとから旅立つべきだ。そのとたんに歯車が止まっても、故障ではないのだから、もう、いい。


 作り手ではない誰かに持っていてほしい。飾りだっていいとも。たまに文字盤を眺めて、あるいは蓋をなでてくれるだけでもいいんだ。


 作ったら、渡したい。

 作っていないと、狂ってしまう。

 作らせてほしい。次の一個を。

 受け取ってほしい。私の時間を。

 そのために生きているのだ。

 まだ人間でありたいのだ。


 その年のスサナとはよく話をした。今までとは違う親密さを得た。それはフェルナンドがスサナの喜ぶであろう言葉を選んで話しかけ、スサナが望むであろう態度を心がけたからだ。懐中時計をひとつ完成させたことでフェルナンドは疲労し、そして活力を求めていた。


 永い時の中の一年、たまにはこういうことをしてみてもいいだろう。どうせ忘れるのだから。


「私は今まで、神の教えを守ってきたわ。でもわからなくなったの」

「どうして?」

「ここに来る前――」


 スサナは言葉を詰まらせ、ためらいを見せてから、絞り出すように告げた。


「幼い女の子が、スペイン人の男に乱暴されて殺されているのを見たわ」


 フェルナンドは隣で横たわるスサナと視線を合わせた。

 その幼い女の子というのが先住民の少女だろうことは言われなくてもわかった。乱暴、というのが性的な意味であることも。


「顔を潰された人もいたわ。暗い顔なんて見たくないって」


 窓からさしこむ月明かりに、スサナの潤んだ目が光った。


「十字架を持ち、神の教えを口にしながら、やってることは何? 彼女たちを改宗させるんだと言いながら、いったい神の何を教えるつもりなのかしら」


 唇をかみしめてスサナは黙った。その視線から逃れるようにフェルナンドは真っ暗な天井を見る。なぜそんな話をするのかと考えた。


「ここに来たことを後悔しているか?」

「いいえ」


 スサナの返事は鋭かった。強い語気で告げる言葉には一切の迷いが感じられなかった。


「私はここに来るべきだった。この現実を知らなくちゃいけなかった。どんなにひどい現実だって目をそらさないわ。真っ向から受け止めて、打開するの」


 人の体が潰れる音も悲鳴も、見えていながら見ないふりをし、耳に入っていながら聞こえないふりをしてこの島に辿り着いた日のことを思い出す。もうずいぶん遠いような気もするが、昨日のことのような気もする。

 手繰り寄せた記憶はあっという間に鮮明な色をともなってフェルナンドの脳内によみがえった。


 とたんにこみ上げる吐き気と震え。イスパニョーラで見た光景は、たやすくあの惨劇の夜に結びついた。


 フェルナンドは深呼吸をして記憶を追い払う。隣に在る体温に意識を向ける。温かく柔らかい、スサナの肉体。確かに動いている、心臓の音。


 そのうちに吐き気も震えもおさまった。改めてスサナの言葉を考える。「目をそらさないわ」と言い切ったその心を考える。


 目の前に繰り広げられる凄惨な光景から目を背けることなく、そのひとつひとつに胸を痛めながらスサナはやって来たのだろう。

 誰かを助けようとしたこともあったかもしれない。ひとりを助けても何の解決にもならないと歯がみしたかもしれない。

 それでもスサナは自分の心から逃げなかった。心がどう感じているかということに正直だった。


 それこそが自分とスサナの決定的な違いなのだろうとフェルナンドは思った。


「勇ましいな」

「口だけって思った? そりゃ、限界があるのはわかってる。でもせめてこの目が届くところぐらいは、この手が届くところまでは、どうにかしたいの」

「手伝うよ」


 どうせ忘れる。

 約束は約束にならないのだ。だからたいした覚悟もなくフェルナンドは嘘を口にする。つかの間の慰めをもっともらしく伝える。


 スサナは嬉しそうに笑ってフェルナンドにキスをした。




 ふたりの関係が司令官の知るところとなった。フェルナンドは司令官に疎まれて畑を半分ほど取り上げられた。スサナは砦に幽閉状態となってしまった。


 フェルナンドはスサナを取り戻そうなんて気は起こさなかった。そのまま一年がまわり、元通りの朝を迎えた。


 もうフェルナンドはスサナに執着しない。幽閉されないようにするにはどうすれば、なんて考えたところで虚ろだ。


 他人に対する興味というものをフェルナンドは失った。知り尽くした、というより、飽きた。新しい関係を築くことも、あるいは壊すことも、もうある程度は体験済みで、さらに探ろうとするほどの情熱は持てなかった。


 時計と会話した。時計のことだけを考えた。


 住人とは当たり障りのないやりとりをした。スサナが愚痴を言いに来ることもそれまでの年より減った。フェルナンドが相手にしないからだ。


 たまに訪れる不思議な子供に話しかけることはあった。「あれから何年生きてるんだろうな」と返事を求め、「時計は好きか」と熱弁を振るい、「おまえは何で喋らないんだ」と当たり散らすこともあった。


 子供はいつも静かに佇んでいた。悲しそうな、寂しそうな目でフェルナンドを見つめていた。


 二個目の懐中時計はこの子供にあげようとした。ところが子供はフェルナンドが差し出した時計を受け取ろうとせず、工房の隅に置かれた振り子時計に近寄った。


「大きい方が好きか?」


 振り子時計は子供の背丈より頭ひとつぶん大きかった。子供は熱心に動かない針を見つめていた。まるで一対の置物のように見えて、フェルナンドは苦笑した。


「おまえの時間は進んでるのかな」


 フェルナンドは懐中時計を無理やり持たせようとした。子供はいち早く察した様子で、素早く外へ逃げてしまった。


 フェルナンドの手の中で時を刻んでいた二個目の時計は、アナカオナのものとなった。




「まるで歯車だな」と、フェルナンドは嘲るように笑って歯車を眺める。中心に通した軸を持ち、指でまわした。


 ほかのどの歯車とも噛み合っていない、ひとつきりの歯車。指でまわしてやればぐるりと一周して元に戻るだけ。空転する歯車は何も動かさないし、どこにも進まない。


 繰り返しの一年。予測可能な一年。歯車の時間。歯車の島。

 では、歯車をまわしているのは誰だ?


 振り子時計はなぜ動かないのだろう。

 フェルナンドは考える。もしかしたらこの時計は、島の時間と繋がっているのかもしれない。自分以外の人が持つと懐中時計が動かないのと同じように、島の時間が止まっているから振り子時計も動かない。


 きっと、たぶん、そういうことだ。


 ある一年の最後の日、フェルナンドは山に登って夜空を見上げた。いつもは家か鉄工所で一年がまわる瞬間を迎える。たまには外で過ごしてみようと思ったのだ。


 湿気を含んだ涼しい風が吹いている。葉擦れの音と虫の声がフェルナンドを包む。頭上では満天の星が瞬いていた。


 この島で夜空をちゃんと見たことはなかったかもしれない、と気づいて愉快になった。まだ知らないことがあるというのはいいものだ。


 振り向くと子供が立っていた。相変わらず気配をまったく感じない。子供もまた夜空を見上げていた。


「綺麗だな」


 何とはなしに話しかけたら、子供が微笑んだ。フェルナンドはびっくりしてまじまじと見つめた。子供は星空を見上げたまま、やっぱり笑っていた。


――はじめて見たよ、おまえが笑うところ。


 そう告げようとしたが、急な睡魔に襲われてできなかった。

 ああ、一年がまわる。

 そう思うフェルナンドの意識は、容赦なく闇にのまれた。

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