Ⅱ-6 止まったままの振り子時計
フェルナンドは島の探索をした。
どこも変わっていないように見えた。そう、一年前と何も変わっていない。
港に連絡船が一隻も停泊していないのは奇妙だったが、きっと税を納めるためにイスパニョーラへ向かったのだろう。
長い夢を見ていたのだ。あの惨劇だけを夢に見たのではなく、一年間の出来事を夢で見ていた、そういうことなのだ。
――振り子時計を完成させたのはいつだ?
スサナが島に来てからだ。そのはずだ。
しかしスサナとは今朝、知り合った。そして時計はすでにある。
記憶がおかしい。
もしかして、スサナが来る前に完成させたのかもしれない。それを忘れていて、夢で見たことを現実の記憶と混同させているのかもしれない。
家に戻ったフェルナンドは、時計の修理に取りかかった。これがうまくいかなかった。動くはずなのに何度やっても動かないのだ。顔をしかめて時計を見つめた。
おかしい。
設計図は完璧だし、部品の過不足もないし、組み立てだって問題ない。動かない原因がわからない。
次の日も振り子時計と格闘した。ネジをまわして針を十二時に合わせたとき、思わぬ来訪者があった。
あの子供だ。
フェルナンドが夢で見たあの惨劇の夜、大泣きしながらフェルナンドのもとまで来たインディオの子供。
日焼けした体に腰布一枚だけを身につけ、黒い髪は短く不揃いで、顔立ちは女の子のようにも男の子のようにも見える。体のどこにも文様を施していないのは子供だからなのだろうか。まだ物心もつかないであろう幼さだった。
その子供がいつの間にかフェルナンドのかたわらに立っていたのだ。フェルナンドは小さく悲鳴を上げて床に尻餅をついた。まったく何の気配もしなかった。いきなり現れたように感じた。
子供は泣いていなかった。それどころか何の表情もなかった。ただ、真っ黒な瞳で時計を食い入るように見つめていた。
「人の家に入るときは声をかけろ」
腰を抜かしたことが恥ずかしくて、フェルナンドはぶっきらぼうに言った。
「おまえは誰だ? 何をしに来た」
真っ黒な瞳がフェルナンドを見た。
とたんに吸いこまれるような心地がした。船の中から夜の暗い海を覗きこんだときに似ている。あるいは果てが見えない夜空の果てを探しているときにもこんな感じになる。自分のいる場所が曖昧になって体ごと持って行かれそうになる感覚。
視線をそらせなかった。瞬きもできなかった。
子供が再び時計を見た。フェルナンドは息を吐いた。ほんの数秒の出来事だったが、ひどく疲れていた。動悸がしていた。
子供が、目を伏せた。そして首を横に振った。ちらりとフェルナンドを見て、また時計を見る。
――動かすな。
そう言われたような気がした。そして、きっとそれが正しいのだと素直に受け入れた。頭では何ひとつ納得していなかったが、フェルナンドの心はフェルナンドの頭よりも柔軟にこの事態を理解していた。
夢が夢でない可能性を意識した。けれど突き詰めて考えようとすれば恐怖に襲われる。だから考えないようにした。
それからの日々は、夢で見た一年間とまったく同じ出来事が繰り返された。
アナカオナはフェルナンドのもとを離れて司令官親子のもとに分配されたし、スサナはフェルナンドを訪ねてきて夢で聞いたのと同じ愚痴を披露した。
振り子時計の修理を諦めたフェルナンドは、新しい時計の設計図に取りかかった。もっと小型化するのが目的だ。
難題だった。難題であればあるほどよかった。夢と現実の奇妙な一致、その謎を追うよりも、はるかにフェルナンドの心を癒してくれた。
あの子供はそれ以後やって来なかった。コルバイ村にもよく足を向けるスサナならあの子供についても知っているかもしれないと尋ねたが、スサナも心当たりはないようだった。
難題の答えがなかなか出ないうちに、一年が経とうとしていた。「あの日」が近づいてくる。
フェルナンドは落ち着かなくなった。集中が続かないから設計図も進まない。夢をなぞるように過ぎてきた日々。このままだとバルトロメがやって来て、あの夜が来る。
フェルナンドは衝動的に海に出たくなった。
山の反対側には村がない。だが岸辺に丸木舟がある。先住民たちが使っていたものらしいが、この一年、彼らがこの舟で海に出ているのを見たことはなかった。漁はもっぱら森の川で行っているようだ。
一艘を浮かべて乗りこんだ。一人乗りの細長い舟だ。波に揺さぶられるという感覚を久しぶりに味わった。竿を差して波を割る。このまま沖に出てしまえ、そんな捨て鉢のような焦りに突き動かされていた。
竿から櫂に持ち替えて漕いだが、沖に出る頃に気分が悪くなって海に吐いた。そうして顔を上げたら、海がひろがるばかりだった水平線が消えて、出発してきたはずの島があった。
おかしいと思って方向転換したが、意識を失いそうなほどの気分の悪さに襲われて諦めた。島に近づくにつれて体調は回復した。
岸辺に舟を戻し、膝をつく。
涙がこみ上げた。やるせなかった。
「あの日」の前日になった。
フェルナンドはベッドに横たわったまま、起きていた。
静かだった。葉擦れの音も虫の声も何も聞こえなかった。なかなか寝つけなかったが、静寂に耳を澄ますうちにいつの間にか眠っていた。
翌朝、ベッドの中で目を覚ました。夢が現実になるなら今日が最後の日だ。
恐る恐る外に出た。朝日がまぶしい。すでに暑かった。
家の角を曲がって調理場に行く。水樽を傾けて顔を洗っていると、のびやかな声が聞こえた。
「フェルナンドさーん! おはようございまーす!」
どきりとした。
まさか、いや、まさか。
逃げたいような気持ちで玄関に向かうと、歩いてくるスサナが見えた。フェルナンドを見て嬉しそうに笑う。
「あ! フェルナンド・ヒロンさん? はじめまして、スサナ・ガルシアです。三日前にこの島に来ました」
「そんなばかな」
フェルナンドは愕然としてつぶやいた。スサナが訝しむように首をかしげる。
「ええ? 何がばかですって? えっと、時計を作ってるって聞いたんです。見せてほしくて」
アナカオナの姿が視界に入った。すぐさまフェルナンドは家の中に駆け戻る。「あ、ちょっとフェルナンドさん?」という声が聞こえたが、構うことなく工房に入った。
振り子時計が隅に置かれている。振り子はピクリとも揺れず、針は十二時を指している。机の上には書きかけの設計図がひろげられていた。この一年間、ずっと取りかかってきた小型時計の設計図だ。
「ねえ、勝手に入りますよ? あ、これフェルナンドさんが作った時計?」
スサナが振り子時計の前でしゃがみこんだ。感動しているらしい彼女に、フェルナンドは上擦った声で尋ねた。
「今は、1509年か?」
振り向いたスサナは不思議そうに微笑んだ。
「ええ、その通りですけど」
フェルナンドは言葉をなくした。スサナの顔を見るともなく見つめ、やがて彼女の腕を取った。
「え、あの、ちょっと」
スサナが困惑して立ち上がる。長袖越しに伝わる彼女の腕は温かかった。
「何するんですか」
ほんの少し硬くなった声でスサナが腕をふりほどく。警戒する色が目に宿っていた。
フェルナンドは自分の顔をなでた。剃り残したひげの感触も頬骨の固さも、喉ぼとけに触れて少し苦しくなったのも、夢とは思えない確かさだった。
これは現実。
それを受け止めるのに、一年かかったのだ。
この島から出ることはかなわず、あの惨劇の日を迎えることもなく、繰り返される島の時間。フェルナンドだけが連続した記憶を保ちながら、まったく同じ新しい一年を生きる。
どうしてこうなったのか。どうすればいいのか。
ひとり考えたフェルナンドは、自分のほかにも同じように時間を繰り返さない存在に気づいた。
時計だ。フェルナンドが手がけた振り子時計も設計図も、フェルナンドと同じように時を重ねている。
最初に修理しようとしたとき、針は十時を指していた。それをフェルナンドが十二時に合わせた。一年がまわっても、十二時のままだ。小型時計の設計図にしたって、一年前の今は存在しなかったものだ。
フェルナンドは振り子時計を一時に合わせた。繰り返しの一年、その一年目が終わったという意味をこめた。
時計。それは相棒だ。唯一の、声なき言葉で語り合える相棒だ。
フェルナンドは小型時計の設計図作りにのめりこんだ。
フェルナンドが何をしようと、何を言おうと、「あの日」の当日には一年前に戻った。人々は同じ顔で対面し同じ話を語らい、同じ出来事に驚いたり笑ったり愚痴をこぼしたりする。
すべてが予定通りに進む。例外は時計だけだ。先の見えない、どうなるかわからないものは時計作りだけだった。
一年がまわると振り子時計を一時間進めた。二時、三時と合わせていった。それはそのまま、繰り返しの一年が何回過ぎたのかを数えることだった。
こんな日々がいつまで続くのか、永遠に終わらないのか、考えると頭がおかしくなりそうだ。
そういうときはすぐに時計のことだけを考えるようにした。時計を作る時間がたっぷりあるのかもしれないと思えば気持ちが安らいだ。
作ること、それだけがフェルナンドを支えた。たとえその先の未来が閉ざされていて、時計作りが意味のないことだったとしても、そんな考えは浮かんだそばから追い出した。
設計図が完成すると部品作りに試行錯誤した。
欲しい部品はこの島に存在しない。ならば作ろう。できるかどうか? 大丈夫だとも、時間ならある。
フェルナンドは部品をひとつひとつヤスリで削り出していった。
必要な金属は
形を整える場合は木と同じようにヤスリで削った。小さい部品とはいえ、木を削るよりも根気と力が必要で、時間がかかった。
心配なのは融かした鏃や鉱石が次の年に元通りになるんじゃないかということだったが、杞憂に終わった。たとえ作りかけであっても部品は部品のまま存在し、融かした鏃が復活することもなかった。
そうした島の変化に対して、新しい一年を開始した人々は都合よく解釈していた。砦から譲ってもらった矢は、フェルナンドが島に持ちこんだことになっていたし、一年の最初の日からフェルナンドが鉄工所にこもっていても、誰も不思議がらなかった。
まるで誰かが暗示をかけたかのように、住人の記憶は混乱がないように修正される。そうやって島の一年は同じようにまわった。
完全な世界か。
閉じこめられているのか。
考えようによってはここは楽園だ。毎年まったく同じ収穫があり、豪華ではないが飢えない程度には食事も困らない。人々はけっして同じことしか言わないわけではなく、フェルナンドがいつもと違う会話を試みればちゃんと異なる反応を返してくれる。
意外な過去や事情を知ることもあった。
たとえばマルティンは大工の一人息子だったが、金銭を騙し取られた末に天涯孤独になったとか、ディマスは前科者で、監獄暮らしから逃げるために新天地にやって来たとかいうことだ。
それをフェルナンドが知っていることを、「話してないのに」と驚かれもした。すでに過ぎた一年で自分が話しているなど、彼らはおぼえていない。
たとえ言葉が過ぎて不仲になっても、一年がまわれば元通りになる。あの惨劇はなく、フェルナンドが大胆な言動をしてもすべてはなかったことにされ、やり直せる。
まるで神にでもなった気分だ。
いや、すでに神なのかもしれない。すべてを予知し、時を操る神。
そんな妄想に取り憑かれたフェルナンドをただの人間に戻してくれるのは、やっぱり時計だった。没頭し夢中になることで、フェルナンドはフェルナンドでいられた。
困ったのはヤスリがだんだんすり減っていくことだ。ヤスリは高価だから持っているのはこの一本だけ。削れるところがどこにもなくなったらどうすればいい。さすがにヤスリを作る技術はない。
思い浮かんだのは砥石だ。誰か持っている人はいないかと聞いてまわったが、いなかった。フェルナンドは島じゅうを歩いて石を拾い、ヤスリとして代用できるものを探した。そうして見つけた石を割って使いやすい大きさにし、やっと作業を再開できた。
時計を組み立てていると、あのインディオの子供が覗きに来ることがあった。
この子供の行動はほかの住人と違って一貫していない。この子供もまたフェルナンドと同じように連続する時間を生きているのかもしれない。
いつしかフェルナンドはそう確信し、ふらりと現れるその子供に話しかけた。
「おまえは誰だ? 名前は? 男の子か? 女の子か? どうやって暮らしてる?」
けれど子供はひと言も喋らなかった。フェルナンドの顔を悲しそうに見つめるだけだ。フェルナンドが体に触れようとすると、器用に避けて逃げてしまう。
神出鬼没に現れては気まぐれに立ち去っていく不思議な子供。後を追ってみたこともあるが、少し目を離した隙に見失った。
完成が近づくと子供はほとんど毎日やって来た。爪先立ちで机の上を覗きこみ、フェルナンドの指先をじっと見るのだ。
フェルナンドの指が時計の針を動かして時間を進めたり巻き戻したりしているときなどは、飽きもせず作業の終わりまで見入っていた。
ただし、ほかに誰かがいるときに子供は来ない。かならずフェルナンドがひとりきりのときに現れるのだ。
スペイン人の自分と、インディオの子供。自分たちふたりは時を繰り返さずに生きる、ふたつの村の代表なのだろうかと考えてみた。
けれど、なぜ?
答えは見つからない。
そうしてまた一年がまわった。
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