Ⅱ-5 終わりと始まり

 バルトロメたちの殺戮から逃れて山に隠れた人たちがいる。彼らは日が暮れてから村に戻り、必要な物を手にして再び山に潜んだ。そして伝達される。誰かが村に来たぞ、と。


 彼らはやって来た三人を窺った。襲撃を決めたのはグアティグアナだ。首長カシケと慕われる男、アナカオナの父親。


 戦うのは男の役目で、女を殺すのは残忍な卑怯者と彼らは考える。そのうえグアティグアナは見ていた。スサナがアナカオナを抱いて泣いているのを見ていた。


 だからスサナを斬ったとき、グアティグアナは悲しかった。これで自分も彼らと同じ卑怯者になった。この悪魔たちと同じものになった。


 だからグアティグアナは心を捨てた。戦う怪物になった。


 スサナたちは三人とも地面に倒れた。司令官はまだ息をしていたが、兵士は動かなかったし、スサナも動かなかった。


 グアティグアナはさきに命を散らしてしまったアナカオナを見下ろした。見開いたままの目を閉じてやった。


 もう見なくていいんだ。悲しいことも、むごいことも、もう見ないでいい。母さんには会えたか。お姉ちゃんや、かわいい弟にも会えたか。おれのことは忘れてくれ。どうか笑っていてくれ。


 家の焼け跡から黄金ナカイの鼻輪を捜し出した。煤を払うと元の輝きを取り戻し、何も損なわれていない。グアティグアナは山に引き返した。川で鼻輪を洗って身につけると、体のまんなかに芯が通ったように感じた。


 おれは絶対に倒れない。この息が絶えるその時まで、絶対に倒れずやり遂げるんだ。


 宴の場が殺戮の場に変わった瞬間をグアティグアナは忘れない。

 そのスペイン人は、とりわけアナカオナに興味を持ったようだった。首長カシケの娘であり、言葉もわかる、それを褒めていた。アナカオナに唄を歌わせ、手を叩いて喜んだ後に、スペイン人はアナカオナを押し倒した。


 グアティグアナは腹が立った。娘を取り戻そうと体中に力を入れた。その時、すぐ横で湿った音がした。

 同胞がひとり、グアティグアナに倒れかかってきた。彼の背中が血に染まっていた。剣を振り下ろしたスペイン人と目が合った。同胞はグアティグアナを守ったのだった。


 アナカオナを押し倒したスペイン人が何かを言った。グアティグアナにはこんなふうに聞こえた。


「やっぱり、来てよかった」


 それを聞いたアナカオナの顔色が変わった。グアティグアナには聞き取れなかった言葉も聞き取ったのだと思う。そしてそれは、きっとひどい言葉だったのだ。


 アナカオナは土をつかんでスペイン人に投げつけた。怒ったスペイン人はアナカオナを斬ってしまった。


 そこから殺戮が始まった。グアティグアナは槍を手に戦いたかったが、勝ち目がないことはわかっていた。だから山に逃げろと皆に言った。


 司令官たち三人を倒した後、グアティグアナたちは再び山に集った。


 生き残っているのは六十人ほどだ。グアティグアナは返り血を浴びたままだった。寛容さをかなぐり捨てた戦士の顔で同胞を見つめた。


 怪我をしている者もいる。女もいる。もちろん全員が戦士だ。怪物だ。皆がそれを望んだ。グアティグアナも望んだ。アナカオナが斬られたとき、父は腹をくくったのだ。


 松明が灯る。槍と、先端を尖らせた棍棒と、鉄の剣が浮かびあがる。藁束を持つ者もいる。松脂が入った小さな壺を持つ者もいる。


 山を降りた。静かに、素早く、正確に山を下りた。

 さんざん失い続けてきた彼らは決断したのだ。

 戦おう。悪魔どもを殺そう。どうせこのままでは同胞が全滅する。それなら戦おう。自分の命は無いも同じ。この怒りを、悲しみを、彼らにぶつけよう。






 工房に戻ったフェルナンドは振り子時計を眺めていた。とても食事をしたい気分ではない。

 チクタクと歯車が鳴り、時刻が八時をまわった。フェルナンドは寝室に移動した。


 何度も寝返りを打って時計のことを考える。ミシェルのことを考える。なかなか眠れなかった。ともすると血のにおいがよみがえって気分が悪くなった。


 どれくらいそうしていたのか。

 フェルナンドは音を聞いた。聞いたことがない音だった。暗闇に亀裂が入ったような錯覚にとらわれて、正体を見極めようと耳を澄ました。


 これは、音ではない。声だ。獣の咆哮だ。


 フェルナンドは飛び起きて外に出た。目の前に赤い光が迫る。火だ。松明がフェルナンドの鼻先に突きつけられた。焦げ臭い煙と熱が獣の吐息のように降りかかった。


 とっさに身を引いたフェルナンドの前から松明が遠ざかる。松明は、ひとつではなかった。複数のインディオが松明を手にフェルナンドの畑を越えていく。足下の綿花を気にかけることもなく、まっすぐに駆けていく。


 恐ろしい咆哮の正体は彼らの雄叫びだったのだろう。けれどフェルナンドの家から去っていく彼らはぴたりと口を閉じたようで、不気味な気配だけを後に残した。


 フェルナンドはよろよろと外に出た。


 これはどうしたことだ。あの村は、結局どうなったんだ。彼らは生き残りか。復讐に来たのか。司令官に伝えなければ。あんたが宴なんかやるからこんなことになった。どうしてくれるんだ。


 フェルナンドは走った。いち早く砦に行こうとした。ところが村の中心に躍り出たところで勢いが落ちた。ついには立ち止まり、彼らは何をしているのだろう、と目で追いかけた。


 松明が村を動きまわっている。闇に浮かびあがるインディオたちは影のように静かなままだった。彼らは干し草や、壺の中から取り出した何かを家の壁際に置いた。それに松明を当てて火をつけている。風にあおられて火は壁を舐める。そこでようやくインディオたちは雄叫びをあげた。


 ほどなくして扉が開いた。家の中から飛び出してきた住人は松明の火を押しつけられ、槍や棍棒で襲われた。剣を持っているインディオもいた。勢いを増す炎に照らされて、血のついた肌が浮かびあがる。


 フェルナンドは後退った。人目を避けて木蔭に潜んだ。


 鍬を振りまわすディマスがいた。彼の家も燃えていた。

 家の壁に寄りかかるように倒れているマルティンがいた。そばには松明を掲げるインディオの女と、棍棒を手にしたインディオの男が立っていた。


 銃声が聞こえた。倒れたのがインディオだったのか、スペイン人だったのか、フェルナンドにはわからなかった。撃った男は複数のインディオに襲われた。


 神よ、と思わずつぶやいたフェルナンドの横を、子供が通り過ぎた。腰布一枚だけのインディオの子供だ。大粒の涙をこぼして、声をあげて泣いている。泣きながら歩いている。


 フェルナンドは子供から目をそらし、来た道を引き返した。嫌な予感がしたのだ。


 綿花畑を走るうちに、頭の芯が痺れたようになった。遠目にも鮮やかな炎が夜の闇を照らしている。家の裏側、工房のあたりに火をつけられていたようだ。


 時計が!

 せっかく完成した時計が燃える!


 フェルナンドは外に置いてある樽を抱えた。火元まで運び、中の水をぶちまける。しかし炎は消えるどころかいっそう激しく燃えあがった。


 消火を諦めたフェルナンドは表玄関から家の中に入り、工房に駆けこんだ。

 時計は無事だった。ほっとして笑みすら浮かべたが、火は壁の内側まで入りこんで、床にも燃え移っている。


 なぜこんなことになった?


 ちりちりと肌を焼く熱さを感じながら、フェルナンドは火を払いのけようと両腕を大きく振った。もちろんそんなことで火の勢いは収まらない。煙を吸って咳きこんだ。


 ここで死ぬのか?


 フェルナンドは設計図を懐にねじこんだ。置き時計を抱きかかえ、まるで我が子を守るようにして逃げ道を探す。とにかく外へ、と工房を飛び出したとき、泣き声と一緒に誰かが家に入ってきた。


 ついさっき見かけたインディオの子供だった。大泣きしながらゆっくり歩いてくる。


 なんだ?


 フェルナンドは警戒した。泣いているとはいえ、インディオだ。

 しかも見かけない顔だった。そもそもこの島でインディオの子供を見たことはない。アナカオナが最年少のはずだ。この子供は今までいったいどこにいた?


 フェルナンドの腕の中で、振り子時計が針を進めた。時刻は十時。振り子はフェルナンドの腹が受け止めているので揺れていない。歯車も眠るように止まってしまった。


 盛大な泣き声をあげながら、子供はフェルナンドに手を伸ばした。フェルナンドが抱える時計に手を伸ばした。後退ろうとしたフェルナンドだが、背後は炎だ。


 小さな手が触れる。涙で濡れた手が時計に触れる。

 その瞬間、フェルナンドの世界は空転した。






 見慣れた天井の下で目を覚ましたフェルナンドは、ベッドから跳ね起きた。いつもと何も変わらない寝室を見てしばらく放心する。


 夢?


 体が強張っていた。寝汗で下着が張りついている。指の太い自分の手を見つめて、深く息を吐き出した。


 夢だった。夢を見ていたんだ。そうか、それならよかった。


 いつもの習慣で工房に向かった。机の上に設計図と部品がある。隅には振り子時計もある。針は十時を指していた。だが振り子が止まっている。


 フェルナンドは時計の背面に引っかけてある鍵を取ってゼンマイを巻いた。振り子を指で揺らしてやる。ゆっくり往復し、すぐに止まった。


 故障したか?


 分解してみようと工具を取りに立ち上がった。さっきまで見ていた悲惨な夢のことなど、どうでもよくなっていた。


「フェルナンドさーん! おはようございまーす!」


 外からスサナの声がした。

 やれやれ、と笑ってフェルナンドは玄関の扉を開ける。にこにこと笑うスサナが立っていた。


 何の用だ、と口を開きかけたフェルナンドは、スサナの次の言葉に固まった。


「はじめまして、フェルナンド・ヒロンさん。スサナ・ガルシアです。三日前にこの島に来ました」

「……何の冗談だ」

「え? 冗談なんて言ってません。あなたが時計を作っているって聞いて、見せてもらいたいなって」

「冗談はよせ」

「えっと、その決めつけはどうかと思います。冗談で言ってるわけじゃなくて、本当に時計を見せていただきたいんです。だめかしら?」


 スサナはにっこりと笑った。


 どう返事をするべきか言いよどんだフェルナンドは、ふと既視感をおぼえた。

 このやりとり、そうだ、スサナは一年前、こうして同じように訪ねてきて「時計を見せて」と言ったのだ。

 そう思ってスサナを見れば、着ている服もその時と同じ物のような気がする。


「あら、女の子」


 スサナが振り向いて目を細めた。家の角から姿を見せたのはアナカオナだ。


「はじめまして。スサナと言います。あなたのお名前は?」


 椰子の木の下で立ち止まったアナカオナは、スサナを上目遣いに見た。小声で答える。


「アナカオナ」

「アナカオナ! 教えてくれてありがとう! あなたは言葉がわかるのね」


 アナカオナはフェルナンドを見上げた。やはり小声で告げる。


「あらうもの、ありますか」


 感動したようにアナカオナを見つめるスサナと、指示を待っているアナカオナとを交互に見やった。今のやりとりも知っている。一年前、まったく同じことがあった。


「スサナ」


 すがるような声が出た。「はい?」とスサナが笑って振り向く。


「今は、何年だ」

「え? ええっと……1509年ですよ」


 フェルナンドは言葉に詰まった。一年前だ。冗談を言っているようには見えない。一年前ならアナカオナはまだフェルナンドのもとで働いていた。ということは、どういうことだ?


 混乱して蒼白になったフェルナンドは、かろうじて微笑んだ。


「時計は……あとにしてくれませんか」


 スサナは特に気を悪くしたふうもなくうなずいた。


「ええ、フェルナンドさん。いきなり来てごめんなさい。それじゃあ、また来ますね」


 この日からフェルナンドの長い一年が始まった。

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