Ⅰ-4 奇妙な食い違い

 アナカオナは一軒の家までフアンを連れて行った。木造の二階建てだ。口ひげの立派な男性が出迎えてくれた。


「君だね、流れ着いたというスペイン人は。司令官から聞いているよ」

「フアン・アレナスです」

「ディマス・エランだ。村の代表、のようなものだ。ディマスでいい」


 フアンとディマスは握手を交わした。

 自分の役目は終わりとばかりに、アナカオナは無言で立ち去った。


「ディマスさん。あの、二十年前に、俺みたいに流れ着いた船乗りがいませんでしたか」


 ディマスの日焼けした顔に怪訝そうな色が浮かんだ。


「なに言ってんだ? 二十年前なんて、知ってるわけないだろう。ここが発見される前じゃないか」

「え、そうなんですか?」

「それともあれか? クリストバル・コロン提督のことを言ってるのか?」

「え? いや……」

「提督ならとっくに帰っただろう? というか、亡くなったんだろう?」

「それは……まあ、亡くなってますが」


 フアンは曖昧に笑った。

 なぜここでクリストバル・コロンの名前が出てくるのか。二十年前と二百年前ではえらい違いだ。からかわれたのだろうか。


 釈然としないフアンを置いてディマスは話を進める。


「で? 君はこれからどうするつもりだ?」

「どうって……もともとベラクルスに行く予定でしたけど」

「ベラクルス? どこだ?」

「え? ええっと……」


 ディマスが不思議そうに首をかしげている。からかっているような気配は微塵もない。


 フアンはますます困惑した。

 スペインがメキシコにベラクルスの港を建設したのは、それこそクリストバル・コロンがインディアスの島々に到達して三十年ばかり後のことだ。以来スペイン領の主要な港として利用され続けている。それをまさか知らないとは思いもしなかった。

 

「その、港ですけど」

「港か。ここにも一応あるけどな、大きな船はいつ来るかわからない。君の言う港がどこかは知らんが、ここにいるよりはイスパニョーラに行った方がいいだろうな。船はあるかい?」

「ええと、はい、たぶん……小舟があるはず」


 イスパニョーラ。やはりインディアスだ。

 イスパニョーラ島という呼び方よりも、港がある都市の名前を取ってサント・ドミンゴ島と言った方が船乗りには通りがいいのだが、どちらにしろ知っている名前が出てきてフアンはホッとした。


 イスパニョーラからさらに西へ航行するとベラクルスがあるのだが……本当になぜあの港を知らないのだろう。


「あるなら、それで北に行けばいい。必要なものがあれば言ってくれ」

「北? 南じゃなくて?」

「北だな」


 意外だった。潮の流れから予想した漂着場所よりだいぶ南まで流されていたようだ。

 ということはかなり長いこと小舟の中で気絶していたことになる。一日や二日ではとても辿り着かない距離だ。その間まったく目を覚まさなかったのだから、この島に漂着しなければそのまま死んでいた可能性も大いにある。

 フアンは改めて感謝した。自分の運と、この島と、海流に乗せて自分を運んでくれた神に。


 イスパニョーラからベラクルスまでは遠く、とてもじゃないが小舟では行けない。だからその手前のハバナを目指すことに決めた。スペインに戻る船が集まる港だ。


 そのためにもまずはイスパニョーラに行かなければならない。

 イスパニョーラ島はスペイン領とフランス領とで分割されている。うっかりフランス領に寄港してしまうとやりとりが面倒だから、そこだけ注意しないとな、とフアンは肝に銘じた。


 イスパニョーラまでの距離とおおよその日数を尋ね、その間に必要な水と食糧を少し多めに求めた。炎天下の航海で水を切らすと一大事だから、余裕があるに越したことはない。


 ディマスは顎をさすりながら考えこんだ様子で、三日待ってくれ、と言った。


「水はすぐに用意できるが、食べる物はちょっとな。俺たちもギリギリだから」

「ああ……じゃあ、お礼に何か手伝えることがあればやります」

「気にするな。のんびりしてろ。泊まる場所も用意するよ」

「ありがとうございます」


 豪快に笑うディマスにつられてフアンも笑顔になった。


「こういうのって司令官がするんじゃないんですね。俺を助けるよう指示してくれたって聞きましたけど」

「ああ、司令官はねえ、一応ちゃんと君の寝顔を見に行ったみたいだよ」

「そうだったんですか?」


 ディマスは言いにくそうに笑った。


「総督の使いとかなら、丁重に砦にご案内、となっただろうけどね。服装でわかるからさ。そうじゃないと判断して、あとは俺にまかせたと来たもんだ」


 追い出されなくてよかったな、とディマスはフアンの背中を叩いて笑った。

 曖昧にうなずいたフアンの笑顔には元気がない。頭の中で司令官について考えを巡らせていた。


 ここが父の訪れた島なら、司令官は自分の祖父かもしれない。あるいは祖父の後任者だ。

 けれど二十年前にここがまだ見つかっていないとなると明らかに別人であり、祖父とは何の関係もない人物ということになる。


 しかしカンティガなんて名前の島がふたつもあるとは思えない。ということはディマスは何か勘違いをしているのだろう。司令官なら正しいことを教えてくれるだろうか。


「司令官に挨拶したいんですが」

「そういうのは必要ないよ。というか、むしろ嫌がると思う。人嫌いというかね」

「はあ」

「どうしてもっていうなら、あとで取り次ぐよ」

「ありがとうございます! あの、それと」


 フアンはディマスの太い首にかかっている紐を指さした。


「それ、時計、ですか?」

「ああ」


 ディマスは笑顔でうなずき、紐を引っ張った。


「そうだよ。みんな持ってる。まあ持ち歩いてないやつもいるけど」


 紐の先には木彫りの丸い物体がついていた。ディマスの太い指が蓋を開ける。現れた文字盤や針は、フアンが持っている時計と酷似していた。


「どうしてみんな持っているんですか?」

「作ってるからさ」

「ここで?」


 フアンは父の話を思い返した。島の人間すべてが時計を持っていた、その理由について聞き逃していたことに気づく。

 懐中時計をみんなが持っているなんてあまりに現実的ではない話だったから気にとめなかったが、この島にだけ時計があるなら職人がここにいるというのは納得できる。


 けれど不思議だ。


 こんな何もなさそうな島で、時計の開発に熱いイギリスはおろか、懐中時計を発明したオランダにすら存在しない小型の懐中時計があふれているのは、奇妙以外の何物でもない。いったい誰が作っているというのだろう。


「フェルナンド・ヒロンって男がいてね、やつがひとりで作ってる」

「たったひとりで?」

「そう、ひとりで」

「あの、ちょっと失礼します」

 

 フアンはディマスの時計を手に取った。裏蓋を開けてゼンマイを巻きはじめる。

 ディマスが肩をすくめた。


「残念ながら、動かないんだ」

「いや」


 歯車のひとつが高速で動きはじめた。カッカッカッ、と音が聞こえてくる。

 ディマスがびっくりしたように時計を引き寄せて眺めまわした。時計は息を殺すように、すぐに沈黙した。


「今の音は? 動いたのか? 気のせいか?」


 不思議そうなディマスを、フアンは奇妙な心地で眺めた。


 アナカオナのときと同じだ。島の人間が持つ時計。けれど彼らが手にすると、時計は動かない。


 やっぱりここは二十年前に父が来た島だ。これほど特徴的な島がほかにあるとは思えない。二十年前にここが発見されていなかったというのはディマスの勘違いだ。ということは母も、スサナもきっとここにいたのだ。


「あの」


 スサナについて尋ねようとしたとき、ディマスはフアンを見て「それにしても」と笑った。


「だいぶ汚れてるな。まずは体を洗った方がよくないか」

「あ、はい……すみません」


 フアンは自分の格好を眺めまわして納得した。

 航海中は着替えないため、汗と潮の香りがこれでもかと染みついた服はくたくたによれて、シャツの詰襟もすっかり黄ばんでいる。

 確かにちょっと、洗い流したい。




 ディマスの家の外にある洗い場をフアンが借りている間、ディマスはどこかに行っていた。


「おまえを泊めてくれる人を連れてきたぞ」


 ディマスはマルティンという男性を連れて帰ってきた。

 マルティンは物腰が柔らかく、人をホッとさせる雰囲気を持っていた。自宅まで案内するというので、フアンは半乾きの服を着てついて行った。


「大変でしたねえ」

「ええ、まあ、生きてるだけマシというか」


 村の家はほとんどが丸太小屋だった。たまに煉瓦造りのような家もあって、それは倉庫だという話だ。何かの工場らしき建物もあったが、稼働はしていないのか、静かだった。


 人々の服装は簡素だ。

 ディマスもマルティンも袖なしのチュニックの下からゆったりした長袖を覗かせているが、チュニックを着ているのはまだいい方だった。シャツというよりはゆったりした下着みたいな長袖の上衣だけという人が多い。

 逆に下半身はぴったりしていて、靴下のように脚の線がわかるズボンに長靴、というのがこの島での一般的な服装のようだ。


 暑いし田舎だから身なりに気を遣わないのかもな、とフアンは親近感を持った。同時にあることに気がついた。


「さっきから見かけるのが男ばっかりなんですけど、女の人はいないんですか? その、スペイン人の」

「いませんよ。新天地に来る女性なんて、誰かの妻か娘か……まあ、この村にはいません。イスパニョーラにだってそうはいないでしょう」

「え? いますよ? 普通に」

「へえ、それじゃ僕の知らないうちに家族連れとか、あるいは奇特な女性が増えたのかな。スサナさんみたいな人もいますしねえ」

「スサナ? スサナ・ガルシア?」


 先回りしたように名前が出てきたので、フアンはびっくりした。「おや」とマルティンは微笑を浮かべる。


「そうですよ。この島で唯一のスペイン人女性です。司令官の娘さんなので、村ではなく砦で暮らしてますけどね。たったひとりでスペインからやってきた勇敢なお嬢さんなんですが、お知り合いですか?」

「知り合い、かなあ? まだはっきりしないんですけど……あの、てことは、今もいるんですよね? その、スサナ・ガルシアさん」


 フアンは勢いづいたが、マルティンは「う~ん」と首をひねった。


「いるのかどうか……いるんだとは思うんですけどね。すみません。スサナさんはこの島に来てからずっと砦にこもりっぱなしで、よく知らないんです。よほどのことがないと誰も砦に近づきませんしねえ」

「こもりっぱなし? この島に来てから……って、二十年以上ですか?」

「なに言ってるんですか?」


 冗談と受け取ったのか、マルティンは面白そうに笑った。


「二十年なんて、まだ一年も経ってませんよ」

「え?」


 フアンは耳を疑った。


 スサナ・ガルシアがこの島に来て一年も経っていない?

 名前が同じだけで、母とは別人ということだろうか。


「あの、この島に入植が始まったのっていつですか?」

「そうですねえ、ええっと、七年ぐらい前ですかねえ」

「七年前?」


 マルティンもディマスと似たようなことを言う。もし二人の言っていることが事実なら、ここは父が訪れた島とは違う、ということだ。

 しかし、奇妙な時計については父の話と一致している。これはどういうことだろう。


 フアンは知らず知らず、マルティンを睨むように見つめていた。その視線に何を感じたのか、マルティンは慌てたように付け足した。


「えっと、そうそう、イスパニョーラの今の総督が着任したのと同じ年でした。……ああ、いや違うな。今の総督は今年の着任だから、その前の総督ですね」

「あの、カンティガ島って、ここだけですよね? 同じ名前の島がほかにもあったり、なんてことは」


 マルティンは吹き出した。


「このあたりに同じ名前の島がいくつもあったらおかしいじゃないですか。カンティガはここだけのはずですよ」

「そう、ですよね」


 フアンはもやもやとした気分になった。

 ここに父は来たのか、母はいるのか、わけがわからなくなってきた。思いがけず目にした綺麗な蝶を両手でうまく捕まえたと思ったのに、開いた手のひらに何もなかったかのような感覚だ。


 マルティンの家に着いたフアンは、家の中でくつろぐよう誘われたが断った。


 考えなければいけないことはほかにもあるのだ。今の自分が抱えている最大の問題は何か。それはこの島を無事に出ることだ。では、そのためにしなければならないことは何か。


 フアンは海岸に向かった。


 砦を横目に来た道を戻り、アナカオナたちの村に入る。この村を過ぎれば海岸だとマルティンから教えてもらった。言われた通りに椰子の林を抜けたら、見渡す限りの青がひろがっていた。


 潮の香りを深く吸いこんで吐き出す。波の音に耳を傾ける。それだけで頭がすっきりする。


 一艘の小舟が波の届かない浜辺にあった。熱い砂を踏みしめて近づき、フアンは小舟の状態を確認する。


「とりあえず大丈夫そうだな」


 舟べりに手を置いて海を眺めた。宝石のように透き通ったみどりの海だ。穏やかな波が寄せては返し、浜辺に白い泡を残す。紺色の水平線は澄んだ青空と繋がっていた。


 エデルミラ号に乗っていた仲間はどうなっただろう。横倒しになっていたから、きっと船は沈んでしまった。みんなは無事だろうか。何人かは助からなかったかもしれないな……もしかしたら自分も死んだと思われているかもしれない。


 思いを馳せるフアンの耳が、砂を踏む音を拾った。


 振り向くと見知らぬ男が立っていた。年の頃はフアンより少し上、二十代の中頃だろうか。背が低く、日焼けした顔はやつれている。

 ディマスやマルティンと同じような服装をしているが、チュニックの両肩には折り返した襟のように白い覆いがついていた。


「帰れ」


 唐突に男が言い放った。しわがれた、低く重い声だ。フアンは眉をひそめる。


「今すぐ島を出て行け」

「え、なんでですか」

「この島に関わるな」


 それだけ言うと男は踵を返した。椰子の林に消える後ろ姿は猫背で、やけにくたびれていて、まるで老人のようだった。


 フアンはふん、と鼻を鳴らして笑った。


「出てけと言われて出て行く腰抜けじゃねえよ」

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